暗黒の力が、彼女の世界を奪う時
車を牽く馬の脚並みが、ゆるやかに響き渡る。帝国議会議事堂まで、あと十数分はかかるだろうか。
「ご準備下さいませ」
「ええ、承知しているわ」
エルザに急かされるまでもなく、色味を変えた車窓の景色から目を離す。対面に座したエルザの掲げる手鏡を覗き込み、ウルスラは髪のほつれを整えた。
皇太女となってから、帝国議事堂には片手に収まるほど訪れているが、議会の聴講には未だ慣れていない。しかも、今日の議題は、ウルスラの未来がかかっている。
――しっかりするのよ。
大通りからまっすぐ伸びた路の先。開け放たれた鉄城門を越えれば、車止めまで物の十秒もかからない。甲高い馬の嘶の直後、彼女たちを乗せた馬車が止まった。
「お手をどうぞ」
「ご足労なこと」
衛兵の手を借りて、エルザが先に馬車から降り立つ。不届き者の襲撃を警戒しての慣わしだ。
「お足元、気をつけて下さいませ」
「承知していてよ」
黒い裾裳をたくし上げて、ウルスラは一段一段、慎重な足運びで地に足を置く。彼女の帝位継承に対して、意を唱えた相手を見極めなければならない。
朝露の乾ききらない地面を、ウルスラは覚束ない足取りで踏みならす。彼女の見上げる先には、黄金の女神像が佇んでいた。
警護の任に就く衛兵たちの敬礼に続いて、
「皇太女殿下の御成にある」
声高な宣誓を浴びながら、ウルスラは前を見据える。
調子を揃えたラッパ音に慄いたのか、白い鳥たちがまばらに、孤空へと飛び立つ。あれだけ濃かった霧も、今やすっかり晴れている。ひんやりとした風に足元を掬われながら、一行は前に進んだ。
地を唸るような響めき、とまでいかないものの、階下の喧噪が増す中で、無作法にもウルスラは、中二階の特別席から半身を乗り出す。行き交う人の流れを伺うためだけに。
壇上から放射状に伸びる座席は、ほどほどに埋まりつつあった。
「そのような真似をして、落ちたらどうする」
ウルスラがふり返った先では、憤然たる態度のフランツがいた。
議場の様子を映すウルスラの手鏡を見るなり、
「やはり、あやつが請求者を擁立しおったか」
フランツの口から憤懣がこぼれ落ちる。
「あやつとは?」
「ダビッドの対抗馬のことよ」
「なるほど」
ザーリア伯爵と宰相の座を争った、クラレンス侯爵の得意満面の笑みを見るなり、フランツが面白なさそうに吐き捨てる。どうやら、『女帝践祚反対派』の旗頭でもある侯爵一派が、彼の人を捜し当てたらしい。
「そなた、あれの真偽をどう見る」
「そのように申されましても……」
不機嫌な祖父を慰めようにも、的確な言葉を見繕えず、ウルスラは苦笑いを浮かべる。遠くから見る限り、彼が帝室の男系か否かを判断するのは難しそうだ。
「第一騎士団の行方も、未だわからないままでな……」
「左様にございますか」
筆頭公爵たるフランツの独断で、第二騎士団が調査に当たっているものの、第一騎士団並びにアントウェルペン共和国の使節団は、行方不明のままである。
双方が国境で合流した直後、とともに帝都へ向かった。そこまでは、捜索隊によって確認されている。
帝国の精鋭を揃えた騎士団が、正体不明の敵に倒されたのかと、帝都は一時的な政情不安に陥った。
――もしも、『迷宮魔法』の使い手が絡んでいるなら、第二騎士団が手がかりすら掴めていないのも、仕方ないかもしれない……。
面だって捜索に当たることの叶わない、ウルスラに出来ること。婚約者の帰還を、信じて待つだけだ。
「よし……。ウルスラの帝位継承は、支持されたか」
次の議題は先々帝との『結縁鑑定』の是非。議論が白熱する一方で、マクシミリアンの所在不明も影響したのだろう。議会は鑑定実施を、僅差で可決した。
「うむ」
「公正な鑑定の遂行を。今は祈りましょう。お祖父様」
釈然としない祖父を余所に、ウルスラは手を叩いて支持した。
難局を乗り切るための妙案を練るにも、疲労を抱えたせいで、上手くまとまらない。数多の馬車がひしめくせいもあってか、皇宮までのわずかな道のりさえ、遅々として進もうとしなかった。
――エリオット=シュミットどのは……。
帰り際の挨拶にて、ウルスラの前に膝をつく彼の人は、驚くほどダヴィッドに似ていた。養父の面立ちが、帝室男系の特徴を表しているとしても。
隣に立つフランツの青ざめた表情に対して、クラレンス侯爵の浮かべた満面の笑みに、ウルスラは空恐ろしさを覚えた。
「侯爵家には、女子学院の卒業を控えた令嬢がいらしたと、記憶しておりますが……」
エルザの発した言葉に、ウルスラはおおよその事情を飲み込む。
「なら、仕方ないわね」
「あの……」
エルザの眼前にありながら、ウルスラは車窓の縁に寄りかかる。今はただ、己の立場を忘れて、微睡みの世界に没入したかった。
うつらうつら、重いまぶたを無理に押し上げれば、馬車が皇宮に渡る石橋に差しかかる。皇太女としての自覚を呼び覚まし、ウルスラは身繕いを始めた直後のこと。
――ガタンッ!
前触れもなく、車が大きく揺れ動く。
「殿下ッ」
悲痛な叫び声を荒げながら、エルザはウルスラの上に覆いかぶった。
――ドクン……。
嫌な予感とともに、ウルスラの鼓動が跳ね上がる。次の瞬間、起こり得る厄災が、彼女の脳裏に映し出された。
――馬車に『仕掛』が施されていて?
咄嗟の判断により、ウルスラは『防御魔法』を展開する。
――何者の仕業なの?
彼女は考えるより先に、『転移魔法』に切り替えた途端、ウルスラの意識が暗闇の底へと引きずり込まれる。
「ウルスラさま」
遠ざかる声の主に向けて、必死に手を伸ばすものの、ウルスラの身は異空間に投げ出された。




