ブロンズの現実
物置小屋を後にした悠の心には、
優里の純粋な「憧れ」が、
この学園にどんな波紋を投げかけるのか、
密かな期待が宿っていた。
先ほどまでの退屈な気分はどこへやら、
彼の足取りは、まるで踊るように軽やかだった。
いつものように、
校舎の最上階にあるダイアモンドラウンジを目指す。
重厚なオーク材の扉を開け、
悠が一歩足を踏み入れる。
煌びやかなラウンジには、
既にダイアモンドクラスのメンバーが集結していた。
静寂を切り裂くように、
彼らの視線が一斉に悠に注がれる。
カースト制度の守護者たる日向朔也。
その眼差しは、以前にも増して鋭く、警戒の色を帯びていた。
「篠原、また君か。貴様は我々の忠告を理解しているのか?」
朔也の声は、静寂を裂く一線のように、
静かな怒りが含まれていた。
彼の隣、ソファに深く腰掛ける鷹城玲司が、
眼鏡の奥から知的な瞳で悠をじっと見つめている。
「忠告? ああ、ブロンズに近づくな、だったか。ご忠告どうも」
悠は大袈裟に肩をすくめ、皮肉な笑みを浮かべた。
朔也は眉間に深い皺を寄せ、苛立ちを隠そうともしない。
「お前の行動は、ダイアモンドクラスの品位を貶める。学園の秩序を乱す行為だ。これ以上、下賤な者と関わることは許されない」
朔也の言葉には、明確な警告というより、
支配者としての脅しが込められていた。
その視線は、悠の行動が
学園全体のバランスを崩しかねないという、
強い危惧を物語っている。
その瞬間、悠はふと、ラウンジの奥、
窓辺で静かに紅茶を飲んでいる遥香の姿に視線を向けた。
彼女は相変わらず無関心な表情を浮かべている。
悠はニヤリと笑うと、わざとらしく、
隅々まではっきりと聞こえる声で言った。
「そう厳しく言うなよ、朔也。退屈な学園にも、たまには面白いものがある。例えば、ブロンズのなかに、『女王様』に憧れている者がいる、なんてな」
……その瞬間、ラウンジの時間が止まった。
朔也の表情は、驚愕と怒りで激しく歪む。
遥香に片想いする向井渉は、
血の気が引くのを感じた。
信じられないといった表情。
悠を睨みつける彼の顔には、
嫉妬と動揺が隠しようもなく見て取れる。
「……何を、言っている」
朔也が地を這うような低い声で尋ねた。
「いや、健気なブロンズがいてね。あの女王様の瞳の奥に、孤独を見抜いた、なんて、なかなか面白いことを言うんだ」
悠の視線が、遥香へと向けられた。
遥香は、これまで通りの無表情を保っていた。
その指先が、薄い磁器のカップの縁を
わずかに強く握りしめたように見えた。
彼女の完璧な仮面の下で、
確かに何かが微かに揺らいだのかもしれない。
「まさか……」
向井渉が、呼吸を忘れたかのように、震える声で呟いた。
彼の視線は、悠から遥香へ、
そしてラウンジの窓の外へと彷徨う。
悠は、彼らの動揺を満足げに眺めていた。
これは単なる気まぐれではない。
彼の行動は、この学園の絶対的な秩序に、
そして「女王」の完璧な世界に、
明確に一石を投じるための、
計算された一手だったのだ。
ダイアモンドラウンジに重い沈黙が満ちた。
完璧な均衡を保っていた
ダイアモンドクラスの空気を、明確に揺るがした。
向井渉の顔は蒼白から土気色へと変わり、
朔也の眉間の皺はさらに深く、怒りの刻印となる。
遥香だけが、未だ感情を読み取らせない表情のまま、
静かに紅茶を口元に運んでいた。
悠は、彼らの反応を満足げに眺めていた。
まるで、自ら緻密に仕掛けた実験の結果を観察するかのように。
「だから、デマを流してみたんだ。女王様は向井渉と付き合ってるってね」
氷の刃が鋭利なガラスを砕くように、
ラウンジの空気を切り裂いた。
向井渉は、ゴクリと息を呑み、
悠を指差して言葉を失った。
彼の顔は、怒りと屈辱、
途方もない絶望で、みるみるうちに赤く染まっていく。
「なっ……篠原! 貴様、一体何を……!」
朔也が怒りを露わに椅子を蹴るように立ち上がった。
鷹城玲司の鋭い視線がレーザーのように悠を射抜く。
「日向、落ち着け。これは興味深いじゃないか」
玲司が静かに朔也を制した。
「篠原、それは一体どういうことだ?」
「あのブロンズは、女王様の『孤独』を見抜いたなんて、大それたことを言い張ってね。しかも、僕が一番屈辱的なデマを流しても、まだ諦めないんだ」
悠の視線は、再び遥香に向けられた。
「面白いだろう? このカーストの理不尽さを、ただ純粋な『憧れ』で突き破ろうとするブロンズ。彼女が僕のデマを聞いてどう反応するか、ちょっと試してみたかったのさ」
彼は肩をすくめ、嘲るような笑みを浮かべた。
その瞳の奥には、
この閉塞した学園という檻に対する、
彼なりの挑戦的な光が宿っている。
「そのデマを流したのは、その彼女の『憧れ』が本物かどうかを試すためだった、とでも言うのか?」
朔也が感情を抑え込むように低い声で問い詰めた。
「まあ、そんなところかな。結果は上々だったけどね」
「どうやら、女王様はとんでもない拾い物をしたようだよ」
遥香は、ようやく顔を上げた。
彼女の冷たい視線が、悠を、そして悠の言葉の先にある、
まだ見ぬ優里の存在を見定めるかのように、
ラウンジの窓の外へと向けられた。
その瞳の奥に、本当にほんの一瞬、
これまで誰も見たことのない微かな動揺がよぎった。
悠の仕掛けた波紋は、ダイアモンドクラス、
特に遥香の完璧な世界に、
取り返しのつかない亀裂を生み出し始めていた。
悠がラウンジでデマの真意を明かし、
ダイアモンドクラスに確かな波紋を広げた後のこと。
彼はいつものように
気まぐれに校舎の廊下を歩いていた。
目的もなく、ただ退屈を紛らわせるように
窓の外を眺めていると、
前方から、澱みのない明るい声が聞こえてきた。
「あら、悠くんじゃない!こんなところで油売って、今日は珍しいわね」
現れたのは、ダイアモンドクラスの一員であり、
山下遥香の親友でもある真佑だった。
彼女は紺色の制服に身を包み、
完璧な笑顔を浮かべている。
その瞳は常にきらきらと輝いている。
カースト下位の生徒にも分け隔てなく接すると言われるだけあって、
周囲の生徒たちからも慕われているのが見て取れる。
悠は軽く片手を上げた。
「真佑か。君も暇してるのかい?」
真佑は笑って悠の隣に並び立つ。
社交的な笑顔のまま、少しだけ声を潜めた。
「それがね、ちょっと気になることがあって。悠くん、最近あのブロンズの子に近づいてるって噂だけど……ねえ、本当?」
悠は内心でわずかに眉を上げた。
やはり、彼女は情報が早い。
悠が優里と接触していることだけでなく、
それが既に学園内で
「噂」になっていることまで掴んでいる。
彼女の並外れた社交性と情報収集能力の高さがうかがえた。
「ブロンズ?ああ、あの宝来のことかい?」
悠は表情を変えずにとぼけた。
「そう、優里ちゃんよ。最近、妙に目を離せないっていうか……なんだか気になる存在になっちゃって」
「それに、悠くんが特定の生徒に興味を持つなんて、本当に珍しいから。一体何かあったの?」
まるで彼の心の奥底を
見通しているかのようにまっすぐ悠を見つめていた。
彼女は単なる世間話ではなく、
優里に何かカーストを超えた
「特別なもの」を感じ取っているようだった。
悠は口の端を吊り上げた。
「さあね。ただの暇つぶしだよ。この退屈な学園で、少しばかり面白いものを見つけただけさ」
そうは言ったものの、悠の脳裏には、
物置小屋で純粋な「憧れ」を語った優里の姿が蘇っていた。
あのブロンズの少女が、
この学園にどんな波紋を起こすのか。
真佑もまた、それに気づき始めている。
悠は、この状況をさらに面白がっていた。
「ふぅん……」
真佑は意味ありげに微笑んだ。
「ま、私も、あの子にはちょっと興味があるのよね。なんだか、私からも目が離せなくって」
まるで悠の思考を正確に読み取ったかのようだった。
彼女は何かを知っている。
あるいは、その勘が感じ取っている。
悠は、真佑が単なる情報屋ではなく、
遥香の親友として、
あるいは天性の勘を持つ人として、
優里の持つ特別な「何か」に気づき始めていることを悟った。
真佑の心には、
優里というブロンズの生徒への確固たる興味が残された。
そして、悠は、彼が放った小さな石が、
この学園にさらなる波紋を
広げ始めていることを確信したのだった。
一方、優里はブロンズとして、
影のような孤独な学園生活を送っていた。
昼休み。
誰にも見つからない中庭の片隅。
日陰のベンチで、優里が一人で本を読んでいた。
その時、突然、影が落ちた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、篠原悠。
「なぜ、君はまだここにいる?」
悠の突然の、そして核心を突く問いかけに、
優里は驚いて顔を上げた。
その手が、思わず本のページを強く握りしめる。
何を言えばいいのか分からず、
ただ呼吸をするように黙っているだけ。
悠は、そんな優里に構うことなく、
感情の読めない、冷徹な目で彼女を見つめる。
「ブロンズの生徒は、毎年、必ず学園を去っていく。理由は様々だが、三年間のうちに生き残りが少ないのは事実だ。この学園は、弱さや優しさを許さない。それが、この学園のルールだ」
視界が揺らぐ。
彼女は、自分もいつか、
この学園を去る日が来るのではないかという、
逃れられない漠然とした恐怖に襲われた。
「君は、その現実にどう向き合うつもりだ?このまま、ただ嵐が過ぎ去るのを耐え続けるのか?それとも、変わろうとするのか?」
優里にとって、
もはや逃げ場のない残酷な現実を突きつけるものだった。
悠の問いは、優里の心の最も深い部分を叩いた。
優里は、このままではいけない。
変わらなければ、生き残れない。
そして、憧れの存在に近づくこともできない。
そう、覚悟と共に強く心に刻んだ。
一方、真佑の日常は、外見の華やかさとは裏腹に、
どこか冷たく空虚なものだった。
朝、彼女は自慢のスタイルと美貌を最大限に活かすため、
鏡の前で入念にメイクとファッションを整えていた。
それは、一種の儀式だった。
女王様の隣に並ぶものとしてふさわしくあるように。
ダイアモンドメンバーとしての絶対的な責任感と、
学園のファッションリーダーとしてのプライドが、
彼女を完璧な仮面の下に作り上げていた。
ダイアモンドラウンジでは、
いつもの定位置である遥香の隣に座る。
彼女の苦悩を察しながらも、
真佑は何も口出しすることができなかった。
彼女は、遥香が背負う重苦しい重圧と、
自身が抱える孤独を重ね合わせ、
ただ静かに寄り添うことしかできない。
それは、互いの孤独を慰め合う、沈黙の友情だった。
彼女にとって、この学園は、
美しさやステータスを競い合う冷酷な舞台であり、
真の友情や心のつながりを見つけることは許されない場所だった。
多くの生徒が彼女の美貌に憧れ、
近寄ってきたが、
誰もその輝きの向こうにある
彼女の本当の心に触れることはなかった。
そんな日常のなかで、真佑は、
ふとした瞬間に自分自身が何のために美しくあり、
何のためにこの場所にいるのか、
その意味を自問自答を繰り返していた。
彼女の完璧な笑顔は、
いつもわずかな疲労を滲ませていた。
そんなとき、優里という存在を探していた真佑に、
運命的な出会いは、思いがけない形で訪れた。
優里は、いじめから逃れるように、
人気のない旧校舎の裏手でのんびりしていた。
いつものように、
誰にも気づかれることなく過ごせる何気ない時間だ。
ふと、遠くで生徒たちのざわめきが聞こえ、
嫌な予感がした。
慌てて身体を小さくし、息を潜めた。
その時、「ガシャン!」という大きな音と共に、
近くの植え込みから何かが飛び出した。
優里が恐る恐る視線を向けると、
無残にも中身をぶちまけたトートバッグが転がっている。
そして、慌てた様子の宮瀬真佑が、
散らばった化粧ポーチや手帳を拾い集めていた。
何かにつまずいて転んでしまったらしい。
「あーあ、最悪……」
真佑は困ったように眉を下げた。
周囲の生徒たちは、ちらりと真佑を見てはいた。
ダイアモンドクラスの彼女に
直接関わろうとする者はいなかった。
皆、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。
優里の身体は反射的に動いていた。
いじめられている自分と重なったのかもしれない。
「あの……お手伝い、します」
真佑の元へと駆け寄った。
地面に散らばったアイテムを拾い始める。
真佑は、突然のことに目を丸くしたが、
すぐに優里の顔を見て、ふわりと微笑んだ。
(……この子があの”ブロンズ”)
「え、あ、ありがとう!助かるわ」
その笑顔は、カーストの上下関係を全く感じさせない、
純粋な優しさに満ちていた。
優里が手伝い終えると、
真佑は改めて優里の顔を見た。
「君、ブロンズの子だよね?いつも一人でいるのを見かけるから、気になってたんだ」
胸が締め付けられるような思いがした。
この学園で、こんな自分に、
こんなにも親しげに話しかけてくれる
上位カーストの生徒は、真佑だけだ。
「あの……ありがとうございます。私、宝来優里です」
「優里ちゃんか!私は宮瀬真佑。よろしくね」
真佑は優里の手を握り、にこやかに微笑んだ。
その手の温かさに、優里は涙が出そうになった。
手の温かさが、いじめで冷え切った優里の心を、
じんわりと溶かしていくようだった。
優里との出会いから数日後。
真佑はいつものように、
ダイアモンドラウンジで遥香と過ごしていた。
豪華な空間には、
他に数人のダイアモンドクラスの生徒。
遥香と真佑はいつもの定位置である窓際のソファに座り、
それぞれ手元の資料に目を通していた。
遙香は完璧な姿勢で、一切の隙を見せない。
「ねえ、遥香」
真佑が不意に口を開いた。
遥香は資料から顔を上げず、
視線だけを真佑に向けた。
「あのね、私、最近ちょっと変わった子と知り合ったんだ」
「宝来優里っていう子、知ってる? ブロンズクラスの子なんだけど」
遥香の瞳に、ほんの一瞬、微かな動揺が走った。
しかし、それはすぐに消え去り、
再び氷のような無関心さが戻る。
「……知らない」
「そっか。まあ、そうだよね」
真佑は苦笑いした。
「でもね、あの子、すごく純粋でまっすぐな子なの。そしてね、遥香のこと……すごく憧れてるみたい」
真佑は「憧れてる」という言葉を選んだが、
その表情には優里の真剣な想いに対する、
深い共感が滲んでいた。
遥香は、真佑の言葉にぴくりとも反応しない。
まるで空気のように、
その場に存在しないものとして扱っているかのようだ。
真佑は構わず続けた。
「あの子、遥香の瞳の奥に、誰にも見せない孤独があるって言ってたよ」
その言葉が、遥香の完璧な無表情に、
わずかな亀裂を生んだ。
彼女の手が、
無意識のうちに膝の上に置かれた資料の端を、
ぎゅっと握りしめた。
真佑は、遥香のその微かな変化を見逃さなかった。
遥香の視線が初めて真佑にしっかりと向けられた。
その瞳には、隠しきれない驚きと、
かすかな怒りが浮かんでいた。
「……真佑」
遥香の声には、普段の冷徹さとは違う、
わずかな苛立ちが混じっていた。
「何を考えているの?」
「だって、遥香、いつも一人でいるんだもん。誰にも頼らず、全部一人で抱え込んで。」
「私、遥香にはもっと、誰かと分かち合える優しさに触れてほしいって思うんだ」
真佑は、遥香の目をまっすぐ見つめて言った。
親友としての遥香への深い愛情と、
彼女の孤独を案じる気持ちが込められていた。
遥香は、真佑の言葉に何も返さなかった。
しかし、彼女の視線は、ラウンジの窓の外、
ブロンズやシルバーの生徒たちが蠢く下の校舎へと向けられた。
自分の知らないところで、
見知らぬブロンズの生徒が、
自分の「孤独」を見抜いた。
完璧に管理された遥香の世界に、
予期せぬ小さな波紋が、確実に広がり始めていた。




