あの日、侯爵家の別荘を訪ねたのは……
サロンの大窓から、花ざかりの林檎の木が見える。自身と同じ名の祖母のために、祖父の手で植えられたのだとか。
白い香気が漂う中、
「公爵閣下が、帝都に戻られると?」
「左様にございます」
エルザの口から朗報がもたらされた。
顔すら知らないとは言え、祖父の帰参はこの上なく喜ばしい。ウルスラは、差し出された紅茶の香を堪能しつつ、エルザの思い出語りに耳を傾けた。
「わたしは、スヴェン侯爵家の寄子貴族の家の生まれにございまして……」
前ふりと同時に、エルザは母との馴れ初めから語り始める。あの手紙にも記されていた通り、母は他家に嫁いでいた。
エルザの口から、予想だにしなかった家名を耳にして、
「えっ! キツネ……」
ウルスラは眉をひそめながら、大声を張り上げた。
「お嬢様。それは宰相閣下に対して、不敬ですわ……」
エルザのたしなめに対して、ウルスラは咄嗟に肩をすぼめる。あの宰相との因縁に、ウルスラは寒気すら覚えた。
「あの頃の宰相閣下には、懇意にされていた女性がおりまして」
「手紙にも記されていたわね」
「はい」
母の最初の婚姻と同じ頃、エルザもかねてより婚約関係にあった相手に嫁いでいた。本来ならば、セバスチャンはそこの跡取りだった。
しかし、エルザの婚家は破産に至り、彼女は一人息子を伴って実家に戻ることに。
「旦那様はシャルロッテ様の侍女として、再びわたしを雇って下さいました」
白い結婚の禊明けの直後のことも、手紙との内容に違いはなかった。
「あの日、わたしは別れた夫を見舞うため、セバスチャンを連れて帝都に行くべく、別荘を出るところでした」
協議的な離縁だったエルザは、過労で倒れた夫の看病を侯爵に申し出たが、彼女は今もこの日のことを後悔している口ぶり。
「実は、わたしと入れ違いで、来客がございました」
「来客?」
幼子を抱えた女性が、別荘を訪ねた際、
『女学院の卒業以来ね。リア……』
招き入れたシャルロッテが、懐かしそうに名前を呼んだことを、声を詰まらせながら伝えた。
「その女性の特徴は」
「申し訳ございませんが……」
帝都に向かう汽車の時刻を思えば、客人の対応をする時間はない。後ろ髪を引かれる思いを抱えて、エルザはセバスチャンを連れて出て行った。
「不思議なことに、あの事件の後、来訪者の行方がわからないのです」
「何ですって」
エルザは来訪者の身なりから、シャルロッテにすがったのだろうと。
「このことは、アランデル公爵閣下並びに、旦那様にも申し上げましたが」
『リア』と呼ばれた女学院卒業生は、存在しないとの報告を受けた。当然ながら、シャルロッテが口にした呼び名は愛称の類いでしかない。
「他に特徴は」
「子供連れなので、存在しないなどあり得ないはずですが」
『リア』の愛称を持つ学院の卒業生で、男の子を産んだ女性はいないと、後になってからエルザは聞かされた。
「実子ではなくて、甥か親戚の子供ではなくて」
「いいえ、お客人は確かに、『わたしの息子のコニーよ』と申されていました」
当時、三つを超えて歩き方がしっかりしてきたセバスチャンと比べて、辿々しい動作から、子供は推定二歳だろうとつけ足す。
「実は、若夫人用の寝室に、シャルロッテ様の日記帳がございまして……」
ウルスラは興奮の余り、思わず身を乗り出す。
「貴女は読んだの」
「いいえ、滅相もございません」
エルザも長い間、日記の中身を気にしていた。しかし、あの遺書と同様の魔法が施されており、表紙を開くことすら出来ないと、ウルスラに事情を打ち明けた。
「母は、皇太后陛下とリサデル様との関係に思い悩んでいらしたのね」
スヴェン侯爵家の所領並び、財産のほとんどが帝国の管理下にあるため、家伝の諸系図や帳簿類などの大半は、帝国図書館が管理している。その一方で、アランデル公爵家に嫁いだ母の私物は、若夫人用の寝室に保管されていた。
「わたしなんて、教養課程の成績……最高で二十番だったわ」
全生徒百二十名いる中なので、決して悪くはない。それでも、母の百五十名中の三番と比べると、申し訳なく思った。
「皇太后陛下とリサデル様、ああ、化学課程はイザベラ様が一位なのね」
全科目で五番内のならば、十分過ぎるほどの秀才ぶり。化学課程だけが得意のウルスラから見れば、羨むほどの成績であっても、母は己の不甲斐なさと葛藤していた。
それがある日を境に、二人への敵愾心が薄れる。
「リサデル様のご家庭を知ったためだわ」
エルザからの伝聞でしかないが、亡き侯爵夫妻は帝国貴族社会では珍しいほどのおしどり夫婦。政略結婚による両親の不仲に晒された、リサデルとの違いを目の当たりにして、己を鑑みた結果だった。
四人で日帰りのピクニックに行ったこと。社交のつき合いでの観劇に至るまで、彼女たちの心温まる逸話に、ウルスラの目は涙にあふれた。
それでも『リア』に繋がりそうな出来事は、未だ見つからない。何か見落としたことはないのか、ウルスラは次の日記を取ろうと、机から一旦離れた。
「待って……」
帝国女学院は上級貴族向けの教養課程と、下級貴族がガヴァネスや秘書官として働くための実務課程に別れている。女学院の図書館司書は、実務課程の特待生たちによって運営されていた。
普段、交流のない二つの課程の女子生徒たちが、図書館利用をきっかけに仲良くすること。ウルスラは、自身の経験から思い出す。
ぱらりとめくるページを見直せば、
『特待生のアメリアが、退学に追い込まれそうだから、わたしとイザベルが、彼女の救済を学院長に嘆願するしかないと思うの』
との文面を見つけ出す。
「アメリア? それなら……」
日付を遡ること、件のピクニックの数日後だった。
『さすが、アメリアだわ。教わったレシピのおかげで、美味しいサンドリッジが出来たの』
母は興奮気味に喜びを綴っている。
「多分……彼女こそ『リア』だわ」
確信を得たウルスラは、パタンと日記を閉ざした。