20 激闘
気のせいではない。この香りは体に毒だ。
それに気づいた時には、前にいるクヌートとジェイ先輩の体がふらついていた。咄嗟に後ろから延ばした腕を、クヌートが振り払って俺を突き飛ばす。
「貴様だけでも……!」
「クヌート!」
瞬く間に二人は蠢く茨に捕まって、他の騎士たちと同様にくぼみに引きずり込まれていった。
「なんだ、これ……魔力が吸われていく……っ」
その一言でなんとなく察した。
この茨の樹の魔物は、騎士たちから魔力を吸引している。だからトーラさんやミューマさんでも苦戦しているんだ。
ファンが、姫君が心を込めて譲り渡してくれた魔力をよくも……。
許せない。
俺は弓を強く握り締めた。
「ネロ! お前は退避だ! 団長たちに伝えろ……!」
「でも!」
「いいから……早く、ここから離れろ……っ」
ジェイ先輩の声がか細くなっていく。
ただちに森から離脱して、騎士団本部に報せを出す。それが今の俺がすべきこと。
……でもそれは、九名の仲間を見捨てるということに他ならない。応援が駆けつけるのに何時間かかる?
みんなの魔力が尽きたら、魔物に命を奪われる可能性が高い。今にも魔物が捕食行動を取るかもしれなかった。
組織の人間としての正しさと、ただの人間としての弱さがせめぎ合い、ほんの一瞬で答えが出た。
俺は、何もせずに仲間に背を向けることはできない!
甘い香りがさらに強くなり、脳が揺れ、吐き気がする。俺は片膝をついて弓を構え、矢に魔力を込めて放った。狙いは樹の魔物の幹だ。
「馬鹿が!」
トーラさんの怒声が聞こえた。命令違反は重々承知だ。
矢は真っ直ぐ魔物の目の部分を射抜いた。魔力によって強化された一撃は、そのまま樹の幹に風穴を開ける……はずだった。
「なんで……!?」
不発。矢は茨によって砕かれ、魔物の目の傷もすぐに再生する。
……そうか、魔力だ。この魔物は人間が本来持つ命属性の魔力を吸っている。ただ魔力を込めただけの矢では、傷つけられないようだった。
試すべきは、魔術による属性攻撃だ。弱点を突かないとこの魔物は倒せない!
魔術の素養も知識もない俺では打つ手がなかった。
絶望を吐き出すとともに、また妖しい香りを吸い込んでしまった。眩暈は激しい頭痛に代わり、視界を明滅させる。もうまともに狙いを定めて弓を引くこともできそうにない。
最後の選択の時だった。あと一呼吸でもしたら、足が動かなくなるだろう。
力を振り絞って逃げるか、否か。
「…………」
母さん、ごめん。
俺に何かあったら、まとまった金が病院に支払われることになっている。それで命を繋いでも絶対に母は喜ばないと分かっているけど、騎士になると決めた時からある程度の覚悟はしていた。母を悲しませることになるかもしれない、と。
父さんも……ごめんなさい。
母を代わりに守ると墓前で誓ったのに、中途半端なことしかできない。
でも、きっと父がこの場にいても同じことをすると思う。そういう人だって、俺は知ってる。
俺は全員を救うための最後の賭けに出た。
弓を手放し、代わりに短剣をしっかりと握って、最後の力を振り絞ってくぼみの中に飛び込んだ。
宙にいる一瞬、脳裏に彼女のピカピカの笑顔がよぎる。
メリィちゃん、ごめん。本当にごめんね。
どうか、こんな馬鹿な俺を、最後まで……嫌いにだけはならないでくれ。
「えっ」
心臓の辺りが急に光り、ほのかに熱くなった。
着地と同時に茨を切り裂く。思っていたよりも体が重くない。頭痛が和らぎ、意識もはっきりとしてきた。呼吸をしてもそれは変わらない。
不思議だ。くぼみに入ったらすぐに魔物の茨に絡めとられると覚悟していたのに、俺に取りつこうとはしてこない。戸惑うように周囲を右往左往しているだけだ。
……胸を押さえたら分かった。首から下げたメリィちゃんのお守り石が熱い。
俺を守ってくれている。
「っ!」
感極まって泣き出しそうになるのを堪え、歯を食いしばって必死に手を動かした。
俺は、この局面を唯一ひっくり返してくれそうな騎士を一人選び、救出することにした。
「ミューマさん!」
意外なほどすんなりと短剣が通り、茨の繭の中から小柄な少年を引っ張り出す。
彼は意識を失っておらず、すぐに鋭い視線を魔物に向けた。
「ありがと、ネロ」
短い言葉の後、すぐに詠唱に入った。
いや、これは多分、茨の繭の中でずっと詠唱していたに違いなかった。既に重苦しいほどの魔術の気配を感じる。
ミューマさんが怒っている。完全に目の瞳孔が開いていた。感情の起伏の少ない冷静な少年が、途方もない怒りと魔力を込めて魔術を発動しようとしている。
ずっと吸収されていたはずなのに、どこからこんな魔力が?
近くに座り込む俺は、ただただ凝縮される術式の気配を感じて震撼していた。どれだけの威力になるのか、考えただけで恐ろしい。
強い危機を感じたのか、動きを鈍らせていた樹の魔物が茨を束にして一斉に伸ばしてくる。
「うざったいんだよ、雑魚が」
ミューマさんが杖を一振りした。
風の魔術が向かってくる茨を木っ端みじんに引き裂く。
「仲間を傷つける奴は……ぶっ殺してやる」
全身の血が凍りつくような冷たい声だった。
いや、凍りついたのは魔物の方だ。バリバリと凄まじい音を立てて、茨も幹も根も一気に凍結した。急激に気温が下がり、一面の景色が真っ白だ。吐き出す息まで白い。
広範囲の魔術攻撃。しかも氷結攻撃は、水の複合魔術でとんでもなく高度だと聞いたことがある。
まさに、見る者全ての臓腑さえも凍えさせる一撃だった。
ミューマさんの銀髪も白い肌も薄っすらと霜を纏っていて、この世のものとは思えない冷たく神秘的な美しさを携えている。
……白銀の天使と呼ばれるわけだ。
最後にミューマさんがごみを振り払うような緩慢な動作で風の魔術を放つと、樹の魔物は粉々に砕け散った。妖しい香りも霧散し、完全に魔物の気配が消える。
……助かった。ミューマさんが怒りに任せて一帯の森ごと焼き払うんじゃないかと冷や冷やした。ちゃんと冷静だった。良かった。
美しく残酷な世界を前に誰も言葉を発せない中、ミューマさんの体が傾く。俺は咄嗟に受け止めた。
これは多分、急激に魔力を消費した反動だろう。彼の右手の紋章も光を失っている。
「大丈夫ですか!?」
「………………うん」
眠たそうながらもはっきりとした返事があって、俺はほっと息を吐いた。
「っ!」
その一瞬の気の緩みを狙われた。
至近距離で剣戟の音が響き、心臓が止まるかと思った。トーラさんが俺とミューマさんを庇うようにして剣を構えていた。
彼の視線の先には黒い影……否、黒衣を纏った眼鏡の男がだらりと立っていた。
「せっかく育てた魔物が……この失態、美しい少年の首でも持ち帰らなければ、我が君の機嫌を損ねてしまう。そこをどけ、ニンゲン……」
ぼそぼそと呟かれた言葉にぞっとした。
細い手足に、異様に長く伸びた金属のような光沢の爪。白と黒が混じる異様な髪色。どちらかと言えば整った顔立ちだが、目の下のクマが真っ黒で精気を感じなかった。人間の姿をしているのにとても同じ生き物だと思えない。
トーラさんが助けてくれなかったら、俺かミューマさんはいとも容易く首を刈り取られていた。
「お前、悪魔か」
「ご名答……ああ、お前の首でもいいな。黒髪が美しく、血によく映える……」
トーラさんは舌打ちをすると同時に地面を蹴った。双剣と爪が激しく交錯し、音が遅れて聞こえてくるくらいのスピードで戦いが展開される。動体視力に自信のある俺でも、かろうじて追えるレベルだ。
「悪魔……?」
「ちょうど昨夜話した奴だね。魔女の契約者――現世では魔女の擁する最強の使い魔。奴が出てきたってことは……」
ミューマさんは体を起こそうとして失敗し、地面に転がった。助けようとした俺の手を振り払って言う。
「僕のことはいい……ネロはまだ動けるし、魔力も残ってるね? トーラの援護を」
「え」
「みんなまともに動けない。トーラでも、分が悪い」
見渡せば、他の騎士たちは満身創痍の状態だった。戦うどころか、這うようにしてトーラさんの戦いの邪魔をしないように移動するのが精一杯みたいだ。ジェイ先輩がふらつきながら、茨を砕いて回っている。
トップ騎士だから、姫君から譲渡された魔力が並外れて多いから、トーラさんはまだ動けている。しかし万全の状態ではない。未知の悪魔相手にどれだけ戦えるのか分からなかった。
「ネロ! 受け取れ!」
クヌートが置いてきた弓を俺に向かって投げた。遅れて茨に囚われた彼もまた顔色が悪く、立ち上がるのがやっとのようだった。
受け取った弓の弦は緩んでいないし、矢筒は背負ったままだ。体調も元に戻った。俺はまだ戦える。
でも、下手に矢を射れば、トーラさんの戦いのリズムを崩してしまうだろう。その隙が命取りになるかもしれない。もしも背に当ててしまったらと考えると、腹の底がさらに冷えた。
「自信を持って。大丈夫」
「ミューマさん……でも」
「トーラは、自分が死ぬのが嫌でネロを遠ざけてたんじゃないよ。味方に攻撃を当ててしまった射手がどれだけ傷つくか知ってるから……トーラは、戦死した射手とは仲が良かったんだ。また同じことを繰り返したくないと思ってる。だからネロのこと、前線に要らないって言ったんだよ」
俺は小さく息を呑んだ。
誤射から始まった一連の出来事で、唯一の死者は射手だ。トーラさんは自分が傷つくことよりも、同じ射手である俺が同じように戦い、失敗し、焦って死ぬことを厭っていたのか。
「僕は、トーラにも死んでほしくない。お願い、助けて」
ミューマさんの懇願に対し、気づけば強く頷きを返していた。
彼を安全な場所まで移動させると、弓を握り締めてくぼみを駆け上がる。
そうか。使い魔戦で戦死した射手は、トーラさんにとって大切な友達だったのか。
彼の誤射からアステル団長を守って、しかし友達を使い魔から守ることはできなかった。
トーラさんの心中を想い、言葉にできない悔しさを覚えた。俺のことも、守るつもりだったんだ。
守ることが彼の騎士道だから。
茂みに飛び込んでから気配を消して移動し、ほとんど片手だけで素早く木に登る。
枝の上からくぼみの全体を見渡した。トーラさんと悪魔が激しく打ち合っている。その人間離れした動きに、誰も武器を構えたまま手出しできないでいた。
一部はこの場を離れて本部に連絡に行ったようだ。ミューマさんも他の騎士に守られている。
矢を番えて、深呼吸を一つ。
この場にいる全員、俺の存在を意識していない。ここから狙っていることを知らない。逸る心臓を落ち着かせ、矢に魔力をじわじわと込めながら機を待った。今はまだ早い。
「…………」
よく観察しろ。動きの先を読め。牽制の矢を射ることはできない。一発勝負だ。失敗は許されない。
ほとんど呼吸をする余裕もないのだろう。魔力も残っていないのかもしれない。徐々にトーラさんの動きが乱れていく。それを悪魔が淡々と追い詰めていった。
もう時間がない。
胸の内に問いかけた。相手は悪魔とはいえ、人間の形をして言葉も喋っている。俺に狙うことができるのか?
波紋が広がるように、心が動揺する。
しかしすぐに覚悟を決めた。仲間の命を守るためなら、俺は何を捨ててもいい。
「やはり魔力を吸い取る手段は有効だ。忌々しい騎士を、ついにこの手で仕留めることができる……」
「! クソが!」
悪魔の強烈な一撃でトーラさんの体勢が崩れる。
とどめを刺さんと嬉々として爪を振るう悪魔に対し、俺は凪いだ心で弓を引いた。
鋭く、素早く、ただ真っ直ぐ無心で。
会心の弦の音が響く。
隠れて獲物を狙う狩人の一矢。
正々堂々とは程遠いし、騎士らしいとは口が裂けても言えないけど……これが俺の戦い方だから。
矢はトーラさんの肩の上を通り、悪魔の胸をぐさりと貫いた。
「ぐぁっ!」
効果はあった。悪魔が動きを止める。
しかし絶命には至らない。わずかに心臓からずれていたのか、そもそも悪魔には心臓が急所という概念がないのかもしれない。
よろめきながら悪魔の顔がこちらを向く。俺は反射的に木から飛び降りた。
直後、俺のいた枝が闇の渦に飲み込まれた。
悪魔が額に青筋を立ててこちらを睨んだが、青い粒子を纏った二対の剣がそれを阻む。
「はっ、散々脅したのによく際どいところを狙えたもんだ!」
トーラさんは剣を避けられた瞬間、悪魔に対して蹴りを入れた。
間合いができて、俺をちらりと見るその顔には、好戦的な笑みが浮かんでいる。
「いかにも自信なさそうにしやがって。そんな奴に背中を預ける気にはなれなかったが……いいぜ、遠慮なく射れ!」
その瞬間、トーラさんの動きが変わる。
悪魔を翻弄するように手数を増やし、変則的に足運びに緩急をつけていた。
……意地悪だ。俺の度胸を試している。
俺は次の矢を番え、二人の動きを追って移動する。ちらちらと悪魔がこちらを見るが、トーラさんのおかげで魔術攻撃をする余裕がないようだった。
観察していたら、トーラさんの動きには一定のリズムが見えた。俺を誘導しているかのようだ。
悪魔はトーラさんだけに集中していないし、きっとまだ気づいていない。
「!」
ここだ、というタイミングでトーラさんが一歩身を引く。その瞬間を狙って放たれた矢が、今度は悪魔の首を貫いた。彼が予想通りの動きをしていなかったら、矢はその背を傷つけていただろう。
自分でも怖いけど、不思議と動揺はない。トーラさんならそう動くと分かっていたし、信じていた。
「ネロ、てめぇ、実はクッソ生意気だろ!」
そうなのかな? そうなのかもしれない。
期待通りの働きができたのか、トーラさんは見たことないくらい楽しそうだった。
一方、悪魔は殺意をみなぎらせて俺たちを睨む。まだ死なない。やっぱり根本的に人間とは体の作りが違うようだ。
それでもダメージはあったみたいで、血で溺れたような声で呟いた。
「ニンゲン風情が……ああ、忌々しい、腹立たしい。だが、まぁいい……成果はあった……」
「逃がすかよ!」
急に冷静になった悪魔に対し、トーラさんが追撃を仕掛ける。
しかし悪魔の逃げ足の方が早くて狡猾だった。貫かれた矢を首から抜いた瞬間、傷口から血の棘が出現する。
トーラさんの二対の剣がそれに阻まれている間に、悪魔の姿は霞のように消えた。瞬間転移なんて、とても高度な魔術だ。それを詠唱もなしにやってのけるなんて、やっぱり人間ではないみたい。
トーラさんから特大の舌打ちが漏れた。動きを止めた瞬間、力尽きたのかがくりと地面に膝をつく。
「トーラさん! しっかりして下さい!」
「うるせぇ……」
彼の顔は真っ青だった。とうに限界を超えていたんだ。悪魔が退かなかったら危なかったのはこちらの方だった。
後で詳しく話を聞いたところ、索敵班はこの地点で変異種の魔物を発見次第、トーラさんが幹を切断し、ミューマさんが火の魔術で燃やして討伐したらしい。その時点で青い信号弾を打ち上げた。
しかしそれは魔物のダミーに過ぎず、本体は地中に隠れていた。突然地面が崩れ、体の自由を奪う毒が拡散した。現れた茨の束に絡めとられ、騎士たちはくぼみに落ちて魔力を急速に吸い上げられてしまったとのことだ。咄嗟にミューマさんは赤い信号弾を打ち上げたけど、その後に集中攻撃を受けたらしい。
植物型の変異種の魔物に、段階的に人間を陥れるような知能があるとは思えない。
おそらく全てあの眼鏡の悪魔が仕組んだことだろう。
その日、数十年ぶりに王国内で悪魔の存在が確認された。
アステル団長が喉から手が出るほど欲していた、魔女への手がかり。
……歴史が大きく動き出そうとしていた。
第4章・完
申し訳ありませんが、次回更新までお時間をください。
今後の参考に、気になるキャラクターを教えていただけると嬉しいです。
(SSを更新するかもなので候補を絞りたくて……)
よろしくお願いいたします。
 




