亡き祖母の願いが、虚構の世界を打ち破る
ピタリ、ピタリ……。
しずくのこぼれ落ちる音にまぎれて、
――……。
涼やかなささやきが、ウルスラの耳奥を震わせる。
「もう少しだけ……」
時々、ほほをかすめる吐息が気に障るものの、深い微睡みから浮上する気にはなれない。
「ウルスラさまッ!! 起きて下さいませ」
怒気を含んだ声色に、ウルスラの両まぶたが開かれた。
「やだ………わたしったら」
三、二、一と胸の内で数えながら、ウルスラは恥じらいもなく間延びする。
「殿下ッ」
「そんなに怒らなくても……」
あきれ顔のエルザから目をそらせば、メイドたちが燭台に火を点そうと、忙しなく駆け回る。帳のかからない窓の外は、茜色の雲がなびいていた。
「そう言えば」
「如何されたのですか」
「よかったわ。無事……」
突然の目まいと耳鳴り。ウルスラは、否応なしにうずくまる。
「誰か、薬湯を用意しなさい」
普段と何ら変らない、彼女たちの働きぶりを目の当たりにしながらも、ウルスラは違和感を拭えなかった。
「これを、お飲み下さいませ」
手を伸ばそうにも、尚も続く不協和音せいで面を上げるのもままならない。こめかみを手で抑えつつ、ウルスラは首を横にふった。
「議会での聴講が終わってから……」
「急に如何されました。本日、そのような予定は組まれておりませんわ」
「そんなはずは……」
皇宮に戻る途上の車中で、未知の襲撃を受けたはずが、どう言う訳か『なかった』ことにされている。記憶と現実の齟齬に、ウルスラは呆気に取られた。
――まさか……。
ウルスラの視界に入る限り、侍女から末端のメイドに至るまで、顔ぶれが入れ替わった様子はない。うろたえてばかりの主人をよそに、エルザはメイドからドレスを受け取った。
「よもや、宰相閣下との夕食会。お忘れになられていませんわよね」
朱色の裾裳が波打つ側で、ウルスラは息を飲み込む。
――わたしを『別次元』に堕とすなんて、相当な手練だわ。
ウルスラは努めて冷静を装い、ソファから腰を上げた。
「約束まで残りは……」
「わかっています」
定例の夕食会は、六時と定められている。置き時計の針が上下に開ききるまで、四半時もなかった。
「シュミット卿。こちらにございます」
「ご苦労」
長い銀髪が光を弾くたび、メイドたちの感嘆の息がもれ伝う。身に覚えのない『婚約者』を横目に、ウルスラは席についた。
髪と瞳に色の違いがあれども、養父ダヴィッドによく似たの面差しのためだろうか。イザベラを始め、みなが当たり前のように、彼をウルスラの『婚約者』として受け入れている。
――敵に気取られてはダメよ……。
ぎこちない笑みを称えて、ウルスラは金色のグラスに手を伸ばした。
「気分でも優れないのかね」
『偽りの婚約者』が、ウルスラの耳元でささやく。
「どうして……」
「お互いを気遣うくらい。当然ではないか」
甘やかな声色に、思わず頷きそうになるが……。
――いいえ、違うわ。
ウルスラの体調が優れていいない時、マクシミリアンならばさりげなく、周りの注意を自身の方に引きつける。
「貴方の目的は何かしら」
「そうだね」
冷ややかな視線に囚われて、ウルスラの思考が上手く回らない。
「私の目を拒むな!! ウルスラ」
米神が鋭利な刃物で切り刻まれるような、激しい痛みに苛まれる。ウルスラが抗う気力を失いかけた。ほんの一瞬だった。
「なんだ」
前触れもなく、円卓に添えられた花瓶がはじけ飛ぶ。
――ここは、現実と迷宮の境界?
いつの間にか、己の視界が暗闇と同化する。過ぎ行く時の流れが、感じ取られないほどに。
「あら、またいらしたのね」
「へ?」
ウルスラの身にまとうドレスは、馬車が襲撃された時のまま。風のさざめきと小鳥のさえずりが交差する中で、見覚えのある風景が彼女の目の前に広がっていた。
――ここ、アランデル公爵家の四阿よね?
パタンと空を切る音につられて、ウルスラが顔を向ける。
「あの」
「確か、あなたとお会いするの。二度目になるわよね」
肖像画でしか知らない、祖母が小首をかしげて言い放つ。
彼女はおそらく、この世の存在ではない。歪んだ時空であるが故に、邂逅を果たしたはいいものの、自らの正体を打ち明けるべきか、ウルスラは思いあぐねる。
「わたしと同じ名前を付けてもらえたのでしょ」
「えっ……」
呆然と目を見開くウルスラを余所に、祖母は詩集をベンチに置く。
「何故、それを」
季節外れの花々が咲き誇る、中庭を見据えて、
「これも、罰なのかもしれない」
祖母がか細く答えた。
「お祖母さま」
「彼らに許しを与えても、いい頃合いかなと」
祖母の幼少期は、決して恵まれたものではない。父王に疎まれたばかりか、故国で交わした婚約も一方的に破棄されたと、ウルスラはフランツから聞いている。
「フロワサールの草民に恨みはないから、彼らの暮らしが立ち行かない真似だけはしたくなかった。決して嘘ではなくてよ」
「はい」
旧フロワサール王侯に対して、帝国内では婚姻から職業選択に至るまで、あらゆる制限を課したのも、筆頭公爵の権限でフランツが、祖母の遺言にむくいた結果にすぎない。
「あなたが大切な人を失わないように」
祖母は手提げ袋から、愛用の小さな鏡を取り出す。彼女に促されるがまま、ウルスラはそっと覗き込む。
「マクシミリアン?」
彼女の視線の先には、荒野を彷徨うマクシミリアンたちが映し出されていた。
「フランツに伝えて。これ以上の復讐は望んでいないと……」
言づてが余韻を残す中で、祖母の姿が木漏れ日とともに消え去る。
――リンゴンリーン……。
三日月が浮かぶ夜空の下、何処からともなく教会の鐘が鳴り響いた。
「ウルスラか?」
松明の炎が、群れを成してゆらめく。黒い影がゆっくりと、ウルスラの方へやって来た。
「戻れたのか? オレたちは」
一斉にわき起こる歓声に臆することなく、
「マクシミリアン」
ウルスラは、差し出された手を求めた。




