魔王様に塩サバ定食を、そして側近は窓に指紋を残す
本当に、今日という日はどうしてこうも落ち着かないのでしょうか。
小鉢のバリエーションを増やそうと考えたら、窓に魔王様の側近が貼り付いていた――もう何を言っているのかわかりませんが、事実なのです。
人生で初めて「ヤモリみたいに窓に貼り付く男」を目撃した衝撃は、簡単に消化できるものではありません。
ですが、そんな大事件の最中にもかかわらず――
呑気に魔王様がやってきました。
「メルヴィ、来たぞ!」
ゴンッ!
「あいたっ……」
また角をぶつけました!!!!
何回目ですか!?
何度ここで痛い目を見たら、角のサイズを考えて入店できるようになるのですか!?
ですが、魔王様は気にした様子もなく、入り口で最敬礼している黒スーツの男に目を向けました。
グラフ。
魔王様の側近であり、万魔殿で長年仕えているという忠臣。
そして、先程まで窓に貼り付いていた不審者。
「……何をしている」
「魔王様、こんな場末の店など止めましょう」
開口一番、ひどい言葉が飛んできましたね!?
「何を言うか。この雰囲気が良いのだ」
魔王様が断言しました。
え、そういう問題ではなくないですか?
「こんな小汚い場末の定食屋に通われるなど、魔王としての威厳に関わります!」
……ちょっと待ってください。
場末で悪かったな!!!!
「ちょっと!! そんなこと言われても困りますよ!! 近くにラストダンジョンがあるせいですからね!!」
叫びながら、私は厨房へ向かいました。
お客様を怒鳴るのは本来ならばご法度ですが、相手が魔王様とその側近ならば許される気がします。
こうなったら、全力で塩サバを焼きます。
包丁で塩サバに浅く切れ込みを入れ、グリルに並べて焼き網の上でじっくりと火を通すと、皮がパリッと焼けていきます。
焼けた塩サバの香ばしい匂いが、ふわりと店内に広がります。
「お待たせしました。塩サバ定食です」
私は、カウンター越しに勢いよく定食を置きました。
ご飯、味噌汁、小鉢、漬物、そして主役の塩サバ。
完璧な定食です。
「ふむ……良い香りだ」
魔王様は満足げに塩サバを箸でつまみ、ひと口。
「……うまい!!!」
はい、知っています。
もう何度も聞いたので、驚きませんよ。
「皮がぱりりと割れて、香ばしさが鼻へ抜ける。この焦げ目、狙ってつけたものだな。美しい。脂は落ちすぎておらず、身がふっくらと保たれている。箸が止まらない。なのに、ひと口ごとに余韻が残る。……こういうものを、沁みると言うのだろう」
しかし、問題は魔王様ではありません。
グラフです。
何やら、渋々といった表情で、塩サバ定食をつまんでいます。
明らかに「魔王様のためだから仕方なく食べてやる」という空気を出しています。
なら帰ればいいのでは?
と、言いたいところですが、一応は食べているので何も言いませんでした。
食べ終わると、魔王様は懐から小袋を取り出し、カウンターに硬貨を並べました。
チャリン……
いつものように、きっちりと代金を払う魔王様。
「今日も良い食事だった。ご馳走さまである。代金だ、受け取れ」
ありがとうございます。
きっちり払ってくださるのは、とてもありがたいのですが――。
「では、私は帰るとしよう」
さっさと帰りました。
側近を置いて。
「魔王様ァァァァ!!!!」
グラフの叫びが響きますが、バルゼオン様は振り向きもせず、悠々と去っていきました。
そして、側近は取り残されました。
「……さて、どうしましょうか」
私はため息をつきながら、カウンター越しにグラフを見つめました。
「バルゼオン様は、なぜあなたを置いて行かれたのでしょう?」
「……偉大なる王の御心のままに」
知らないんですか。
「……まあ、せっかくだ。小鉢のアイディアをいくつか出しておこう」
え、ちょっと待ってください。なぜあなたが小鉢のアイディアを?
「雲丹のテリーヌ、鮑の肝ソース和え、そしてフォアグラの味噌漬けだ」
「待ってください!うちは、ひじきとか冷奴の世界なんですけど!?」
「そんな貧相な味覚でよく生きてこれたな。さすが場末」
言いましたね!? また『場末』って言いましたね!?!?
「この店の外装も、全体的に整えたほうがいい。もう少しこう、魔王様が通う店らしい品格を持たせるべきではないか」
いやいやいや!!!
ちょっと待ってください!!!
あなたさっきまで 「魔王様に相応しくない店」 とか言ってましたよね!?
急に店の今後について考え始めるのは何なんですか!?
「例えば、装飾に松明や頭蓋骨を取り入れるとか――」
「お断りします!!!!」
私は全力で拒否しました。
店をダンジョン仕様にしてどうするのですか!?そういう改装は求めていません!!!!
「……ふん、ではまた改めて提案しよう」
改めなくていい!!!!
しかし、グラフは勝手に満足したのか、すっと立ち上がり、静かに店を出て行きました。
窓に指紋を残したまま。
「……はあ」
私は、静かに掃除道具を取り出しました。
布巾を手に取り、窓の指紋を拭きながら、ふと考えます。
うちの店、どうしてこんなことになったのでしょう。
以前はただの、ラストダンジョン近くの寂れた定食屋だったはずなのに――。
今や、魔王様の常連化はもちろん、側近まで小鉢のアドバイスをしてくる状況。
厄介事が、また一つ増えました。
私は、窓についた指紋をゴシゴシと拭きながら、静かに天を仰ぎます。
そして、次の来店に備えて、小鉢の試作を再開するのでした。




