閉ざされた心を開く鍵
優里は、教務室の扉の前で立ち尽くしていた。
手の中にある退学届は、
まるで彼女の未来を嘲笑うかのように、
無機質な白を放っている。
この紙に名前を書けば、すべてが終わる。
いじめも、屈辱も、
そして遥香への「憧れ」さえも。
けれど、その瞬間、
胸の奥から抑え込んできた記憶が一気に溢れ出した。
「汚い。この学園の品位が落ちる」
あの時の遥香の声。
ぶつかった拍子に、無意識に投げつけられた、
あまりにも残酷な一言。
そして、悠の冷酷な言葉が耳に響く。
「量産型だね」
「ガッカリ」
「女王に近づきたいんじゃなかったのかよ」。
優里は唇を強く噛みしめた。
あの一瞬、遥香の瞳の奥に確かに見えたものがある。
完璧な仮面の裏で、
助けを求めるように揺れた、深い孤独。
(このまま、終わってたまるか……!)
胸の奥でこれまで押し込められていた、
最後の炎が燃え上がった。
退学は逃げだ。
それは、この学園に屈した証であり、
遥香に手を伸ばす資格を、自ら放棄する行為だ。
優里は、退学届を強く握りしめた。
紙がくしゃりと音を立て、指の間で歪む。
次の瞬間、彼女はそれを迷いなく丸め、
近くのごみ箱へと投げ入れた。
それは、小さな反抗だった。
けれど、確かに自分の足で立つための、
最初の一歩だった。
痛みは消えない。
絶望も、まだそこにある。
それでも優里は決めた。
この場所で、逃げずに戦う。
遥香に近づくことを、
この歪んだカーストに抗うことを。
退学届を破棄した優里の心に、決意が宿る。
「……ほう」
背後から、低く、愉しげな声が落ちてきた。
「なかなか見所があるじゃないか」
振り返ると、そこに立っていたのは篠原悠だった。
いつの間に来たのか分からない。
だが、その視線は、
優里の行動すべてを見届けていたことを雄弁に物語っていた。
悠の唇には、薄い笑みが浮かんでいる。
それは賞賛とも、嘲弄とも取れる、危うい表情だった。
「君は、まだあの女王に『憧れている』のかい?」
優里は、悠の冷徹な視線に怯むことなく、
まっすぐに彼の目を見つめ返した。
「……はい」
優里の声は、震えながらも、
確かな決意を込めていた。
悠は、その優里の返答に、満足げに頷いた。
「なら、教えてやるよ」
「山下遥香に近づく、唯一の方法を」
悠はポケットから、一つのバッジを取り出した。
プラチナの地に、ダイアモンドが静かに輝く。
それは、ダイアモンドクラスの“パートナーバッジ”。
「女王がいるのは、ダイアモンドラウンジ。」
「ダイアモンドラウンジに入れるのは、選ばれた者だけだ。ダイアモンド本人か、そのパートナーだけ」
優里の視線は、否応なくそのバッジに吸い寄せられた。
手の届かない場所。
それが、遥香の世界だった。
悠は、バッジを指先で弄びながら、楽しげに言った。
「君に、ダイアモンドクラスの力を貸してやる。」
「僕が、君の『偽装彼氏』になってやるよ」
「……え?」
「正確には、偽装彼氏だ」
偽装彼氏。
言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。
ダイアモンドクラスの篠原悠が、
自分のようなブロンズの偽装彼氏になる?
それは、優里の想像をはるかに超える提案だった。
悠は、優里の驚愕する表情を満足げに眺めていた。
「これは慈善じゃない」
悠は淡々と告げる。
「これは、僕が退屈な日常に仕掛ける、最高のゲームだ。どうだい? その『憧れ』とやらを貫きたいのなら、僕の提案に乗るか?」
「君の“憧れ”が本物なら、僕の駒になる価値はある」
優里にとって、
絶望の淵から這い上がるための、
唯一の、そして最も危険な誘いだった。
「どうだい? このままずるずると退学するか、それとも、この退屈な学園に一石を投じてみるか。選択肢は、君が握っている」
悠の言葉は、優里が破り捨てた退学届の重みを、
改めて突きつけているようだった。
このまま諦めれば、自分は「量産型」として、
この学園から消えていく。
それは、優里にとって何よりも耐え難い屈辱だった。
遥香の瞳の奥に見た「孤独」。
救いたいという、あの強い衝動。
それが、優里をここまで支えてきた原動力だ。
もし、悠の力を借りれば、
遥香の世界に足を踏み入れることができるかもしれない。
手の届かない存在だった「女王」に、
もっと近づけるかもしれない。
優里は、悠の目をまっすぐに見た。
「……分かりました」
「あなたの、提案に乗ります」
悠は満足そうに笑った。
その瞳の奥に、危険なほどの期待が揺れていることを、
優里は見逃さなかった。
こうして、歪な契約が結ばれた。
優里がブロンズの生徒として、
孤独な日々を送り、退学届を手にした頃。
ダイアモンドラウンジでは、重い空気が流れていた。
悠は、朔也とダイアモンドラウンジの静かな一角で、
真剣な表情で向き合っていた。
「朔也。僕は、宝来優里を、パートナーにしたい」
悠の言葉に、朔也は即座に顔をしかめた。
「正気か。彼女はブロンズだ」
「ダイアモンドはおろか、プラチナにすら上がっていない」
朔也は、悠の提案が、学園の秩序、
そしてダイアモンドメンバーの
常識からかけ離れていることを指摘した。
「だからこそだ」
悠は一歩も引かない。
「遥香は、幼い頃から、承認欲求を隠した者たちに囲まれてきた。」
「その結果、彼女は心を閉ざし、このラウンジに閉じこもるようになった。」
「彼女の心を開くには、利害関係や打算のない、純粋な存在が必要だ」
「上も下も、結局は承認欲求に飲み込まれた。遥香はそれを見抜いて、心を閉ざした」
「彼女に必要なのは、地位でも才能でもない。利害のない、純粋な視線だ」
「それが、宝来優里だと言うのか?」
「このラウンジに、ダイアモンドメンバー以外が入る方法は、ただ一つ。パートナーバッジを身につけた者だけだ」
悠は、パートナーバッジが、
単なる形式的なものではなく、
遥香の閉ざされた心を開くための、
唯一の鍵であると確信していた。
「優里は、純粋に遥香に憧れている。」
「彼女の瞳には、打算も承認欲求もない。」
「そして、彼女の才能は、この学園の階級制度を軽々と超えていく。」
「彼女こそが、遥香の閉じた心を再び揺り動かし、我々の世界に新しい風を吹き込むことができる、唯一の存在だ」
朔也は、悠の言葉に言葉を失う。
彼の提案は、あまりにも大胆で、リスクが高すぎる。
しかし、悠の瞳の奥に宿る、強い信念と、
遥香への深い思いを感じ取った朔也は、
その提案を頭ごなしに否定することができなくなっていた。
悠の言う通り、このままでは遥香の心は開かない。
むしろ頑丈な鎖で蓋をするだけだ。
きっと、人と関わるたびにその鎖が重く、厳重になってしまう。
朔也は、悠の大胆な提案に、冷静さを保ちつつも、
内心の動揺を隠しきなかった。
彼は、悠の遥香への思いは理解しているものの、
その手段が、学園の秩序を根底から揺るがすものであることを危惧していた。
「悠、君の気持ちは理解できる。」
「遥香の閉ざされた心を開きたい、その思いは私も同じだ。」
「だが、そのために宝来優里を選ぶというのは、あまりにもリスキーではないか」
朔也は、冷静に反論を始めた。
「ブロンズの生徒なら、学園にごまんといる。」
「彼女以外にも、純粋な心を持った生徒は存在するだろう。」
「まして、遥香に憧れを抱く者なら、プラチナの階級にもいるかもしれない。なぜ、よりによって階級が一番低い、彼女なんだ?」
「君は、優里の才能が、階級を軽々と超えていくと言った。」
「それは、彼女が特別な存在である証拠かもしれない。」
「だが、それは同時に、我々の世界に、予測不能な混乱を招く可能性も秘めている。」
「遥香の心を開くという目的のために、そこまでのリスクを冒す必要があるのか?」
朔也は、悠の感情的な部分を理性で抑えようとしていた。
彼は、遥香の側近として、彼女の未来を守る責任がある。
悠の提案は、その責任を放棄するに等しい、
危険な賭けだと考えていた。
「もっと、確実な方法があるはずだ。ブロンズの生徒をパートナーに選ぶなど、前例がない。」
「それは、この学園の、そしてダイアモンドの秩序を乱すことになる。悠…感情的になっている場合ではない」
朔也の言葉は、悠の提案を完全に否定する。
彼の反論は、学園のシステムと、
ダイアモンドという巨大な権力の存在を背景に持つ、
重いものだった。
「すこし冷静になれ、カウンセラーだって遥香の話を…」
朔也の声には、焦りと責任感が滲んでいた。
「カウンセラーだって役に立たなかっただろ!このままでは遥香はずっとここに籠る」
「だからといって、俺たちはダイアモンドだ、私情を挟むわけには…」
「ダイアモンドである前に遥香をみろよ!!」
朔也は悠の大きな声に目を見開く。
沈黙。
そのやり取りを、扉の外で真佑が聞いていた。
真佑は、業務を終え、
ダイアモンドラウンジへ向かっていた。
扉に手をかけたその時、
なかから聞こえてくる、悠と朔也の真剣な声に、
彼女は思わず手を止めた。
「…ブロンズの生徒を、パートナーに…」
真佑は、驚きと混乱で、
扉を開けることができなかった。
悠が口にした「宝来優里」という名と、
彼らの会話の内容は、
真佑の知る学園の常識を覆すものだった。
彼女は、二人の会話が、
ただの雑談ではないことを悟る。
それは、学園の、そして遥香の未来に関わる、
重大な決断を巡る議論。
「遥香の閉ざされた心を開く…」
悠の言葉が、真佑の心に深く響いた。
遥香が心を閉ざしていること、
そしてそれが、
彼女がダイアモンドラウンジに閉じこもる理由であることを、
真佑は誰よりも知っていた。
朔也の反論も聞こえてくる。
「ブロンズの生徒をパートナーに選ぶのは、あまりにもリスキーだ」。
それは、真佑自身も抱くであろう、当然の疑問だった。
真佑は、静かに、慎重に、
二人の会話に耳を傾け続けた。
彼女は、この会話が、これからの学園の運命、
そして自分たちの関係性を、
大きく変えていくであろうことを予感していた。
彼女は、扉を開けずにその場を離れた。
ブロンズの生徒。 パートナー。
それが意味する波紋の大きさを、彼女は誰よりも理解していた。
真佑は静かに踵を返す。
この決断が、遥香の運命を、
そして学園そのものを変えていくことを、
まだ誰も、正確には予想できていなかった。
真佑は、この秘密を知ってしまったことで、
自分自身もまた、
この物語の渦に巻き込まれていくことを、確実に感じ取っていた。




