それでも、わたしは進まなければならない
遅くなりました。
「我々はこれにて、お暇させていただきます」
「お気をつけて下さいませ」
紳士の礼を受けて、女官長以下が裾裳を広げる。二時間におよぶ謁見も終わり、文官たちが扉の方へ歩き出す。ホッと一息つく間すら惜しんで、ウルスラはお役御免とばかり玉座から離れた。
「お待ち下さいませ。ウルスラ殿下」
イザベラのすまし声に、ウルスラの足が竦む。悲鳴にも似たエルザのお小言が続く最中、彼女の視線が退路を求めて彷徨った。
「あら、あんな所に虫がいてよ」
「なんと……」
慌てふためく彼女たちの隙をついて、ウルスラはテラスに向かって走り出す。開け放たれた大窓をすり抜けて、彼女は日射しの照りつける庭先に降り立った。
今日は、週に一度ある祖父との茶会。辺境伯からの陳情が長引いたせいで、約束の刻限はとっくに過ぎている。
真っ青な空の下、噴水に虹がかかる。水しぶきにゆらめく光の弧が、ウルスラの目に飛び込んだ。
「あら……」
ほのかに漂う甘い香りに、ウルスラの頬がゆるむ。長い裾裳を払いつつ、彼女は白い小径を駆け抜けた。
「せっかくの紅茶だ。冷めてしまうぞ」
「申し訳ございません。お祖父様」
給仕役の執事が頭を垂れて、四阿の隅に控える。小さなテーブルには、茶菓子とカップが並んでいた。
「ここからの眺めは、最高だろう」
祖父の投げかけた言葉に、ウルスラは面を上げる。彩り豊かな花が、細波のように揺れていた。
「マクシミリアンだが……」
「はい」
カップをテーブルに置いて、ウルスラは姿勢を正す。
「今週末にも、アントウェルペンの国境に赴いてもらう」
祖父の発した言葉に、ウルスラの目が見開かれた。
「どうした。聞いていなかったのか」
「えっ……まあ」
ウルスラも公務に追われているとは言え、マクシミリアンとの会話もおろそかなまま。書庫での遣り取り以来、ろくに顔もあわせていなかった。
「今月の初めに決まっていたからな。てっきり伝えたと思っていたわ」
祖父の言葉に、ウルスラはぎこちなく笑う。
――あの折、それを伝えるために来てくれたのだとしたら……。
真相究明を口実に、復讐を正当化したい。私情を優先する余り、マクシミリアンの言葉に耳を傾けなかったと、今更ながらの後悔に嫌気が差す。
「まあ、そなたをアントウェルペンの国境から遠ざけたかったのだろう」
「お祖父様?」
「あそこは、『フロワサール王党派』が幅を利かせているからな」
祖父の言葉尻にはどことなく、『旧フロワサール』に向けた侮蔑が込められている。公爵家の当主である祖父と、フロワサールの王女だった祖母の政略結婚だが、王国の財政難につけ込んで、帝国側が属国化を目論んだ結果にすぎない。
「地味のない国を維持するのは、想像以上に困難であろう」
祖母が公爵家に嫁いだ頃合いから、王国の所有する鉱山は資源が枯渇していた。『山繭』の養蚕を生業にする土地を、祖母の持参領としてむしり取ったのも、国力の低下した王国を平定するためだと、ウルスラは聞きおよんでいる。
謀略に長けた祖父ではなく、ウルスラが帝位に推戴された理由も、王政復古を目論む旧王党派を牽制するためだった。
「あちらに、引導を渡す日も近いだろうな」
「左様にございますか」
「ふむ」
現大統領は『独立維持派』の指示で、政権の舵取りを担っている。旧王国時代末期以上に産業の衰退した共和国は、存亡の危機に瀕していた。
「場合によっては、番犬どもに餌をくれなければならないだろう」
「間諜を……」
「そうだ」
当然のことながら、共和国の内情を探るための『間諜』ではない。再びの革命を扇動し、混乱に陥れた後、首都平定を名目に軍を派兵する。
避けられない未来を想像するだけで、ウルスラの心は悲鳴を上げた。
「辛気臭い話はお終いだ。せっかくの紅茶が不味くなる」
示し合わせた訳でもないのに、二人同時にカップに口を添える。
「中々の美味だ。もっとも、アデルお手製の生姜の蜂蜜漬けほどではないが」
四阿から覗く空が、にわかに曇り始める。嵐の予感を脳裏からふり払おうべく、ウルスラは菓子に手を伸ばした。
定刻の就寝時間まで、あと三十分。寝間着姿のウルスラは、ドレッサーの扉を左右に開く。声色を抑えつつ、呪文を唱えること数十秒余り。蝋燭の灯り越しの鏡が、古代文字を映した。
「こう言う時、魔鏡って便利よね」
皇太女の身の上と言えども、禁書の持ち出しは許されない。法を定める者が権威を盾にして、法を犯すなどあってはならないからだ。
『人造魔導具の解除術式』
日誌後半の黒塗り部分に、ウルスラの鼓動が早鳴る。術式の完成を目前にして、日誌の書き込みは途絶えているからだ。
『解除は、人道魔導具生成から七日間が勝負』
最後の文字はかすれて見えないほどに、書き手の苦悩と恐怖心が滲み出ている。
『ウルスラの世界樹の新芽が手に入れば……』
その文言を最後に、次の日付から白紙が延々と続くばかり。書き手の無念を思えば、身ぶるいが止まない。
「最後のウルスラって……。フロワサール由来の名前みたいだけど……」
国が違えば法も違うように、霊木も例に漏れない。
「死者の霊を天に導く冬の女神にちなんだ?」
不意の打音に思わず、ウルスラは柱時計を見やる。やるせなさを胸に秘めて、ウルスラはドレッサーの扉を閉じた。
「エルザ」
「明日は定例会議がございますので」
「そうね。早めに寝るわ」
エルザの手によって、寝台の帳が閉ざされる。最後の灯火が消えた暗闇の中、ウルスラはまぶたを閉じた。




