人間観察と私の娘
「ただいまー」
「あ、お母さん! お帰りなさい!」
城下町の端にある三階建ての集合住宅。その三階の一室が私の家だ。扉を開けると、娘のルルが竈で鍋のスープをかき回していた。十歳にしては背が高めなので、もう鍋を覗き込める。私はその鍋からする、酸味のある匂いに鼻をひくつかせた。
「ん~、これは何かなあ。トニルの実のスープ?」
「当たり! ライラおばさんが分けてくれたんだ」
「あら~! じゃあ今度お礼言っとかなきゃね。よーし、じゃあお母さんは鶏肉焼くね!」
並んで料理しながら、私は隣で機嫌よく鼻歌を歌っている娘を見下ろした。
薄い飴色でつやつやの波打った髪、きらきら輝く翠の瞳。黒髪で茶の瞳の私とは似ても似つかない、天使のように美しい私のルル。妊娠を告げた途端に去った父の顔を知らない、かわいそうで愛しい私の娘だ。
出来上がった料理を小さな食卓に並べると、二人だけの楽しい夕食の時間だ。ルルの今日一日の話を聴いて、今日一日の私の話をする。ルルは鶏肉のソテーを美味しそうに頬張った後、話し出す。
「今日はね、神学の授業があったよ。神様の歌を読んで、書き写したの」
「おお、楽しそうじゃない。歌いながら書いたらすぐ覚えそうね! お母さんは全然覚えられなかったんだけどね〜!」
ルルの前では素でしゃべるので、脳内と口から出る言葉が一致する。ルルは私の言葉にきゃらきゃら笑う。
「じゃあお母さんより先に私が覚えちゃうよきっと。 あっそれからね、今日は、帰りにロルフだけじゃなくってアインとウィルも送ってくれたよ。そしたら途中からミーナとマイクも来てね、皆で帰って楽しかったよ」
「おお、大軍団じゃない! それだけいてくれたらお母さんも安心だわ〜」
ルルがあまりに可愛いので、一人でいたら攫われるんじゃないかと、周りの大人は本気で心配している。なので、隣に住む傭兵ギルド長の孫で十二歳のロルフが、一緒に教養学校へ行き帰りしてくれているのだ。加えて今日は仲良しの友達が一緒に帰ってくれたようなので良かった。
ルルには、家に帰ったらすぐに鍵をかけて、私が帰るまで絶対に開けないように言っている。カルテヒアがどんなにのんびりした領地でも、ギルド長の家が隣でも、近所の大人に見守りを頼んでいても、安心できない。いや、ほんとにうちの娘は天使みたいに可愛いので。親の欲目じゃなくて、ほんとに死ぬほど可愛いので。異論は認めない。
そんな私の思考をよそに、ルルは楽しそうに笑う。
「はい、じゃあ今度はお母さんの番!」
私はニッと笑った後、今日のギルドでの出来事を話す。
「そうねえ、今日も依頼の取り合いで、二十歳くらいの男の人二人がケンカしてたのよ。言葉遣いが悪くてお母さん呆れちゃった。なのに依頼主さんに話す時は、あっという間にちゃんとした言葉遣いになるの! まるでレストランの店員さんみたいに!」
「うわあ~。でも、それっていいこと? 悪いこと?」
聞かれて、私は真面目な顔でルルを覗き込んだ。
「半分いいことで、半分悪いことかな。依頼主さんに丁寧に話ができるのはいいこと。でも、人を選んで悪い言葉を使うのは、悪いこと。だからねルル、一見いい人にみえても、別の時には悪い人のこともあるから、相手をよ~く見るのよ」
私は毎日こうやって、ギルドでみる人々やそこで起こる人間模様についてルルに話す。私のように、悪い男から酷い目に遭わないように。だけどルルがもっと小さい頃は、私が神経質になって人の悪い面ばかり話していたので、ルルが外出を怖がるようになってしまった。そこで慌てて方針転換し、今では人間の良い面と悪い面を両方一緒に話すようにしている。
ルルは食事を終えると、席を立って部屋からノートとペンを持ってきた。私の前でノートをパラリと開き、ペンを握って文を書きだす。
「緑の月伍の日。『偉い人にはちゃんと話すのに、別の人にはちゃんと話さない人もいる』っと。お母さん、こんな感じ?」
「うん、ばっちり」
私が毎日こんな話をして「わかった?」と聞くので、ルルは学校に入って書き言葉を憶えると、私の目の前で今日の教訓をノートに書き記すようになった。彼女はこのノートのことを、『お母さんの人間観察日記』と呼んでいる。これがどれだけルルの役に立つかわからないけれど、私がギルドで人を見る目をつけていくと同時に、彼女にも人を見る目をつけていってほしい。
この子が教養学校を卒業するまであと二年。その後この子がどうするかわからないけれど、せめてルルが自分の道を見つけるまで、自分の恋愛は封印だ。私に男を見る目がなくて、あんなことになったのだから。
私が皿を洗って片づけをしている間に、ルルは寝る支度を済ませた。
「おやすみなさい、お母さん」
「はあい、おやすみ」
私が振り返って答えると、ルルは寝室の方へ歩き出して、ふと足を止めて振り返った。
「あ、そうだお母さん。私、大きくなったら歌手になろうかな」
「えっ…」
私は目を見開いて、言葉を失う。すぐにハッと我に返って笑顔を作った。
「お、おお~、歌手かあ~。どうして歌手になろうと思ったの?」
「神様の歌を歌ったら、先生が『ルルは声が綺麗で歌も上手いから、きっといい歌手になれるよ』って」
「そ、そう! 良かったじゃない。…ん~、じゃあまず、今日の夢の中で歌手になれるといいわね!」
「あっそれいいね! なれるかな。なれるといいなあ。おやすみなさい!」
「はーい、おやすみ」
嬉しそうに笑ってパタパタと寝室へ駆けていくルルを見送り、私はしばし呆然とその場に立ち尽くした。
「……」
拭いていた皿をコトリと食卓に置き、椅子に座る。
(歌…)
ルルの父親は、他国から来た吟遊詩人だった。でも今まで一度だってそれをルルに言ったことはない。なのに、よりによって父親と同じ道―…歌を選ぼうとするなんて。私は動揺し、彼と出会った頃のことを思い出した。-鮮やかに。
*
そのとき、私はまだ十七歳だった。
私は元々、カルテヒア領に隣接するコルテス領の貴族だ。貴族といっても本当に小さな所領しかない男爵だったから、代々受け継いできた屋敷がある程度で、暮らしは平民とそう変わりなかった。貴族らしからぬこの落ち着きない思考も、元からだ。だけど、両親は貴族であることを誇りに思っていて、私にもそう生きることを望んだ。だから通常の貴族と同様、十七の時には親が婚約を決めた。でも相手は、妻を一年前に亡くした二十歳も年上の貴族だった。
彼の容姿が良ければよかったが、そうではなく。若い婚約者を大事にするかと思えば、そうでもなく。むしろ爵位が上の自分がもらってやるのだからありがたく思うように、という態度が鼻につく人だった。
(あと三か月で十八歳。そしたら私、あの人と結婚するの? あの人に触られなきゃならないの? こんなに嫌だとしか思えないのに?)
私はどうしても受け入れられない未来が不安で怖ろしく、街をとぼとぼと歩いていた。そんなときだ、彼に出会ったのは。
街角のベンチに座り、多くの人に囲まれて歌っている、美しい男の人。薄い飴色で緩く波打つ長い髪。優しく甘く輝く翠の瞳。彫刻のように整った容姿。その唇から発せられる艶めいた美しい声。私はその存在に、一瞬で夢中になった。その日は彼が去るまで魅入り、翌日からも毎日通った。花嫁修業の時間も、婚約者とのデートの時間も全部無視した。具合が悪いと偽って部屋に鍵をかけて閉じこもり、窓から抜け出して彼の姿を見に行った。彼を見て、その声を聴いていれば、将来への不安など遠くの空に飛んで行った。
そうして二週間が過ぎた頃。その日は朝から雨が降っていた。傘を差していったが、彼はいつもの場所にいなかった。屋敷を出た頃はしとしと降るだけだった雨は、街に着く頃には傘を差しても腕が濡れるくらいになっていて。だから、彼はいなくて当然だ。なのに私は帰れず、そこに佇んでいた。帰ってもどうせ両親に叱られるだけだし、もしかしたら、万が一にでも、彼の姿をみられるかもしれないという期待に胸を躍らせていた方が良かった。小一時間ほど過ぎて、身体が冷えてクシュンとくしゃみをした。その時だ。後ろから美しい声がしたのは。
「こんにちは。君、最近毎日来てくれてる子だよね」
まさかと思って振り向くと、そこには彼がいた。いつものように羽のついた豪華な帽子はかぶっていないが、上品な出で立ちで、紺色の傘をさしている。ふわりと微笑んで、固まって動けない私に近づいてくる。
「ごめんね。今日はこんな雨だから歌えなくて。待っててくれたの?」
「は、はい…」
「ずいぶん濡れちゃってるじゃないか。良かったら僕が借りてる部屋で雨宿りしていかない?」
「ええっ⁈ えっ あっ そのっ…お、お願いします!」
これは夢かな? でも雨は冷たいし、やっぱり現実? だけど、夢でも現実でも妄想でも幻覚でもなんでもいい。私の隣に彼がいて、私に向かって笑いかけてくれる。これ以上のことがこの世にある?
私はそんな思いで頭をいっぱいにしながら、ただ目を見開いて彼を見上げたまま彼の後をついていった。しばらくすると、港に近い裏通りの小さな小屋に辿り着いた。彼は「どうぞ」と言ってドアを開けてくれる。そこはキッチンと小さなテーブルと椅子、小さな食器棚と暖炉、ベッドがあるだけの質素な部屋だった。ベッドに、彼がいつも演奏している弦楽器が立てかけてあり、ベッドの上に美しい羽根つき帽子と豪華な刺繍の入ったジャケットがふわりと置かれている。彼の持ち物は貧しい小屋と不釣り合いで、何だか不思議な感じがした。
「僕はラファエル。君は?」
部屋を見回した後、傘を閉じる彼の横顔にみとれていた私は、振り返った彼の顔をみて心臓を跳ねさせる。
「え⁈ あ、アルテ・ビヨルドソンといいます!」
「あれ、家名があるってことは、もしかして貴族?」
「ふえ⁈ は、はい! まあすごく底辺の弱小貴族ですけど…!」
彼は笑いながら、小さなキッチンでケトルを火にかける。
「あはは、自分の家のことそんなふうにいわなくても。…でもそうか、良かったよ。いつもお代をたくさんくれるから、なんだか申し訳なく思ってたんだ」
「そんな…私のお小遣いくらいですから、お気になさらず!!」
「…ふふ。ありがとう」
背中でそう言って振り返った彼は、直立不動で固まっている私をみて苦笑した。棚からコップを二つと茶葉を取り出しながら声をかけてくれる。
「そんなに緊張しないで。別にとって食いやしないから」
「⁈…っ…!」
そう。そう言われた瞬間に、婚約が決まってから数か月、自分の中で燻っていた何かが弾けた。その音を聞いた。私は胸に手を当てて彼に一歩近づくと、必死に声を上げた。
「…っ と、とって食べてください!!!」
「…え?」
一瞬きょとんとして私を見た彼に、勢いよく頭を下げて頼み込む。
「お、お願いします!」
「あはは。まあまあ、落ち着いて。お茶が湧いたから飲みなよ」
彼は私に声をかけて、私をベッドに座るよう勧めた。私にお茶を渡し、そして一つしかない椅子を持ってきて、私の向かいに座る。彼は私を覗き込み、コテンと首を傾げて微笑む。
「君は貴族なんでしょ? 吟遊詩人なんて下賤の者と寝たりしたら親に怒られるよ。怖くないの?」
「下賤なんて…貴方は誰より高貴です!!! その姿も声も歌も! それに、あんな人に触られる前に、せめてその前に…」
「え?」
言いながら泣きそうになった私を見て、彼は立ち上がり、私の隣に座り直した。事情を話して、と促してくる彼に、ぐすぐすと鼻をすすりながら、嫌で仕方のない結婚について吐露した。彼は私の話をひととおり聴き終えると、そっと私の頭を撫でてくれた。
「…そうだったんだね。可哀相に…」
彼はそう言ってしばらく黙り、頭を撫でていた手をするっと私の頬に添えて囁いた。
「…じゃあ、僕と一緒に逃げる?」
「え?」
振り向くと、すぐ間近に美しい翠があった。その瞳に吸い込まれるように魅入っていると、優しく弧を描いていた美しい唇が、ふっと開かれる。
「…本当はね、君のこと気になってたから、声をかけたんだよ」
私はぽかんとして彼の顔をみつめた。
「…うそ…」
彼は真剣な顔で、ベッドについた私の手を握った。
「嘘じゃないよ。こんなに熱心に朝から晩まで聴いてくれる人は、そういないから。こんな女の子が一緒に旅してくれたら、どんなに幸せだろうと思ってた。でも、僕はしがない吟遊詩人だし。だけど、君がその男と結婚しても幸せになれないなら、僕と一緒に行こう」
「…本当に?」
「うん。…この領の滞在が短くなったから、少し路銀が足りなくて、しばらくは不自由させるかもしれないけど…」
そう言って申し訳なさそうな顔をする。まるで夢の中にいるような心地だった私は、お金の話に俄然現実味が湧いてきた。握られた手に手を重ねて、彼の方へ身体を乗り出す。
「だ、大丈夫。まだ貯めてたお小遣いがけっこうあるの」
「そう? …じゃあ、それも入れて旅の準備して、明日の夜、またここに来て。僕も準備しておくから」
「ほんと? ほんとうに?」
「本当だよ。じゃあ、約束の代わりに…」
彼の顔がいっそう近づいて、スッと唇を重ねられる。口づけすらも初めての私は、何をされたのか…一瞬分からなくて固まった。そんな私にクスリと笑い、彼はそのまま私を押し倒した。昼間だというのに、厚い雨雲で部屋の中は薄暗い。私は薄い窓ガラスに当たる雨音を聴きながら、彼に処女を捧げたのだ。
次の日の夜。屋敷を抜け出そうとしたところを両親に見つかり、最近の行動を問い詰められた。うまく誤魔化すなんて器用さのない馬鹿な私は、男と街を出ていくことを正直に話した。両親は当然のように激怒し私を出ていかすまいとしたけれど、弱小貴族の家にはそれを手伝う使用人がほとんどおらず、私は両親の手を振りきって家を出て行った。
よくある駆け落ち話といえば、そうだろう。その時の私には、悲惨な未来から輝かしい幸福な未来へと一気に大きな扉が開いたような感覚があって、迷うことすらできなかった。彼は港で私を待っていてくれて、そのまま船で対岸の他領へ渡った。
それからしばらくは、本当に幸せだった。私が持ってきた資金で旅をして、彼は街角で歌い、私はそれを一日中聞いて、各地方の名物料理を一緒に食べ、甘い夜を過ごした。だんだん手持ちのお金はなくなっていたけれど、美しい彼の歌に捧げられるおひねりにはたまに銀貨も入っていたから、きっと大丈夫だと、ずっとこんな幸せな日々が続くのだと、私は信じて疑わなかったのだ。
―そうして三か月後。月に一度来るものが止まって、妊娠がわかった。彼はきっと喜んでくれると胸をときめかせ、「子どもができたよ!」と告げた時。彼は目を見開いて、すぐに私を抱きしめた。だからその後、彼がどんな顔をしていたのかわからない。「身体を大事にしないとね。もう休んだ方がいいよ」と言われて眠った次の日の朝。隣で寝ていたはずの彼の姿はなく、部屋の中には彼のものが何ひとつ残されていなかった。先に歌いに出たのかな、と目をこすりながらベッドから降り、お茶を入れてテーブルに向かう。そこにあった一枚のメモ。そこにはただ、『ごめんね』と一言、書いてあるだけだった。
*
(…ほんと、バカだったよね、私…)
つい出してきてしまったワインをぐぴっと飲み干して、私はハアァとため息をついた。あの後のことはあまりに惨めすぎて、思い出すどころの話じゃない。私はガタッと椅子を立ち、ランプを手に取って寝室へ向かった。もうスヤスヤと寝息を立てている娘の顔を見つめ、そっとベッドの端に腰を下ろす。
(ルルがあの人と同じ道を選んだら…。私、応援してあげられるのかな。…父親のこと、話す日がくるのかな)
…こんなバカな、母親のことも。
…ちょっと歌手になろうって言っただけ。たわいもない子どもの思い付きだ。
なのにこんなに動揺して物思いに沈んでしまう自分に嫌気がさして、ハアァともう一度、大きなため息をついた。
わあ、なんと2か月ぶりの更新。やっぱり見切り発車はいかんですね…。




