アーモンドの木だけ、取り残された場所では
帝都インフェリアルから南へ十里ほど、ウルスラとエルザはアレマン駅に降り立つ。汽車からプラットホームに流れる人の群れを縫うように、ウルスラたちは駅舎の出口を目指す。幅のせまい石段に足を取られそうになりながらも、二人は寸暇を惜しんで駈け降りた。
「ここの地熱は、万病に効くと昔からの言い伝えがありまして……」
アレマンの夏は涼しく、冬は温暖な気候に恵まれているため、転地療養のための長期滞在する貴族も少なくない。
「あら、そうなの」
数時間も汽車に揺られ通しだったせいで、体のあちこちが痛い。エルザの丁寧な説明も意図せずに、ウルスラはさらりと受け流してしまう。
「随分とにぎやかだわ」
「名物の朝市にございます」
駅の広場には、種々の露店が軒を連ねている。身分の貴賤を超えて、買い物を楽しむご夫人の姿もあった。あの忌まわしい事件がなければ、ウルスラも家族とこの地で過ごしただろう。
「ラヴィリエ公爵領の別荘地も、ここと目と鼻の先よね」
「その通りにございます」
先代のラヴィリエ公爵が存命中、貴族間の関係は円滑だったらしく、母が最初の婚姻をキツネ目と交わしたのも、そのような事情があったからだ。
「辻馬車ってすぐ掴まるの」
「交渉次第と申しますか」
エルザの不安をよそに、ウルスラは広場を見渡す。
「行きましょう」
「お嬢様」
ウルスラは躊躇することなく、辻馬車のたむろする一角へと向かった。
女二人の旅行者だと、悪者に騙されることも多々ある。しかし、迷っている間にも、辻馬車を捕まえる機会を逸してしまう。幸いなことに、馭者との交渉もすんなりまとまって、二人は移動手段を手に入れることが出来た。
乗り心地は、決して褒められたものではないが、辻馬車は一路、この地で最も古い教会を目指した。
侯爵領を統括する公事館は、宰相の息がかかっているはず。中央の政から独立を維持する、教会に向かう方が無難だろう。
――何かしらの、手がかりがあればいいけど……。
彼女たちの胸内は、不安と焦燥が入り乱れていた。
しめやかに鳴り響く、鐘の音を聞きながら、ウルスラは教会の尖塔を仰ぎ見る。
「お嬢様」
「ええ、行きましょう」
二人は並んで、石畳の続く小径を歩き出した。
併設の図書館は、礼拝堂よりも奥まった位置に建てられている。鬱蒼と生い茂る木々の小径を抜けた先。簡素な造りの建物が、二人の目に飛び込んだ。
しなびた木戸を、二人がかりで開け放つ。受付係らしい司書は、こちらに気づく素振りは全くない。
「修道士どの」
エルザの問う声に肩をふるわせて、眠りの森の住人は、うっとうしそうにあくびした。
「あの事件のこと、忘れた方がいいのではないのか」
寝起きを邪魔されて、機嫌の悪い修道士が嫌味を垂れ流す。
「家族の弔いのため、どうしても知りたいのです」
ウルスラの気迫に怖じ気づいたのか、彼は面倒くさそうに二人を二階へ誘った。
「ここ、使っていいから」
大規模火災の犯人を捕まえるためではなく、家族を弔うためとの訴えが、功を奏したのか、ウルスラたちは円卓の席にありつく。
「ここの管区長より、余計なことを話すなと、言われているのだが」
彼が携えた資料は、火災直後にまとめられた調査報告書だった。
「騎士団所属の騎士が救い出したシャルロッテ様は、教会の施療院で亡くなられています」
「そうなのね」
ウルスラを守り切っての絶命に、紙をめくるエルザの手がふるえる。その他の家族は、まばらながらも食堂で発見されていた。
「発火時間は、夕食の祈りに際してかしら」
食堂で見つかった亡骸は、性別不明とある。指折り数えているうちに、ウルスラは不自然な点に気がついた。
「夕食時、メイドは全員食堂を離れるはずよね」
「はい。ああでも、小さなお子様がいらっしゃれば、お世話係のみ残りますわね」
己を身ごもっていた母は、火元から離れていたと推察して、残りは父と母方の祖父母である。給仕役の執事はいいとして、すみに書かれた記号の意味が理解出来ない。
「別荘のあった場所は……」
「ここと目と鼻の先にございます」
髪を整える素振りで、手鏡に記号を複写する。取るものも取りあえず、別荘へ赴く必要はありそうだ。
すっかり更地となった別荘の跡。当時の面影を伝える物と言えば。
「この、アーモンドの木だけは、残されたのでございますね」
そのようにつぶやいて、エルザは涙ぐむ。落ち着いた頃合いで、彼女は母の誕生を記念に植樹されたのだと、ウルスラに語りかけた。
「あれは……」
アーモンドの木の向こう側。長身の男性が一人、更地の上に佇んでいる。
「サンダース卿」
ウルスラの呼びかけに、マクシミリアンはふり返る。緊張の糸が解れると同時に、ウルスラは彼の元へ駆け寄った。
「ご無事でしたか」
「ああ、騎士団に辞表を叩きつけたから、ここに来たんだ」
いらぬ出来事に巻き込んで、ウルスラは慰めようにも、適切な言葉を見つけられず、うつむくことしか出来ない。
「それより、大火事の痕跡一つないのだな」
「あっ……ええ」
ウルスラは手鏡を取り出して、
「火事の調査報告書の記号ですが」
手鏡に複写したものを、彼の眼前に差し出した。
「犬?」
「あの……」
マクシミリアン曰く、飼い犬や飼い猫の類いの亡骸を示す記号なのだとか。
「火元が食堂ならあり得ないか」
二人の遣り取りを離れて見ていたエルザに、当時の様子を伺う。やはり、食堂に番犬を入れたことなど、侯爵家では一度もなかったらしい。
「それより、君に見せたいのだが……」
そう言いながら、マクシミリアンはコートの内ポケットから、色あせた二通の便箋を取り出した。