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ツキノウサギ  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
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02//夢の日々

 そうこうしているうちに飛馬あすまの退院の日取りは決まり、数日後、私とお母さんは朝一番に飛馬を迎えに行った。お兄ちゃんは、どうしても仕事が休めなかった。


 結局、入院から退院まで、お父さんが飛馬の顔を見にくることは一度もなかった。それどころか、この一週間、家にだって帰っていない。


 その代わり、すー兄ちゃんは毎日欠かさずお見舞いに来てくれていた。お陰で飛馬は一人ぼっちでも退屈しないですんだし、いつの間にか私もすー兄ちゃんに会うのが楽しみになっていた。


 でも、一つだけ――。


 私たちには心配なことがあった。それは、飛馬が退院したら、もうすー兄ちゃんに会えなくなってしまうということだ。


「平気だよ、姉ちゃん。すー兄ちゃん、山へ連れてってくれるって約束したもん」

「うん…そうだよね」

「姉ちゃんだって、着物買ってもらうんだろう?約束してたじゃんか」

「ん…」


 それでも私はすっかりしょげ返っていた。


 そりゃあ私だって、すー兄ちゃんは絶対嘘なんかつかないって、そう思う。だけど何となく、すー兄ちゃんが遠くなってしまうような気がして…。


 せっかく仲良くなれたのに。

 こんなにも大好きなのに…。


 そう言えば、今日はまだすー兄ちゃんを見ていない。いつもなら、もうとっくに来ている時間だ。


 そわそわする私に、おじいちゃん先生が言うことには――。


「伊織ちゃん、今日は昴琉すばるお兄さんはお休みなんだ。ごめんね」

「え…?」

「待っていたんだろう?」


 なぜだか急に頬が熱くなって、私はあたふたと顔を伏せた。


「べべべ、別に待ってたとか…そういうのじゃ…」


 口ごもると、おじいちゃん先生はにっこりと優しく微笑んでこう言った。


「どうも急な用事らしくてね。昨夜遅くに慌ててやって来て、君たちにくれぐれもよろしくと言っていたよ」


「すー兄ちゃん…」

 とうとう飛馬も俯いてしまった。ここに高基お兄ちゃんがいたなら、きっと私たちと同じように下を向いているだろう。


「あんまり甘えちゃご迷惑よ、二人とも。さ、先生にお礼を申し上げて帰りましょう?」


 そう言われても、私の足は地面にくっ付いてしまったみたいに動かない。自分がひどくお母さんを困らせているのは分かっていたけれど、それでも私は硬く口を結んでじっと自分の足元ばかりを見ていた。このまま帰るのはどうしても嫌だった。


「だって母ちゃん、俺、男の約束したんだもん!すー兄ちゃん、また一緒に遊んでくれるって言ったもん!!」


 飛馬が必死に駄々をこねている。私だって、このままもう二度とすー兄ちゃんに会えなんじゃないかって、今にも涙がこぼれそうだった。


「でも、お忙しい時もあるわ」

「……」

「本当に…あの方には、何から何までとても良くしていただいて。お見舞いもたくさんいただいてしまったし、子どもたちもずいぶんと懐いてしまって…」


 お母さんは、ぎゅっと私たちの肩を抱き寄せた。


「ははは。そんなに心配しなくても大丈夫。君たち、昴琉さんが来る時間は分かるだろう?その頃に、またここへ遊びに来たらいい。明日以降なら、ちゃんと時間どおりに来るはずだからね」


 驚いて顔を上げると、おじいちゃん先生はにこにこと笑っている。


「ほ、ほんと!?」

「来てもいいの!?」


 私たちの心の霧はすっかり吹き飛んでしまっていた。


「ああ、構わないよ。ついでに、時々はお手伝いを頼んでもいいかな?お駄賃ぐらいは出すから」


 おじいちゃん先生は片目をつぶってそう言った。


「わあい!!」

「やったあー!」


 診療所の中だということも忘れて、私たちは思い切り声を上げて喜んた。


「でも…こんな小さな子たちがこんなふうに騒いでは、他の患者さん方にご迷惑ですわ」

「いやいや、迷惑だなんて。実は、うちの患者さんはお年寄りが多くてね。中には、独り身の方も結構あるんです。ここでこんなに可愛い孫ができれば、きっと可愛がってくださるでしょうし、それで心を癒される方もたくさんあるはずですよ」


「え…ええ。ですけど…」

 まだお母さんは戸惑っている。


 すかさずお母さんに縋り付き、私たちは必死になって頼み込んだ。


「母ちゃん、だめ?俺、一生懸命先生のお手伝いするからあー!」

「私もっ。私もちゃんとやる!お掃除もお洗濯も全部して、それから診療所のお手伝いもしっかりするから!!」


 もう一押しとばかりお母さんの手を引っ張って、私たちは懸命にねだり続けた。お母さんが「うん」と、たったひとこと言ってくれたらそれで良かった。


「お願い!!」

「母ちゃん、お願いーっ!」


「困ったわね…」

 お母さんは大きなため息をついた。


「どうか私からもお願いしますよ、多鶴たづるさん。昴琉さんもきっと喜ぶはずですから。良ければ、高基たかきお兄ちゃんも誘って、みんなで遊びにおいで」

「はあいっ」

「ありがとう、おじいちゃん先生っ!」


 あんまり嬉しくて、私たち二人はおじいちゃん先生に抱きついた。


 実は、私たちにはおじいちゃんがいない。

 本当はいるのだけれど、お父さんが勘当されてるんじゃ花菱はなびしのおじいちゃんになんか会えやしないし、如月きさらぎのおじいちゃんは数年前に亡くなってしまっていて、結局、お兄ちゃん以外は会えず終いだったのだ。そのお兄ちゃんにしても、赤ん坊の頃にたった一度会ったきりで、実はよく覚えていないと言っていた。


 この日、私たちは新しいお兄ちゃんばかりか、新しいおじいちゃんまで手に入れてしまった。


「すみません、琴陵ことおか先生。なんだかずっとお世話になりっぱなしで…」

 お母さんは深々と頭を下げた。


「ははは…。なんのなんの。こちらも助かりますから」


 私と飛馬を首にぶら下げたまま、おじいちゃん先生はまたにこにこと笑っていた。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 こうして、私たちは琴陵診療所で働くことになった。

 一番忙しいお兄ちゃんは、刷り物屋の手伝いが休みの日と午後の診療の手伝いに呼ばれた時だけ一緒に診療所へ出かけることになった。

 働くといっても、夕飯のお使いを頼まれたり、薬を届けに患者さんの家へ行ったり、待合室のお年寄りの話し相手になったりするだけだ。たったそれだけで、おじいちゃん先生は私たちにそれぞれ五〇円ずつのお駄賃をくれる。診療所の裏にある駄菓子屋で、ちょうど二つ三つお菓子を買えるだけのお駄賃だ。


 日が暮れると、いつもお兄ちゃんが迎えに来てくれる。

 私たち三人は、その日もらったお駄賃で時々はお菓子を買って帰った。でもそれも本当に時々。なぜかと言えば、わざわざそんなことをしなくても、すー兄ちゃんや患者さんたちが、色々なオミヤゲをくれるからだ。


 中でも、すー兄ちゃんのオミヤゲは、とびきりすごいのが多い。一体どこから手に入れるのか、たまには舶来のお菓子なんかも持ってきてくれる。「たると」だとか、「くっきい」だとか言っていたけど、そんなの聞いたこともない。見たのだって初めてだ。


「すげえー!貴族の子だってこんなの食べたことないよ、きっと!」


 すごいお菓子をもらうと、いつも真っ先に歓声を上げるのはお兄ちゃんだった。


「ま、ちょっと俺には甘すぎるんだよな、こういうの…。せっかくもらってもほとんど残っちまうし、おまえたちが食うって言うなら、むしろこっちは助かるよ」


 木箱に腰掛けたすー兄ちゃんが、頬杖をついて笑う。


 診療所の裏手へ抜ける細い路地が、私たちの溜まり場だった。朝一番に診療所へ来ると、まず私たちはここでお菓子を食べながらすー兄ちゃんと時間を潰す。ほんの僅かな時間だけれど、いっぱい色んな話をして、大好きなすー兄ちゃんと一緒に過ごすというのが日課なのだ。


 ここのことを、私たちは「横っちょ喫茶」なんて呼んでいた。診療所の勝手口のすぐ脇だし、おじいちゃん先生が置いてくれた木箱を椅子やたくに見立てると、ちょっとした茶店のような感じになるからだ。

 そうして、アッという間の楽しいひと時が過ぎ、すー兄ちゃんが次の仕事に出かける頃になると、この診療所にもちょうど開院時間がやってくる。ここから私たちのお手伝いが始まる。


 飛馬の手術にまつわる一件のせいで、正直、若先生にはあまり良い印象のなかった私たちだけれど、話をしてみればそれほど嫌な人ではなかった。小さいとはいえ、診療所の経営にはたくさんのお金が必要で、あれはそんな気持ちから出た悪気のない言葉だった――と、後からすー兄ちゃんが教えてくれた。

 その若先生も、今では私たちにとても良くしてくれる。


「あ!これ、おいしー!!」

「ほんとだ!」


 すー兄ちゃんからもらったお菓子を頬張りながら、いつも私たちは嬉々としていた。本当に毎日が楽しくて仕方がなかった。


「ねえ、すー兄ちゃん。いつもどこでもらってくるの、こういうの?」


 飛馬が興味津々の顔をして言った。


「ん…?まあ、金持ちの客のところへ行けばな…。時々はこういうこともあるさ」

「ふうん。じゃあ俺も薬屋さんになろうかなあ」


 私は思わず吹き出した。


「お菓子もらうために薬屋さんになるの、飛馬?」

「だめかな」

「じゃあお菓子屋さんになったらいいじゃない」

「あ、そっか」


 ふと見ると、なぜかお兄ちゃんがもじもじと俯いている。どうしたの――と声を掛けようとしたら、先にお兄ちゃんの方が口を開いた。


「あのね、すー兄ちゃん…」


 それは、風に消えてしまいそうに小さな声で――。


「俺はさ…ほんとは、ちょっと興味あるんだ。その…薬とか…さ、そういうの…」


 目をまん丸にしたすー兄ちゃんが振り向いた。


「へえ…。って、おまえ、本気で言ってるのか?」


「うん…」

 お兄ちゃんは、恥ずかしそうに耳まで真っ赤にして頷いた。


 びっくりした。私も飛馬も、お兄ちゃんがそんなことを考えてたなんて全然知らなかった。ううん、きっとお母さんだって知らないと思う。


「だけど、そいつはものすごく勉強しなきゃなんないぜ?並大抵の努力じゃ無理だ。俺だって、未だに勉強してるんだから」


 すー兄ちゃんはひどく真剣な顔で、お兄ちゃんの顔を見ていた。


「うん…分かってるよ。で…それでね、どうやったらなれるのかなあ…って思って…」


 もじもじしながらそう言うと、すー兄ちゃんはふっと笑って木箱の上に胡坐あぐらをかいた。


「自分で作った薬で商売するにはさ、そういう試験があるんだよ。まずはそれを通過して認可を受けないとな。とはいえ、なかなか難しいんだぞ。ま、俺は一発で通ったけどな」


 すー兄ちゃんは得意げに胸を張った。


「そっかあ…。じゃあさ…俺に教えてよ、色々さ」

「そいつは構わないが――ところでおまえ、学校へは行ったことがあるのか?」


 そんなはずはない。


 だいたい、学校へなんか行けるのは、貴族や大きな商家の子どもだけだ。ただ通うだけで毎月お金も要るし、働きながら通えるほど勉強だって甘くないと聞く。つまり、学校なんて私たち庶民の行くようなところでは決してないのだ。


「んーん…」

 お兄ちゃんはすっかり消沈しょうちんしたようだった。


 飛馬と私もふるふると首を振る。


「俺もない」

「私も」


 すー兄ちゃんは尚も尋ねた。


「字は?読み書きはできるのか?」

「ううん…どっちも…」


 お兄ちゃんの声がどんどん小さくなってゆく…。


 その気持ちは、私たちにも痛いほど分かった。きっとお兄ちゃんは、抱いたばかりの夢を、そんなの無理に決まってる――と、砕かれてしまうのが怖いに違いない。

 たくさん勉強をしなきゃならないのなら、たくさん本だって読まなきゃならない。それも分かる。でも、それ以前に文字が読めないというんじゃ勉強なんか無理だとも確かに思う。


 だけど――。


 そんなふうにたしなめられるとばかり思っていた私たちの予想は、いともあっさりとくつがえされた。


「ふうん。じゃ、まずそっからだな。となると先は長いぜ、高基?」


 なんと、すー兄ちゃんからは、いつもと変わらぬの笑顔が返ってきたのだ。正直、耳を疑った。


「え…?」

 目をまん丸にしたお兄ちゃんが、ぴょこんと顔を上げた。


「なにシケた顔してんだ、おまえ。薬屋になるんだろう?こんなことでへこんでる場合じゃないぞ?」


 てっきり馬鹿にされると思っていた。高基おまえには無理だって笑われると思っていた。なのに、すー兄ちゃんの顔はびっくりするほど真剣だった。


「あ…。が…頑張るよ、俺…!!」


 さっきまで曇っていたお兄ちゃんの顔が、見る見るうちにに輝いてゆく。すると、なぜだか私たちまで嬉しくなって、お兄ちゃんに負けじと声を張り上げた。


「ずるいよ、たか兄ちゃん!俺もやるー!!」

「じゃあ私もっ」


 やっぱりすー兄ちゃんはすごい。人を元気にする天才だ。


 すー兄ちゃんは、順番に私たち三人の頭を順番にごしごしと撫で、にっと歯を見せて笑った。


「よおし!ここはいっちょ、みんなまとめて面倒見てやるか!」

「わあーい!!」


 こうして、今度は私たち兄弟にとびきりの先生ができたのだった。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 朝早くに山へ薬草を採りに行くと、いつもすー兄ちゃんはその足で診療所にやってくる。そして、横っちょ喫茶で少し私たちの相手をした後、今度は行商の仕事へと出かけてゆく。

 夕方からはいつも薬を作ったりしていたそうだけど、その時間を週に一・二度、私たちの勉強のためにいてくれることになった。


「本当にいつもすみません。子どもたちが我侭わがままばかり申し上げて…」

「いえ、俺は構わないんですけど…。でも、ご迷惑じゃないですか?ご主人やご近所の手前もあるし…。なんだか押しかけるような形になってしまって、逆に申し訳ないな」


「あ…。いえ、そんなこと…」

 お母さんが何度も頭を下げている。


 ちゃぶ台に並んだ私たち兄弟は、すー兄ちゃんの言いつけどおり、教えてもらった平仮名をぶつぶつと口先で唱えながら、何度も帳面に書いて練習した。この帳面も鉛筆も、全部すー兄ちゃんが持ってきてくれたものだ。


「琴陵先生にお願いすれば、診療時間後の待合室ぐらいは貸してもらえると思うんですけどね」


「ほんとにみなさんに甘えっぱなしで、私…」

 お母さんは恥ずかしそうに肩をすぼめた。


「いや、あのね…実は俺も色々と救われてるんですよ。そう思ったらお互い様ですから…」


 どういうわけか、すー兄ちゃんまで恥ずかしそうだ。それに気付いてしまった瞬間、突然私の中で、もやもやとした何かが首をもたげた気がした。


「え?」

 お母さんは目を丸くした。


「え…と、上手く言えないんですけどね、気持ちの上ではもう何度も彼らに助けてもらってます。あの子たち見てたら、頑張れるんですよね。嫌なこととか辛いこととか、全部」


 照れたように笑ったあと、すー兄ちゃんはなんだか気まずそうな顔をして俯いた。


(私たちの前じゃ、あんな顔しないくせに…!)


 なんだかちっとも面白くない。もやもやは更に大きく膨らんだ。


「ほんとは、多鶴さんもそうなんじゃないですか…?」

「ええ…そうね。私もそう」


 くすりとお母さんが笑った。何となく頬が染まっているように思えるのは気のせいだろうか?


(まったくもう…!)


 気にしなきゃいいのに、お母さんとすー兄ちゃんのことがどうしても気になって仕方がない。帳面にぐりぐりと文字を書き綴りながら、肝心の集中力の方はまるっきりお母さんたちに持っていかれてる――。


「……」


 私はぎゅっと眉を結んだ。


「はい!できたよっ、すー兄ちゃんっ!!」


 むんずと帳面を差し出すと、すー兄ちゃんは話をやめて、こっちへ近づいてきた。


「どれどれ…って、おまえ…これ、ここから全部ねる向きが逆だろう!?」


 帳面を見るなり、すー兄ちゃんは問題の箇所を指差した。見れば、確かに「ふ」の字の真ん中が全部逆を向いている。


「あ…ほんとだ…」

「ちゃんと手本をよく見て書け。あともう少し丁寧に。伊織は同じ字をあと十回ずつな!」

「はあーい…」


 集中できないのは全部すー兄ちゃんたちのせいなのに…と、心の中ではぼやきつつ、私はすごすごと引っ込むしかなかった。


「あら、もうこんな時間。昴琉さん、今日はお夕食どうなさいます?何もありませんけど、宜しければ…」

 お母さんはいそいそと立ち上がった。


「あ…。ええと、俺は――」

「食べていきなよ、すー兄ちゃん!」


 すかさず飛馬が飛びついた。


 どうも飛馬は、勉強がしたいと言うより、単にすー兄ちゃんに構って欲しいだけのようなのだ。今日に限らず、この頃の飛馬ときたら、何かとベタベタとすー兄ちゃんにくっついていく。

 正直な話、そういうのを見てるのも面白くない。なぜだか分からないけど、とにかく気に入らなくて仕方がないのだ。


「……」

 私は一人で口を尖らせていた。


「いやあ、でもなあ…」


 まとわりつく飛馬をあやしつつ、すー兄ちゃんは言葉を濁している。


「いいから、いいから。ね?もうちょっといてよ、すー兄ちゃん」

 ずっと黙々と練習を続けていたお兄ちゃんも手を止めた。


「だって、おまえたちの父ちゃんが帰ってきたら色々とさ…。ほら、母ちゃんの立場が悪くなっちゃうだろ?」

「そんなの平気だよお。ほんとに滅多に帰って来ないんだからあ」


 しつこく首にぶら下がり、べったべたの猫撫で声を出して甘える飛馬だ。


 でも、よく考えたらすごく不思議。

 飛馬ってこんな子だったっけ?


 そうだ――。

 そもそも私たち、お父さんに甘えたことなんかあったかな?


「そうだよ。無理言って勉強教えてもらってるのは、俺たちなんだしさ。ね、母さん?」


 お母さんまでにこにこ頷いてる。

 飛馬もお兄ちゃんもお母さんも――みんな、どうやらよほどすー兄ちゃんを帰したくないらしい。


 そりゃあ私だってそうだけど…。でも、すー兄ちゃん、すごく困ってるじゃない。


「うーん、そうは言っても…。弱ったな…」


 その時だった。


 けたたましい下駄の音がいきなり近付いてきたかと思うと、表戸が、がらりと音を立て――。


「んもー!ちょっと、すーちゃんっ!!」


 現れたその人は、派手な葡萄えび色の着物に、つややかな黒髪と白い羽根の肩掛けを小粋に引っ掛けた女の人――のように見えた。


「アタシに仕事押し付けて、何こんなところで油売っちゃってるわけえ?」


 見たこともない風変わりな女の人が、うちの玄関で金切り声を上げている。

 わけも分からず、呆気にとられる私たちをよそに、女の人は、ずかずかとうちの土間へ上がりこむと、下げてきた大きな薬箱をすー兄ちゃんの前にどすんと据え、そうして――。


「冗談じゃないわよ、まったくっ!」


 ついにはその場にぺったりと座り込んでしまったのだった。


「だ…誰?」

「すー兄ちゃんの知り合い??」


 ここでついにすー兄ちゃんが口を開く。ところが、ひどく苦りきった様子で口にした言葉は――。


武尊たける…」


 綺麗な容姿にそぐわない、凛々しくたくましいその人の名前だった。


「え!?ちょっ…えええっ?」

「おと…男の人っ!?」


 ずっこけんばかりの私たちに、武尊という名の女形おんながたは、パチンと片目を瞑り色っぽく微笑して見せた。


「おまえ、よく分かったな、ここが…」

「当ったり前じゃない!このアタシがすーちゃんのことで知らないことがあるはずないでしょっ?ほら、これ!自分で持ちなさいよ!もう、こーんな重いの持ってたら手が荒れてゴツくなっちゃうわよ。このアタシの白魚しらうおのような美しいお手々がさっ。あ――そう!ホラ、見て!!ここへ来る途中で、爪だって割れちゃったのよお!?どうしてくれンのよ、すーちゃん!!」


 存分に捲くし立て、武尊さんは開いた右手をすー兄ちゃんの前へと突きつけた。見れば、確かに細く綺麗な小指の爪に、うっすらと横に走る白い筋が見える。


 話しぶりから察するに、どうもこの人はすー兄ちゃんの仕事仲間のようだ。でも、この派手な着物に紅い爪――どう贔屓目ひいきめに見ても、薬屋さんになんか見えない…。


 ほんといったい…どういう人なんだろう…?


「とぼけようったってだめなんだからね!アタシからは絶対に逃げられないわよっ」


「はあ…」

 すー兄ちゃんは、うんざりとばかり大きなため息をついた。


 と、突然――。


「あらン…」

 何を思ったか、武尊という女形は、飛馬の顔をじいーっと覗き込んだ。


「こちらのボクは、大きくなったらきっといいオトコになるわねえ…。お名前は?」


 異様ななまめかしさにおびえ、飛馬は即座にすー兄ちゃんの背中にへばりついた。


「えと…。あ…飛馬…」

 一応返事はしているけれど、情けないぐらい小さな声だ。


「まあ、飛馬ちゃんっていうの。うふん…可愛いわ」


 細い指が頬に触れる――と、飛馬はびくりと体を震わせ、首をすくめた。


「やめろ、馬鹿!気安く触るなっ」

 すぐさまその手を払うすー兄ちゃん。


「んもう、何よう。別に獲って食おうってわけじゃないんだから、ちょっとぐらいいいじゃないのよう」


「…ったく、油断も隙もないな」

 またため息混じりにそう言うと、すー兄ちゃんはすっくと立ち上がった。


「すいません、多鶴さん。せっかくのお誘いですが、今日のところはこいつ連れて帰ります。どうも…ほんとにお騒がせしましたっ」

 さっさと草履を履いて、すー兄ちゃんは申し訳なさそうに頭を下げた。


「あ…は、はい。じゃあ、また…」

 何がなんだか分からず、呆気にとられるお母さん。


「すー兄ちゃん…」

 そして、追い縋るような飛馬の声…。


 すー兄ちゃんは慌てて笑顔を作り、私たちにぶんぶんと手を振った。


「じゃあ、さ…三人ともまたな。また明日っ!」

「う…うん」

「明日ね」

「ばいばい…」


 何となく釈然しゃくぜんとしない私たちから逃げるように、すー兄ちゃんは片手で薬箱、そしてもう片方の手で武尊さんの腕を掴んだ。


「ほら。帰るぞ、武尊っ」

「いやあん。待ってよ、すーちゃあん。あ――!ボクたち、またね!」


 すー兄ちゃんに引きずられながら、ゆらゆらと武尊さんが手を振っている。

 釣られて私たちも手を振ったけれど――。


 表戸がぱたりと閉まり、下駄の音が遠ざかってゆく。


 やがて、恐る恐るお兄ちゃんが口を開いた。


「だ…誰なんだろ、あの人…?」

「うーん…」

「ね、ねえ…もしかして…」


 飛馬が突拍子もないことを口走る。


「すー兄ちゃんの彼女…とか…」


「「「えええええッ!!」」」

 これには、私とお兄ちゃん、そしてお母さんまで同じ声を上げた。


 そして――。


 私の中で、またあのもやもやが暴れ始める。


「だって男なんでしょ、あの人っ!?」

「そ、そうだけどさあ…多分」


「でも…。き…綺麗なひとだったわよね…確かに」

 驚いたことに、お母さんまで変なことを言い出す始末。


「だけど男でしょっ!?」

 苛立ちついでにお母さんを睨み、私はむっと眉を結んだ。


 でも…。


 言われてみれば、確かにそのとおり。

 あの人、見た目だけなら立派な「女」だった。しかも、とびきりいいオンナ。女にしては背が大きめで、ちょっと派手な人ではあったけど…。


「そ、そう…よね、多分…」

 むきになる私に、お母さんは困ったような顔で笑った。


「そう言えば…。ねえ、すー兄ちゃんてどういう人?どこに住んでるの?」


「!!」

 何気ないお兄ちゃんの言葉に、私の胸はどきりと鳴った。


「さあ…?」

 飛馬も首を傾げている。


 そうだ。お兄ちゃんの言うとおりだ――。


 私たち、すー兄ちゃんのことなんか、なんにも知らない。名前と仕事以外は、それこそ何ひとつ。


 すー兄ちゃんって、一体誰なの?

 どんな人なの?

 どこにいるの?


 今頃何してるの――??


 その日、私は遅くまで寝付けなかった。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 何となくきたいことを口に出せないまま、その後もいつもと同じ日が続いた。

 相変わらず私たちは診療所の手伝いにきちんと出かけ、そこですー兄ちゃんに会って、他愛もない話に花を咲かせた。前に約束したように、夕方からは時々勉強も見てくれた。


 それほど顔を合わせていながら、私だけでなく、お兄ちゃんや飛馬まで何も尋ねようとしなかったのは、もしも訊いてはいけないことだったらどうしよう――って、きっとそう思っていたからだと思う。


 事実、私もそう思っていた。


 変なことを口走ったせいで、すー兄ちゃんの機嫌を損ねたりしたら困る。


 すー兄ちゃんに嫌われちゃったら…。

 もしも嫌われちゃって、それで…。

 それで、もう来ないなんて言われたら…。


 そんなの私、絶対に耐えられないもの…!!


 そんなある日、いつものように横っちょ喫茶で話しながらお菓子を食べていたら、すー兄ちゃんが意外なことを訊いてきた。


「それ、美味い…?」


 なんだかやけにおどおどしている。不思議に思いながらも頷くと、すー兄ちゃんはほっと眉を開いた。


「うん…。でも、なんで??何かあるの、これ?」

 私は袋から「くっきー」をもう一つ取り出した。今までにも何度かもらったことのある西洋のお菓子だ。

 おずおずと差し出すと、すー兄ちゃんはパクッとそれを口の中へ放り込んだ。


「いや、今日のこれさ…武尊が作ったやつだから…。この間、大騒ぎしたびに、おまえたちに…ってさ」


「「「ほえええええっ?」」」

 ぎょっと目を剥き、私たちは三人同時にへんてこな声を上げた。


 前に食べた「くっきー」と比べてみても、まったく遜色そんしょくのないその味も見た目も、それから、あの武尊さんが西洋のお菓子なんか作れちゃう事実、そして…すー兄ちゃんの口からまたあの「武尊さん」の名前が出てきたこと――。

 私たちはそのすべてに驚いていた。


「いや…あいつ、そういうの趣味でさ。体はともかく、あれで心の方は根っから女だから…」


「「「へええええええっ!?」」」

 また兄弟同時に変な声が漏れる。


 それってどういうの?

 体が男で中身が女?

 あの人、すごく女の人だったよ、すー兄ちゃん?

 名前以外はちゃんと女の人だったよ?


 ああ、だけどそう言えば――。


「またまたあ。おまえら、しっかり気付いてたろ?あいつが実は男だってさあ」

 すー兄ちゃんは恥ずかしそうに笑った。


「う、うん…。まあ…何となくは…。なあ?」

 苦笑いのお兄ちゃんが、こっちに助け舟を求めている。


 そう――確かにちょっと変な感じはした。最初は綺麗な女の人だと思ったけど、何となく…どことなく違う感じが…。


「うん…」

 私は小さく頷いた。


 その時、突然――。


「あのさ、すー兄ちゃんっ」


 どきりとした。お兄ちゃんの顔もいっぺんに緊張したのが分かった。


 だって今、飛馬が言おうとしていることなんか全部分かる。それはきっと、私たち三人が訊きたくても訊けずに、ずっと我慢してきたこと――。


「ねえ、あの人ってどういう人?すー兄ちゃんの彼女??」


「はア?彼女ォ!?」

 素っ頓狂とんきょうな声を上げ、すー兄ちゃんはぱちくりと目をしばたかせた。


「やめてくれよ…。俺はノンケだぜ」

「ノンケ?」

「男になんか興味ないっての!」


 すー兄ちゃんは、やれやれとため息をついた。


「ええと、じゃああの人…?」

「あいつは、何て言うか…昔からの友達で相棒で…。うーん、とにかく恋人とかそんなんじゃない。そんなことあってたまるかっ」


 恋人じゃないと聞いて、私たちの顔は途端に緩んだ。


「よかったあ…」


 ほーら、やっぱり!

 そんなはずがないじゃない!!


 だってあの人、男だもの。すー兄ちゃんも男なんだから、男の人を好きになったりするはずがないじゃない。


「…って、ちょっと待て!まさかおまえら、疑ってたのか!?」

「ん…と、す…少しだけ…」

「うん…ごめん」


「マジかよ…」

 すー兄ちゃんはがっくりと肩を落とした。


「とにかくな…あいつと俺は、神に誓ってそんな怪しい関係なんかじゃないし、それにもしも…。もしもだぞ?あいつがおまえたちにおかしなことを吹いたとしても、絶対に信じるなよ?全部嘘だからなっ」


「???」

 すー兄ちゃんの言おうとしていることがよく分からなかった。


 すー兄ちゃんのお友達の武尊さんが、すー兄ちゃんのことで私たちに嘘をつくって言うの?


「例えば?」

 お兄ちゃんのこのひと言で、すー兄ちゃんは一気に弱りきった。


「う…」

「何を?どんなことを信じたらいけないの?」

「……」


 むしろ意地悪なぐらい、お兄ちゃんはどんどんたたみ掛けてゆく。傍で見ている私や飛馬も、すー兄ちゃんが本気で焦っていることだけはよく分かった。


 そして――。


「何って……。だ、だから…その…」


 心なしか、すー兄ちゃんの声は少し小さくなったようだった。


「「「???」」」

 三人して見つめると、すー兄ちゃんは更に弱りきった。


「付き合ってるとか…ただならぬ仲だ…とか…な…」

「……」

「ああ、もう!だから信じるなって!ったく、参ったな…」


 何となく黙っていただけなのに、それを勝手に勘違いしたすー兄ちゃんが、ひどくあたふたと訴えてくる。違うのなら違うで、堂々としていればいいのに、どこかしどろもどろなすー兄ちゃんは、かえってすごくアヤシイ。

 私は、また胸の中がもやもやとしてくるのを感じていた。


「じ…じゃあ…。あ、そうだ!五条二坊の茶屋町付近へは近付くな!!そうすりゃあ、あいつになんか滅多に会うことはない。そうだ、そうしろ!なっ!?」


 無理やり笑っている辺りがまたヘンテコだった。


「へえ…五条二坊…か」

「そこにいるんだ、あの人?」


 お兄ちゃんはにんまりと意地悪そうに笑い、飛馬はまるで邪気のない声で尋ねてくる。そのどちらもに、すー兄ちゃんは一層たじろいた。


「あ…」


 何かを隠そうとする余り、余計なことをばらしてしまったようだ。すー兄ちゃんは、必死になって言い繕った。


「おまえらな、くれぐれもあそこへは近付くなよ?いいなっ!!だいたい、茶屋町なんて子どもの行く場所じゃないだろう!?変なヤツがいっぱいいるんだからな、あそこは!すっごく危ないんだからなっ!!」


(茶屋町――)


 茶屋町と言えば、単に茶店の並ぶ界隈かいわいだけを指す言葉じゃない。そのぐらいは知っている――。


 前に、たった一度だけお父さんに連れられて行った茶屋町は、そこかしこに灯るぼんぼりの紅と建物の朱が怪しいほどに眩しくて、その奥へ行けば行くほど眩暈めまいを起こしそうな場所だった。

 格子越しに開け放たれた店からは、しなをつくったねえさんたちが、道行く男の人に手招きなんかしていた。道端のところどころでは、べたべたと男と女が絡み合っていた。まるでお祭りの晩みたいに大勢の人がそこでざわめき、そんな人いきれと充満する強いこうの香りとがぐちゃぐちゃに混ざり合って――。

 ひどく独特で異様なその雰囲気と、恐怖にも興味にも似た思いに、あの日、私の胸はどきどきと騒いだ。


 私、よく覚えている。そしてその後、そこで起きた悪夢のような出来事も…。


 私、本当によく覚えている。

 忘れることなんかできない。


「う、うん」

「はあい…」


「……」

 お兄ちゃんと飛馬が間延びした返事する中、私は色々なことを思い出して俯いていた。何となく返事をすることも、笑って見せることも出来なかった。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 更に数日後の夕方――。


 珍しくお父さんが家に帰ってきた。前に会ってから、実にもう三週間近くたっている。


 相変わらずお父さんはこの日も酔っ払った状態で、帰ってくるなり土間で眠り込んでしまった。その体を、お兄ちゃんとお母さんとで必死になって床へ上げ、布団の上へ転がした。私と飛馬は、部屋の隅から黙ってそれを見つめていた。


 この人が家にいるだけで、家の中がいっぺんに沈む。お父さんに気を遣う余り、みんなの口数がぐんと減るのだ。

 今だって、もしも何かの拍子にお父さんを起こしてしまえば、きっといつものように暴れ始めることだろう。わけの分からない理屈を大声でわめき、終いには殴りかかってきたりもするだろう。それが怖くて、私たちは声も出さず、じっと縮こまっていることしかできない。


 と…こう言うと、ずいぶん辛い生活をしているように聞こえるかもしれないけれど、もう私たちとってこんなことは慣れっこになっていて、正直、それほど苦痛というわけでもない。うまくやり過ごしさえすれば、またお父さんはどこかへ出て行くし、そうしたらまた何日も…。時にはひと月以上も帰ってこない。

 お金を奪ってゆきこそすれ、別に稼いでくるわけでなし、いなくてもまったく構わない。いたらいたで、こうして無視していればいい。知らん顔して、おとなしくしていれば、それで事は済むのだ。


 ただし、お母さんだけはそういうわけにはいかない。


 いつも甲斐甲斐しいほどお父さんの面倒を見てやっては、おかしな難癖なんくせをつけられて散々にどやされた挙句、毎度のように泣かされているお母さん…。時には、私たちの見ている前で暴力を振るわれることもある。

 それでも、こうして気紛れに帰ってくれば、お母さんはまたせっせと面倒を見てやっている。欲しがれば、大事な生活費から少しばかりのお金だって渡している。


 私には、どうしてお母さんがそうまでしてあの人と一緒にいたがるのか分からない。あんな酷いめに遭いながら、なぜお母さんは、お父さんと縁を切ろうとしないのだろう?あんな人となんか、離婚でも何でもさっさとすればいいのに…。ずっとそう思っていた。


 私なら、あんな人とは結婚しない。あんな乱暴で偉そうで自分勝手な人、絶対に愛したりしない。「昔はそうじゃなかった」って、お母さんはいつも言うけれど、それなら、待っていれば昔のような人に戻るの?いつか優しい人に変わるの??


「みんな、向こうの部屋にお布団を敷いたから、今日はそっちで眠りなさい。ちょっと狭いかもしれないけど我慢してね」


 お母さんは納戸のような小部屋に、布団を二組、無理矢理に敷いていた。飛馬と私は体が小さいから二人で一組の布団を使う。お兄ちゃんが一組。

 お母さんは、お父さんと同じ居間で寝る。布団の数が足らないのでそうするしかないし、だいいち、眠り込んだお父さんを動かすのはすごく大変だ。

 それに以前、この納戸のような部屋に酔ったお父さんを寝かせたら、起き抜け一番、烈火のごとく怒り狂った。粗末な部屋に、一家の大黒柱を押し込めたのが気に入らなかったらしい。

 そんなに大事に扱って欲しいのなら、それなりのことをしてくれればいいのに。父親らしいことなんかなんにもしたことがないくせに…。大黒柱なんて自分で言いながら、お金なんか一円も家に入れたことがないくせに…。

 お父さんは、いつも言うことばかりがやたらと偉そうだ。


「おやすみなさい」

 そっとお母さんに言うと、私たちは部屋へ引っ込んだ。まだ眠るには早かったけれど、起きていても、居間にお父さんがいるんじゃどうしようもない。


 お兄ちゃんは早速布団の上であの帳面を広げ始めた。

 毎日文字を書く練習をしているあの帳面――。誰よりもたくさん練習をしているお兄ちゃんは、もう少しで一冊を使い終えてしまう。一番早いお兄ちゃんがそれを一冊終えたら、そのご褒美に、晴れて念願の薬草採りへ連れて行ってもらえる約束になっている。もちろん、飛馬も私も一緒だ。


(今日がすー兄ちゃんの来る日じゃなくて良かった…)


 ふと、そう思った。


 小窓から差す月明かりが、私たちの枕元をぼおっと照らしている。お兄ちゃんは、布団の上にうつ伏せに寝転がったまま、その明かりを頼りに黙々と鉛筆を動かしていた。薬屋になりたいと言い出したあの日から、お兄ちゃんは暇さえあれば勉強ばかりしている。あの時、「並大抵の努力じゃ無理だ」とすー兄ちゃんに言われたのを、今でもしっかり肝に銘じているらしい。

 お兄ちゃんがこんなに頑張り屋さんだとは知らなかった。ちょっとだけ見直した。


 でも、こんなところをすー兄ちゃんが見たら、「姿勢が悪い!」って、きっと怒る。実はそういうことにも結構うるさいすー兄ちゃんだ。

 なんでも、骨が柔らかい子どものうちから悪い姿勢を続けていると、背骨が変な形に曲がってしまうことがあるそうだ。そうして一度曲がった背骨は滅多なことでは戻らないし、悪い姿勢だって癖になってしまう。だから、将来そんなことにならないように今からしっかり気をつけろと、すー兄ちゃんはいつも口をすっぱくして言うのだ。


 すー兄ちゃんの言うことは、いつだって本物のお父さんよりもずっと父親らしい。これまで口には出さなかったけど、私たち兄弟はみんなそう感じていた。


「すー兄ちゃんが父ちゃんだったらいいのにね」


 突然、飛馬がささやいた。


「だな――」

 お兄ちゃんも練習の手を止め頷いた。


「もしもすー兄ちゃんが父ちゃんだったらさ、毎日勉強見てくれるよ。それで毎日遊んでくれるし、毎日一緒に寝てくれる。かわやだってさ、きっと一緒に行ってくれるよ」


 だけど、そんなことはあり得ない。

 お母さんにはお父さんがいるし、すー兄ちゃん、お母さんよりずっと若いもの。そりゃあ、ちょっとは仲良くなるかもしれないけど、でもきっとそれだけ。それ以上は何もない。

 そんな夢のようなことなんか、何も起きない。


「そんなの飛馬だけでしょ?」


「ははは」

「くふふ…」


 大げさにため息をついて見せたら、お兄ちゃんと飛馬が声を潜めて笑った。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 翌日。


 もうとっくにお天道様が上ったというのに、お父さんは起きる気配も見せない。いつもなら、私は診療所に出かけなきゃならない時間だけど、お父さんを一人放っておけば、また何に怒って暴れ出すか分からない。仕方なく、今日私は留守番だ。


「お昼には帰らせてもらうようにするから、少しだけお父さんのこと、お願いね。ご近所さんにもそう頼んでおくから…」


 そう言って、お母さんは半時(約一時間)ほど前に仕事に出かけた。お兄ちゃんも月末は刷り物屋の仕事が忙しくて休めないって言ってたし、診療所に私たちが顔を出さなければおじいちゃん先生や若先生、それにすー兄ちゃんだって心配するだろうから――と、飛馬は朝早く一人で診療所へと出かけた。


 そして――。


 何だか貧乏くじを引くような形で、私だけが家に残った。ううん、正確には私とお父さんだ。


 うちの長屋はどの家も同じ造りで、居間と小部屋が一つ、そして土間に小さめの釜戸と水瓶みずがめがあるだけ。あとは、ちょうど私たちの家の真ん前に、周囲の数軒が共同で使うための井戸が一つある。


 毎朝、私はその井戸の脇にある洗い場へ行って洗濯をする。それが日課だ。


 その日、いつもより少し遅い時間に洗い場へ行くと、そこにはもう斜向かいの瓦屋の奥さんが来ていた。


「おはよう、伊織ちゃん。今日も精が出るねえ」

里津りつおばちゃん、おはよう」


 いつもどおりに挨拶を交わしてから里津おばちゃんの隣にしゃがみ、桶に入れてきた洗濯物を広げる。すると、おばちゃんが意外なことを尋ねてきた。


「ねえねえ、伊織ちゃん。あの兄さん、今度はいつおいでになるの?」

「え?」

「ほらあ、この頃あんたのところに良く来る、髪の黒い鯔背いなせな兄さん」


 たったそれだけで誰のことだか分かった。


 でも、なんだろ?


 なんで里津おばちゃんがすー兄ちゃんのこと知ってるの?

 おばちゃん、何が知りたいの??


 ああ、なんだかまたもやもやしてきた…。


「……」


 何となく返事ができずにいると、里津おばちゃんは慌てて言葉を付け足した。


「あ!いやね、違うのよ、伊織ちゃん。あのね、この間、あの兄さんに少し薬を分けてもらったからさ、あたしはそのお礼がしたいだけなんだよ」


「え?すー兄ちゃんが?」

 正直びっくりした。そんなこと、すー兄ちゃんはひと言だって言わなかったからだ。


「うちの人が変な咳をしてるからってさ、煎じ薬を分けてくれたのよ。気管支がどうのって難しいこと言ってたけど――。あの人、一体何者なんだい?」

「ん…。えとね、すー兄ちゃん、薬屋さんなの」


「ええ!?それじゃあお代、払わなきゃ!!」

 里津おばちゃんがぎょっとしたその時――。


「おや、そうなのかい?」

 続いて現れたのは、腰が「く」の字に曲がったおばあちゃんだ。この人は、私たちの隣に住んでいる双子のおばあちゃんの妹の方で、名前はれんばあちゃん。お姉さんは蘭ばあちゃんという。


「あたしんとこにもさ、蘭姉さんがその…気管支の何とかだって言って、この間、薬を置いていったよ、あの兄さん」

「え?おばあちゃんちにも?」

「何でも、こういうところは流感りゅうかんが流行りやすいんだってさ。その上、みんなが伝染うつし合うもんだから、治りも遅いんだと。うちの姉さん、この頃は血を吐きそうなほど咳き込むことがあってね。だけど、お医者にかかる金なんかないし、ほとほと困っていたところさ。そしたら、ある日、あの兄さんがいきなりうちへやってきた。あの人、姉さんをひと目見るなり具合を見立ててくれたよ。でね、その後、兄さんに渡された葉っぱを言われたとおりに煎じて飲ませてやったらさ、胸の痛みがすっと引いたって、姉さん、そりゃあ喜んだんだ。ありゃあ神様の仕事だね」

 蓮ばあちゃんは、ほくほくと顔を綻ばせた。


「そう…だったんだ」


 いつの間にかすー兄ちゃんは、私たちだけでなく、この長屋のみんなとも知り合いになっていたらしい。

 すー兄ちゃん、愛想いいもんなあ…。


「ああ、だけど、お代のことはなんにも言ってなかったね、そう言えば。てっきり長屋の誰かの子どもだろうと思ってたけれど…。そうか…あの人、薬屋さんだったんだねえ…」


 蓮ばあちゃんは、自分の言葉にうんうんと頷いた。


「ねえ、里津おばちゃん。きっとすー兄ちゃん、受け取らないと思うよ、お金」

「どうして?」

「だって、そんな押し売りみたいなことする人じゃないし…。すー兄ちゃん、優しいから心配になっちゃっただけなんだよ、きっと。そういう人だもん」


「へえ…」

 里津おばちゃんは、ため息のような声を漏らした。


「えらく感心な話じゃないか。この世知辛せちがらいご時勢に人情味のある商売人だなんてさ。珍しい人もあったもんだよ。この頃は、親切もタダってわけにはいかないっていうのにさ」

 そう言って、蓮ばあちゃんがまた頷く。


「まったくだよ。それに…あの兄さん、ちょっとイイ男じゃないさ。もうちょっとあたしが若けりゃあ、今の亭主なんか放っぽってさあ…」


 声を潜める里津おばちゃんに、蓮ばあちゃんも声を上げて笑った。


「あははは。あたしにゃ孫の齢だね、ありゃあ」


 里津おばちゃんたちはいつもこんな感じだ。冗談もよく言うし、それでみんなを笑わせてくれる。おばちゃんたちがいるだけで、いつだって井戸端は笑いが絶えない。

 里津おばちゃんは得意になって話を続けた。


「多鶴さんだってそうさね。まだ若くて綺麗なんだから、あんなぐうたら亭主なんかさあ…」


「ちょ、ちょっと里津さん!!」

 蓮ばあちゃんが、慌てて里津おばちゃんを止めに入った。


「……」


 きっと私、変な顔をしていたんだと思う。お父さんのことを話題に出されるといつもそうだ。何を言ったらいいのか、どんな顔をしたらいいのか…って、なんにも分からなくなる。


「あ…いけない!ご、ごめん。ごめんね、伊織ちゃん。あたしは別に…」

「いつもひと言多いんだよ、あんたは!」


 蓮ばあちゃんにたしなめられると、里津おばちゃんはしゅんと小さくなった。


「ううん、いいの。私、平気だよ、おばちゃん。気にしないで」


 どんな顔をしたらいいのかはやっぱり分からないけれど、私なら平気だ。全然平気だ。

 だって、私もそう思ってるもの。


 ほんとに…。


 すー兄ちゃんがお父さんだったらいいのに――。


 私はちょっとだけ頑張って笑った。


「ええとね、明日は約束してる日だから来ると思うよ、すー兄ちゃん。いつも申の一つか二つ(午後四時~五時)ぐらいには来てくれるの。それでね、私たちの勉強を見てくれるんだ」

「へえ…あんたたち、お勉強なんかしてるのかい?立派だねえ。じゃ、その時にでも、お礼がてらちょっと寄せてもらおうかな。お母ちゃんにそう言っといてくれるかい?」


「ん。分かった」

 私は洗い終えた洗濯物をまた桶に詰めると、井戸端を後にした。


 家に戻ると、お父さんが布団の上に座って煙草を吸っていた。


「よお、どこ行ってたんだ?」

「お…お洗濯に…」


 恐る恐る顔色をうかがいながら答えると、お父さんはふんと鼻を鳴らした。


「他のやつらは?」

「みんな、お仕事に行ったよ」

「そうか」


 いつも洗濯物は長屋の裏に干している。表に干すのは何だかみっともないし、裏の方が陽が長く当たるからだ。

 洗濯挟みの入った籠を持って出て行こうとすると、お父さんがまた声を掛けてきた。いつもならあまり話しかけてこないくせに、珍しいこともあるもんだ。


「おまえ、もう洗濯なんかできるようになったのか」

「うん。お母さん、忙しいから、いつも私が…」


 お父さんの口元が、にやりと歪んだように見えた。


 どきりと胸が鳴る。

 何となく嫌な予感がした。


「他には?」

「え?」

「他に何ができる」

「ええと、いつもその後でお掃除もして、それから診療所へ行って、お使いとか…」

「診療所?」

「うん。飛馬がね、この間入院したの。私、そこでお手伝いしてるの」


 一瞬お父さんは目を丸くしたけれど、すぐに興味深そうに身を乗り出してきた。


「入院――?そんな金があったのか?」

「あのね、お母さん、着物売ったんだよ。大事なお嫁入りの着物、売っちゃったの。それで…」


 またお父さんがにんまりと笑った。今度は誰の目にもはっきりと分かるような笑みだ。


 途端に私の胸はどきどきと騒ぎ始めた。お父さんの考えてることってよく分からない。よく分からないけど、いつだって私が嬉しいことなんか絶対にしない。


「へえ…。じゃ、まだ何かあるかもしんねえな」

「???」

「どこに隠してあるんだよ?」

「何を…?」


 そう訊き返すと、お父さんは弾けるように怒鳴った。


「他にもまだ金目のもんがあンだろうがよッ!!」


「あ…。し…知らない…」

 後退さりながらやっとのことで返事をした。もう怖くて仕方がなかった。


 またお父さんが暴れ出すんじゃないかと…またあの時みたいに叩かれるんじゃないかと――。


「てめえら、みんなしてこそこそと妙な真似しやがって…!その着物とやらはどこに隠してあったんだ!?ええ?言ってみろっ!!」


 大声で怒鳴って立ち上がる。


 咄嗟に私は、洗濯の桶も洗濯挟みも――とにかく手に持った何もかもを放り出し、土間の隅にうずくまった。お父さんの顔なんか怖くてもう見れなかった。両方の膝を抱え、私はぎゅっと顔を埋めた。


「知らない!私、知らない!!」

「可愛げのねえ、小娘だなあ、てめえはよ!ガキは黙って言うこと聞いてりゃあいいんだ!!どこにあったか言え、早く!!言わなきゃあ…」


「知らない!知らないっ!!なんにも私、知らないもん!!」

 膝を一層強く抱き、私は硬く身を強張らせた。お父さんの気配がする。じゃりじゃりと土間を踏みしめる音が耳に響いて、恐怖がどんどん大きくなる。


 そうだ――。

 もうお母さんが帰ってくるはずだ。もうすぐきっと…!


 そうしたら…。


「あ…!」

 腕を掴まれた拍子に、驚いて私は顔を上げた。指がめり込むほど力強く掴まれた私の腕――そして、右手を高く振り上げたまま、ひどく冷たく私を見下ろす顔に、血の気がさあっと引いてゆく。


(た…叩かれる――!!)


 確か、以前もこんなことがあった。もっともっと私が小さい頃に、こうしてお父さんに腕を掴まれ、散々叩かれながら外へ引きずり出されたことが確かにあった。


 その日の出来事が胸をよぎぎる。忘れたくても忘れられない、あの日の記憶が――。


「…ったく、相変わらず辛気しんき臭え家だ。しょうがねえ、ここは今度こそおまえに頑張ってもらうか!!」


「いやだあ…っ!やめて、お父さん!!」

 私の胸は、今にも破れんばかりに早鐘を打っていた。


 あの時と同じだ。またあの時のように、私、茶屋町へ連れて行かれるんだ…!


 私は必死になってもがいた。


「洗濯も掃除も一人でできるんだろ?そんだけできりゃあ上出来だ。家族のためにしっかり奉公してこいや!」


「やだあーっ!やだよ、お父さん!!放して!!」

 腕がちぎれんばかりに私は暴れたが、お父さんはびくともしない。お母さんもまだ帰ってきそうにない。


「今度こそ高値で売ってやるぜ。女ってのはちっこくても色々と稼ぎようがあるからなあ」


「いやだあああ!お母さん!お母さあああん!!」

 わんわん泣き叫びながら、それでも全力で抵抗したけれど、結局はまたいつかのように、私は外へ引きずり出されてしまった。大人の男の力になんか敵うはずがなかった。


「ぎゃあぎゃあうるせえよ!また殴られてえのか!!」


 瞬く間にすべてが蘇った。


 あの時――。


 まだ、五歳だったあの日、私はこんなふうに無理矢理お父さんに引き摺られ、茶屋町へと奉公に出されそうになったのだ。


 あの日、お父さんは泣きわめく私を何度も平手で殴って黙らせると、馴染みらしい水茶屋へと連れて行った。幸いあの時は、偶然それを見つけたお母さんが、すぐに後から追いかけてきて、有り金をみんな投げつけるようにして差し出し、泣いてお父さんに許しをうた。見知らぬ人が大勢見てる前で、恥も何もかえりみず、子どもにだけは手を出さないでと、泣きながら縋ったのだ。水茶屋のおかみさんにしても、こんなに小さな子では何の役にも立たないからと受け入れを拒み、お陰で私は助かった。


 それを思い出したら、もう動けなかった。散々殴られたあの時の恐怖で、すっかりすくみあがってしまっていた。


 無意識のうちに、私は胸の中で一心不乱に助けを求めていた。声にこそならなかったけれど、それこそ声が枯れるほど何度も叫んでいた。

 それは、いつも私たちに優しくしてくれるあの人。悲しいことも辛いことも、あっという間に吹っ飛ばしてくれるあの人の名――。


(助けて…!お願い、助けに来て、すー兄ちゃん…!!)

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 昼間の茶屋町は、前に来た時とはまるで様子が違っていた。

 人の姿もまばらで、紅いぼんぼりにも灯が入っていない。ごみごみと騒がしかったあの日の印象からはずいぶんと遠い雰囲気だけど、よく見れば、居並ぶ店構えや看板なんかに、ほんの少し見覚えがある。間違いなく前に連れて来られた場所だ。

 来るまでに通ってきた道を思えば、ここは、前にすー兄ちゃんが言ってた五条二坊の茶屋町だろうと思う。


 ここがすー兄ちゃんが危ないから絶対近付くなって言ってた茶屋町だったんだ――。


 不安で胸が押しつぶされそう…。

 だけどきっと、今度こそもう逃げられない。


 あの日と同じように手を引かれ、私は遅れ気味にとぼとぼとお父さんの後ろを歩いていた。何度振り返ってみても、今度はお母さんが追ってくる気配がない…。


 泣きたい気持ちでいっぱいだった。

 怖くて悲しくて辛くて、そしてやっぱり怖くて…。


「おら、さっさと歩けよ!もたもたしやがって!!」


 でも。


 大きな怒鳴り声を浴びせられたその時、微かに――。


「……?」


 ふと私は後ろを振り返った。


 聞き覚えのある声を聞いたような気がしたからだ。

 きょろきょろと辺りを見渡してみる。でも見知った人影はない。


「どうした?」

 恐ろしく低い声でお父さんが尋ねてきたけど、怖くて返事なんかできなかった。


(気のせい……だったのかな…)


 しょんぼりと俯いたその時、お父さんがまた腕を強く引いた。


「ほら、こっちだ。ぐずぐずすんな!」


 痛みに顔を歪め、引きずられるように角を曲がると――。


「きいいいいい!むかつくったら!!あんたってば、また人んちに勝手に女連れ込んでえええッ!!」


 やっぱり空耳なんかじゃなかったんだ――そう思ったら涙が出た。


「だいたいその女、誰なのよっ!?降りてらっしゃい、泥棒猫ッ!!来なきゃこっちから行くからね!!」


 見覚えのある女のような男の人が、路上から二階へ向かって大声を張り上げている。その派手な金切り声にこそ聞き覚えがあった。


 そうだ…。

 そう言えば、すー兄ちゃん、言ってたっけ…。


 ――五条二坊の茶屋町付近へは近付くな!そうすりゃあ、あいつになんか滅多に会うことはない。


 あれは…。


 あの人は確か――!


「武尊お兄ちゃん!!」

 私は全力でお父さんの手を振りほどいて駆け出していた。


「ちょっと誰よう、今、本名で呼んだのっ!?しかもお兄ちゃんて、どういう――」


 怒鳴られてるのも構わず飛び込むと、武尊さんは目をまん丸にしたまま私の体を受け止めてくれた。


「え…?あれっ??あんた…」


 追いかけてきたお父さんが、むんずと手を伸ばす。


「こンのガキ!!ちょろちょろと…っ」


「助けて、武尊お兄ちゃん!お願い、助けて…!お願い!!」

 襟首を掴まれた途端、私はぎゅっと首を縮め、武尊さんにしがみ付いた。



「た…助けてったって――」


 武尊さんがおろおろしている。

 確かに、たった一度会ったきりだし、知り合いというほどの知り合いじゃないんだから当然だ。でも、私には助けを求める相手なんか他にいなかった。この時の私には、武尊さんだけが頼みの綱だった。


「ああん?なんだ、このオカマ!?」


 睨みつけたお父さんの手を、武尊さんはパシッと退けた。


「花街にオカマがいて何が悪いっていうの?ところで、オジサン――。あんた誰よっ?」

「ちっ。こいつ、おまえの知り合いか、伊織?」


「……」

 睨まれてまた怖くなった私は、返事をする代わりに武尊さんの陰へ隠れた。武尊さんは私を庇って、お父さんの前に立ちはだかってくれた。


「どうだっていいでしょうよ、そんなこと!何か用なの、この子に!?」

「てめえこそ関係ねえ!引っ込んでな!!」

「そんなわけにはいかないわよ!可愛そうに、怖がってるじゃないの!!ああ、もう、らちが明かないわね。いっちょ、ぶっとばしちゃおうかしら?」


 武尊さんはぐっと袖を捲くった。だけど、がっしりとした体格のうちのお父さんと、ほっそりと華奢きゃしゃな武尊さんとじゃ、喧嘩の結果は目に見えている。見れば、二の腕の太さなんか倍ほども違うのだ。


「なんだあ、こいつ…。ほら、伊織、さっさとこっちに来い!」


 掴みかかるお父さんを、武尊さんは背中に私をかくまったままひょいとかわした。すー兄ちゃんと同じく、ひょろりと細い体つきの割には、どことなく頼りがいのある感じだ。


「んもうっ、ずいぶんと乱暴なオヤジね!アタシの大ッ嫌いなタイプだわ!!」

 武尊さんの鼻息は荒い。


「た…武尊お兄ちゃん…」

「大丈夫よ、伊織ちゃん。これでもアタシ、腕っ節の方もイイ線いってるのよ?つか、そんなことよりね、その「武尊お兄ちゃん」ってのやめてくんない?どうせなら、露夏ろかお姉ちゃんって呼んで欲しいわ。ここじゃ、そっちで通ってるのよ、アタシ」


 初めて会った日のように、露夏姉ちゃんがまたパチンと片目を瞑って見せた。


 だけど次の瞬間――。


「あああーッ!」


 突然の大声にきょとんとしていると、露夏姉ちゃんはあっさりと今の言葉を撤回した。


「やっぱ今日はダメっ。そう言えば、さっき爪塗ったばっかりだったわ!!」

 露夏姉ちゃんは指を広げ、自分の紅い爪をうっとりと眺めた。


「……」

 さっきからずっと一人で大騒ぎをしている露夏姉ちゃんに、お父さんもすっかり呑まれている。


「ああ、でもだいじょぶ、だいじょぶ。心配しないでね?そこに強いの、もう一人いるから」

 露夏姉ちゃんが、私の肩をポンと叩いて笑った。


「強い…の…?」


 もしかして、それは…。


「うふ。アタシなんかよりずっと強いわよお?毎度お馴染み、うちの用心棒。お墨付きよん」


 その人は、まさか――。


「ちょいと、すーちゃん!降りてきて!早く!!一大事よッ」

 露夏姉ちゃんはパン、パンと二度ほど手を打って、二階の一室へ向けてまた大声を張り上げた。


 でも――。


「……」

 見上げた窓からは何の返事も聞こえない。それどころか、人のいる気配すら感じられない。


「あれ…?」

 露夏姉ちゃんは小さく首を傾げた。


「ねえ、すーちゃんったら!その女のことはもういいから!全部許したげるから早く!!ほら、さっきから伊織ちゃん、泣いてるじゃない!!聞こえないのっ!?」


 途端。


 窓からひょっこりと男の顔が覗いた。それはやっぱり見覚えのある黒髪の人。本当はずっと心の中でその名を呼び続けていた、私の大好きなあの人――。


「伊織!?」


「あ…!」

 その顔を見たら、また涙がこみ上げてきた。なぜだかすごく安心した。


「なによ…。やっぱり聞こえてるじゃないのよ」


 むくれる露夏姉ちゃんをよそに、にわかに二階がばたばたと騒がしくなった。さっき露夏姉ちゃんも言っていたように、どうやら本当にそこに女の人もいたようだ。何かを言い合う男女の声が聞こえる…。


 そうしてしばらくすると、いかにも適当に着物を引っ掛けたと言わんばかりのすー兄ちゃんが、血相を変えて飛び出してきた。


「すー兄ちゃん!!」

 ぎゅっと抱きつくと微かに煙草の匂いがする。


 ああ、いつものすー兄ちゃんの匂いだあ…。


「なんだ!?何やってるんだ、おまえ!こんなところで!?」

 すー兄ちゃんは私の前へしゃがみ、じっと瞳を覗き込んだ。


「だいたい、ここへは来るなってあれほど――」


 すー兄ちゃんが言い終える前に、お父さんが口を挟んだ。


「あんたらなあ、いい加減にうちの娘を渡してもらおうか」


「ああん?娘!?」

 すー兄ちゃんは、ぎゅっと眉を寄せて立ち上がった。


 慌てて私はすー兄ちゃんの背中に身を隠した。掴んだこの着物の端だけは放さない。この手さえ放さなければ、もう怖くなんかない。


 だって、すー兄ちゃんがいるもの!!


 気が付けば、いつの間にか周りにはばらばらと人が集まり始めていた。

 どうやらここは、露夏姉ちゃんみたいな感じの人が多い場所みたいだ。そこに混じって、普通の女の人や、ずいぶんと若い女の人の姿も少し。


「どういうことお?」


 不服そうな露夏姉ちゃんを遮って、すー兄ちゃんは言った。


「ちょっと待ちなよ。あんた、父親なんだろう?じゃあなんでこいつ、こんなに怯えてるんだ?」

 見上げれば、そこにあるのはいつになく険しいすー兄ちゃんの顔。そして、いつもよりずっと低くて重い声――。


 掴んだ着物をぎゅっと握り締めたら、私の肩を温かな手のひらが包み込んだ。その手は、もう大丈夫と私を励ましているようだった。


「そうよ、そうよ!やっちゃえ、すーちゃんっ!!」

 と、こぶしを振り上げる露夏姉ちゃんに続いて、周りからも黄色い歓声が次々に上がった。


「きゃあーっ!すーちゃん、かっこいいー!」

「そんなオヤジ、やっつけちゃええ!!」

「がんばれ、すーちゃああん!!」

「すーちゃん、素敵ぃー」


 すー兄ちゃんって、やっぱりすごい。

 ここでもみんな、すー兄ちゃんのことが大好きで、みんながすー兄ちゃんのことを知ってるんだ。みんな、すー兄ちゃんの味方なんだ…。


 目を白黒させながら、お父さんは鼻を鳴らした。すー兄ちゃんが怖いのか、みんなに圧倒されたのか、お父さんは怯えているように見えた。


「ふ…ふん。さあな…オカマが気持ち悪いんじゃねえの?」


「う…」

 思わず言葉に詰まる露夏姉ちゃん。


「……」

 向けられたすー兄ちゃんの冷たい眼差しに気付くと、露夏姉ちゃんはもっと慌てた。


「ば…っ…馬鹿ね!そのオカマに、この子、助けを求めてきたんじゃない!!」


「そうよ、そうよっ」

「オカマをめんなよっ」

 続いて、露夏姉ちゃんに味方する合いの手がいくつも響いた。


「なあ、あんたさ…ちゃんと分かるように説明してくれよ。俺にはさっぱりわけが分から…」


「ほ…奉公に出されちゃうの!売られちゃうの、私!!」

 私はあらん限りの力を絞って叫んだ。自分でも驚くほど大きな声だった。


「な、何いいいっ!?」

 すー兄ちゃんがぎょっと目を剥き、

「そんな…!お母ちゃんは?このこと、お母ちゃんは知ってるの?」

 あたふたと露夏姉ちゃんが顔を覗き込んでくる。


 私は小さく横に首を振った。


「ふっ…。実の父親が、自分の娘をどうしようと勝手だろうが。他人に文句を言われる筋合いのことじゃあないと思うがねえ」


 その刹那せつな――。


「何だと…?今、何つった、あんた…ッ!!」


 すー兄ちゃんは力ずくでお父さんの胸倉を掴み上げた。けれど、逆にその手を掴み返したお父さんも不敵な笑みを浮かべている。


「うちは金回りが悪くて困ってるんだ。仕方がねえのさ。何なら、兄さんが買ってくれるかい、こいつ?」


「く…っ」

 すー兄ちゃんはぐっと唇を噛み締めた。


「また金か…。金、金、金…って、どいつもこいつも…っ。金が何だってんだ!!」

「ああん?いい齢して何くだらねえこと言ってんだ、兄さん。金がなきゃみんな生きちゃいけねえさ」


 勝ちを悟ったお父さんがせせら笑っている。


 そして――。


「ほらよっ!!」

 すー兄ちゃんは懐の財布を、お父さんの足元へ放り投げた。


「あーあ…。また…」

 ぴしゃりと露夏姉ちゃんが額を叩く。


「まったく、すーぐ自棄やけになるんだからあ」

「あんな奴、ぶっとばしちゃえばいいのにい!」


 後ろにいた見物人も、一様にため息を漏らしていた。みんなの口ぶりは、実はこんな光景がもう何度となく繰り返されているということを暗に物語っていた。


「俺の有り金全部だ。あんたにみんなくれてやる!今日のところはこれで伊織を置いていけ!!」


 恥ずかしげもなく財布を拾い、お父さんはにやにやしながら中身を数え始めた。


「へえ…若えのに持ってんなあ、兄さん」

「うるさいっ」


「へへ…また頼むわ」

 ぺろりと上唇を舐めると、お父さんは私たちに背を向けた。


「馬鹿言え!二度と来ンな!!そんでその金持って、とっとと失せろ!おい、武尊!塩撒いとけ、塩っ!!」


「あいよっ」

 待ってましたとばかり、立ちはだかった露夏姉ちゃんが、いつの間にやら小脇に用意していた大きな壷からぱっぱっと塩を撒いた。


 そして――。


一昨日おととい来やがれ!ばーか!!」

 突然そう叫ぶと、露夏姉ちゃんは壷を振りかぶり、中身を全部道へぶちまけてしまった。


「二度と来んじゃねえ、クソおやじ!」

「今度来やがったら、あたいがぶっとばしてやるう!!」

「ばっきゃろおーッ!」

 みんなして拳を振り上げ、口々に言いたいことを叫んだ。


 私は――。


「……」

 すー兄ちゃんの着物を掴んだまま声も出せず、呆然とたたずんでいた。


「伊織…」


 すー兄ちゃんの顔を見た途端、大量の涙が一気にあふれた。


「こ…こわ…っ…怖かった…よう…」

 涙が、頬の上を滝のように流れてゆく。私は声を上げてわんわん泣き、何度も肩をしゃくりあげた。


「そうだな…。よく頑張った」

 いつかのように、すー兄ちゃんは私をぎゅっと抱き締めてくれた。


「すー兄ちゃ…」

 堪らなくなって、私もすー兄ちゃんの首にしがみついた。止まらない涙が、すー兄ちゃんの襟元をじわりと濡らす。


 こんなふうにすー兄ちゃんに抱かれていると、私、溶けてしまいそうになる。嬉しすぎて、ほっとしすぎて、そんな気持ちが湧いては縺れて――。


 私の涙が止まるまで、すー兄ちゃんはずっと私を抱いていてくれた。背中に触れたその手は、ここへ私を連れてきたお父さんの手なんかより、ずっと温かくて優しかった…。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 時刻はもう未の三つ(午後三時)を回っていた。


「あのねっ、伊織ちゃん。ここのあんみつ、すっごくおいしいのよ?ほんとに!」


 二坊から、私たちの住む四坊へと戻る途中の道を少し入ったところにある小さな茶店は、その狭い店内からはちょっと驚いてしまうぐらいに混み合っていた。


「ちょいと、お姉さん。ここ、あんみつ三つお願いね。一番いいとこ、特盛りで!甘いの好きよねえ、伊織ちゃん?」

 真っ赤な目をした私を気にしつつも、露夏姉ちゃんはぺらぺらと話を進め、一人で盛り上がっている。

 一方、私たちの反対側に腰掛けたすー兄ちゃんは、少し不機嫌な顔でため息をついていた。


 そして、やっぱり――。


「武尊」


 すー兄ちゃんが呼んだって、お構いなしに露夏姉ちゃんは喋り続けている。


「もうさ、このとろっとろでキンキンに冷えた黒蜜がさ、たまんないのなんのってね…」


「武尊っ!」

 すー兄ちゃんがむっと声を荒げた。


「あ…。ご、ごめん…」

 ようやく露夏姉ちゃんを黙らせると、すー兄ちゃんは私の知ってるいつもの声で尋ねた。


「事情を聞かせてくれるか、伊織。無理にとは言わないが…」


「ん…」

 私は頷き、ぽつりぽつりと少しずつ事のいきさつを語った。まだ小さかった頃の同じような出来事に、時々は声を詰まらせながら、それでも胸の中にあるものを全部、すー兄ちゃんと露夏姉ちゃんに話した。


 二人は黙って耳を傾けてくれた。


「じゃあ…今日のことについては、まだ多鶴さん、知らないんだな」

 すー兄ちゃんは微かに眉間を寄せた。


 隣では、あんなに元気だった露夏姉ちゃんまでしょんぼりとしている。まるで自分のことのように心配してくれる二人が嬉しかった。


「うん、でもね…」


 思い切って私は顔を上げた。

 まだ瞼はぽんぽんに腫れていたけど、早く元気を出さなきゃいけないと思った。そうしなければ、すー兄ちゃんたちも元気になれないと思った。


「私、大声出しちゃったから長屋のみんなは知ってるはずだよ。今頃お母さん、心配して探してるかも」


「そっか…。そうだな…」

 その時、なぜだか一瞬、すー兄ちゃんの視線が落ちた。見つめる先には、ぐっと握られたすー兄ちゃんの拳があった。


 やがて――。


「じゃ、武尊。これ、今日の夕方分の配達な。薬の説明書き、間違えんなよ?」

 唇の端ですらりと笑って、すー兄ちゃんは一枚の紙切れを差し出した。


 すると。


「ええーッ!またあ!?」

 今度は逆に、露夏姉ちゃんの手が卓の上から引っ込められてしまった。


「しょうがないだろ?こいつ、一人で帰せってのか!?」

「だって、アタシが行くとさ…なーんか変な顔されんのよね…」

「いいから行ってこいって!」


 半ば強引に露夏姉ちゃんの懐に紙切れを押し込む。


「ねえ…。人にものを頼む態度なの、それ?」

 すー兄ちゃんばかりか、露夏姉ちゃんも腕を組んでねている。


 そうしてついに――。


「すみません、武尊さん。行ってください。お願いします。欲しがってたかんざし買いますから!」


 潔い言葉に満面の笑みを返すと、露夏姉ちゃんはドンと力強く胸を叩いた。


「よおしっ!アタシ、ひと肌脱いじゃう!!」


 こんな二人のやり取りを見てるうち、お腹の底の方からじわじわと温かいものが湧いてきて、私の心の中はすうっと軽くなっていった。

 私はこの日、露夏姉ちゃんのことも大好きになった。


「うふふふ」


 我慢できなくなって吹き出すと、すー兄ちゃんたちはほっと眉を開いた。


「やっと笑ったな」

「ふふ…。ほんと」


 すー兄ちゃんと露夏姉ちゃんが同じ格好で頬杖を付いて、同じ顔で笑っているのがまたおかしくて、私はくすくすと肩を揺らして笑った。笑い出したらなかなか止まらなくてまた涙が出た。


 そうして。


「さってとー!じゃ、いっちょ配達に行ってくるか!」

 特盛りのあんみつをぺろりとたいらげ、露夏姉ちゃんはすっくと立ち上がった。


「露夏姉ちゃん、色々ありがと。あ…それからね、この間はくっきー、ありがと。とってもおいしかったよ」

「やだ、可愛い…。この子ったら…」


 今度は露夏姉ちゃんが抱きしめてくれた。露夏姉ちゃんは、ユリの花のようなふんわり優しい香りがした…と、そう思った瞬間真っ平らな胸がおでこに当たり、私は改めて思った。

 この人、体はほんとに男の人だ。


「武尊!!」

 しっしっ!と野良猫を追い払うような手振りをして、すー兄ちゃんが露夏姉ちゃんを睨んでいる。


「んもう…ほんっと意地悪なんだから。じゃあまたね、伊織ちゃん」

「ばいばーい」

 私たちの分のお代まできっちり払って、露夏姉ちゃんは一人で店を出て行った。


 それから――。


 私とすー兄ちゃんは、日の傾きかけた道を手を繋いで歩いた。


 来るときはお父さんに手を引かれて歩いたこの道も、すー兄ちゃんと歩くとまるっきり別の道だった。

 弱くなってきた日差しも、道行く人も、家の軒に吊るされた季節はずれの風鈴も――。みんなほんのりと優しく輝いていて素敵だった。


 そんなことを思いながらぼんやりと歩いていたら、なぜか私は、何もないところでつんのめってしまった。びっくりして足元を見ると、草履の鼻緒がちぎれてしまっている。


「あ…」


 すると突然、すー兄ちゃんは繋いでいた手を放し、私に背を向けてしゃがんだ。


「ほら」

「???」

「おいで。負ぶってやる」

「……」


 何だか恥ずかしくなってもじもじしていると、振り向いたすー兄ちゃんが笑った。


「早く来いよ」


「う…うんっ!」

 途端に嬉しくなって、私はすー兄ちゃんの背中に抱きついた。

 お母さん以外の人におんぶなんかしてもらったの初めてだ――そう思ったら、独りでに頬がかあっと熱くなった。


 でもそんな私の顔は、すー兄ちゃんからは見えない。私は赤い顔をして一人で笑っていた。


 いつも折れそうだと思っていたすー兄ちゃんの体は、想像以上に頑丈で、私を背負って歩いたってびくともしない。それに、いつだってすー兄ちゃんは私の悲しい気持ちを吹き飛ばしてくれる。これでもう二度目だ。


 すー兄ちゃんは強いんだ。露夏姉ちゃんが言ってたとおり、すっごく強いんだ。


 私、そんなすー兄ちゃんが好き。

 すー兄ちゃんのことが大好き。


「あのね…すー兄ちゃん」

「ん?」


 こうして負われていると、すー兄ちゃんの顔は横顔しか見えない。


 本当は怒ってるんじゃないかな。

 困ってるんじゃないかな…。


 なんだかひどく気掛かりだった。


「あのお金ね、お父さんきっと一人で使っちゃうよ。本当は家族のためなんかじゃないの」

「ああ、分かってる」


 あの時、よくは見えなかったけれど、お父さんがすごく喜んでいたのは分かった。きっと、あのお財布には大金が入っていたんだと思う。それに、有り金全部ってすー兄ちゃん、言ってたし…。


「せっかく頑張って稼いだ大事なお金なのに…。ごめんね」

「馬鹿、そんなのおまえが気にすることじゃない」


 すー兄ちゃんはいつもの声でそう言った。幸い、声だけを聞くと怒ってるようには聞こえなかった。


「それよりも、俺がおまえらの父ちゃんに金を渡したなんてこと、絶対母ちゃんには言うなよ?高基や飛馬にもな」

「でも…」

「こんなことを知ったら、また母ちゃんが色々気にするだろ?怒られちまうよ、俺。だから…な?」


 すー兄ちゃんが横目で私を見ている。


 私、おかしな顔してないかな?

 泣きそうな顔してないかな?


 なぜか私はそんなことばかり考えていた。


「じゃあ、すー兄ちゃんも今日のこと内緒にして。ちょっとお父さんと散歩に行ったってことにしておいて」

「……」


 すー兄ちゃんはまた視線を前に戻して黙ってしまった。それがなぜだか分からなくて、私は少し不安になった。


「あのね、お母さん、お父さんを悪く言うと悲しむの。だから…」

「分かった…。言わないよ」


 とても寂しそうな声だった。


「大変だな、おまえも」


 実は、その後のことは良く覚えていない。すー兄ちゃんの背中があんまり気持ちよくて、つい眠り込んでしまったからだ。


 次に気が付いた時には、私は家の布団の中にいて、枕元で少しやつれた顔のお母さんが微笑んでいた。


 案の定、昼前に仕事から帰ったお母さんは、長屋のみんなから話を聞かされて、血相を変えて診療所へと走ったそうだ。そして飛馬を連れ帰った後、またすぐにお母さんは私を探しに出て行った。昼過ぎに仕事から戻ったお兄ちゃんも、飛馬から話を聞いて、慌てて家を飛び出していったという。

 二人とも、私たちとは行き違いになってしまったらしい。


 お父さんは、すー兄ちゃんのお金を持ったその足で、どうやらまたどこかへ行ってしまったらしかった。昼からずっと家にいたけれど、お父さんは一度も戻ってこなかったと、飛馬も言っていた。


「お父さんに連れられて行ったって聞いて、お母さん、ほんとにびっくりしたのよ。またいつかのようなことになっているんじゃないかって…」


(やっぱばれてる…)


 一瞬そう思ったけど、それは違った。


「あれでいいところあるわね、お父さんも。かわいい草履を買ってもらって良かったわねえ、伊織」

 お母さんはそう言って嬉しそうに笑った。


(え…?)

 驚いて土間を見ると、壊れたあの草履の横に赤い鼻緒の付いた新品の草履が並んでいる。


「すー兄ちゃん…」

 ひとりでに口が動いた。


 あれはきっとすー兄ちゃんが買ってくれたに違いない。

 でも、すー兄ちゃん、お金を全部お父さんに渡しちゃったのに、この草履の代金はどうしたんだろう?もしかして露夏姉ちゃんのお金…かな?


「ああ、すー兄ちゃんならもう帰ったよ?」

 喋りながら、相変わらずお兄ちゃんの鉛筆は休むことなくせっせと動いている。


「ねえ、お兄ちゃん。すー兄ちゃん、何か言ってた…?」

「ん…?だから途中で会ったんだろう?買い物の途中でさ」


 ちゃんと約束守ってくれたんだ、すー兄ちゃん…。ちゃんと内緒にしてくれたんだ。


「そしたらお父さんがまた出かけるって言うから、代わりにすー兄ちゃんがおまえを連れて来た…って、そう言ってたよ?」


「そう…」

 また涙が出そうになって俯いたら、飛馬が下から顔を覗き込んできた。


「違うの、姉ちゃん?」

「ううん。違わない」


 私は慌てて笑顔を作った。


「あとね、遅くまで引っ張り回してごめんなさいってさ。すー兄ちゃん、母ちゃんにすっごく謝ってたよ」

「……」


 すー兄ちゃんが悪いことなんかなんにもないのに。

 すー兄ちゃんが謝らなきゃならないことなんか、一つもないのに…。


 そう思ったら本当に涙が落ちそうでやばかった。


「いいなあー、姉ちゃん。あんみつおごってもらったんだろう?大っきいやつをさ。俺も呼んでくれたらよかったのに」

「あ…うん。ごめんね…」


 普通にしているのがこんなに辛いことはなかった。後ろめたいのと悲しいのと申し訳ないのと…色んな思いでもう胸の中はいっぱいで、今にもはちきれそうなほど痛くて…気を抜くと涙がこぼれてしまいそう。


 でも、この涙は秘密にしなきゃならない。


 すー兄ちゃんとの約束だもの。

 私、約束したんだもの。


「俺も今度、すー兄ちゃんにねだってみようっと」

「だめよ、飛馬。ご迷惑だわ」

「ちぇーっ」


 そんなやり取りをぼんやりと眺めながら、ふと私はすー兄ちゃんにまだお礼を言っていなかったことに気付いた。


 明日、すー兄ちゃんに会ったら一番に言おう。言いそびれてしまったありがとうを今度こそちゃんと言おう。


 助けてくれてありがとう。

 約束を守ってくれてありがとう。


 それから…。


 私と出会ってくれて、本当にありがとう――。


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