嫉妬と真実
あの日。
わざわざ筆箱を持ち。
わざわざ階段を降り。
わざわざ教室に行った。
しかも、下位ランクの。
いや、最下位の。
静かだ。
ダイアモンドラウンジは、
今日も完璧に整えられている。
シャンデリアの輝き、
磨き抜かれた床、
計算された配置のソファー。
誰一人として無駄な動きをせず、
無駄な声を出さない。
……完璧。
それが、この場所の価値であり、
私の居場所のはずだった。
なのに。
(……集中できない)
書類に視線を落としても、文字が頭に入ってこない。
同じ行を、もう三度もなぞっている。
苛立ちが、胸の奥に溜まっていく。
理由は分かっている。
ブロンズ。
あの、宝来優里。
(消えろって、言ったでしょう)
自分で言った言葉を、頭のなかで反芻する。
冷たく、感情を乗せず、
完璧な拒絶として突き放したはずの言葉。
それなのに。
(なんで……)
視界の端を、無意識に探している。
ラウンジの入り口。 廊下の向こう。
……いない。
それだけで、胸の奥がざわつく。
(……来なくていい)
来なくていい。
話しかけなくていい。
視界に入らなくていい。
排除したはずの存在。
なのに……
(どうして来ないの)
その考えが浮かんだ瞬間、はっとする。
(……違う)
これは苛立ちだ。
秩序を乱す存在が、
予定通り排除されないことへの不快感。
それだけ。
感情じゃない。
私は、感情に振り回されるような人間じゃない。
そう言い聞かせながら、
ふと視線が机の端に落ちた。
あの時の筆箱。
ブロンズフロアに溢れているような、
どこにでもある筆箱。
昨日、返したはずなのに。
投げるようにして、確かに優里の手元に戻した。
なのに、あの時のことを。
(どうして覚えてるの)
筆箱を受け取った瞬間の顔。
驚いたように目を見開いて、
それから……
(……嬉しそうだった)
その記憶が、胸を刺す。
(……むかつく)
何が。 誰が。
自分でも分からないまま、
苛立ちだけが増していく。
ブロンズの分際で。
触れてきて。
忘れ物をして。
勝手に傷ついて。
なのに。
(どうして、あんな顔をするの)
助けてほしい、とも言わない。
媚びるような態度も取らない。
ただ、 拒絶されても。
無視されても。
……消えない。
(普通なら、逃げるでしょう)
期待して、拒絶されて。 傷ついて。
それでも近づこうとするなんて、
愚かで、非効率で、理解不能だ。
……なのに。
(どうして、嫌いになれない)
その事実が、胸を締め付ける。
思い出すのは、旧校舎裏。
泥だらけで、震えていたブロンズ。
あの時も、 私は「汚い」と切り捨てた。
正しい判断だったはず。
誰かに期待して、裏切られるくらいなら。
最初から距離を取った方がいい。
私は、そうやって生きてきた。
完璧な才能。
完璧な顔。
それしか見られず、 それ以外を求められ、
勝手に期待され、 勝手に失望される。
だから、人と関わらない。
感情を向けない。
それが、一番安全だった。
なのに。
(……あのブロンズは)
才能も。 地位も。 何も持っていないくせに。
ただ、
……私を、見ていた。
外見でもなく。 女王としてでもなく。
孤独を。
(……見抜いた)
心臓が、どくりと鳴る。
(……まさか)
その考えを、必死で押し殺す。
違う。 勘違い。 あれは偶然。
そうでなければ、
私が……
(……気にしているみたいじゃない)
沈黙が、ラウンジに落ちる。
遥香は、ゆっくりと息を吐いた。
(苛立っているだけ)
秩序を乱された。
予定が狂った。
それだけ。
……そう、思いたい。
でも。
胸の奥に残る、この感覚。
ざわついて、 落ち着かなくて、
視界から消したはずなのに、 頭から離れない。
それは、
(……感情、なの?)
喉が、わずかに詰まる。
遥香は、そっと目を伏せた。
「私……」
言葉にしかけて、止める。
それ以上、考えてはいけない。
名前をつけてはいけない。
これは、まだ。
認めてはいけない段階だ。
それでも。
遥香の脳裏には、
ブロンズの少女の姿が、
確かに焼き付いていた。
排除したはずの存在が、
いつの間にか、
“無視できない存在”へと変わっていたことを
女王は、まだ知らないふりをしていた。
遥香は、ダイアモンドラウンジの窓際で、
静かに紅茶を口に運んでいた。
琥珀色の液体は、いつもと同じ温度、
同じ香りのはずなのに。
なぜか、今日は苦く感じる。
(……なぜ、悠が)
胸の奥に、
説明のつかない不快感が溜まっていく。
優里は、本来なら遥香の世界に
入ってくるはずのない存在だった。
ただ一度、気まぐれに視線を落としただけ。
ただ一度、目が合っただけ。
それだけで終わるはずだった。
それなのに。
何の断りもなく、
悠の「パートナー」という立場を得て、
優里は堂々と、このラウンジに立っている。
まるで、最初から、
そこにいる権利を持っていたかのように。
(私が“面白い”と思った存在なのに)
遥香は、紅茶のカップを置いた。
自分の完璧な世界に、
たったひとつだけ現れた予測不能な存在。
それを、悠に先に掴まれたような感覚。
「……取られた」
その言葉が、ふと脳裏をよぎり、
遥香は小さく眉をひそめた。
取られる?
何を?
優里は物ではない。
そもそも、遥香のものですらない。
……それなのに。
悠が優里の隣に立つたび、
二人が「パートナー」という関係で並ぶたび、
胸の奥が、ざわりと波立つ。
遥香は、その理由を考えないようにしていた。
やがて、悠がラウンジに戻ってくる。
「悠」
呼び止めた声は、
自分でも驚くほど、冷静ではなかった。
悠は足を止め、遥香を振り返る。
「なぜ……」
遥香は一度、言葉を切った。
こんな問いを投げること自体が、
らしくないと分かっている。
それでも、抑えきれなかった。
「私があの子に関心を持っていると知っていながら、どうして彼女を“パートナー”に選んだの?」
その声には、
いつもの女王の断定ではなく、
微かな不満と、わずかな棘が混じっていた。
悠は、少しも動揺しない。
「それが、君に会うための、唯一の方法だからだよ」
あまりにも即答だった。
「彼女は、ブロンズだ。本来、このラウンジに立ち入ることはできない。でも、パートナーバッジを身につけることで、特権を得た。」
淡々と語られる事実に、遥香は唇を噛む。
「彼女は、その特権を“君に会うため”に使っている」
「……」
「君は、眺めるだけだった。気づいていただろう?」
悠の視線が、鋭くなる。
「このままじゃ、君と彼女は一生交差しない。だから、僕が連れてきた。それだけだ」
……余計なことを。
そう言いかけて、遥香は言葉を飲み込んだ。
「彼女は、君の権力が欲しいわけじゃない。利用する気もない。ただ、君の“光”に惹かれている」
その言葉が、遥香の胸を打った。
純粋な憧憬。
利害も、計算もない。
ただ憧れだけで、ここに立っている。
そんな人間を、遥香はこれまで、
一度も信じたことがなかった。
「僕は、君の心を動かすことができるのは、彼女しかいないと確信している」
「……だったら」
遥香は、ぽつりと零した。
「私が、あの子のパートナーになればよかったんじゃない?」
「私が、パートナーになれば、あの子は直接会うことができたでしょ?」
自分で言っておきながら、心臓が跳ねる。
悠は一瞬だけ、目を細めた。
「君が?」
「……」
「ありえない」
その一言で、遥香は何も言えなくなった。
「君があの子をパートナーにするはずがない」
反論しようとしたが、
言葉が出てこなかった。
遥香自身が最もよく理解している事実だったからだ。
「君は、この学園の秩序を壊さない。自分の感情のために、システムを歪める人間じゃない」
「そして何よりも、君が背負う『ダイアモンド』の重みが、それを許さない。」
分かっている。
そんなこと、誰よりも。
「それに、君はラウンジから出ない。君がパートナーでも、彼女と向き合うことはなかった」
悠の言葉は、正しかった。
正しすぎて、胸が痛む。
「彼女の憧れは、“手の届かない君”だから成立している」
遥香は、何も言い返せなかった。
「僕は、君の閉ざされた心を開くために、最も効果的な方法を選んだに過ぎない」
悠は、そう締めくくると、
静かに遥香に背を向けた。
遥香は、一人残されたラウンジで、
悠の言葉の意味を静かに噛みしめていた。
夕焼けに染まる窓の外を、
遥香はぼんやりと見つめていた。
完璧な成績、完璧な振る舞い、完璧な権力。
すべてを手に入れたはずなのに、
遥香の心は常に満たされることがなかった。
誰にも本音を話せず、
孤独という見えない鎖に繋がれ、
彼女は日々を過ごしていた。
……なのに。
あの子が、悠の隣に立っている光景が、
頭から離れない。
彼女が認められ、
必要とされ、
誰かの隣にいる姿。
(……気に入らない)
理由は分からない。
分かりたくもない。
ただ、はっきりしているのはひとつだけ。
……あの子が、
悠の“もの”のように扱われるのが、
耐えられない。
それは支配欲でも、優越感でもない。
もっと、みっともなくて、幼い感情。
遥香は、紅茶の残りを一気に飲み干した。
(私は、何に苛立っているの)
答えは、まだ出ない。
けれど。
あの子が、
誰かの隣で笑っている姿を想像すると、
胸がざわつく。
その事実だけが、
遥香のなかで、確実に重みを増していった。
「……馬鹿らしい」
そう呟きながらも、
彼女の視線は、無意識のうちに、
悠と優里がいる方角を探していた。
(……私、あのブロンズが気になっている?)
まだ、その言葉に名前を与えるには、
遥香はあまりにも臆病だった。
一方、宝来グループ本社。
重厚な扉に隔てられた社長室で、
宝来悠斗は、凍りついたように立ち尽くしていた。
広すぎる部屋。
無駄な装飾のない、冷たい空間。
ここでは、言い訳は許されない。
父であり、宝来グループの
絶対的支配者である宝来和彦は、
悠斗を一瞥したあと、
机の上の一枚の書類を、指先で軽く叩いた。
音は小さい。
だが、銃声のように重く響いた。
それは、鳳凰学院における、
パートナーバッジの授与に関する報告書だった。
「……これは、どういうことだ」
低く、感情を抑えた声。
それが、和彦が本気で怒っている証だった。
書類には、
鳳凰学院におけるパートナーバッジ授与の報告。
そこに、はっきりと記された名前。
優里。
しかも。
《ダイアモンドメンバー・篠原悠のパートナー》
悠斗の喉が、ひくりと鳴った。
「私が、お前をプラチナの地位に置いた理由は分かっているな?」
和彦は、椅子にもたれ、淡々と続ける。
「学園の秩序を監視し、宝来グループに有益な情報を集めるためだ。」
「それなのに……なぜ、あの出来損ないが、ダイアモンドに関わっている?」
出来損ない。
その言葉に、悠斗は一瞬だけ、安堵した。
父は、まだ“優里”を、
ただの不要な存在として見ている。
宝来グループの利益に貢献しない存在。
「それは…その…」
悠斗は、言葉に詰まった。
優里が悠のパートナーになったことなど、
手出しができる問題ではなかった。
だが、次の言葉で、その安堵は打ち砕かれた。
「……まさか、お前が黙認したわけじゃないだろうな?」
視線が、突き刺さる。
「それは……」
声が、上手く出ない。
悠斗は、必死で頭を回転させた。
だが、言い訳はどれも脆弱だった。
「あの女は、宝来グループの面汚しだ」
和彦の言葉は、刃のように冷たい。
「血縁だけで、何の価値も示さず、何の利益ももたらさない。」
「そんな存在が、ダイアモンドに近づくこと自体が異常だ」
「むしろ、学園の秩序を乱し、我々の立場を危うくする可能性すらある。」
……血縁。
その一言が、悠斗の胸を締めつけた。
「お前は、この事態をどう収拾するつもりだ?」
それは問いではない。
命令だった。
「……善処、します」
絞り出した言葉に、
和彦は満足そうでも、不満そうでもなかった。
ただ一言。
「失望させるな」
それだけだった。
悠斗は、深く頭を下げたまま、
自分の背中を冷たい汗が伝うのを感じていた。
もし、役に立たないと判断されたら。
自分は、“次”ではなくなる。
その恐怖が、胸の奥で蠢いていた。
翌日。
優里が一人で人気のない廊下を歩いている。
突然、背後から強い力で腕を掴まれた。
「……っ!」
振り返るより早く、
怒鳴り声が叩きつけられる。
「おい、優里」
宝来悠斗だった。
その目は、いつもの見下しではない。
焦燥と怒り、恐怖が、
剥き出しになっている。
「お前……自分が何をしたか、分かっているのか」
優里は、言葉を失った。
何の話か、分からない。
彼女の思考は、遥香のことで占められていた。
「お前のせいで……!」
悠斗は、優里の腕をさらに強く掴む。
「お前が悠様のパートナーになったせいで、俺がどれだけ責められたと思ってる!」
吐き捨てるような叫び。
「俺は、完璧にやってきた!宝来の跡取りとして、失敗なんて一度も……!」
声が、わずかに震えた。
「それなのに、お前みたいな出来損ないのせいで……!」
……怖い。
優里は、ただそれだけを感じていた。
「分かるか?お前は、“いない方がいい存在”なんだ」
悠斗の言葉には、
自分自身に言い聞かせるような必死さが滲んでいた。
……もし、あいつが認められたら。
……もし、“血”が理由で選ばれるなら。
その不安を、
彼は優里に叩きつけるしかなかった。
「二度と俺の前に現れるな。お前は、この学園にいるべきじゃない」
腕を突き放し、悠斗は踵を返した。
その瞬間。
「宝来悠斗」
低く、静かな声が、背中を射抜いた。
振り返ると、
そこには篠原悠が立っていた。
冷たい眼差し。
一切の感情を映さない、支配者の目。
「悠様…これは、僕と、あの女の問題です」
悠斗は、必死に虚勢を張った。
だが。
「彼女は、僕のパートナーだ」
悠の声は、静かで、揺るがない。
「僕のパートナーに対する侮辱行為は、誰であろうと許さない」
ただの警告ではなかった。
悠斗は、本能的に悟った。
優里が“守られる側”に入ったという宣言だった。
「二度と、彼女に近づくな」
その一言で、完全に叩き潰された。
悠は、優里の方へ歩いていく。
その背中を見つめながら、
悠斗は拳を強く握りしめた。
……なぜだ。
……なぜ、あんな女が。
取るに足らないはずの存在に、
自分の地位も、誇りも、
少しずつ侵食されていく。
その現実を前に、
宝来悠斗は、初めて知った。
自分は、決して“選ばれる側”では
ないかもしれない、という恐怖を。




