跡取り問題
最初は、違和感だった。
ダイアモンドラウンジに足を踏み入れた瞬間、
遥香は、空気が軽すぎることに気づいた。
静かだ。
完璧だ。
いつもと、何一つ変わらない。
それなのに、
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚があった。
(……何かが、足りない)
遥香は、無意識のうちに、
ラウンジの奥、
いつも優里が控えめに座っていた場所へと
視線を向けていた。
誰もいない。
それだけで、
心臓が、わずかに速く打つ。
教科書を開く。
ページをめくる。
内容は、頭に入らない。
代わりに浮かぶのは、
小さな足音。
遠慮がちに響く呼吸。
自分にだけ向けられた、あの柔らかな声。
……「遥香様」
名前を呼ばれるたびに、
なぜか胸の奥が、静かに満たされていた。
その事実を、
遥香は、これまで一度も言語化してこなかった。
必要ないと、切り捨ててきた。
数分後、
遥香は本を閉じた。
理由はない。
ただ、集中できない。
立ち上がり、
ラウンジの扉へ向かう。
(……どこへ行くつもり?)
自分で自分に問いながら、
答えは、最初から分かっていた。
探している。
誰を、とは、
まだ言わない。
廊下を歩く。
階段を下る。
視線は、
人の流れのなかから、
一人の少女を無意識に探している。
ブロンズの制服。
少し伏せた視線。
周囲より半歩遅れた歩調。
……いない。
胸の奥が、
きし、と音を立てた。
(……なぜ)
問いは、疑問ではなく、焦燥に近い。
その時、
遥香は、はっきりと理解した。
これは、監視ではない。
確認でも、支配でもない。
探している。
自分が、あの少女を。
その事実に気づいた瞬間、
遥香の足が止まった。
(……馬鹿げている)
心の中で、即座に否定する。
ブロンズだ。
異物だ。
排除すべき存在だ。
そう、
何度も結論づけてきたはずなのに。
それでも、
優里の姿が視界にないことが、
こんなにも不安を呼ぶ理由が、
説明できない。
ふと、思い出す。
階段の隅で、
声を上げて泣いていた姿。
ボロボロの制服。
隠しきれない震え。
それでも、自分を見つけた時、
泣き止もうとした、あの必死な表情。
(……どうして)
どうして、あの子は、
私の前でだけ、強がろうとする。
どうして、
私の前でだけ、笑おうとする。
胸の奥で、何かが、
はっきりと形を持ち始める。
苛立ち。
不安。
焦り。
これまで、
すべて「排除すべき異常」として
切り捨ててきた感情。
だが、今は違う。
(……これは)
遥香は、自分自身に、初めて正直になる。
(感情だ)
否定できない。
切り捨てられない。
そして、認めた瞬間に、
次の事実が浮かび上がった。
(この子を、突き放したら)
(……私は、壊れる)
理由は分からない。
理屈もない。
ただ、確信だけがあった。
優里がいなくなった世界は、
もう、「完璧」ではない。
静かで、秩序があって、
誰も踏み込めない。
それでも、寒い。
遥香は、ぎゅっと拳を握った。
女王として、最も認めてはならない感情。
依存でも、
支配でもなく。
ただ、一つの、愚直な願い。
(……そばに、いてほしい)
口に出すことは、一生ない。
それでも、その願いは、
確かに遥香のなかに根を下ろした。
その頃、優里は、
「自分が離れるべきだ」と、
決意を固めていた。
女王が、探していることにも気づかずに。
そしてこのすれ違いが、
次に訪れる、
取り返しのつかない選択へと繋がっていく。
ダイアモンドラウンジには、
張り詰めた静けさが漂っていた。
それは、いつもの静謐とは質が違う。
支配者の不在が生む、空白の音だった。
ダイアモンドの女王。
山下遥香は、
その日、ラウンジに姿を見せていなかった。
誰も、理由を知らない。
どこへ行ったのかも、
いつ戻るのかも。
ただ一つ確かなのは、
彼女がいないという事実が、
この空間の秩序を、確実に蝕んでいるということだった。
その不在は、
宝来優里という“異物”を巡る議論を、
一気に表面化させていた。
これまで、遥香の存在が抑え込んでいた
不満と焦燥が、
今、堰を切ったように噴き出している。
日向朔也は、
ソファに悠然と腰掛ける篠原悠を睨みつけた。
「篠原。遥香がいない今だから言う。貴様の悪ふざけは、目に余る」
声には、怒りだけでなく、
女王を失った焦りが滲んでいた。
「ブロンズを、このラウンジに出入りさせるな。学園の秩序が崩壊する」
それは、個人的な嫌悪ではない。
“秩序”という名の自己防衛だった。
鷹城玲司もまた、
冷静さを装いながら、悠に言葉を重ねる。
「君の行動意図は理解できる。だが、度が過ぎている」
玲司の視線は、
宝来優里の精神状態を正確に測っていた。
「あの少女は、もう限界だ。これ以上『ゲーム』に巻き込む意味はない」
合理的で、正論だった。
だが、それは同時に、
優里を“切り捨てる理由”でもある。
向井渉は、
もはや抑制など捨てていた。
「ふざけるな!遥香の周りをうろつくブロンズなんて、認められるか!」
怒号は、嫉妬と恐怖の混合物だ。
「さっさと、あの女を本来の場所に戻せ!」
“本来の場所”。
それは、底辺という意味だった。
向井にとって、優里の存在は、
遥香への自分の感情を脅かす、
最も忌まわしい異物だった。
しかし、
篠原悠は、微動だにしない。
彼は、彼らの言葉を聞きながら、
退屈そうに薄い笑みを浮かべている。
「ほう……」
小さく、鼻で笑う。
「女王様がいないと、君たちは随分と感情的になるんだな」
その一言に、
ラウンジの空気が一段、冷えた。
「僕が何をしようと、ゲームのルールを決めるのは僕だ」
悠は、視線を巡らせる。
「それに、女王様も、案外この状況を楽しんでいる」
その言葉に、誰も即座に否定できなかった。
ダイアモンドクラスのメンバー。
遥香がいない状況で、
悠を止めることができないことに苛立ちを募らせていた。
優里は、学園の秩序を乱すための道具でしかなかった。
遥香の不在が長引く。
ダイアモンドラウンジの空気は、
一層険悪さを増していた。
議論は再び加速する。
朔也は、苛立ちを隠さず言い放った。
「ならば今こそだ。お前が与えたバッジを剥奪しろ。あのブロンズを、元の場所へ戻せ」
玲司も頷く。
「学園の均衡が崩れている。君の気まぐれに、これ以上振り回される理由はない」
向井は、吐き捨てる。
「あんなブロンズが、このラウンジにいること自体がおかしいんだ!」
「追い出せ。それで全部終わる話だ」
その時だった。
悠が、ゆっくりとタブレットをテーブルに置いた。
「ほう……」
瞳には、いつもの冷笑が浮かんでいる。
「……本当に、何も知らないんだな」
低く、静かな声。
それだけで、ラウンジは凍りついた。
悠は、淡々と告げる。
「君たちが見下している、宝来優里。」
「彼女は本来、この学園で君たちと同列に立つ存在だった」
衝撃が走る。
「宝来グループ本家の令嬢。」
「……本来の跡取りだ」
息を呑む音が、
あちこちで小さく漏れた。
「ダイアモンドに入るための条件の一つに、多額の寄付金があることは知っているだろう?」
「 宝来の本家ならば、その程度の条件、容易にクリアできたはずだ。」
「つまり、彼女は自力で、ダイアモンドに入る資格を持っていた」
沈黙。
これまで築いてきた
“ブロンズ”という前提が、
音を立てて崩れていく。
「だがな」
悠は、愉快そうに続ける。
「大人の事情だ。権力闘争、派閥、血のしがらみ」
彼の声には、
現実を嗤う色が混じっていた。
「彼女は、本来の居場所を奪われた。だから、ブロンズにいる」
それは、単なる身分差ではなかった。
“排除”の結果だった。
「まあ、詳しいことは、僕も全てを知っているわけじゃないがね」
悠の衝撃的な告白に、
ダイアモンドラウンジは、深い静寂に包まれた。
彼らは、これまで見下してきたブロンズの少女が、
実は自分たちと同じ。
いや、もしかしたら、
それ以上の血筋を持つ人間だったという事実に、
言葉を失っていた。
その会話は、
扉の外にいた遥香の耳にも、
はっきりと届いていた。
戻ってきたのは、
気まぐれだった。
ラウンジを去った後、
ふらふらと学内を歩いていた。
気まぐれに飽きて戻ってきた。
だが、
聞いてしまった。
優里の血筋。
奪われた立場。
そして、
自分が「汚い」と切り捨てた存在の、
本当の姿。
この事実だけは知らなかった。
遥香の表情は変わらない。
だが、氷のような平静の奥で、
確実に何かが揺れた。
(……私も)
(“ブロンズ”という言葉で、判断していた)
認めたくない事実が、
胸の奥に沈んでいく。
自分が見抜いた「助けてほしい」と叫ぶ弱さ。
悠が暴露した「本来の力」。
あの子は、
相反する二つの顔を持っていた。
篠原悠の衝撃的な告白。
ダイアモンドラウンジの重い静寂。
その静寂は長くは続かなかった。
悠が明かした宝来優里の真の素性。
宝来グループ本家の令嬢。
本来の跡取りであるという事実。
それは、
常識とカーストを揺さぶるものだった。
向井渉は、震える声で反論した。
「そんなはずは……!宝来グループの跡取りは、宝来悠斗だ!」
「彼こそが、プラチナ、いや、将来はダイアモンド入りを嘱望される存在のはずだろう!」
向井は、彼らの固定観念を代弁していた。
宝来グループの跡取り。
自分たちと同じダイアモンドやプラチナクラスに属する、
華やかな存在であるべきだった。
優里のような「ブロンズ」が、
その跡取りであるなど、
到底受け入れられない事実だった。
日向朔也も、冷静さを保ちつつも、
その言葉に同意した。
「篠原、お前の言うことはにわかに信じがたい。」
「宝来グループの跡取りは、長らく宝来悠斗であると公にされている。」
「そして、最も重要なことだ、篠原。」
「もし宝来悠斗が、本来の跡取りでないためにダイアモンドクラスに入れないのであれば、優里がその立場を引き継いだところで、ダイアモンドクラスに入れるはずがない。」
「学園の規則は、血筋だけでなく、実質的な影響力と権力を重視する」
玲司は、悠の暴露が、
必ずしも優里のダイアモンドクラス入りを
保証しないことを示唆していた。
彼らは、優里の素性がどうであれ、
彼女が「ブロンズ」であるという現状を
容易には受け入れようとしなかった。
悠は、彼らの反論を、面白そうに聞いていた。
「なるほど。君たちの言い分も理解できる」
悠は、ニヤリと笑った。
「君たちは、宝来グループの『表向き』しか見ていない」
ダイアモンドラウンジに残された
ダイアモンドメンバーの動揺を満足げに眺める。
悠は、何も言わずに立ち上がり、ラウンジを後にした。
彼の目的は果たされた。
彼らに、世界の脆さと、
優里という存在の特異性を植え付けたのだから。
廊下で、遥香と行き合う。
「何を考えているの?」
冷たい声。
悠は、楽しげに微笑む。
「何も。ただ、想像しているだけさ」
そして、致命的な一言を落とす。
「もし、何も持たないあの子が、君の庇護を得て、すべてを手に入れたら」
「この学園は、どうなると思う?」
笑い声が、残酷に響いた。
悠が何を企んでいるのか。
優里という存在が、
この学園に、自分自身に、
どのような影響を与えるのか。
悠は、遥香の横をすり抜け、歩き去っていった。
悠が去った後、
遥香は一人、立ち尽くす。
優里の顔が、脳裏に浮かぶ。
無垢な憧れ。
必死な笑顔。
助けを求める視線。
(……異物じゃない)
(最初から、世界の方が歪んでいただけ)
その認識が、遥香のなかで、
静かに根を下ろし始めていた。
女王は、まだ知らない。
この瞬間が、「探している自覚」へと、
確実につながっていることを。




