ダイアモンドラウンジへの招待
ブロンズの生徒、宝来優里が、
篠原悠のパートナーとして迎え入れられた。
その事実は、瞬く間に鳳凰学院を駆け巡った。
それは噂ではなく、
噂という形を取った事件だった。
厳格に管理され、
絶対に崩れないと信じられてきた
学園の階級制度に生じた、明確な「例外」。
前代未聞であり、
だからこそ、誰もがその意味を正確に理解できず、
ただ本能的な嫌悪と混乱だけが広がっていった。
そしてその噂の渦中の人物である
優里の目の前。
誰もが憧れるこの学園の最上階。
ダイアモンドラウンジ。
その扉の前に立たされていた。
悠に連れられ、
ダイアモンドラウンジの扉をくぐった。
その豪華絢爛な空間に息を呑んだ。
空気が、違う。
温度でも湿度でもない。
そこに満ちているのは、
選ばれた者だけが共有する、
閉じた世界の密度だった。
シャンデリアの光は柔らかく、それでいて容赦なく、
ラウンジの中央に立つ優里を照らし出す。
磨き抜かれた床、重厚な調度品、
低く流れるクラシック音楽。
そのすべてが、
ここが“特別”であることを無言で主張していた。
全てが、優里の日常とはかけ離れた、
別世界の光景だった。
……場違いだ。
その感覚が、皮膚より先に心を刺した。
ダイアモンドクラスの生徒たちの視線が、
一斉にこちらへ向く。
好奇。猜疑。侮蔑。苛立ち。
それらが混ざり合い、
鋭い刃となって優里に突き刺さる。
そして、ソファの奥。
そこに座る山下遥香と、目が合った。
一瞬。
けれど、その一瞬で、
優里の心臓は跳ね上がった。
冷たい。
感情がない。
だが、確かに“見られている”。
「やあ、みんな」
場の空気を破ったのは、悠だった。
いつもと変わらない、軽い口調。
「驚いたかい? 僕の『パートナー』を紹介しよう」
優里の肩に自然に手を置く。
その仕草はあまりにも慣れていて、
あまりにも堂々としていた。
だからこそ、ラウンジの空気が一段階、重く沈んだ。
「……なにを、ふざけたことを」
最初に声を荒げたのは向井渉だった。
立ち上がり、優里を睨みつけるその目には、
怒りと焦燥が露骨に滲んでいる。
「消えろ。この場から、今すぐ、消えろ!」
「ブロンズ。ここがどこかわかっているのか? ダイアモンドラウンジだ。許可されているのは……」
「僕のパートナーは、例外だ」
悠が即座に遮る。
声は低く、穏やかで、反論の余地を与えない。
「規則は、僕が保証する」
向井の言葉が、喉で詰まった。
その様子を、真佑がふわりと立ち上がって眺める。
「もう、向井くん」
柔らかな笑顔のまま、言葉は鋭い。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。悠くんが連れてきた“彼女”なんだから」
彼女。
その一言が、場に小さな波紋を広げた。
真佑は、わざとらしくため息をつく。
からかうような口調で続けた。
「まったく、遥香に相手にされないからって、こじらせてるくせに」
向井の顔がみるみるうちに赤くなる。
彼の遥香への片想いは、
ダイアモンドクラスの間では周知の事実だった。
真佑は、その弱点を突き、
悠と優里の関係を「既成事実」として
強調しようとしているようだった。
朔也は静かに紅茶を置き、悠を見据える。
「篠原。忠告はしたはずだ。この行為が何を意味するか」
「もちろん理解してるさ」
悠は肩をすくめた。
「だからこそ、ここに連れてきた」
そのやり取りの間も、遥香は一切動かない。
視線だけが、優里を捉え続けている。
制服の乱れ。
肌に残る痣。
そして、この場に立っているという“異物感”。
すべてを、無言で、冷静に、測っている。
優里の存在そのものに、
まるで興味がないかのように見えた。
優里が傷だらけで、
破れた服のままぶつかってきた時と、
何ら変わらない、冷徹な無関心。
遥香の視線から、
再び心臓を鷲掴みにされるような、
強烈な孤独を感じた。
怖い。
喉がひくりと鳴るのを感じた。
それでも。
逃げなかった。
悠の囁きが、耳元に落ちる。
「行け。今だ」
「さあ、女王様に、君の『憧れ』を、直接見せてやる時だ」
悠の言葉に背中を押されるように、
遥香へと一歩足を踏み出した。
その瞬間、視線の圧がさらに増す。
ラウンジの中心に立つということは、
全員の評価の俎上に乗るということだった。
遥香の冷たい視線が、優里の全身を貫く。
優里の目に映るのは、
ただ一人、ソファに座る遥香だけだった。
優里は目を輝かせて、
まるで推しのアイドルに会ったかのように、
キラキラとしていた。
「…おい、悠の彼女だよな?」
「…そのはずだが?」
「踏み台にされているのか」
「ダイアモンドを踏み台にするなんて、ブロンズの分際で随分と勇気ある腹黒だな」
優里には向井たちの動揺の声など全く耳に入らない。
遥香は、優里の接近にも微動だにしない。
その完璧な無表情は、まるで精巧な人形のようだ。
「……あの」
声が震える。
それでも、止めなかった。
「山下、遥香様。私……宝来優里と申します」
沈黙。
完全な沈黙。
遥香は、答えない。
瞬きすら、しない。
「私、遥香様のことを……」
「遠くから見ていて……ずっと、寂しそうだと思っていました」
かつて、上から見ていた遥香と
目が合ったときに感じた、
心を閉ざしたであろう「孤独」を。
「完璧に見えても、遥香様は、どこか寂しそうで……」
「誰にも理解されない、深い孤独を抱えている。私には、そう見えます」
だが、遥香は変わらない。
「私は……その孤独を、理解したいです」
救いたい。
その言葉を口にした瞬間、
ラウンジの空気が張り詰めた。
悠は、じっと遥香を見ている。
向井は、怒りで顔を歪めている。
真佑は、息を止めたように見守っている。
遥香は、
優里の熱い告白を、
ただ沈黙して聞いていた。
彼女の表情は、微動だにしない。
瞳の奥に、
わずかな感情の揺らぎさえ見せることなく、
遥香は優里の言葉をただ受け止めていた。
その完璧な沈黙は、
優里の熱意を真っ向から受け止めているようにも、
その存在すら認識していないかのように、
冷徹にも感じられた。
ラウンジに響くのは、重い沈黙だけだった。
その時、篠原悠が、
優里の肩にそっと手を置いた。
「おいおい、ブロンズ。一方的な告白じゃあ、女王様も困るだろう?」
悠の声は、ラウンジの張り詰めた空気を打ち破った。
優里の隣に立つと、遥香へと視線を向けた。
その瞳は、冷徹な観察者のままだが、
どこか楽しげな光を宿している。
「僕の『彼女』は、君の孤独を救いたいとまで言っているんだ。少しは、反応してやったらどうだい?」
「 この学園の女王様が、まさかブロンズの真剣な想いに、何も感じないなんてことはないだろう?」
悠は、遥香を挑発するように、
「僕の彼女」という言葉を強調した。
遥香は全く反応しない。
その完璧な顔は、
瞬きひとつさえしない。
聞いているのかさえもわからない。
その時、遥香の隣に座っていた真佑が、
そっと遥香の耳元に顔を寄せた。
「遥香……聞こえてたでしょ? 優里ちゃん、本気だよ?」
親友として遥香の心を誰よりも理解する真佑の、
優しさと、促しが込められていた。
真佑は、優里の純粋な想いが、
遥香の心を動かすきっかけになることを願っている。
遥香の瞳が、再び優里へと向けられた。
ラウンジは再び沈黙に包まれる。
悠の介入と、真佑の囁き。
二人の行動が、遥香の心に、
これまでになかった微かな亀裂を生み出していた。
そして。
遥香は、ゆっくりと立ち上がった。
その動作ひとつで、空気が凍る。
優雅で、一切の迷いがない。
彼女は優里の横をすり抜け、扉へ向かう。
足音は静かで、絨毯に吸い込まれるようだ。
優里の心臓は、高鳴りを止められない。
遥香が何をするのか、
どんな言葉を口にするのか、
予想がつかなかった。
遥香は、ラウンジの重厚な扉の前まで進んだ。
扉のハンドルに手をかけ、開いた。
開かれた扉の向こうには、
ダイアモンドクラスの生徒専用の、
静かで厳かな廊下が広がっている。
遥香は、扉に手をかけたまま、
振り返り、視線だけを向ける。
その瞳は、感情を一切映さず、
まるで透明な氷のようだ。
「……私の前から、消えて」
冷たく。
無機質で。
完全な拒絶。
その言葉が、優里の胸を深く抉った。
優里という存在を、
自分の視界から、世界から、
完全に排除しようとする、
絶対的な拒絶の命令だった。
ラウンジにいる誰もが、
その言葉に息を呑んだ。
遥香は、優里の反応を待つこともなく、
開けた扉の向こうへと、静かに、
そして完璧な孤高のまま消えていった。
残された優里の心には、
遥香の「消えて」という言葉が、
深い絶望の淵へと突き落とすかのように、
響き渡っていた。
彼女の背後で閉まる重厚なラウンジの扉の音が、
優里の絶望をさらに深くする。
完璧な拒絶。
優里の身体は、
その場に縫い付けられたかのように動けない。
遥香への「憧れ」も、悠との「偽装関係」も、
全てが無意味だったかのように思われた。
「どうした、ブロンズ?」
悠の声が、優里の耳元で響いた。
「女王様から直々に『消えて』と言われた気分は、どうだい?」
優里の絶望をまるでゲームのスコアのように、
楽しんでいるかのようだった。
何も言葉が出なかった。
唇が震え、涙が込み上げてくる。
「デマを流しても、いじめでボロボロになっても、まだ『憧れてる』だの、『救いたい』だの言っていたくせに。」
「たった一言『消えて』と言われただけで、もう終わるのかい?」
悠の言葉は、優里の魂を揺さぶった。
優里の絶望を煽る一方で、
その心の奥底に眠る「憧れ」を、
もう一度試している。
優里は、遥香の冷たい瞳を思い出した。
あの完璧な無関心。
自分の心に確かに感じた「孤独」の存在。
悠に「量産型」と言われた悔しさ。
(ここで、終わってたまるか……!)
遥香が「消えて」と拒絶したのは、
優里が「量産型」で、
自分の孤独を理解できるはずがないと決めつけているからだ。
ならば、その思い込みを覆してやる。
「……終わらない」
絶望の淵から這い上がろうとする、
強い決意が宿っていた。
悠の目つきが、わずかに変わった。
口元の笑みが、少しだけ深くなる。
優里のその答えを待っていたかのようだった。
「ふうん。いい目だ。さすがに、まだ『量産型』ではなかったか」
悠はそう呟くと、優里の肩を、とん、と叩いた。
その視線は、再び遥香が消えた扉の方へと向けられている。
「面白いじゃないか。女王様が『消えろ』と言った相手が、それでも諦めずに、目の前に現れ続けたら。」
「一体、あの氷の女王の、どんな表情が見られるのか」
「女王が拒絶したなら、次は、女王が無視できない状況を作ればいい」
悠は、そのまま優里の肩を押し、
ラウンジの中央へと促した。
「さあ、ブロンズ」
「これは“始まり”だ」
優里を再びゲームの渦へと引き戻す。
遥香の拒絶は、優里にとっての試練であり、
悠にとっては、
新たな「ゲーム」の始まりを告げる合図なのだ。
悠との「偽装関係」を、
遥香への「憧れ」を貫くための
武器として使う覚悟を決めた。
ダイアモンドラウンジの豪華な空間で、
ブロンズの少女は、
女王の「完璧」を乱すための一歩を踏み出した。
その日から、
優里は悠の「パートナー」として、
ダイアモンドクラスの日常に、
小さな波紋を広げ始めることになる。




