女王の問い
篠原悠が、
宝来優里の「本当の素性」を
ダイアモンドクラスの面々に暴露した。
その翌日。
優里の日常は、
外見上は何一つ変わっていなかった。
相変わらず、ブロンズの制服を着て、
相変わらず、俯きがちに歩き、
相変わらず、
篠原悠の「パートナー」という曖昧な立場で
ダイアモンドラウンジに出入りしている。
だが、空気だけが、決定的に変わっていた。
視線。
囁き。
露骨な苛立ちと、不満。
「なぜ、まだいる?」
「なぜ、排除されない?」
そんな声にならない感情が、
優里の背中に突き刺さっていた
宝来悠斗は、その暴露の場にいなかった。
だから彼は知らない。
優里が、宝来本家の令嬢であることも。
本来、自分と同じ“側”に
立つはずだった存在であることも。
知らないからこそ、
彼の憎悪は、より純粋で、より歪んでいた。
(篠原の女になったからって……)
悠斗は、奥歯を噛み締める。
これまで、篠原悠の存在が、
直接手を出すことを阻んできた。
だからこそ、
溜め込まれた怒りは、
抑圧された分だけ、凶暴だった。
ダイアモンドラウンジにいる間は、手が出せない。
ならば、一人になる瞬間を狙えばいい。
それだけの話だった。
放課後。
優里は一人、
人気のない図書室裏の通路を歩いていた。
長年受けてきた暴力の傷は、
まだ完全には癒えていない。
身体は重く、
思考も鈍る。
心の痛みが、
警戒心を奪っていた。
背後で、足音が止まる。
気配に気づいた瞬間、
すでに遅かった。
複数の影が、優里を囲む。
リーダー格は、宝来悠斗。
その口元には、
冷たい笑みが浮かんでいた。
「よう、ブロンズ」
その呼び方だけで、
優里の身体が強張る。
「ダイアモンドの篠原の女になったからって、調子に乗ってるんじゃねぇぞ?」
取り巻きたちが、
じりじりと距離を詰める。
「お前みたいな底辺が、俺たちの世界に土足で踏み入ってんじゃねぇ」
言葉は、以前よりも直接的で、
明確な悪意を帯びていた。
優里が、悠の庇護を得ていること。
それ自体が、
悠斗のプライドを踏みにじっていた。
「俺たちが、本来の場所に戻してやるよ」
合図と同時に、
暴力が始まった。
拳。
蹴り。
躊躇のない衝撃。
以前の嫌がらせとは、
次元が違った。
地面に倒れた優里の身体に、
容赦なく力が叩き込まれる。
「二度と、ダイアモンドラウンジに顔出すな!」
制服が引き裂かれ、
持ち物が散乱し、
尊厳ごと踏みにじられていく。
声を上げる力すら、残らない。
視界が滲み、意識が遠のく。
(もう……だめだ……)
心が、折れかけていた。
優里が宝来本家の令嬢である。
その事実に宝来悠斗は気づいていた。
優里は、ただのブロンズではない。
自分の権力を脅かす不快な存在。
その脅威が、優里への暴力を
より無慈悲なものにしていた。
優里は、この学園のカーストの闇に、
再び深く飲み込まれていく。
痛みよりも、
孤独が、
無力感が、
魂を削っていく。
誰も、助けてくれない。
その諦めが、
全身を支配した、その時。
視界の端に、
一筋の光が差し込んだ。
完璧に磨き上げられた、革靴。
優里が、かろうじて顔を上げる。
そこに立っていたのは、
山下遥香だった。
遥香は、
感情のない表情で、
地面に倒れ伏す優里を見下ろしていた。
引き裂かれた制服。
生々しい傷。
乾ききらない涙の跡。
すべてを、
“見てしまった”。
(……酷い)
そう思った瞬間、
遥香は、
自分のなかに生まれたその感情に、
一瞬、戸惑った。
これは、同情?
それとも、怒り?
あるいは、もっと別の何か。
遥香は、
ここが防犯カメラの死角であることを知っている。
誰にも、見られない。
記録も、残らない。
つまり、この暴力は、
最初から「なかったこと」にされる。
その事実が、遥香の胸の奥を、
不快にざわつかせた。
優里は、
遥香の視線に気づき、
息を呑んだ。
(見られた……)
最も見せたくない姿を、
最も遠い存在に。
優里は、必死に身体を起こそうとする。
消えなければ。
遥香の視界から。
だが、身体は言うことを聞かない。
やっと立ち上がっても、
足元が崩れる。
(ごめんなさい……!)
声にならない謝罪の言葉が、
優里の喉元で詰まった。
また「汚い」と軽蔑されるだろう。
優里の心は、絶望に打ちひしがれた。
よろよろと、
その場を離れようとする小さな背中。
その瞬間、遥香は、
自分でも驚くほど自然に、
一歩、踏み出していた。
優里の背中に、
そっと手が触れる。
ありえなかった。
遥香が、自分に触れるなど。
振り返ることもできず、
身体が硬直したまま。
「……その状態で、どこへ行くつもり?」
冷たい声。
けれど、そこには、
以前にはなかった“引き留め”があった。
優里の身体が、硬直する。
遥香の腕が、優里を支える。
体温が、伝わる。
(……離したくない)
その感情が、
遥香自身を、最も驚かせた。
静かな場所へと、
遥香は優里を連れて行く。
誰もいない。
安全な場所。
それを選んでいる自分に、
遥香は気づいてしまう。
(私は……)
(この子を、守る場所を、選んでいる?)
遥香は、優里の顔を見つめ、
問いを投げた。
「……どうして、私に憧れるの?」
責める声ではない。
純粋な疑問。
優里は戸惑いながら、
言葉を探す。
「強くて……美しくて……」
「……違う」
遥香は、即座に否定した。
その先を、知りたかった。
優里は、震えながら、
それでも目を逸らさずに言った。
「遥香様の瞳の奥に……」
「私と同じ、孤独を見たんです」
「誰にも理解されない、一人ぼっちの感情」
その言葉に、遥香の内部で、何かが軋んだ。
触れてはいけない場所を、
正確に突かれた感覚。
「だから……」
「遥香様を、一人にしたくない」
その告白は、
遥香の完璧な殻を、
確かに揺らした。
白い指先が、
無意識に、優里の肩を掴む。
確かめるように。
(……危険だ)
遥香は、理解していた。
この感情を認めれば、
戻れない。
だから、口にした。
「あなたには……無理だよ」
突き放す言葉。
「君の孤独と、私の孤独は、違う」
それは、
優里を拒絶する言葉であり、
同時に、
“この子を失いたくない”
という感情を否定するための、
遥香自身への言葉だった。
女王はまだ、
選択肢の名前を知らない。
だがこの日、確かに、
「宝来優里を守る」という可能性が、
遥香のなかに生まれてしまった。
山下遥香の冷たい拒絶の言葉は
宝来優里の心を深く打ち砕く。
優里は、その場に立ち尽くしたまま、
遥香の背中を見つめていた。
遥香は、優里の訴えを完全に否定し、
再び手の届かない存在となった。
その時だった。
扉が開いた。
そこに立っていたのは、篠原悠だった。
全てを、悠は瞬時に理解したかのようだった。
ゆっくりと部屋のなかへ足を踏み入れた。
足音は静かで、
張り詰めた空気をさらに研ぎ澄ませる。
「女王様。随分と手厳しいな」
遥香は、悠の言葉に何も返さなかった。
悠は、遥香から優里へと視線を移した。
ボロボロになった姿。
顔に残る傷の跡。
「どうした、ブロンズ。」
「女王様から直々に『無理だ』と言われたくらいで、もう諦めるのか?」
その言葉の裏には、
優里を再び奮い立たせようとする、
意図が隠されているかのようにも聞こえた。
優里は、悠の言葉に何も返せなかった。
ただ、遥香の拒絶と、
悠の挑発の間で、心が揺れ動いていた。
悠は、優里の前に立つと、
優里の肩にそっと手を置いた。
その手が、優里を支える。
「心配するな。この『ゲーム』は、まだ終わらない」
優里の耳元で囁かれた。
それは、優里を絶望の淵から引き上げ、
再び「ゲーム」の渦へと引き戻す、
支配者の言葉だった。
悠は、優里を助けに来た。
それは、優里を遥香から「救う」ためではなく、
あくまで「ゲーム」を継続させるため。
遥香に支えられ、
静かな場所へと連れて行かれたあと。
宝来優里は、
何も言えず、何も聞けず、
ただその場に立ち尽くしていた。
耳の奥では、
遥香の言葉が、何度も反芻されている。
あなたには、無理だよ。
君の孤独と、私の孤独は、違う。
それは、これ以上ないほど、
はっきりとした拒絶だった。
(……やっぱり)
(やっぱり、私は)
優里は、唇を噛みしめた。
期待してしまった自分が、
愚かだったのだ。
ブランケットをかけてくれたことも。
支えてくれたことも。
あの一瞬の温もりも。
すべて、
「気まぐれ」だったのだと、
自分に言い聞かせるしかなかった。
遥香は、それ以上、何も言わなかった。
優里の身体を支えていた手も、
ゆっくりと、離れた。
それだけで、
十分すぎるほどの答えだった。
女王は、もう、こちらを見ていない。
そう思った瞬間、胸の奥が、
音を立てて崩れた。
「……ありがとうございました」
優里は、精一杯、声を絞り出した。
礼を言わなければ。
迷惑をかけてはいけない。
そうしなければ、
自分が惨めすぎて、
立っていられなかった。
遥香は、その言葉に、
一瞬だけ、視線を揺らした。
だが、それ以上、何も返さなかった。
沈黙。
それは、優里にとって、
何より残酷な肯定だった。
(……嫌われた)
(最初から、最後まで)
(私は、間違っていた)
優里は、頭を深く下げると、
今度こそ、振り返らずに歩き出した。
足取りは、まだ覚束ない。
それでも、遥香の前から、
消えなければならなかった。
その日の夜。
優里は、自室のベッドに横たわっていた。
身体の痛みは、
もう、どうでもよかった。
心の方が、ずっと、痛い。
枕元には、
遥香がかけてくれたブランケット。
それを、抱きしめることができない。
(触ったら……)
(また、勘違いしてしまう)
優里は、ブランケットを畳み、
クローゼットの奥へしまった。
二度と、取り出さないように。
遥香の優しさを、
思い出さないように。
「……嫌われてたんだもん」
声に出すと、
不思議と、少しだけ、
現実味が増した。
翌日。
優里は、
以前よりも、さらに静かになった。
遥香を、決して見ない。
視線が合いそうになると、
すぐに逸らす。
ダイアモンドラウンジにも、
必要最低限しか近づかない。
篠原悠の「パートナー」であるという
立場は変わらない。
だが、そこにあったはずの
“希望”だけが、
完全に消えていた。
悠は、その変化に、すぐ気づいた。
優里の目が、
もう、遥香を追っていない。
それは、「諦めた目」だった。
悠は、ラウンジの窓辺で、
小さく笑った。
「……なるほど」
「これは、面白い」
彼は、遥香の方を、ちらりと見る。
女王は、相変わらず完璧な姿で、
何事もなかったかのように振る舞っている。
だが、悠には分かる。
遥香の視線が、無意識に、
優里の姿を探してしまっていること。
(ああ)
(完全に、噛み合ってない)
悠は、静かに確信した。
優里は、
「完全に拒絶された」と信じ込んだ。
そして、遥香は、
「守ったつもり」でいる。
この誤解は、簡単には解けない。
むしろ、解けないからこそ、
二人は、もう戻れない場所まで、
踏み込んでいく。
「女王様」
悠は、誰にも聞こえない声で、
呟いた。
「その沈黙は、一番残酷だよ」
そして、その沈黙を、
自分が壊す役目だと、
彼はもう理解していた。




