女王の温もり
ダイアモンドラウンジ。
天井は、今日も変わらず高かった。
磨き上げられた床。
静まり返った空気。
誰の感情も入り込まない、完璧な空間。
なのに。
遥香は、書類に視線を落としたまま、
わずかに眉をひそめた。
文字が、頭に入ってこない。
思考の隙間に、何度も、
何度も割り込んでくる影があった。
ブロンズ。
少し伏せがちな瞳。
それでも、自分を見上げる時だけ浮かべる、
あの……
(やめて)
心のなかで遮断しても、意味がなかった。
遥香は気づいてしまっていた。
最近、優里の姿が見えない時間のほうが、
落ち着かない。
ラウンジに入ってくる足音がしないこと。
書類を差し出す気配がないこと。
遠慮がちに声をかけてこないこと。
それらすべてが、
不快で、苛立たしくて、
そして、胸の奥をざらつかせた。
(……距離を取った)
遥香は、そう結論づけた。
自分が冷たくしたから。
視線を逸らしたから。
言葉を与えなかったから。
優里は、察して引いた。
それは、遥香がこれまで無数に選んできた
「正しい結果」だったはずだ。
近づく者を遠ざける。
期待される前に、切り捨てる。
それが、自分を守る方法。
(なのに……)
胸が、重い。
遥香は、無意識のうちに紅茶に手を伸ばし、
口に運ぶ前に、止まった。
震えている。
自分の指が。
(……どうして)
突き放しただけ。
いつも通りのこと。
それなのに。
まるで、 大切なものを、
自分の手で壊してしまったような感覚があった。
……違う。
遥香は、はっきりと理解する。
これは、後悔ではない。
恐怖だ。
(あの子を……)
優里の、真っ直ぐすぎる視線。
怯えながらも逃げなかった姿。
拒絶されても、なお、寄り添おうとした意志。
それらが、一気に胸を締め付ける。
(あの子を、これ以上突き放したら……)
遥香の喉が、ひくりと鳴った。
(……私のほうが、壊れる)
それは、雷のような自覚だった。
優里が壊れるのではない。
……自分だ。
自分の心が。
あの子を拒絶し続ければ、
再び、あの冷え切った孤独へ戻る。
誰も信じず、 誰にも触れさせず、
完璧な檻のなかで、
何も感じないふりをして生きる。
(それを……私は、本当に望んでいる?)
答えは、もう出ていた。
遥香は、静かに目を閉じる。
優里の笑顔が浮かぶ。
自分の前でだけ見せた、
あの不器用で、まっすぐな笑顔。
怖かった。
裏切られるかもしれない。
期待して、また傷つくかもしれない。
それでも。
(……それでも、いなくなるほうが、怖い)
遥香は、初めて理解した。
自分が優里を遠ざけていた理由。
傷つくのが怖かったのではない。
依存してしまうのが、怖かったのだ。
あの子がいなければ、
もう、感情を持てない自分になることが。
遥香は、ゆっくりと立ち上がった。
ラウンジの扉を見つめる。
そこには、もう優里の姿はない。
それでも。
(……探さないと)
それは、命令でも義務でもない。
初めて生まれた、
紛れもない「感情」だった。
突き放せば、自分が壊れる。
だから。
遥香は、もう逃げないと決めた。
まるで、天と地が繋がった瞬間だった。
天にいた遥香は、
地にいる優里の光によって、
「自分は一人ではない」という事実を、
知らされてしまった。
優里もまた、気づいていた。
遥香の傍にいることで、
自分の胸の奥に巣食っていた孤独が、
少しずつ、癒されていくことを。
二人の孤独な少女は、
互いの存在によって、
初めて「孤独ではない世界」を知ってしまった。
それは秩序でも、支配でもない。
ただ、そこに相手が“いる”というだけの世界。
だからこそ、壊れやすい世界だった。
ダイアモンドラウンジでの日々は、
優里の精神をじりじりと削っていった。
その日、優里は重い足取りで廊下を歩いていた。
頭のなかは、失敗続きの行動と、
遥香に向けられた冷たい視線で埋め尽くされている。
(私が、余計なことをしたせいで……)
そのとき、
視界の端に、薄暗い階段が映った。
校舎の構造上、防犯カメラの死角になる場所。
生徒たちが、人目を避けたいときに使う、
暗黙の「見捨てられた空間」。
静かな階段に、自分の足音だけが響く。
その音が、やけに大きく感じられた。
次の瞬間。
背後から、複数の気配が迫った。
逃げる間もなかった。
シルバー、ゴールドクラスの生徒たち。
歪んだ笑み。
見下す視線。
「ブロンズのくせに、ダイアモンドに取り入ったんだって?」
「しかも、相手はダイアモンドの篠原?」
「調子に乗るなよ」
「ブロンズはブロンズらしく、底辺で這いつくばってろよ!」
その言葉だけで、
優里は悟ってしまった。
悠との「偽装関係」が、
かえって彼らの怒りを煽ってしまった。
抵抗は、ほとんど意味をなさなかった。
声を上げようとした瞬間、口を塞がれ、
拳と衝撃が、容赦なく降りかかる。
防犯カメラの死角。
誰も助けに来ない。
再び絶望の淵に突き落とされた。
この学園が、
どれほど簡単に人を切り捨てる場所かを、
身体で思い出していた。
痛みよりも先に、
心が折れる音がした。
遥香への憧れも、
悠との計算も、
すべてが、遠い幻のように感じられた。
(……ああ、私)
(最初から、ここにいていい人間じゃなかったんだ)
どれほどの時間が経ったのか、わからない。
彼らが去った後も、
優里はしばらく、立ち上がれなかった。
防犯カメラの死角にある階段で、
ボロボロになって倒れていた。
制服は汚れ、
身体中が痛み、
何より、胸の奥が空っぽだった。
全身を襲う痛み。
心の奥底から湧き上がる絶望感。
いじめの痛みは、
もう数えきれないほど経験してきた。
必死に強がってきたつもりだった。
限界だった。
優里は、その場で声を上げて泣いた。
これまでの我慢が全て吹き飛んだような、
とめどない涙。
嗚咽が喉の奥からこみ上げ、止まらない。
誰にも聞かれない場所で、
誰にも見られない場所で。
悔しさも、恐怖も、孤独も、
すべてが、涙になって溢れ出た。
「なんで……なんで、私だけが……」
もう、立ち上がる気力もない。
このまま、ここで消えてしまいたい。
偽りの強がりが消え去った。
ブロンズとしての無力さ。
いじめられ続ける現実への疲弊。
何よりも、
誰にも助けを求めることのできない深い孤独。
「……なんで……」
答えは、もうわかっていた。
……私が、そこにいたからだ。
もう強がることができなかった。
ただ、一人、冷たい階段の隅で、
声を上げて泣き続けるしかなかった。
心ゆくまで泣き腫らした優里は、
身体の痛みに耐えながらも、
どうにか立ち上がった。
泣き腫らした目を拭い、
優里はふらつく足で立ち上がった。
無意識のうちに自分のカバンがある場所へと
足が向いていた。
ダイアモンドラウンジだった。
重い扉を開けると、
ラウンジはひっそりと静まり返っていた。
煌びやかな空間には、
シャンデリアの光だけが優里を照らしている。
ダイアモンドクラスの生徒たちは、
帰ってしまったようだった。
誰もいない。
少しだけ安堵してしまう自分が、
情けなかった。
今の自分を、誰にも見られたくなかった。
ソファーに座り込み、
カバンを抱きしめた瞬間、
張り詰めていた糸が、完全に切れた。
限界だった。
身体の痛み、心の絶望、
数日にわたる緊張の日々。
それら全てが、一気に優里の身体を襲った。
抗うこともできず、
優里はそのまま深い眠りに落ちていった。
ボロボロになった制服のまま、
幼子のように丸くなった。
ソファーの端で眠るその姿は、
あまりにも無防備で、哀れだった。
しばらくして、
ラウンジの扉が、静かに開いた。
優里は深い眠りに落ちており、
それに気づかない。
静かに足音が近づいてくる。
現れたのは、女王である遥香だった。
何か忘れ物でもしたのか、
普段ならとっくに帰宅しているはずの時間に、
一人ラウンジに戻ってきた。
視界に入った光景に、遥香は足を止める。
部屋の中央で眠りこけている優里の姿に、
わずかに眉を寄せた。
ボロボロの制服。
乱れた髪。
泣き腫らした痕。
身体の痛みと心の疲弊の極限にいることを、
遥香は瞬時に見抜いた。
遥香の胸の奥で、
これまでにない感情が、確かに動いた。
同情でもない。
憐憫でもない。
しかし、遥香が優里の隠された
「助けてほしい」という心の叫びを察知した時と、
どこか似た、複雑な感情だった。
彼女は黙って、ブランケットを取る。
自分以外、触れさせなかったはずのもの。
音を立てずに近づき、
優里の身体に、そっとかけた。
ブランケットは、
優里の冷え切った身体を優しく包み込む。
遥香の指先。
一瞬だけ、
ブランケット越しに
優里の髪に触れたような気がした。
眠りのなかの優里が、
微かに身じろぎをした。
まるで、その温もりに縋るように。
遥香は、優里の寝顔をしばらく見つめていた。
指先が震えるのを感じた。
(……この子を、突き放したら)
言葉は、続かなかった。
ただ一つ、確かなことだけが、
胸の奥に沈んでいく。
壊れるのは、優里じゃない。
壊れるのは、私だ。
女王は、ブロンズの少女に、
初めて“取り返しのつかない温もり”を与えてしまった。
そしてその夜、眠る優里の胸には、
静かな決意が、確かに芽生えていた。
(……私が、離れよう)
(あの人を壊さないために)
それが、優里が選んだ、
最初で最後の答えだった。




