正しいはずだった
ダイアモンドラウンジは、
いつも通り、完璧だった。
静かな照明。
磨き上げられた調度品。
選ばれた者だけが許される空間。
なのに。
山下遥香は、
理由もなく、苛立っていた。
視線が、勝手に動く。
自分の意思とは無関係に、
ラウンジの出入口を、
何度も、確認してしまう。
(……来るはずない)
(もう、来ない)
そう。
自分で突き放したのだから。
それなのに、
来ないという事実が、
胸の奥を、ざらつかせる。
遥香は、その感覚に、
名前を与えないようにしていた。
「おや?」
軽い声が、空気を切った。
篠原悠だった。
彼は、
いつものように余裕のある笑みを浮かべ、
遥香の正面に腰を下ろす。
その視線の先には、
宝来優里がいる。
ラウンジの端。
いつもより、少し距離を取って、
静かに座っている。
悠は、わざとらしく、声を張った。
「優里、こっちにおいで」
優里は、
一瞬だけ、身体をこわばらせた。
遥香の存在を、
確かに、意識している。
だが、目を合わせない。
それが、遥香の苛立ちを、
さらに増幅させた。
(……何、その態度)
悠は、優里が来ると、
ごく自然な動作で、
彼女の肩を引き寄せた。
まるで、当然のように。
「ほら。僕の“恋人”なんだから」
その言葉は、ラウンジ全体に、
はっきりと響いた。
空気が、一瞬、凍る。
遥香の指先が、
無意識に、
グラスを強く握りしめた。
(……恋人?)
分かっている。
建前だ。
悠の“ゲーム”の一部。
理解しているはずなのに。
胸の奥が、ひくり、と痙攣した。
悠は、遥香の変化を、
見逃さない。
彼は、さらに畳みかける。
「最近、優里が静かでさ」
「怪我もしてるし、精神的にも不安定だ」
「だから、僕がちゃんと守らないとね」
そう言って、優里の手を取る。
指先が、絡む。
優里は、抵抗しなかった。
抵抗する気力が、
もう、残っていない。
その光景を見た瞬間。
遥香のなかで、
はっきりとした“不快”が、
形を持った。
(……見せつける必要はないでしょう)
口には出さない。
だが、思考は、鋭く尖っていく。
悠は、遥香の沈黙を、
愉しむように続ける。
「女王様は、もう関係ないよね?」
「優里に興味、ないって言ってたし」
その一言が、致命的だった。
遥香の視線が、
完全に、優里に固定される。
優里は、俯いたまま、
小さく肩を震わせている。
まるで、守られる“存在”。
(……なぜ)
(なぜ、私は)
(あの子を、見ている?)
遥香は、自分の視線に、
初めて疑問を持った。
“ブロンズ”だから?
違う。
“問題児”だから?
それも違う。
……なら、なぜ。
遥香は、自分の内側を、
冷静に掘り下げようとする。
だが、出てくるのは、
理屈ではなかった。
いなくなる気配。
遠ざかる背中。
二度と、こちらを見ない目。
その断片が、胸の奥を、
締め付ける。
(……苛立っている)
(これは、苛立ち)
遥香は、そう、定義しようとした。
だが。
苛立ちにしては、
感情が、重すぎる。
悠は、遥香の沈黙を、
“効いている”と判断した。
「大丈夫だよ、優里」
「僕がいる」
その瞬間。
遥香は、自分の内側で、
何かが、はっきりと音を立てて崩れた。
(……違う)
(それは)
(私が……)
思考が、そこで、止まる。
続きを、考えてはいけない。
まだ、認めてはいけない。
遥香は、視線を逸らし、
立ち上がった。
「……失礼する」
それだけを言って、
ラウンジを出る。
背後で、悠が、楽しそうに笑った。
廊下。
一人になった瞬間。
遥香は、壁に手をつき、
静かに息を整えた。
胸の奥が、ざわついている。
落ち着かない。
理由が、分からない。
だが、一つだけ、
はっきりしたことがある。
私は。
もう。
優里を、
「見ていないふり」が、
できなくなっている。
その事実に、遥香は、
ゆっくりと、気づき始めていた。
夜。
遥香は、自室のデスクに向かい、
端正な文字でノートを埋めていた。
試験範囲の整理。
次回行事の確認。
すべて、完璧。
それは、いつものことだ。
彼女は、正しい選択しかしない。
そうしてきたし、
そうすることで、
世界は秩序を保ってきた。
宝来優里を、突き放したことも。
(当然の判断)
(危険因子を排除しただけ)
遥香は、
そう、結論づけていた。
ブロンズ。
カーストの底辺。
感情で動き、予測不能。
自分の世界に置くべき存在ではない。
それが、“正しい”。
……はずだった。
ペンが、
一瞬だけ、止まる。
ノートの余白に、
意味のない線が引かれた。
遥香は、その線を見つめ、
小さく眉を寄せる。
(集中が切れている)
理由は、すぐに分かる。
視界の端に、
あの姿が浮かぶからだ。
引き裂かれた制服。
血の気を失った顔。
それでも、
こちらを見上げてきた瞳。
(……もう、関係ない)
遥香は、意識的に、
思考を切り捨てる。
(私は、何も間違えていない)
(守る義務も、責任も、ない)
それなのに。
胸の奥が、微かに、疼く。
翌日。
ダイアモンドラウンジ。
遥香は、
いつもの席に腰を下ろした。
完璧な姿勢。
完璧な表情。
しかし。
視線が、勝手に、
優里の“いた場所”をなぞる。
……いない。
それだけの事実が、
思った以上に、
心をざわつかせた。
(篠原のパートナーとして、どこかにいるだけ)
(私の知る必要はない)
理屈は、即座に立ち上がる。
だが、その理屈が、
感情を押さえ込めなくなっている。
周囲の会話が、
耳に入る。
「最近さ、宝来、元気ないらしいよ」
「怪我もまだ治ってないって」
「でも、篠原がいるから、大丈夫だろ」
篠原。
その名前が、胸に、
小さな棘のように刺さる。
(……大丈夫?)
誰に対しての、疑問なのか。
自分でも、分からない。
遥香は、グラスを持つ手に、
力が入っていることに気づいた。
液体が、わずかに揺れる。
(私は、冷静)
(私は、正しい)
(情に流される必要はない)
何度も、心のなかで、繰り返す。
だが。
「正しい」という言葉が、
どこか、空虚だった。
もし。
もし、
本当に正しかったのなら。
なぜ。
こんなにも、落ち着かない?
なぜ、優里の名前一つで、
心が、揺れる?
(……違う)
(これは、秩序の問題)
(私の世界が、乱されただけ)
遥香は、
そう、定義し直そうとする。
しかし。
その定義は、
もう、完全ではなかった。
放課後。
廊下を歩いていると、
ふと、
見覚えのある背中を見つける。
優里。
思わず、足が、止まった。
距離は、離れている。
だが、その背中は、
以前よりも、
ずっと小さく見えた。
肩が、内側にすぼまっている。
周囲を、
無意識に警戒するような、
歩き方。
(……関係ない)
遥香は、自分に言い聞かせる。
(自業自得)
(彼女が選んだ道)
だが。
その背中が、
角を曲がって、
視界から消えた瞬間。
胸の奥が、
はっきりと、沈んだ。
まるで、何かを、
失ったように。
(……おかしい)
(正しい判断だったはず)
(なのに)
“正しかった”という確信が、
初めて、揺らいだ。
その夜。
遥香は、
ベッドに横たわりながら、
天井を見つめていた。
眠れない。
理由は、分かっている。
「正しい選択」をした人間は、
迷わない。
後悔しない。
だが。
自分は、迷っている。
(……間違っていた?)
その考えを、
即座に、否定する。
(違う)
(私は、間違えない)
だが、否定の言葉が、弱い。
心が、追いついてこない。
遥香は、目を閉じた。
そして、初めて、
こう思った。
”正しかったと、言い切れない”。
その“言い切れなさ”が、
静かに、
女王の心を侵食していく。
それでもまだ。
遥香は、
「優里を守る」という選択肢を、
完全には、意識していない。
ただ。
正しさの裏側に、
取り返しのつかない“欠落”が
あるかもしれないことだけを、
感じ始めていた。
鳳凰学院のパーティー当日。
ここは選ばれた者の世界。
失敗も、感情も、弱さも、
すべて“美しく隠される場所”。
そして、その中心には、
山下遥香がいた。
純白のドレス。
寸分の乱れもない立ち姿。
女王として完成された存在。
宝来優里は、
会場の隅に立っていた。
制服のまま。
傷んだ袖口。
まだ完全に癒えない身体。
それでも彼女は、ここに来た。
来てしまった。
(……少しでも)
(少しでも、隣に立てたら)
自分でも、無謀だと分かっていた。
それでも、期待を捨てきれなかった。
遥香は、一瞬だけ、優里を見た。
ぼろぼろの制服。
やつれた顔。
その視線は短く、何も語らない。
優里は、その“何もない”ことに、
胸が締めつけられた。
(やっぱり……)
(私は、いらない)
その時だった。
頭から水を浴びせられていた。
全身が瞬く間にびしょ濡れになった。
冷たい水が髪を伝う。
顔を流れ落ち、
制服に染み込んでいく。
周囲の喧騒が一瞬止まり、
優里に視線が集まった。
ざわめき。
笑いを堪える声。
カメラのシャッター音。
プラチナであろうドレスを着た、
数人の女子生徒たちが立っていた。
優越感と軽蔑。
学園でも有名な上位ランクの生徒だった。
「ごめんなさい、手が滑っちゃって」
プラチナの女子生徒が、上から見下ろす。
謝罪は形だけ。
悪意は隠そうともしない。
「制服でパーティーなんて」
「場違いにもほどがあるわよね」
「目障りなのよ」
優里は、動けなかった。
身体より先に、
心が冷え切っていた。
(……ああ)
(やっぱり、私は)
(ここにいちゃ、いけない)
その時。
視界を遮るように、
純白のドレスが立った。
山下遥香。
一瞬の逡巡の後、
小さく告げる。
「……ついてきて」
優里の腕を取り、
人々の視線のなかを歩き出した。
ざわめきのなか、
二人は会場を離れた。
ダイアモンドラウンジ。
静寂。
遥香は
戸棚からタオルと
ドライヤーを取り出した。
無言でタオルを渡した。
優里は、高級そうなタオルを
少しためらいながら受け取る。
申し訳なさそうに体を拭き始めた。
ダイアモンドラウンジには、
遥香の指示を待つ専属の執事が控えていた。
執事は、遥香に促されるままに部屋に入ってきた
ボロボロの優里の姿に一瞬驚いたが、
表情には出さなかった。
遥香は、コンセントにドライヤーを差し込み、
スイッチを入れた。
温かい風。
指が髪を梳く。
その仕草は、
普段の冷たい彼女からは想像もできない。
信じられないほど丁寧で、優しい。
「……」
優里は、
何も言えなかった。
感謝より先に、
胸に浮かんだのは、不安だった。
(どうして……?)
(どういう意味……?)
ドライヤーの騒音がラウンジに響く。
遥香は優里の濡れた顔をじっと見つめていた。
水滴が落ちる。
普段は隠れている彼女の素顔。
大きな瞳。
整った鼻筋。
高校生とは思えないような童顔、
そして、心なしか赤い頬。
不意に、遥香は小さな声で呟いた。
「…案外、可愛い顔をしているじゃん」
ほとんど無意識の、本音。
ドライヤーの騒音は大きく、
優里の耳には届かなかった。
届いたのは、
“優しくされている事実”だけ。
女王の冷たい仮面の奥に隠された、
優しさの片鱗が垣間見えた、瞬間だった。
だからこそ、優里は怖くなった。
優里の髪がすっかり乾くと、
遥香はドライヤーを置く。
ラウンジの奥にあるクローゼット。
予備のドレスが数着用意されている。
淡いブルー。
シンプルなイブニングドレス。
「これを着て」
遥香は、無表情ながらも、
優里に丁寧にドレスを手渡した。
優里が着替えを終えて戻ってくる。
濡れて張り付いていた髪が乾き、
ふわりとボリュームを取り戻し、
彼女の小さな顔の輪郭をより鮮明に映し出す。
ドレスの淡いブルーは、
彼女の純粋な瞳の色を際立たせ、
彼女の持つ天性の美しさを引き立てていた。
次に遥香が向かったのは、ドレッサー。
世界的なブランドのコスメティックが
几帳面に並んでいる。
手慣れた様子でいくつかの品を選び取り、
優里の前に立った。
「少し、手入れをしてあげる」
優里は、されるがままに目を閉じ、
遥香の繊細な指先を感じていた。
すべてが終わると、遥香は優里に鏡を手渡した。
鏡に映ったのは、見慣れない少女。
そこにいたのは、
光を湛えた大きな瞳。
形の良い唇。
そして彼女の全体を包む、
透明で純粋な雰囲気を持つ、圧倒的な美少女。
遥香は、鏡に映る優里の姿を、
満足そうに頷きながら見つめていた。
「…やっぱり、素材は悪くなかった」
分析するかのように呟いたその声には、
以前の冷たさはなく、
わずかな賞賛が込められていた。
遥香自身も、優里の予想外なほどの変貌ぶりに、
内心深い驚きを覚えていたのだ。
びしょ濡れの姿から一変。
見違えるように美しくなった優里。
再びパーティー会場に足を踏み入れた瞬間、
その場の喧騒が一瞬にして静まり返った。
優里を嘲笑していた上位ランクの生徒たち。
言葉を失い、ただ彼女を見つめていた。
粗野な少女の姿はもうない。
そこにいるのは、光を放つ、
まるで別人のような美少女。
周囲の生徒たちも、
小さな声で囁き合った。
「あれが、さっきのブロンズの…?」
「信じられない…」
羨望。
驚愕。
沈黙。
そして、遥香の隣。
優里は、そこに立たされた。
女王の隣で光を放つ優里の姿は、
まさに魔法のような光景。
パーティーの雰囲気を一変させた。
豪華なドレスを身に纏い、
輝くシャンデリアの下に立っていた。
優里の心のなかは、混乱していた。
……なぜこんなことを?
これは、自分を「汚点」として見せつけるための、
新たな策略なのか。
それとも、遥香なりの「助け」なのか。
遥香は、優里の耳元に、
誰にも聞こえない声で囁いた。
「これなら、誰も『汚い』とは言えないでしょう?」
優里がかつて遥香に言われた
「汚い」という言葉を打ち消すかのようだった。
遥香の瞳は、優里をまっすぐ見つめていた。
(……ああ)
(そういうことか)
理解してしまった。
これは、
「守られている」のではない。
「展示」だ。
女王の隣に置かれた、
“美しく仕立てられた異物”。
遥香の表情は変わらない。
感情も、言葉も、ない。
期待した自分が、愚かだった。
(やっぱり)
(嫌われてる)
(私は、“使われる”存在でしかない)
その瞬間、
優里の心のどこかで、
音がした。
期待が、完全に壊れる音。
パーティーの終盤。
遥香は、異変に気づいていた。
優里が、もう、こちらを見ていない。
視線を送っても、返ってこない。
近くにいても、遠い。
(……?)
胸の奥が、ざわつく。
“役目”を終えたはずの存在が、
なぜか、気になって仕方がない。
(私は、正しいことをした)
(彼女を守った)
(世界に示した)
なのに。
優里の背中が、
あまりにも、遠い。
その時、はっきり理解した。
(……違う)
(この子を突き放したら)
(壊れるのは、私だ)
感情の名前は、まだ分からない。
ただ、もう一度失ったら、
取り返しがつかないとだけ、
分かってしまった。
女王は、初めて、
自分の“孤独”を直視する。




