17 裏切りの聖女
その声を聞いた途端、全身の力が全て抜け落ちてしまう。
夢に幾度も見、焦がれ続け……。叶うことは無いと幾度心が潰れた事だろう。独り寝室で声を殺して泣き続け、どれだけ目を腫らしただろう……。
そうして、心を潰し続け、枯れた涙を何度も流し続けた先、マリアーベルと出逢った。
私にとっては唯の次の器――。
それでも健気に慕ってくれる彼女を見て、心が動かなかったわけではない。……だが、それでも。
千年という時の流れは私にとって長過ぎた。
エルフや、妖精種の類ではない我らヒュームにとって、それは途方もない時間だ。彼らのように皆が同じ時を進むのならば、時間という概念そのものが違って見えただろう。だが私は違う、私はヒュームと言う人種の中で一人、時間の流れから取り残されてしまったモノ。「器」に精神を移し続け、元の彼女らを見殺しにして生に縋った咎人だ。ヒュームの人生から外れ、ただ彼らの生を眺めるだけになってしまった存在。
――そう、自ら望んでそうなったのだ。
――当然その報いと罰は受けなければならない……。
なのに。
だと言うのに――。
その声をまた聞けてしまった。
千年の昔に別れ、夢の中でだけ逢うことを許された……たった一人の私の全てを知る愛しき人。
その魂が違うことは既に知っている……であるというのに、その髪色と瞳の色以外はどうして瓜二つなのでしょう――。
その見知った唇から溢れる優しい声音はどうして、私の心の奥底に眠った兄様と同じなのでしょう……。
あぁ、イリス様、これが……。これが私への罰なのでしょうか?
こんな、こんな甘く切なく……残酷な。無慈悲な現実を突きつけるのですか……。
声を掛けた途端、彼女は脱力したかのようにその場に崩折れる。慌てて支えようとして彼女を受け止めると、オフィリアは何かをボソボソ呟きながら、キツく目を閉じてボロボロ涙をこぼし始める。「どこか痛めたのか?」と聞くと、俺の胸にしがみついたままフルフルと首を振り、小さく震えたまま泣き続けた。周りが助けようとしてくれたがそれを制止して、俺は彼女をそのまま抱きかかえ、「少し二人にしてくれ」と部屋を出た。
◆ ◆ ◆
部屋を出て月明かりの下、ゆっくり彼女を抱えたまま歩き出す。所謂お姫様抱っこのような姿勢ではあるが、彼女の重みは全く感じない。まるで毛布にくるまれた小さな赤ん坊ほどの重みの彼女。身長はおよそサラ程だろうか、百四十もないだろう。そんな小さな体の少女が、この世界のヒュームの聖女だという。千年もの昔に当時の勇者となったノートと過酷な旅をし、地獄の戦火を生き抜いて、全ての仲間を眼の前で失い……。それでも癒やしの奇跡を行い、人々を救って回った。幼い頃にノートに見出され、回復術士として青春もなにもないままに成長し、挙げ句仲間を失って後までも人々を救っていっただけの彼女の人生。一体この小さな娘に何の業があるのだ? なぜオフィリアはこんな生き方をしなくちゃいけなかったんだ?
歩く振動と、俺の腕の中と言う安心からか、何時しか小さな寝息を立てているオフィリアを抱えながらそんな事を考えていると、いつの間にか教会の礼拝堂前に辿り着いていた。扉を背で押し開いてそのまま中に進む。並んだ長椅子の先には、大きなステンドグラスを背に、神像である聖イリスの立像が大きな影を落としてこちらを見下ろしていた。
最前列まで進んで、眠った彼女を起こさぬようにそっと長椅子に降ろすと、異界庫から毛布を取り出しそっと掛けてやる。
小さな顔に大きな涙の跡を残し、すぅすぅと小さな寝息を立てて眠る少女の頬をそっと拭き、身じろぎもしない彼女の顔を少し眺めてから、彼女に無音結界を展開する。彼女が少しでも安心してゆっくり休めるように、今は、今だけは傍に居て静かに眠らせてやりたかったから。
「……なぁ神様、今も見てるよな。……ハッキリ言っておく。オフィリアにはもう転写術を使わせない。だからもうこの娘にこれ以上の無理強いはしないでくれ……。死を以て償わせるとか、過酷な試練を与えるとか、そんな事もやめてくれ。――千年だ。千年もの生を生きてきたんだ。その間、一体どれだけの人を救ってきた? 確かにその為に何人もの無辜の少女に辛い人生を強いた事も理解している。……それでもだ。それでも彼女の事はもう放っておいてくれないか、彼女には普通の人生を歩ませてやりたい。俺が一緒に見守っていくから……頼む。」
神像の前に跪き、頭を下げて請い願う。両手を組んでただひたすらに……。俺ができる今の精一杯がこれだ。
――その願い、受け入れましょう。どうか幸せにしてあげてください――
瞬間、スキルからの応答でもなく、神像からその言葉は降りてきた。ふと顔をあげると、影になっていたはずのイリス像の顔に光が差し、慈愛でも慈悲でもない、ただ優しい笑顔でこちらを見つめる彼女の顔があった。
「――神託が……」
呆けたまま神像を見上げていると、すぐ後ろからそんな言葉が聞こえて来る。ハッとして振り返ると、毛布を抱えて長椅子から腰を上げたオフィリアが、そう呟いて神像を見つめていた。
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「……ジゼルよ、サラとマリーをそろそろ寝かせてやってくれ」
二人が出ていった部屋がしんと静まって少しの後、セリスが落ち着いた低い声で心配そうにしている子どもたちを見ながらそう言う。サラやマリーは「まだ眠くない」「ノートシャンが心配ですぅ」と抗議の声を上げるが、「二人なら大丈夫だ。明日になれば皆笑って会える」と言い、ジゼルに二人を頼む。
「……さて。ノート達がおらぬ内に、事務的な打ち合わせをしようかの。ミスリル級「剛のジェイク」と「沈黙のロレンス」殿」
三人が出ていった後、スレイヤーズの面々と聖女の連れてきた冒険者三人になった部屋で、セリスはそんな言葉を吐きながら、シェリーに茶のお替わりを頼む。
「ははは。俺達のそんな名前まで知っているとは、やはり「災厄」様は恐ろし……おっとこれは失言でした。どうかご容赦を」
「ふん。別にその程度のことで怒りはせん。……大体、キャロルとシェリー、それにこのセーリスを見れば分かるだろうが。冒険者ギルドの最高戦力だった三人娘だ。お主らなど、とうに判っておるわ。……ただ今回の件、聖女の「護衛」任務だけではないのだろう? アリシエールまでをも連れているとなれば……出奔でもしたのか、聖女様は」
「「な! なんです!?」」
セリスの言葉を聞いた途端、大きな声で反応したのはキャロルとアリシエール。セーリスやシェリーは察しがついていたのか、声は上げずにジェイクの方を窺っている。
「――はは、参ったねこりゃ。……ってかお嬢、お前が驚いてどうするんだよ。セーリス殿、精霊結界をお願いしても?」
「……了解した」
諸手を挙げて降参のポーズを見せたジェイクは、セリスの後ろでこちらを見据えるセーリスに結界魔法を請う。彼女が了承し、文言が放たれた後、ジェイクはその大きな体を屈めるようにして話し始める。
「……セリス様の仰るとおり、聖女オフィリア様はこの度、聖イリス教会を出奔されました。長きに渡る教皇派の非道を知り、また今回の元聖女様の処遇露呈の件など、腐りきった上部組織の腐敗を一掃せんが為、内部に居るだけでは動きが取りにくかったと言うのが建前です」
「フム……。で、本音の方は?」
「……既に身動きがとれないところまで追い込まれていました。枢機卿は何人も消息不明であるにも関わらず、心配どころか次の候補に躍起になっている大司教や有象無象。……教皇はほんとうの意味でバケモノですね。人の心の隙を上手く誘導し、操られていることすら気づかせないように全てを操る……。国教であることを良いことに全ての国に自らの手の者を潜り込ませ、「目」とし、「耳」として取り仕切っていく。あっという間でしたよ、「裏切りの聖女」に仕立て上げられるまでが」
ジェイクの話によると、この度行われる「神前審問会」これは聖女であるオフィリアを神の前で断罪し、教皇にすべての権利を移譲させると言う、言わば派閥の者の一斉摘発のような場になるという。
「――なるほど。……それを聖女の間者が察知したと。……そう言えば、エクスにも一人、何とか言うのが居たな――」