第35話 哀感
翌日の朝、ノートは食堂に来なかった。
「キャロ、どうだった?」
彼の部屋へ向かったキャロに声を掛けるが、彼女は黙って首を振るだけ。どうやら結界が張られているらしく、ドア自体に触れられないらしい。
「ハカセ、お前でも駄目なのか……」
《アレは次元結界だな。無理に入ったとしても、物理的に接触できない》
二人からそんな返事しか返ってこず、大部屋の空気は重いものになっていた。
「ったくあ奴め。念話にすら返事をせん。一体どうし──」
《マスターは現在就寝中です》
セリスが話しかけた所でシスの言葉が念話で帰って来る。聞こえた全員がシスに聞き返すと、ノートはどうやら徹夜してそのまま眠ったという事だった。なのでこちらの心配は要らないと言う。
「……そうか。お主がそう言うなら、ひとまずは納得しておこうかの」
*******************************
《一応、皆さん理解はしてもらえましたが、納得はされていないと思います》
シスが俺にそう言って報告してくるが、返事をする余裕はなかった。
部屋の鎧戸は閉じたまま、隙間から差し込む灯りで真っ暗と言う訳ではなかったが、俺はただベッドに横たわり天井を見上げているだけだった。
───どうか、業深き私に最期の裁きと慈悲をお与え下さい。ケンジ兄さま。
それを読んだ瞬間、激情に駆られ、目の前が真っ赤になるほどの感覚を覚えた。次に来たのは全てをぶち壊したくなるような衝動と、身が震えるほどの悪寒と、虚無感だった。足元に大穴が開き、漆黒の深淵が見えた気さえした。
気付くと幾つもの水滴が床を濡らしていた。手紙を持つ手は震え、ただただ嗚咽してしまっていた。
──罪ではなく、業。オフィリア……。君は自身の行いをそう呼ぶのか──。
──報われなかった想いを。
──理不尽に歪められた人生を。
当時の君は幾つだった? 二十歳そこそこの娘が負うような責だったか? 日々戦闘に明け暮れていた、血臭に塗れた旅路の果てに……。仲間を全て失って。君の心の拠り所だった皆に置き去りにされてしまったのに──。
君の事だ、その後も気丈に傷ついた人たちを癒していったんだろう?
頭の中がぐしゃぐしゃにかき混ぜられる。怒りと悲しみと絶望と虚無感、これらが混然となり胸を締め付け、どうしようもない感情が襲い掛かって来る。
オフィリア。……その責は君だけの物じゃない! 俺に! 俺にも有るんだ!
気付くと夜は明け、鎧戸から光が筋となって差し込んでいた。
部屋には次元隔離結界を張り、念話も切った。全ての事をシスに任せ、ただ横になっていたかった。
*******************************
「……イリス様」
マリネラが、白の世界で下界を望むイリスに声を掛ける。
「マリネラですか」
「はい」
言葉少なくイリスの傍に座るマリネラは、話すイリスの横顔をちらと見る。
「オフィリアの事、思い出したようですね」
イリスと同じ様に下界を見ながら、寂しそうな声でマリネラは呟く。
「……彼は、ケンジ君はもう、許してはくれないでしょうね」
瞳を伏せながら、弱々しい声でイリスは小さくマリネラに応える。
「イリス様。いずれ来る時に我等は斯く在れかしと顕現した存在。今はまだ、道半ばなのです。貴女の元の主人格や核になった魂が、たとえそうであったとしても、既に夢幻泡沫が如く、影を慕いているにすぎません。なれば、彼を信じましょう。それが神となった我等の成すべきことです」
「マリネラは、それでいいので──」
言いかけて彼女はその言葉を飲み込んだ。長い金の髪をかき上げる様にしながら、その大きな瞳から零れては溢れる涙を隠そうとしているマリネラの姿を見てしまったから。
「大神に縋った儂は、間違っておったのかも知れんな」
「グスノフ老よ、それは考え過ぎだ。その責はあの邪神にあって、そなたでは決してない」
離れた場所で、二柱を見ていたグスノフの言を否定するエギル。
「グスノフよ、我らは出来る事をしたのだ。それに、あの男は人として長い時を経験した者。そうそう簡単には折れぬ」
「エリオスか。まさかお主にまで慰められるとはの」
「フハハハ! まさかとは言ってくれるわい!」
そんな彼らを遠巻きに眺めながら、ノードは一人、酒をあおっていた。
*******************************
「おい太田ぁ! この見積もり出したのお前かぁ!!」
とある街のオフィス街の一角に建つ築何十年だと思う様な煤けた外観。地上五階建ての為、エレベーターなどという昇降措置はついていない。階段は狭く、非常口も兼ねているそこには、踊り場ごとに段ボール箱が積まれ、人の往来を邪魔せんと、圧迫するようにうずたかく聳えている。雑居ビルであるため、トイレや給湯室は当然各階に一カ所しかなく、各フロアに入ったテナントで持ち回りで掃除しなければならない。
そんな時代錯誤なビルの最上階。聞こえは良いが、階段しかないビルの上階なぞ、唯の拷問部屋だ。エアコンは効きづらく、夏は西日で冬は極寒なこのビルの最上階に俺の勤める会社は入居していた。
「はいぃ?! ど、どちらのみつもムガ!」
「こ・れ・だ・よ! 見えたか! あぁ?」
直属の上司である高宮課長が、紙束を俺に投げつけながら顔を近づけて来る。
「え、えぇと……」
バサバサと足元に散らばった書類を慌ててかき集め、表紙を見つける。そこには先週、二年越しでアポを取れた顧客の名前が記されていた。
「興和物産! え? 見積もり? あ、あのここにはまだ先週顔出しに行っただけ──!」
書類から顔を上げた瞬間に頭を何かで叩かれる。
「何寝言抜かしてんだよ!! アポ取れたら見積もりもって仕事とって来るのが営業の仕事だろうが! テメェは一体何年この仕事してんだよ!」
”パシィ”
「痛ぁ! す、すみません! そ、それでこの見積もりは?」
見ると課長の右手にはプラスティック製の定規が握られていた。
「知るかよ! だから聞いてるんだろうが! 先方から、こんな出鱈目な見積もりでは取引以前だと言われたゾ! どうするんだよ!?」
俺こそそんなの知らねぇよ! 二年もの間、毎日毎日暇を見つけては受付に顔を出し続けた。最初の一年は門前払いだけだった。そうしてやっとの思いで担当者の名前を聞いたのが半年前。そうして必死で頑張って、挨拶だけと言って会えたのが先週だったのに。
その時、ちらと自分のデスクの方を見る。
皆が聞こえないような素振りでパソコンと格闘している中、奴だけがニヤニヤ笑って作業をしていた。
「テメェ……。俺が話してる最中によそ見とか、良い度胸だなぁ、えぇ、太田ぁ」
「へ? あ、いや、違いま──グゥっ!」
いうや否や、課長は俺のネクタイを締めあげ、息がかかるほどに顔を寄せる。
「これが最後のチャンスだ、万年平のテメェにやる最後の俺からの恩情だ。今すぐ訂正した見積もりもって、謝罪してこい! 必ず仕事を受けてこい! いいな。出来なかったらここに居る皆の前で腹でも掻っ捌いて死ね!! いいな!」
「グッぅぅ……。わ、わかりましたぁ」
何とか絞り出した返事に、鼻を鳴らしながらネクタイを放し、さっさとやれと課長は自分のデスクに座る。
◇ ◇ ◇
「太田さん、今更だよ。あんな見積もりをいきなり、しかも代理に持たせてさ。舐め過ぎじゃない? それともおたくは我が社よりも大手さんでしたか?」
「申し開きのしようも御座いません。興和物産様は我が社の様な者から見れば雲の上の存在です。こちらの手違いです! すべて私の責任です! どうか、どうか! 今一度チャンスを!」
「知っています? チャンスの神様って前髪しかないって。確か、カイロスだったっけな? 好機はすぐに捉えなければ後から捉えることはできないって言う、ことわざ。アンタはそれを自分で捨てたんだよ。よりにもよって、俺の上司に渡すなんてどんな神経してんだよ」
それだけ言うと、受付にも出入り禁止を告げたと言い放ち、彼はエレベーターに乗って行った。
──正直、どこをどう歩いたのか覚えていなかった。気づくと目の前には、煤けた雑居ビルが見えていた。
鈴木和夫。俺と同じ中途採用組の後輩社員。席が隣だった為、俺が教育していた。俺のような奴とは違い、要領も良く課長のお気に入りでも有った彼。俺の代理を名乗って担当者の上司に直接交渉を持ち掛け、見事に玉砕したそうだ。結果、その御鉢は俺に廻され、俺がスケープゴートになった訳だ。
怒り? 理不尽? ははは。そんな物はもうとっくに捨てた。社会で生きて行くために身に着けた処世術。
──諦観。
五十に手が届いた俺が、やっとの思いで死なない程度に生きて行くには、それしかなかった。資格も、スキルもない俺が……。ここで必死に生きて行くため──。……ちくしょう。畜生……。
目の前がぼやけ、景色が滲む。拭っても拭ってもそれはとめどなく溢れ、流れ続けた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
少しでも面白い! 続きが読みたい! と思っていただけたら、
ブックマークなどしていただければ喜びます!
評価ボタンは、モチベーションに繋がりますので、何卒応援よろしくお願いします!
ランキングタグを設定しています。
良かったらポチって下さい。