恋人の建前
パーティー会場は、まだ熱を帯びていた。
宝来優里が、
女王の隣で“完成された姿”を見せた衝撃は、
容易に収束するものではなかった。
招待客たちは、ざわめき始めた。
「あれは誰だ?」
「遥香様の隣にいるのは…?」
「見違えるようだ」
囁きが、あちこちから聞こえてくる。
先程まで、ボロボロの姿で
会場にいたことを覚えている。
その変貌ぶりに驚愕していた。
「この子は、私が認めた」。
それは、ダイアモンドクラス、
そして学園全体のヒエラルキーに対する、
静かながらも強力な牽制だった。
遥香は、時折、優里に視線を送る。
だが、当の本人は、
もう、遥香を見ていなかった。
淡いブルーのドレス。
整えられた髪。
伏せがちだった瞳は、
どこか諦めたように静かで。
(……)
遥香は、
理由の分からない苛立ちを覚えていた。
(なぜ、目を逸らす)
(私が、ここにいるのに)
その時だった。
軽やかな拍手とともに、
場の空気を切り裂くような声が響いた。
「いやあ、やっぱり映えるね」
篠原悠。
いつもの余裕を纏ったまま、
優里の隣に立つ。
その距離が、近すぎた。
遥香の指先が、わずかに強張る。
(なるほど、女王様も、なかなかやるじゃないか)
グラスを傾けながら、
優里と遥香の二人を交互に見た。
ドレスアップした優里の美しさは、
確かに周囲の目を引く。
遥香の隣にいるからこそ、
より一層際立つ。
(女王様が君に与えた『輝き』は、所詮、借り物だ。)
悠は、周囲に聞こえるよう、
わざとらしく言った。
「やぁみんな、紹介するよ。」
「僕の”恋人”、宝来優里だ」
「みんな驚いてるだろ?僕の恋人が、こんなに綺麗だなんて」
……恋人。
その一言で、空気が変わる。
ざわめき。
視線。
納得と羨望。
優里は、
はっとしたように悠を見る。
「……え?」
困惑。
否定しかける唇。
だが、悠は自然に彼女の肩に手を置き、
微笑んだ。
「ほら、緊張するなって。君は僕のエスコートだ」
逃げ場を与えない声。
周囲は、
もう“そういうもの”として受け取っている。
遥香は、唇を噛み締めた。
胸の奥が、きしりと音を立てた。
(……は?)
(恋人?)
(いつ、そんな話になった)
理屈では、分かっている。
悠は、“建前”を使っただけだ。
優里を守るため。
場を制圧するため。
それは、正しい。
正しい、はずなのに。
「いやあ、感謝してるよ、遥香」
優里の変化は、
遥香の手によってもたらされたものだった。
優里の内に秘められた美しさを引き出したのは、
他でもない遥香。
悠が、ちらりとこちらを見る。
「君があそこまで仕上げてくれたから、みんな納得した」
手柄。
(……そう)
(私は、手柄を取られただけ)
(それが、気に食わないだけ)
遥香は、
自分にそう言い聞かせた。
(私が…見つけてあげたのに…)
朔也は、遥香の肩にそっと手を置いた。
「遥香、落ち着いて」
朔也の声は、優しかった。
遥香は、不満の表情を隠さなかった。
「なぜ、悠が…。 彼女を輝かせたのは、私なのに…。それなのに…」
感情的になっていた。
これほどまでに感情を露わにするのは、
ごく稀なことだった。
「そうだね。君が優里の光を見つけて、輝かせてあげた。それは、君にしかできないことだった。」
「君は、その光を世に放つことができなかった」
優里の才能や美しさを認めても、
それを公にする勇気がなかった。
「ダイアモンド」という重みに囚われているから。
「悠は、君ができないことをしたに過ぎない。君が優里を輝かせた事実は、何も変わらない。」
何も言い返すことができなかった。
女王としての矜持。
主導権を奪われた不快感。
それだけ。
……の、はずだった。
だが。
優里が、
悠の影に半歩隠れるように立った瞬間。
遥香のなかで、
何かが、はっきりと壊れた。
(……違う)
胸が、痛い。
苛立ちではない。
怒りでもない。
(私が、整えた)
(私が、連れてきた)
(私の、隣に……)
言葉にならない感情が、
喉元まで込み上げる。
悠が、わざとらしく優里に囁く。
「ほら、緊張してる」
「大丈夫。僕がいる」
優里は、小さく頷いた。
その仕草が、決定的だった。
遥香は、
初めて、自分の感情を誤魔化せなくなる。
(……ああ)
(取られたんだ)
(手柄じゃない)
(優里を……)
その瞬間、頭に浮かんだ言葉に、
遥香自身が息を呑んだ。
嫉妬。
認めたくない。
女王に似つかわしくない。
だが、
それ以外の名前が、見つからなかった。
悠が、その表情を見逃すはずがない。
彼は、満足そうに微笑む。
「どうした?女王様」
「まさか……」
わざと、間を置く。
「嫉妬?」
遥香は、
即座に否定できなかった。
それが、すべてだった。
この瞬間、山下遥香は
宝来優里を、
“手放したくない存在”として、
完全に自覚してしまったのだ。
嫉妬だ。
そう認めてしまった瞬間から、
山下遥香の世界は、静かに歪み始めていた。
(……嫉妬?)
(私が?)
パーティー会場の喧騒は、
もはや遠い。
視界の中心にいるのは、
篠原悠の隣に立つ宝来優里だけだった。
笑っていない。
けれど、拒んでもいない。
(……あの子)
(何を、思っている)
遥香は、足を踏み出しかけて止まった。
(行って、どうする)
(何を、言う)
頭のなかで、
無数の選択肢が浮かんでは消える。
「こっちに来て」
違う。
「彼は違う」
それは、支配だ。
「……心配した」
そんな言葉、使ったことがない。
女王は、命令する存在だ。
導く存在だ。
“取り戻す”という行為を、
したことがない。
(私は……)
(どうやって、人を引き止める)
自覚した感情が、
皮肉にも、彼女の足を縛っていた。
嫉妬とは、欲だ。
欲を晒すことは、
弱さを晒すこと。
(それを、あの子に?)
無意識に、遥香は背筋を伸ばす。
女王としての姿勢に、
戻ってしまう。
その一瞬の遅れを、
悠は見逃さなかった。
「ほら、行こう」
優里の背に、そっと手を添える。
優里は、一度だけ、遥香の方を見た。
ほんの一瞬。
期待と、恐れと、
諦めが入り混じった視線。
(……)
(今だ)
遥香は、ようやく一歩、踏み出す。
だが、
その時にはもう、
遅かった。
「失礼します」
悠が、
完璧な社交辞令で頭を下げ、
優里を連れて人混みへ消える。
白いドレスの裾が、
視界から消えた。
遥香は、その場に立ち尽くした。
(……行った)
胸の奥が、冷たく沈む。
(違う)
(私は、あの子を……)
言葉にしようとした瞬間、
別の声が割り込む。
「遥香」
真佑だった。
「お疲れでしょう?少し、休んだ方が……」
その善意が、今は残酷だった。
「……うん」
断れなかった。
女王は、場を放り出せない。
人目がある。
立場がある。
“感情で動く”ことは、
許されていない。
ソファに腰掛けながらも、
遥香の視線は、
無意識に優里を探していた。
いない。
胸が、じくりと痛む。
(……探している)
(私は、あの子を)
その事実に、改めて気づく。
嫉妬を認めたのに。
欲を自覚したのに。
それでも、動けなかった。
(……女王、失格)
自嘲が、胸を掠める。
一方で。
会場の隅。
優里は、
悠の隣に立ちながら、
静かに心を閉じていた。
(やっぱり……)
(遥香様は、来ない)
呼ばれない。
引き止められない。
それが、答えだ。
(期待しちゃ、だめだった)
胸の奥で、何かが音を立てて閉じる。
優里の表情は、穏やかだった。
それが、完全に諦めた者の顔だと、
遥香はまだ知らない。
少し遅れて、遥香は立ち上がった。
(……行く)
(今度こそ)
だが、視界に入ったのは、
悠に寄り添い、微笑む優里の姿。
もう、踏み込めない距離。
遥香は、その場で止まった。
(……ああ)
(私は、遅れた)
その夜。
女王は初めて、
“正しい判断だった”と
言い切れないまま、
眠れぬ夜を迎えることになる。
そして気づくのだ。
突き放したのは、優里ではなく、
自分自身だったのだと。
宝来優里は、
その夜、冷めていた。
泣くほどの期待は、
もう残っていなかったからだ。
パーティーの喧騒を離れ、
用意された控え室で一人、
ドレスの裾を整えながら、
優里は静かに思った。
(……やっぱり、だめだった)
遥香は、来なかった。
呼び止めもしなかった。
引き寄せもしなかった。
あれほど近くにいて、
あれほど目が合って、
それでも。
(私は、あの人の世界に入れる存在じゃない)
胸が、すっと冷えていく。
痛みはない。
ただ、理解だけが残る。
(あの人は、女王で)
(私は、ブロンズ)
たったそれだけの事実が、
今になって、
決定的な壁として立ちはだかっていた。
期待した自分が、滑稽だった。
ドレスを纏わせてもらい、
髪に触れられ、隣に立った。
一瞬でも、
「もしかして」と思ってしまった。
(……馬鹿みたい)
優里は、小さく息を吐いた。
心の奥で、何かをそっと畳む。
憧れ。
期待。
救われたいという、願い。
(もう、期待しない)
(女王の世界には、入らない)
それは、逃げではなかった。
自分を守るための、
決断だった。
その頃。
山下遥香は、
初めて“もがいて”いた。
パーティーが終わり、
人が引いたダイアモンドラウンジで、
彼女は一人、立ち尽くしている。
(……なぜ)
(なぜ、あの子は来ない)
呼ばれるのを、待っていたのか。
いや、違う。
(私は……)
(取り戻したい、と思っている)
その言葉を、心のなかで反芻する。
取り戻す。
そんな発想、
これまでの人生で一度もなかった。
人は、従うものだった。
去るなら、それまでの存在だった。
(……なのに)
優里の顔が、
浮かんで消えない。
濡れた髪。
俯いた視線。
それでも、必死に立っていた姿。
(私が、遅れた)
(たった一歩)
拳を、強く握りしめる。
(……行けばよかった)
(名前を呼べばよかった)
(引き止めれば……)
後悔が、次々に湧き上がる。
こんな感情、知りたくなかった。
(取り戻したい)
その欲が、遥香の胸を焼く。
だが同時に、
女王としての理性が囁く。
もう、遅い。
その言葉が、
残酷なほど正しかった。
遥香は、
初めて“失う側”になっていた。
そして。
そのすべてを、
静かに眺めている存在がいた。
篠原悠だ。
控え室の外、
壁に寄りかかりながら、
彼は一人、夜を見ていた。
(……ああ)
(これは、そういう話か)
優里の変化も、遥香の遅れも、
すでに理解している。
(女王は、選ばれる側で)
(選ぶ側じゃなかった)
だから、引き止められない。
欲を示せない。
(そして、あの子は……)
悠は、
優里の閉じた表情を思い出す。
あれは、
完全に心を閉じた者の顔だ。
(期待を捨てた目)
(あれは、簡単には戻らない)
悠は、苦笑する。
(……間に合わなかったな)
誰のことも、
責める気はない。
ただ、世界の構造が、
二人をすれ違わせただけだ。
(さて)
(ここから、どう足掻くんだろう)
女王は、
初めて“追う側”になった。
ブロンズの少女は、
女王の世界から、自ら降りた。
そして、
悠だけが知っている。
取り戻すには、
相応の代償が必要だということを。
もう、元の場所には戻れない。




