過去と現在と未来の間で
ー『ごめんね』ー
ラファエルの残した一言のメモ。それをみても、私はしばらく何のことかわからなかった。ーいや、頭のどこかでわかっていたのに、認めることができなかった。数日の間、いつも彼が歌っていた広場や海沿いを何回も周って、彼を探し歩いた。そのうちつわりが始まって、道端で吐き気に苦しみながら、また探し歩いて…。そんな私を見かねた中年の女性が、声をかけてきた。広場にある屋台で働く奥さんだ。私と彼はその日の興業が終わると、よくそこで串焼きを買って、食べながら帰っていた…。
「…あんた、もうわかってるんだろ。あの男はもう帰ってこないよ」
「……」
「かわいそうだけど、諦めな。どこから来たんだい。駆け落ちかい? 親は? つわりがきついんだろ。一人で産むのは無理だよ。親元に帰った方がいい。謝れば許してくれるよ、子どもがいるなら」
この数日、水とパンしか食べていない。私はぼうっとする頭のまま、ぼんやりと奥さんの顔をみあげた。
「…船代が…なくて…」
出てきた声は、自分でも情けないくらい小さかった。
哀れに思った奥さんが数日屋台で働かせてくれ、私は何とかコルテス領への船代を稼いだ。つわりでなのか、船酔いなのか、それとも精神的ショックでなのか、わからないような吐き気を抱えて旅をしていた。実家に帰れば、何とかなるのではないか。喧嘩別れした両親だけれど、必死で謝れば、家の片隅においてもらえるのではないか。微かな希望にすがって、重い身体を引きずって歩いた。
そうして数日後。やっとたどり着いた実家の屋敷の前には、門番が立っていた。
(…門番なんて、雇う余裕なかったのに…)
戸惑いながら、声をかける。
「あの…」
「ん? なんだ、物乞いか?」
「…私、この家の娘で、アルテと…」
「はあ? この家のお嬢様は亡くなられたと聞いてる。いくら金に困ってるからって、そんな大ぼらふいてはいかんぞ」
「…私、妊娠していて…。これを、母に渡してください。わかってくれるはずですから…」
私はポケットから一枚のハンカチを取り出して渡した。それは刺繍が得意だった母に習って私が家紋を刺したもので、家を飛び出した時のカバンに入れていたものだった。
胡散臭そうにしながら、しかしハンカチの生地が上等な絹で、刺繍が確かに家紋であることを確認した門番は、ここで待つようにと言って屋敷に入って行った。私は疲れで立っていられず、座り込み、脇の塀に背を預けて待っていた。
―数十分は経っただろうか。ついうとうとしていたところを、ゆすぶって起こされる。
「おい」
「あ…ごめんなさい」
私が目を覚ますと、門番は私の手を取って助け起こしてくれた。呆れた顔に少しの憐れみを浮かべて、私の手に一枚の封筒を載せる。
「大奥様からだ」
「…大奥様?」
…祖母はずいぶん前に亡くなったはずだけど…。そう思いながら封筒を開けると、一枚の便箋と、数枚の金貨が入っていた。手紙を開いてみると、懐かしい母の字が並んでいる。その内容は…
―『私の娘は、結婚前に病気で亡くなりました。どこから手に入れたか知りませんが、ハンカチは確かに娘のものです。返してくださってありがとう。私の娘を騙った罪は、それで許すことにします。当主の息子夫婦が帰ってくる前に姿を消して、もう二度と屋敷を訪れないでください。妊娠されているそうですね。お体お大事に』ー
「慈悲深い大奥様は、乱暴にしないようにと言ってくださったんだ。本来ならたたき出すとこだからな」
「……」
私はぼんやりと、門の向こうの屋敷を見つめた。私が居た時はくすんでいた壁の色が、綺麗な白になっている。母が手入れしていた庭も、花の種類が増えて…。
「…このお屋敷は、前より綺麗になりましたね」
「ん? ああ、うちのご当主様に、伯爵家のご三女様が嫁いでこられたからな。伯爵様が後援してくださっているのだ」
「そう…ですか」
私には二つ下の弟がいる。私と違って頭のいい子で、城の文官になるんだと勉学に励んでいた。そうか、あの子が家を継いだのか…。
「…大旦那様は、お元気ですか?」
「なんだ白々しい。どうせ調べたんだろ? 隠居されて慈善事業に取り組んでおられる。あ、だからこの家を狙ったのか? どうせなら支援してる修道院にでも行けばよかっただろうに」
「……」
―皆、幸せなのね。私がいなくても。
―ううん、違う。私がいなくなったから。…死んだことにしたから、婚約破棄も責められずに…
ー私が生きているとわかったら、家の名誉に傷がついてしまう。両親が大事にしている、貴族の誇りに。弟の評判にも、悪い影響があるだろう。
私は封筒を握り締めて、頭を下げた。
「…大変申し訳ありませんでした。大奥様のご慈悲に感謝いたします」
「お? おお」
身を翻して、生まれ育った屋敷を後にする。
こうして私は、今度こそ本当に、帰る家を失ったのだった。
***
「…テさん」
「……」
「アルテさん!」
「!!」
私はハッと我に返って声の方を見上げた。隣に立ったロベール君が、怪訝な顔で私を見つめている。
「どうしたんですか。もう終業ですよ」
「え、ああ…もうそんな時間?」
私は曖昧な苦笑を浮かべると、机の上の書類を片付け始めた。アイリスさんの依頼の記録をしている間に、自分の過去に意識が飛んでしまっていたようだ。あの時の惨めな気持ちが蘇ってきて、なんだか胸の奥が苦い。
(嫌だな、後悔したところでどうしようもないのに)
小さくため息をついて帰り支度をしていると、再び視線を感じて振り返る。後ろの棚に報告書をしまっていたロベール君が後ろを向いて、メガネの奥から私を凝視していた。
「アルテさん、疲れてませんか? 最近休日出勤も多かったですし、明日の勤務、代わりましょうか」
「あー… 心配かけてごめんね。大丈夫よ、明後日は休みだからゆっくり寝ておくわ」
私はへらりと笑って立ち上がると、金庫の鍵を確認するため事務所の奥へ歩き始めた。ロベール君は肩をすくめた後、再び棚へ向き直る。その後ろ姿に、少し口元が緩んだ。
(断っちゃったけど、心配してくれるのは嬉しいよね)
ロベール君は後輩だけど、私より一つ上の三十歳だ。八歳になる息子のカルロ君がいて、私と同じように独りで育てている。奥さんは流しの傭兵で、ロベール君は、魔獣に襲われたところを助けてくれた彼女に一目ぼれし、求婚したそうだ。家族で一緒に旅をして、妻が任務の間、彼が家事と子育てを主に担っていたらしい。しかし奥さんは五年前、カルテヒア領で受けた魔獣退治をしていた時に、巻き込まれた旅人を庇って亡くなった。ロベール君はボロボロ涙をこぼしながら、『妻は傭兵の仕事が好きだった。自分は戦えないけど、傭兵たちのためになる仕事がしたい』と言って、受付の求人に応募してきた。人情に弱いギルド長は男泣きして即採用。私も隣でもらい泣きして、『責任もって指導するからね』と決意したのを覚えている。私がしっかり教えた甲斐あって、今では頼りになる受付副主任である。
私が金庫の鍵を確認して、窓の鍵を閉めて回る間に、ロベール君は書類を全て片付けてカバンを肩にかけていた。
「私閉めとくから、ロベール君先出ていいよ。今日は雨だし、早くカルロ君迎えに行ってあげて」
「ありがとうございます。でも一緒に出ますよ。アルテさん、鍵閉め忘れの前科ありますからね」
「ああ、はい、そうでしたそうでした」
私は再び苦笑して、自分もカバンを手に取った。二ッと口角を上げたロベール君と裏口に向かう。私もわりと背は高い方なのだけど、隣に並んだ彼は、私より頭一つと半分、背が高い。その上、ゆるくウェーブのかかった濃いグレイの髪に優しい顔つき。当然、彼は女傭兵からの人気が非常に高かった。エリーや馴染みの傭兵から聞く話だと、週に一度は食事に誘われているにもかかわらず、毎回柔和な笑顔で断っているらしい。誘った傭兵の方も彼の奥さんの経緯は知っているから、『OKされたら嬉しいけど、かといって奥さんを忘れて楽しまれてもなんか幻滅』という気持ちがあるらしく、断られて残念なのかホッとしたのか、複雑な心境になるそうである。わかる。
(…ロベール君は、奥さんとの結婚を後悔することなんかないんだろうなあ…)
もともと自由な教育方針だった彼の両親は、傭兵との結婚にも特に反対しなかったと聞いているし。そんなことを思いながら事務所の鍵を閉める。この五年、息子さんの育て方に悩んだりもしただろうけど、あまり彼からその類の悩みを聞いたこともない。そこまで考えて、ふと思い出した。傘を広げながら、同じく傘を広げているロベール君に声をかける。
「そういえば、カルロ君には将来の夢とかある?」
「え? どうしたんですか藪から棒に」
学校と私の家とは途中の交差点で別方向になる。そこまで一緒に歩きながら話す。
「いや、うちの子が急に歌手になりたいとか言い出してね。どうしたものかと思って…」
「へえ、ルルちゃんもそんな話をする歳になったんですね。いいじゃないですか、ルルちゃん可愛いし、人気出ますよ」
「それはもちろんそうだけど、って、そうじゃなくて。カルロ君はどうなのよ」
娘自慢になりそうなところを辛うじて自制し、ロベール君に聞き返す。すると、彼は肩をすくめて応えた。
「さあ…うちの子は何考えてるかわかりませんね。相変わらず、家でもあまり喋らないので」
「そうなんだ…」
もともと大人しかったカルロ君は、三歳で母親を失ってから、さらに無口になってしまったそうだ。一度ルルも含めて一緒に食事をしたことがあるけど、人見知りというより、ただ人に無関心のように見えた。
「妻に似てくれれば良かったんですけど、根が陰気な自分に似たもんですから。家でも本ばかり読んでいますし、本屋にでもなるんでしょうかね」
「いいじゃない、本屋さん。知的でかっこいいわよ」
「そうですねえ」
適当な会話を交わして笑い、その話題は終わったかに見えた。だから、それからしばらく黙って歩いて、交差点の手前で彼がふとつぶやいた言葉に、私は不意を突かれた。
「…でも、もし傭兵になりたいって言ってきたら…」
「!」
「…悩むかもしれませんね」
「……」
独り言のようなその言葉に、どう返していいか迷っているうちに、彼は学校の方へ足を向けた。
「じゃあ、お疲れさまでした」
「うん、お疲れさまでした」
話が続かなかったことに少しホッとしながら、私も家の方へ足を向ける。…傭兵は自由だけど、危険な仕事だ。悩むのも当然だと思う。まして奥さんがあんなことになった後では。親と同じ仕事に就きたいと言い出した子どもへの複雑な思いは同じでも、私とは少し質が違うだろう。自分たちを棄てた父親と同種の仕事に就きたいと言いだした、娘への思いとは…
(…ルルは元々、私じゃなくてあの人に似てるんだよね。外見も、性格も、才能も…)
「…育てたのは、私なんだけどな」
ポツリと零した自分の声が泣きそうで、私は慌ててかぶりを振って、家路を急いだ。
***
「あ、お母さんお帰りなさーい」
いつもと同じように飛んできたルルの声に、いつもよりホッとして声を返す。そう。今はここが私の家だ。
「ただいま~。帰るまで何もなかった?」
「うん。今日は夕飯何する?」
「今日は疲れたから屋台で焼き魚買ってきた。あとは昨日の残りのサラダでいい?」
「はーい、じゃあパン切るねー」
そう言って貯蔵室にパンを取りに行くルルの後ろ姿で、何だか調子も戻ってきた。私は上機嫌で手を洗い、冷却魔石の入った木箱を開けてサラダを取り出す。買ってきた魚を載せた皿の脇にそれを取り分け、ルルの切ったパンを篭に入れれば、夕食の始まりだ。
私は魚を食べながらふと思い出し、ルルに聞いてみた。
「そうだ、ルル、学校でカルロ君をみることある?」
「んー? カルロ君は低学年教室だから、あんまりみないけど、たまに図書室で会うよー」
「へえ、やっぱり本が好きなのねえ。いつもひとりなの?」
「うん、だいたいひとり。でも私とか友達が話しかけたら普通に話すよ」
「え、そうなの?」
「うん。おススメの本とか聞いたら教えてくれるし、私が借りて面白かった本とか教えてあげると、嬉しそうにしてる」
「そうなんだ~。良かったわ、今度ロベール君に教えてあげよ。…っていうかルル、本とか借りて読むことあるの」
すると、ルルはむっとした顔で口を尖らせた。
「は? お母さんひどい。私だって本くらい読むもん。勉強は好きじゃないけど、神話とか読むの好きだもん」
「あ、ごめんごめん。じゃあ十一歳の誕生日プレゼントは本にしようか~」
「え、ちょっと待ってお母さん、それはよく考えるから!」
「あはははは」
慌てたルルの様子に笑っていたら、何だか気が楽になってきた。そう、親の知らない子どもの面だってあるわけだし、あまり先の未来を考えてもしょうがない。どうせ教養学校の卒業の時には考えなきゃいけないんだから、その時に考えればいいや。
そう楽天的に思っていた私。その時は、数週間後に同じ問題を突きつけられる機会が訪れようとは、思いもしなかった。それも、身近な人の修羅場によって…
更新が大変遅くて、申し訳ない。ちょっとでも楽しんでいただけたら幸いです~。