魔王様の側近、襲来する
定食屋メルヴィでは、今、小鉢のバリエーションについて真剣に考えています。
というのも、うちの定食屋は基本的に「ご飯・味噌汁・メイン・小鉢・漬物」のセットで提供しているのですが、この小鉢が問題なのです。
いつも決まって「ひじきの煮物」「きんぴらごぼう」「冷や奴」の三択になってしまうから。
さすがに飽きませんか?
いや、私が食べるわけではないのですが、いつも来てくださるお客様のためにも、少しバリエーションを増やすべきではないかと思ったのです。
たとえば、「ナスの揚げ浸し」とか「ほうれん草の胡麻和え」とか、もう少し変化を持たせてもいいのではないでしょうか?
うん、良いアイディア!
というわけで、試作品を作ることにしました。
私は厨房に入り、まずはナスの揚げ浸しから挑戦しようと包丁を手に取ります。
ナスのヘタを落とし、半分に切り、斜めに隠し包丁を入れて……。
ふと、視界の端に違和感がよぎります。
窓。
窓に、何かがいる?
いや、正確には 何かが貼り付いている。
ヤモリでしょうか。
この店も古いし、ヤモリの一匹や二匹、いてもおかしくないですね。
そう思いながら、私は何気なく視線を上げました。
人間だった。
「ぎゃああああああああ!!!!!!」
小鉢の試作どころではありません。
私は、全身が総毛立つほどの悲鳴を上げました。
窓の向こうに見えたのは、逆さまになった黒いスーツ姿の男性。
ぴったり撫でつけられた黒髪のオールバックに、真っ黒な瞳が私の一挙一動を見逃さないように光っています。
背中には蝙蝠のような黒い羽が広がっており、黒いスーツも一見普通の執事服なのに、よく見ると布というより艶のある生き物の皮みたいでした。
というか、どうしたらこんな風に窓に貼り付くものなのですか!?
重力とは。
物理法則とは。
何もかもを無視した不気味な姿に、私はただ震えます。
「…ふん、ようやく気付いたか」
話し始めた。
妙な男が窓に貼り付いたまま、話し始めました。
「何ですかあなたは!!!!」
叫びながら包丁を持ち直します。
私は料理人です。戦闘力はゼロですが、包丁くらいは振るえます!
「私は、魔王バルゼオン様の側近、グラフ」
まさかの魔族。まさかの魔王関係者。
「側近……? ということは、魔王様の知り合い……?」
「それどころか、長年お仕えしてきた忠臣だ」
なるほど、それはよくわかりました。
でも、なぜ窓に貼り付いているのですか???
「バルゼオン様が、こんな場末の定食屋に通われるなど、あってはならない!」
え、なに、その理由……。
「私はこの事態を憂慮している。魔王様が、こんな粗末な定食屋で食事を取るなど、魔族の誇りに傷がつく」
魔族の誇りって、そんなにグルメ基準だったのですか!?
「したがって、これ以上バルゼオン様をこの店に通わせるのは、やめていただこう」
いや、無理では……?
定食屋の味を知ってしまった魔王様が、ここに来なくなるとは思えません。
「……なぜ、あなたは窓に貼り付いているのですか?」
「監視のためだ」
それにしたって、方法を考えてください!!!!
どんな登場方法かと思えば、まさかの窓にヤモリスタイル。
潜伏技術の無駄遣いでは????
「さて、メルヴィとか言ったな」
はい。仰る通り、私の名前です。
ですが、窓に貼り付いたまま名前を呼ばれる恐怖を知っていますか?
「今後、バルゼオン様をこの店に入れることは許さん。お前がそれを拒むというなら――」
「――なら?」
私は震える手で包丁を構えました。
いや、待ってください、これ料理のための包丁です。戦闘用ではありません。
「お前に相応しい職場を用意してやろう。万魔殿の厨房で、バルゼオン様専属の料理人として働くがいい」
異世界転職が始まろうとしている!!!!
いや、待ってください。
今さら万魔殿で専属料理人とか言われましても、私にはこの定食屋があるのです。
普通に生活していたら、ある日突然魔王様の専属料理人になっていた、とか困ります。
「お断りします!!!!」
即答。
命の危険を感じるよりも、定食屋を守る気持ちが勝ちました。
「……そうか」
グラフは、じっとこちらを見つめます。
いや、だから窓から見つめるのはやめてほしい。
「ならば、私の力で強制連行するしかないな」
ちょっと待ってください!!!!!!!
まだナスの揚げ浸しも試作していないのです!!!!
小鉢を考えていただけなのに、なぜこんな事態に!?
定食屋メルヴィは、今、最大の危機を迎えました。