傍観者の真実
優里が、
ボロボロになって、
階段の隅で泣き崩れていた、その時。
そして、
疲労困憊のまま
ダイアモンドラウンジで眠りに落ちた、その時。
山下遥香は、
優里の後ろを、ずっと歩いていた。
気づかれない距離で。
声をかけることもなく。
姿を現すこともなく。
ただ、追っていた。
優里が、
上位クラスの生徒たちに囲まれる場面も。
防犯カメラの死角で、暴力を受ける姿も。
そして、誰にも見られない階段の隅で、
声を殺すことすらできずに泣き崩れる姿も。
遥香は、すべてを見ていた。
完璧な女王として、
感情を表に出すことは許されない。
だが、その冷たい瞳の奥では、
優里に向けられた、
整理のつかない感情が、
確かに渦巻いていた。
憐れみではない。
同情でもない。
もっと厄介で、
もっと認めがたいもの。
優里が口にした「憧れ」の言葉。
その裏に隠された、震えるほどの脆さ。
そして、誰にも向けられなかった
「助けてほしい」という心の叫び。
それらを、
遥香は誰よりも早く見抜いていた。
だからこそ、
その場に踏み込むことができなかった。
助けたい、という衝動は、
確かに胸をよぎった。
だが、
ダイアモンドクラスの女王として、
軽率な行動は許されない。
それ以上に、
優里自身が、
自分の力で立ち上がろうとしていることを、
遥香は感じ取っていた。
「手を差し伸べる」ことが、
この少女を壊す可能性もある。
だから、遥香は選んだ。
ただ、
静かに見守ることを。
それは冷酷さではなく、
自分が“救う側”に立つ資格などないという、
遥香自身の臆病さだった。
階段で泣く優里を見たとき、
遥香の胸に、かつての言葉が突き刺さる。
「汚い」
自分が吐き捨てたその言葉が、
今になって、重くのしかかってくる。
それでも、
その場で声をかけることはできなかった。
優里には、
自分で立ち上がる時間が必要だと、
そう信じるしかなかった。
やがて、
優里はふらつく足取りで、その場を離れた。
向かった先は、
ダイアモンドラウンジ。
優里は、カバンを取りに戻った。
誰もいない、静かな空間で、
優里は限界を迎え、眠りに落ちた。
その無防備な姿を前にして、
遥香は、ようやく動いた。
それは、
衝動的な優しさではない。
長い時間、
ただ見つめ続けてきた末の、
遥香なりの、静かな介入だった。
ブランケットを、
優里の小さな身体にかけた、その瞬間。
遥香の胸に、
これまで一度も名前を与えたことのない感情が、
確かに芽生えた。
強さと、弱さ。
愚直さと、純粋さ。
そして、自分に向けられた、
一切の打算を含まない「憧れ」。
それらすべてへの、
遥香なりの応答だったのかもしれない。
見捨ててはいない。
ただ、触れなかっただけ。
そう、言い訳するように。
その時、
背後で、かすかな物音がした。
ラウンジの扉が、ゆっくりと開く。
立っていたのは、篠原悠だった。
悠は、ゆっくりとラウンジのなかへ
足を踏み入れた。
足音は静かで、
眠りを妨げないように、
配慮しているかのようだった。
遥香の隣に立ち、眠る優里を見下ろした。
眠る優里。
その傍らに立つ遥香。
そして、かけられたブランケット。
悠は一瞬で、すべてを理解した。
「ずいぶんと、手厚い『消えて』だったな、女王様」
皮肉めいた声。
だが、そこには奇妙な肯定が混じっている。
遥香は答えなかった。
沈黙は、否定でも肯定でもない。
ただの事実だった。
悠は、満足そうに息を吐く。
「まあ、これで僕の『ゲーム』も、次の段階に進める」
遥香は、その言葉を否定しない。
自分が、
優里という“異物”に触れてしまったことを、
もう理解していたからだ。
それでも、
後悔はなかった。
完璧な世界が壊れていく感覚よりも、
その変化を見届けたいという感情が、
遥香のなかで勝っていた。
ラウンジを後にしようとする遥香に、
悠は再び言葉を投げかけた。
「女王様。君の『聖域』に、『異物』を忍ばせるのは、なかなか骨が折れるらしい」
一瞬足を止めたが、振り返ることはなかった。
彼女は、優里にかけたブランケットが、
まさにその「聖域」だったことを知っている。
そして「異物」はブロンズの少女。
優里のこと。
その「聖域」を、
自らの手で、
「異物」のブロンズの少女に分け与えたのだ。
遥香は、静かにラウンジの扉を開け、
夜の学園へと姿を消した。
残されたのは、眠る優里と、
すべてを見通したかのような笑みを浮かべる
悠だけだった。
女王とブロンズ、
そしてそれを操る観察者のゲーム。
ダイアモンドラウンジ。
遥香が去り、
眠りこける優里と、篠原悠だけが残された。
シャンデリアの光が、二人の姿を静かに照らす。
悠は、ソファーに横たわる優里の傍らに歩み寄った。
ボロボロになった制服。
顔に残る涙の跡。
そして遥香がかけたブランケット。
その全てを、悠は冷徹な視線で捉えていた。
「おい、ブロンズ」
悠の声は、静かなラウンジに響いた。
優里は、微かに身じろぎをしたが、
深い眠りのなかにいるようで、
すぐに目覚める気配はない。
もう一度。
今度は少しだけ声を大きくして呼びかけた。
「起きろ。いつまでそこで寝ているつもりだ」
優里は、ゆっくりと目を開けた。
まだ意識は朦朧としている。
目の前に悠の顔が見え、
自分がダイアモンドラウンジのソファーで
眠っていたことを思い出した。
身体中の痛みが、優里を現実に引き戻す。
身体にかけられたブランケットに気づき、
優里はハッとした。
(これは……遥香様の……)
優里の視線がブランケットに固定された。
遥香が自分に、
このブランケットをかけてくれたのだろうか。
優里の心に、微かな温かさが広がった。
優里がブランケットに気づいたことに、
悠は気づいているようだった。
「そのブランケットは、女王様からの『ご褒美』だ」
悠は、皮肉な笑みを浮かべた。
「君が、僕の『ゲーム』で、予想以上の働きを見せたからな」
優里は、悠の言葉に何も返せなかった。
遥香が自分にブランケットをかけてくれたという事実が、
優里の心を揺さぶっていた。
「さあ、もう遅い。家に送ってやる」
悠は、そう告げた。
優里は驚いて悠の顔を見た。
ダイアモンドである悠が、
自分を家まで送るというのか。
それは、悠との「偽装関係」が、
学園の外にまで及ぶことを意味していた。
優里は、まだ身体の痛みに耐えながらも、
ゆっくりとソファから身体を起こした。
遥香がかけたブランケットを、優里はそっと抱きしめた。
それは、優里にとって、
遥香の「消えて」という言葉の後に残された、
唯一の温もりだった。
悠に起こされ、ブランケットに気づき、
「ご褒美だ」と告げられ、
送られる帰路。
学園の外に出ても、悠は優里の傍らを離れない。
夜の帳が降りた学園周辺は静かで、
二人の足音だけがアスファルトに響く。
「ブランケット、ありがとう……ございました」
悠は、フッと鼻で笑った。
「礼を言う必要はない。あれは、女王様が君に与えた『ご褒美』だ」
悠は、遥香が優里に、
ブランケットをかけたことを知っている。
その行為が、遥香なりの「介入」であり、
「ご褒美」であると解釈しているのだ。
悠の送迎車が到着すると、
執事は何も言わずにドアを開ける。
車に乗り込むと
二人の間に、再び沈黙が訪れた。
優里は、悠がなぜ自分を家まで送ってくれるのか、
その真意を測りかねていた。
「女王様は、僕の『ゲーム』に乗ってきた」
悠が、突然口を開いた。
「君の『異物』としての存在が、彼女の『完璧』を揺らし始めた」
優里は、顔を上げた。
遥香が、自分のことを意識し始めている。
その事実に、優里の心は高鳴った。
「でも、遥香様は『消えて』って……」
「それが、女王様のやり方だ」
悠は、夜空を見上げながら言った。
「彼女は、感情を表に出すことを嫌う。」
「……だが、君の『聖域』侵入の試み、そして君が暴行を受けていたことも、全て見ていた」
優里は、悠の言葉に目を見開いた。
悠が、自分が階段で暴行を受けていたことまで知っている?
そして、遥香も?
「彼女は、君が弱さを見せても、それでも立ち上がるかどうか、試していたんだ」
悠の視線が、再び優里に向けられた。
「そして、君は、その試練を乗り越えた。だからこそ、あのブランケットは『ご褒美』なんだ」
悠の言葉は、優里の心を大きく揺さぶった。
遥香が、自分を試していた?
そして、その上で、ブランケットをかけてくれた?
優里の心に、
これまで感じたことのない、
複雑な感情が渦巻いた。
それは、遥香の冷徹さへの理解と、
それでも優里を気にかけていたことへの、微かな感謝だった。
優里のマンションが見えてきた。
車は何も言わずに到着する。
まるで最初から優里の家が
どこにあるのか知っていたかのようだった。
外観は、お金持ちの悠にとって
ごく普通の高級タワーマンションだ。
悠は、優里の隣で立ち止まった。
「ここか。なるほどな」
悠は、マンションを見上げて呟いた。
「ブロンズの宝来家ね」
優里は、悠の言葉にハッとした。
彼は、優里の家庭環境についても知っているのだろうか。
「君の父親は、宝来グループの高級焼肉店のオーナーだったか」
「ダイアモンドクラスの人間は、君の個人的な情報など、簡単に手に入れられる。それも、この学園のルールだ」
この学園のカースト制度の冷酷な現実を突きつけた。
自分は、すべてを見透かされている。
悠は、優里の全ての秘密を握っているかのようだった。
「これからの『ゲーム』は、さらに面白くなるぞ」
悠は、優里に背を向け、歩き出した。
「女王様は、君の『弱さ』も、『孤独』も、そして君の『本質』も、全て見抜いている。それでも君が、彼女の『聖域』を侵し続けられるか……」
悠の言葉は、闇の中に吸い込まれていった。
優里は、マンションのエントランスに立ち尽くしたまま、
悠の背中が見えなくなるまで見送った。
エレベーターに乗り込み、自室のドアを開ける。
静まり返った部屋は、いつもと変わらない。
父親の姿はない。
ただ一つ、
胸に残った事実だけが、重かった。
(遥香様は……見ていた)
(それでも、ブランケットを……)
優里は、その温もりを抱きしめながら、
静かに思う。
(……なら、やっぱり)
(私が、離れなきゃ)
それが、
遥香を守る唯一の方法だと、
信じ込むように。
翌朝。
ダイアモンドラウンジは、
いつもと変わらぬ完璧な静けさに包まれていた。
磨き上げられた窓。
柔らかな朝陽。
煌びやかな空間を照らしている。
その静けさのなかに、
篠原悠の楽しげな雰囲気が満ちていた。
彼はいつものソファにゆったりと身を預け、
手元のタブレットを操作しながら、
満足げな笑みを浮かべている。
優里の姿はまだない。
悠の隣に座る日向朔也は、
そんな悠の様子に眉をひそめた。
「篠原、お前は一体、何をそんなに楽しんでいる?」
朔也の声には、不快感が滲んでいた。
「あのブロンズとの戯れは、そろそろ潮時だろう。君の行動が、学園の秩序を乱している」
朔也の言葉に、
悠はタブレットから視線を上げることなく、
フッと笑った。
「いやいや、日向。これからが、この『ゲーム』の面白いところさ。」
「女王様も、ようやくこの『ゲーム』に参加し始めたしね」
悠の言葉に、朔也の表情が険しくなる。
遥香が関与していることを示唆する悠の言葉は、
朔也にとって不穏な響きがあった。
近くでコーヒーを飲んでいた鷹城玲司が、
冷静な声で口を開いた。
「篠原。君の行動は、単なる気まぐれにしては、あまりにも周りを巻き込みすぎている。」
「特に、あのブロンズの少女には、多大なリスクを負わせていることを忘れるな」
「おや、珍しいね、鷹城。君がそんなことを心配するとは」
悠は、愉快そうに玲司を見て言った。
「まあ、心配はいらないさ。彼女は、僕が選んだ『駒』だ。それなりの『覚悟』は持っているはずだよ」
優里はあくまで「ゲーム」の駒。
向井渉が、怒りを露わにする。
「篠原!いい加減にしろ!あのブロンズをこのラウンジに連れてくるのも、ふざけた真似をさせるのも、もうやめろ!」
向井は、感情的に声を荒げた。
「遥香様がお前のような奴に惑わされているなど、断じて許さん!」
向井の言葉に、悠は冷たい視線を向けた。
「ふむ。君のその感情的な反応も、僕の『ゲーム』にとっては面白い要素だ。女王様も、君のそういうところにはうんざりしているだろうがね」
悠は、ダイアモンドクラスの面々からの忠告を、
まるで意にも介さない。
むしろ、楽しげに笑っていた。
彼にとって、優里の存在は、
この退屈な学園に波乱を巻き起こす最高の触媒であり、
遥香の完璧な殻を打ち破るための鍵なのだ。
そして、その鍵が、
いよいよ本領を発揮する時が来ることを、
彼は確信していた。
「てめぇ!」
向井渉は、怒りのあまり拳を握りしめ、
篠原悠に詰め寄ろうとした。
彼の顔は紅潮し、
今にも悠に掴みかからんばかりの勢い。
その瞬間、ダイアモンドラウンジの重厚な扉が開き、
遥香と真佑が姿を現した。
遥香はいつものように完璧な佇まいで、
その美しい顔には一切の感情が読み取れない。
遥香の登場に、
ラウンジの張り詰めた空気が、
さらに一段階高まった。
向井は、悠への怒りを押し殺し、
慌てて遥香に視線を送った。
他のダイアモンドクラスのメンバーも、
それぞれの思惑を胸に、女王の動向を見守っている。
遥香は、ラウンジのなかを見渡した。
悠がソファに座っているのを確認する。
いつものように、
何も言わずにいつもの窓際の席へと向かおうとした。
しかし、その足を止めた。
彼女の視線は、悠の隣、
いつもなら優里がいるはずの場所に、
一瞬だけ向けられた。
その微かな視線の動きを、悠は見逃さなかった。
彼は、ニヤリと口角を上げ、
遥香の次の行動を待っている。
向井は、この機会を逃すまいと、遥香に訴えかけた。
「遥香!どうか、篠原の悪ふざけを止めて!あのようなブロンズが、このラウンジにいるなど、あってはならないことだ!」
向井の声は、必死だった。
彼は、優里と悠の関係が、
遥香に少しでも影響を与えることを恐れていた。
向井の言葉に、ゆっくりと振り返った。
その瞳は、相変わらず感情を宿していない。
どこか冷たい光を帯びているように見えた。
「渉。騒がしい」
たった一言。
向井は言葉を失い、顔を青ざめさせた。
遥香の静かな威圧感は、絶対的だった。
遥香は、それ以上何も言うことなく、
いつものソファへと歩き始めた。
ラウンジには、
遥香の静かな威圧感と、
それぞれの思惑が入り混じった、
重苦しい空気が漂っていた。
優里のいないダイアモンドラウンジで、
新たな波乱の予感が漂っていた。
一方。
宝来優里は、自身のクラスの教室にいた。
身体は、昨日の暴行の痛みでまだ軋んでいた。
それ以上に、
遥香がかけてくれたブランケットの温もりと、
悠の言葉が、優里の心を支配していた。
遥香が自分を見ていた。
自分の弱さを見抜き、
それでも、ブランケットをかけてくれた。
その事実は、
優里の心に微かな希望の光を灯していた。
教室はいつも通りの日常。
周囲の生徒たちは、
誰一人として優里に話しかけようとしない。
いじめっ子たちの嫌がらせは、
悠の隣にいる間は止まるが、
一人になればすぐに再開される。
授業中も。
休み時間も。
ただ俯いて耐えるしかなかった。
遥香に近づきたい。
その一心で、悠の「ゲーム」に乗った。
(遥香様は、私を、本当に見てくれているの……?)
遥香の冷たい拒絶の言葉。
その裏に見えた微かな温かさ。
その矛盾が、優里の心を揺さぶっていた。
遥香が自分の弱さを見抜いている。
悠の言葉を信じたい。
しかし、この現実の残酷さが、優里の心を蝕んでいく。
遥香への憧れ。
この学園での絶望的な孤独との間で、
激しく揺れ動いていた。
彼女の身体は痛みに悲鳴を上げ、
心は擦り切れそうになっていた。
教室にいる優里の声は、
誰にも届かないまま、ただ虚しく響いていた。




