(完結)
こちらで完結です!
最後までお楽しみくださいね〜
入浴時、曇ったガラスに彼女の裸体が映った。
はっきりとは見えなかったが、見てしまうのは悪い気がした。
何より恥ずかしくて仕方ないので目を塞ぎたかったが、綺羅星は気にしていなかったようだった。だから、僕は諦めて彼女の視線の動きに身を任せた。
湯船で身体を温めたあと、彼女は再び洗い場で風呂椅子に座った。
そして、裸のままで鏡に向かって顔のむだ毛を手入れを始めた。
唇の上には、うっすらとうぶ毛が生えていて、それを剃っていた。
泡をたびたび塗り直し、何度も鏡に向かって、唇を突き出したり伸ばしたりして、念入りに手入れをした。
厳重な点検が終わり、使い終わった剃刀の刃を湯で洗い流す。
細かい毛も丁寧に流してしまうと、手首に刃を当てた。
綺羅星は慣れているようだったが僕にとってはあまりに不意打ちの行為だったので、思わず「あっ」と詰まった叫びが飛び出た。
もちろん、叫んだのは僕の身体のほうだから綺羅星の耳には届かない。
綺羅星は、手首と剃刀の刃を交互にしっかりと見つめていた。
これまでの彼女のどの視線の動きよりも、確かなまなざしだった。
「やめろ、おい! やめろ!」
綺羅星に聞こえないのはわかっている。
でも叫ばずにはいられない。
剃刀の歯が、手首に当てられる。
青くて細い血管が、白い素肌の下に集まっているのが透けて見えた。
垂直に押し当てただけでは、切れない。
ただ、刃物のかたちに沿って肌がへこむ。
刃が、手前に引かれた。
ガードがついているタイプの剃刀だから、やはり切れない。
でも、赤い引っ掻き痕はしっかりと残った。
「どうして……君は一体——!」
目を塞いでしまいたかった。
綺羅星のこんなところは——いや、誰のものでも——、見たくなかった。
僕が見たかったのは、死にたくなる理由にあたるものであって、手首を切っている彼女の姿ではなかった。
しかし、綺羅星は自分の腕が傷つけられるのを真っすぐに見ていた。
今の僕は自分の意志で見るものと見ないものを決められない。
白い手首の向こうに、綺羅星のしっとりと濡れた黒い陰毛が見えていた。
でも綺羅星の目のピントはそこには来ておらず、ぼんやりとしか見えなかった。
「やめろ、綺羅星! やめろよ!」
彼女は何度か刃を往復させ、浅い傷を複数本作ると、またじっと手首を見つめた。
紅色の線のうち、ところどころは皮膚を破ったようで赤く艶のある小さな玉が、線の上につぶつぶと小さく丸くふくらんでいた。
やがて、シャワーで血の玉を流すと、綺羅星は風呂から上がった。
そして長袖のパジャマで手首を隠し、髪の毛をバスタオルで拭きながら、また幸福な空気で満たされたリビングへと戻っていった。
テレビの前のソファに座り、母親や妹と軽口を叩いた。
不穏な要素がないことが、逆に不穏で不気味だった。
僕は、今日起きたことや見たことの、すべてのちぐはぐさにぐったりと疲れていた。
リビングには、ねこやなぎの花が活けられていた。
視界の端にちらりと映っただけだが、あの白くてふわふわな花穂はねこやなぎで間違いないだろう。
たしか、春の花だ。
ねこやなぎのうぶ毛が、綺羅星の唇の上の毛を思わせた。
僕はまたくらくらした。
そう、剃刀はうぶ毛を剃るためのものなのだ。
決して、手首を刻むために使うものなんかじゃないんだ。
(完)
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