女王の介入
その階段は、ずっと“そこ”にあった。
教室フロアへと続く、
大理石の階段。
生徒なら誰もが毎日使う、
なんでもない動線。
けれど。
山下遥香は、
一度も、
自分の意志でそこを降りたことがなかった。
ダイアモンドラウンジの階。
そこより下は、
「管理すべき世界」であって、
「混ざる場所」ではなかった。
少なくとも、そう信じてきた。
その日。
遥香は、階段の上に立っていた。
制服姿。
いつもの完璧な佇まい。
けれど、足先が、
わずかに動かない。
(……大丈夫)
心のなかで、自分に言い聞かせる。
(一段、降りるだけ)
視線の先には、
教室フロアのざわめき。
笑い声。
靴音。
日常。
怖い。
胸の奥が、きゅっと縮む。
失敗するかもしれない。
噂されるかもしれない。
期待を裏切るかもしれない。
女王が、
女王でなくなるかもしれない。
そのとき。
「……遥香様」
横から、小さな声。
優里だった。
手を差し出すわけでもない。
背中を押すわけでもない。
ただ、そこに立っている。
「降りなくても、大丈夫です」
その言葉が。
遥香のなかの最後の壁を、
静かに壊した。
「……降りる」
遥香は、そう言って、
一段。
降りた。
ヒールが、階段に触れる音。
たったそれだけの音なのに、
なぜか、
学園全体が静まり返ったように感じた。
二段目。
三段目。
生徒たちが、気づき始める。
「……え?」
「今の……」
「嘘でしょ」
遥香が、教室フロアに向かって
降りてきている。
それだけで、異常事態だった。
誰も、止めない。
誰も、声をかけられない。
ただ、見ている。
遥香は、最後の段を降りきり、
教室フロアの床に、
確かに足をつけた。
戻らなかった。
振り返らなかった。
その背後で。
ざわめきが、一気に広がる。
「女王が……?」
「降りてきた?」
「なんで……」
「隣、誰?」
視線が、一斉に優里へ向く。
ブロンズ。
問題児。
噂の中心。
遥香は、その視線を感じながら、
一瞬だけ、優里を見る。
そして。
ほんのわずか、微笑んだ。
それを見た瞬間。
学園の空気が、
完全に変わった。
反応は様々だったが、
共通していたのは一つ。
もう、元には戻らない。
その少し離れた場所で。
宝来悠斗は、その光景を、
呆然と見ていた。
遥香。
階段。
そして、優里。
(……なんだよ、それ)
胸の奥が、熱くなる。
苛立ち。
焦り。
そして、どうしようもない怒り。
(お前……)
(そんな顔、あいつの前で、してたのか)
思い出す。
裏道。
殴った。
蹴った。
泣かせた。
「ブロンズは黙ってろ」と、
吐き捨てた。
その相手が。
今、女王の隣に立っている。
しかも。
“連れてきた”。
俺が、壊したはずの存在が。
拳が、震える。
怒りの矛先は、
遥香じゃない。
周囲でもない。
自分自身でもない。
「……クソ」
唇を噛みしめる。
血縁。
宝来の名。
守るべきものを、
自分は踏みにじった。
その結果が、これだ。
悠斗のなかで、初めて、
はっきりとした感情が形を取った。
嫉妬でもない。
恐怖でもない。
怒り。
「……許さねぇ」
誰に向けた言葉か、
自分でも分からないまま。
けれど確かに。
この日。
山下遥香が
階段を降りたことで、
鳳凰学院の序列は、
静かに、だが確実に、
崩れ始めていた。
そして同時に。
宝来悠斗のなかで、
“取り返しのつかない罪”が、
ようやく現実として、
胸に突き刺さったのだった。
授業が終わり、
夕方の斜光がブロンズの教室を斜めに染めていた。
宝来優里は、
机に突っ伏したくなる衝動を必死にこらえながら、
ゆっくりとノートと教科書を鞄にしまっていた。
(……疲れた)
身体が重い。
頭も、心も。
それでも、今日一日をやり切った自分を、
ほんの少しだけ誇らしく思っていた。
その瞬間だった。
……ガンッ!!
教室のドアが、乱暴な音を立てて開いた。
空気が、一気に凍りつく。
振り向くまでもなかった。
その圧だけで、誰が来たのか分かってしまう。
「おやおや……こんなところにいたか、優里」
宝来悠斗。
その後ろには、
プラチナとゴールドの生徒たちが、
当然のように並んでいた。
教室の入り口で腕を組み、
逃げ道を塞ぐ。
悪意を、隠そうともしない顔。
ブロンズの生徒たちは、
一斉に息を呑み、机にしがみついた。
「宝来様……何か、ご用でしょうか」
優里は立ち上がり、
できるだけ声を震わせないように言った。
悠斗は、楽しそうに口角を吊り上げる。
「何の用、だと?」
次の瞬間。
バンッ!
悠斗の手が、
優里の机に叩きつけられた。
「お前が、宝来の名に泥を塗っている件についてだ」
「篠原悠の“パートナー”?」
「ブロンズの分際で、随分と調子に乗ったものだな」
取り巻きの一人が、
優里の机の上の教科書を床に払い落とした。
ばさばさと、音を立てて散らばる紙。
「お前みたいな底辺が、俺たちの世界に入り込めるとでも思ったか?」
肩を、強く掴まれる。
引きずり上げられそうになり、
膝が床に当たった。
「やめてください!」
叫んだ声は、
教室の空気に吸い込まれて消える。
でも。
(……違う)
優里の胸の奥で、
何かが、はっきりと拒絶した。
遥香の隣に立った。
見捨てられなかった。
“弱いだけの自分”では、もうない。
床に片膝をつきながら、
優里は身体を捻り、
掴まれた肩を振りほどいた。
視界の端に、教卓の下。
(……あれ)
消火器。
迷いは、一瞬もなかった。
優里はそれを掴み、
安全ピンを引き抜く。
「なっ………」
次の瞬間。
白い粉末が、
爆発するように噴き出した。
「うわっ!? なんだこれは!」
悠斗の顔面を直撃。
取り巻きたちも悲鳴を上げ、
目を押さえて後退する。
教室は一瞬で白に染まり、
非常ベルがけたたましく鳴り響いた。
優里は消火器を放り投げ、
一目散にドアへ走る。
背後で怒号が飛ぶ。
「待て! 宝来優里!!」
廊下へ飛び出し、
息を切らしながら走る。
逃げなきゃ。
だが。
行き止まり。
資材置き場。
背後には、
粉にまみれ、怒りに歪んだ悠斗たち。
(終わりだ…)
その瞬間。
横から、
強い力で腕を引かれた。
遥香は、ダイアモンドラウンジのソファに座り、
書類を読んでいた。
しかし、その視線は書類の上を滑るだけで、
全く集中できていない。
彼女の隣には、いつも座っているはずの
優里の姿がなかったからだ。
「…優里はどこへ行ったの?」
遥香は、部屋の隅でPCを操作している悠に、
冷たい声で尋ねた。
悠は、遥香の問いに顔を上げることなく、淡々と答えた。
「ブロンズの教室だ。彼女はまだ、ブロンズの生徒だからな」
遥香は、その言葉に小さく眉をひそめた。
優里がブロンズの教室で授業を受けていることなど、
彼女にとっては、ほとんど意識の外にある事実だった。
遥香が、階級の低いフロアに足を踏み入れることなど、
これまで人生で一度もなかった。
そこは、彼女の世界とは全くの別物であり、
関わるべきではない場所だった。
しかし、なぜだろう。
遥香の心に、優里の様子を、
直接見に行きたいという衝動が芽生えた。
それは、彼女自身の好奇心なのか、
それとも優里の存在がもたらした、
予測不能な感情なのか、
遥香自身にも分からなかった。
「…少し、空気を入れ替えてくる」
遥香は、そう告げると、ラウンジを出ていった。
彼女が向かったのは、
普段は決して足を踏み入れない、
ブロンズの生徒たちのフロアだった。
ブロンズの教室に近づくと、
廊下には白い粉末が舞い散り、
けたたましい非常ベルの音が鳴り響いていた。
遥香は、何事かと首を傾げながら
教室の扉から中を覗き込んだ。
そこには、驚くべき光景が広がっていた。
教室のなかは、白い粉末で満たされ、
生徒たちが混乱して逃げ惑っている。
その中心で、一人の少女が、
消火器を手に、
全身に白い粉を被った宝来悠斗と、
その取り巻きたちに、
白い粉末を撒き散らしていたのだ。
それは、優里だった。
遥香は、信じられないという表情で、
その光景を呆然と見つめていた。
ひたむきで、従順で、いつも控えめな優里が、
まるで別人のように、
怒りに燃える瞳で、
プラチナの権力に真っ向から抵抗している。
遥香の冷たい瞳に、その光景が焼き付いた。
それは、彼女の退屈な日常を、
根本から覆すような、
最も奇妙で、最も面白い光景だった。
白い粉末を撒き散らし、
一時的に宝来悠斗たちを足止めした優里は、
消火器を床に投げ捨てると、
我先にと教室を飛び出した。
心臓は激しく鼓動し、
アドレナリンが全身を駆け巡っていた。
彼女はただ、
この状況から一刻も早く脱出したかった。
背後からは、怒号と、粉末で咳き込む音、
そして追いかけてくる足音が聞こえる。
悠斗とその取り巻きたちは、
不意の反撃に怒り心頭で、
優里を捕まえようと必死になっていた。
優里は、入り組んだブロンズフロアの廊下を、
巧みに走り抜けた。
曲がり角を曲がり、階段を駆け下りる。
彼女は、普段大人しくしているばかりだったが、
今日の彼女には、
生き延びるための意外なエネルギーが湧き上がっていた。
背後からは、
「待て、優里!」
「この出来損ないが!」
といった怒声が聞こえてくるが、
彼女は振り返る余裕もなかった。
ただひたすら、安全な場所を目指して走り続けた。
一方、その逃走劇を、
まるで高みの観客のように、
静かに見下ろしている人影があった。
遥香だった。
彼女は、ブロンズフロアの少し高い位置にある
踊り場の陰に身を潜め、
優里と悠斗たちの追いかけっこを、
冷たい瞳で眺めていた。
教室での意外な光景を目撃して以来、
彼女の心には、
驚きとほんのわずかな興味が入り混じっていた。
優里が必死な表情で廊下を駆け抜け、
悠斗たちが埃っぽい顔で彼女を追いかける様子は、
遥香にとって、
まるで下手な喜劇のワンシーンを見ているようだった。
以前の彼女ならば、
このような低い階級の生徒たちの騒ぎなど、
まったく興味を示さなかっただろう。
しかし、今、彼女の瞳には、
優里の予想外な行動に対する、
隠された賞賛のようなものさえ輝いて見えた。
追いかける者たちの怒号と、逃げる者の不安。
そのコントラストが、
遥香の冷たい心に、
かろうじて波紋を広げていた。
彼女は、埃っぽい廊下で繰り広げられる
下位の世界の騒動を、
まるで別の世界の出来事のように、
面白おかしく眺めていたのだった。
優里は、悲鳴を上げる間もなく、
人影に引きずられるように、
廊下の奥の、
ほとんど使われていない古い備品室へと押し込まれた。
扉が静かに閉められる。
優里は、心臓をバクバクさせた。
息を殺す。
誰……?
顔を上げた瞬間、
優里の目が見開かれた。
そこにいたのは、
山下遥香だった。
遥香は、扉に背中を預け、
廊下の様子を窺っている。
彼女の完璧な横顔には、
いつもと同じ冷静。
その瞳の奥に、どこか緊張の色。
備品室の扉の向こうからは、
悠斗たちの声が聞こえてくる。
「どこへ行った! この辺にいたはずだ!」
「ちくしょう、あの女…!」
声を出さないように、
口元を強く押さえた。
優里の隣にそっとしゃがみ込む。
遥香は、
彼女の口元から手を離し、
人差し指を唇に当てた。
「…静かに」
遥香が自分を助けてくれた。
驚きと混乱。
なぜ、遥香がこんな場所に?
なぜ、自分を助けてくれたのだろうか。
扉の隙間から、
悠斗たちの足音が遠ざかっていくのを確認する・
遥香は、
安堵したように、小さく息を吐いた。
そして、
いつもの冷静な表情。
「…運が良かったね」
淡々とした声音。
助けた、という自覚すらない言い方。
それでも。
優里には、
その冷たい言葉の奥にあるものが、
はっきりと分かっていた。
遥香は、
自分を、見捨てなかった。
その事実が、
胸の奥で、静かに、確かに灯っていた。




