32 動き始める2
――そこは森の出口でも有り、同じシンデリス国内で有りながら、砦が整備され、森側に向けて監視業務が常に行われている。何故ならこの先には有史以前に建造されて、今なお不可侵と言われる「監獄城」が聳えており、強力なモンスターや魔獣が跋扈していると言われているからである。そんな恐ろしい森では有るが、ほんの数日前、とある一団が馬車を連ねて出ていった。その日の警備にあたった者たちは一体何事かとざわついたが、上官からの説明は無く、あまり関わるなと厳命されていた。
故に、その者達が、身体中から血を流して現れた時は右往左往してしまったのも仕方がない。
「開門! 開門してくれ!」
「だ、誰だ!?」
森から這い出るように現れた、傷だらけのビーシアン。戦傷の様なそれを見た砦の兵は、同種の仲間であるにも関わらず、ついそんな文言で誰何する。「この間ここを通った一団の者だ」と説明しても、彼はそのことを知らされていなかったのか、すぐに上官を呼びに行く。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
シンデリス共和国氏族会の皆が集まる会議堂に、その密書が届いたのは丸一日が過ぎてからだった。氏族長たちが円卓に集まり、その内容を読み上げられた途端、円卓が割れんばかりに大きな音を立てる。
「げ、齧歯族が進化しておるだと?!」
「……俄には信じられませんが」
「魔導具がそこら中に……」
届けられた内容に、誰もその真偽を測りかねていた。大体、齧歯族が進化しているというのが、信じ難いものだ。何しろ進化するのには何世代もの過程を経なければならないはずで、彼らがその姿を見たのは数年前なのだ。その時点で彼らは今だ物も言えず、姿はただの小動物程度でしか無かったのである。それが一足飛びに人型になって居て、その上魔導具すら自在に扱っているなど、普通に考えれば何を寝ぼけたことを言いたかったが……。その密書を寄越した人間たちは、我が国の巫女と氏族長の一人であり、我が国の権威ある立場の者で。
「……えぇい! これだけでは何とも判断がつかん! 密書を持ってきた斥候はどうした?」
「砦に生きて辿り着いた者はたった一人だったそうです……」
「な?! ど、どういう事だ?」
そこから聴いた経緯で氏族長の一人、ネイサン・マートンが激昂する。
「ヒストリア教皇国の間者だと!?」
「……その中の新派である『エオスフェル教団』だと」
「エオスフェル教団? よくわからんが、それもヒストリアの者たちなのだろう?」
「えぇ恐らくは。……どうやら、彼の者たちはかなり前から、森で監獄城を監視していたようで」
「なんですって? そんなの一体どこから聞いたの?」
狐の耳を持つマイア・メルストリープがそこに割って入り、一体どこの情報筋だと問いただす。
「……全て、齧歯族からの提供です」
そう言って文官は、密書と一緒に添えられてきたという、分厚い資料を円卓に乗せる。
「これは……もう、間違いないな」
円卓の中央、その椅子に深く腰を下ろした熊の特徴を持つ、オルデン・ディープが深い溜息とともに差し出された資料を見つめて呟くと、そこに集まった連中は理解してしまう。
――密書の内容は真実であると。
「――ここからは、この内容は真実だとして話を進めよう」
「……いやしかし」
「しかしではない! そんな悠長な事を言っている場合ではないだろう?!」
オルデンの言葉に一人の氏族長が口を挟むが彼はそれを一喝し、現状を話し始める。
「良いか? ヒストリア教皇国が、我が国内に既に侵入しているのだぞ? つまり、立派な侵犯行為だ。その上、この密書を運ぶ我が国の者を襲っている。……すぐさまこの件を外交に廻して、正式に問題化させる!」
――これは確実に「戦争行為」であると!
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リットン城のもう一つの貴賓室。豪奢で華美な装飾はないが、品があり、年代を感じさせる質実剛健な家具が置かれたその部屋で、革張りの大きなソファに腰掛けた、エルデン・フリージア王国伯爵、チャック・モルデンは、二重袖のフリルを弄びながら、独り言のように侍従に目線を合わせず呟いた。
「……それにしてもこの国は美しい。森は濃い緑と甘い瘴気の香りを滲ませ、その先には我らが主上の住まう城まで。あぁ、早くこの目で見たいものだ」
そう言って窓の方を見上げると、そこには遠目に深い緑が続いている。
「御主人様、参られたようです」
ソファの傍に立つ侍従がそう言った途端、扉をノックされる。部屋付きのメイドがそれに応えて、ドアを引くと、この城の主人、ミハイル・ド・リットンが家令エルボスを伴い、一礼をしてから部屋へと入ってきた。
「この度はこのような過分なおもてなしを頂き、誠に恐悦至極。我はエルデンフリージア王国にて、伯爵位を頂いております、チャック・モルデンと申します」
ミハイルが部屋に足を踏み入れた瞬間、モルデンはすぐさま立ち上がり、彼の前に歩み出て傅き口上を述べる。侍従は勿論後方に下がってただ頭を下げる。彼に勿論話す機会などはない。この部屋では上位がミハイルで、その下位がモルデン。その二人の仲介を取れるのは家令であるエルボスだけ。
故にその口上を聞いたミハイルは、そのまま視線をエルボスに向け、ただ頷いた。
「此度の急なご来訪、こちらとしては少々困惑しておりますが、歓迎いたしましょう」
「はは、大公閣下のご寛大な配慮、痛み入ります」
本来であれば、ありえない取り合わせなのだ。一方は確かに我が妹では有るが、帝国の、しかも皇妃である。それが何の連絡もなく、突如近郊の町についてから、連絡をしてきたのだ。
――他国の、領地すら持たぬ、聞いた事もない名の伯爵を連れて。
皇妃の状況は、逐一使者から聞き及んでいた。故に逃げ帰ったのだと思えばまだ、納得はする。……が、しかし。聞けばこの伯爵を伴って来たのは、彼女の方だと言う。応接間で泣き喚き、皇帝への不満をぶちまけた挙げ句、どこでどう嗅ぎつけたのか『監獄城』の件を持ち出してきた。それでなくとも機密事項であるのに、彼女はこう言ったのだ。
――あの方ならば、忌々しいあの監獄城を『開放』出来ます!
形式的な挨拶が終わり、上座へミハイルが腰を下ろすと、下座へエルボスの指示に従ってモルデンも座る。それに合わせてメイドが給仕を熟し、テーブルに茶器が並べられ、湯気の上がる紅茶が並ぶ間、ミハイルは心中でずっと思考を続けて居た。
チャック・モルデン伯爵……その出で立ちはかなりのインパクトが有る。羽織ったジャケットやパンツは赤で揃え、中に来たシャツの襟は異常に高い。袖口からはみ出した二重袖のフリルで手は見えず、顔には薄く、化粧まで施している。もしこんな人間が、社交の席で一度見ただけで、忘れることなど出来ないし、その噂はすぐに世界中を巡るはず。
……だと言うのに、なんだこの違和感は? 確かに派手な出で立ちでは有る。有るが、そのかわりと言えば良いのか、逆にというのか、話す口調や、その佇まいが凡庸と言うか、印象が薄いと言うか……。ともすれば注視していないと、その存在を忘れてしまいそうで……。
「……か。 閣下?」
不意に聴こえたその声に振り返ると、エルボスが妙な顔でこちらを見ている「どうした?」と返すと「……いえ、何やらボンヤリと――」と言った所で、下座から声が上がる。
「ご気分でもすぐれないのでしょうか?」
「……ん? いや、あぁ、済まない。大丈夫だ」
彼の言葉に返答し、色々考えるより、はっきり聞いたほうが早いと判断し、印象の薄い伯爵に目を向け、ゆっくりと口を開く。
「……単刀直入に聞きたいのだが」
「何なりと」
私の問答に彼が返答をしてくる。その声音を聞いた途端、頭の芯がブレたような感覚になり、思考が少し曖昧になっていく……。
「……あぁ、モルデン卿、其方に――」
……そう、其方に聴きたいのだ。
――監獄城の『開放』とは、一体、どう云う意味なのか――。
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「皇帝陛下に申し上げます!」
ゼクスハイドン帝国皇城の皇帝の執務室に、近衛騎士の一人が魔導通信を持って飛び込んでくる。その慌てぶりに宰相が「落ち着け!」と嗜める。
「申し訳ございません! で、ですがこちらを!」
叱りつけられた兵士は、一旦動きを止めるが、傅き、手に持った特殊な紋入りの通信書を掲げる。
「これは!? スタンピードの急報? どこだ? どこで起きた?!」
「リットン領の最北端の大渓谷です!」
「……大渓谷だと?」
二人の言葉を聞いていた、皇帝はその場所の名を聞き初めて声を出す。
――その急報が届いたのは、リットン領にチャック・モルデン達が来訪してから一週間後だった。