後編
前半は侯爵様視点、後半は主人公視点となります。
(Side:グラニット侯爵)
船旅を終え、ようやく大地に足をつけた。今回は思った以上に長い旅となってしまった。
アジュール子爵家のローズマリー嬢のことはずっと前から知っていた。彼女は覚えていないかもしれないが、わたしの母と彼女の母が幼馴染だったのだ。わたしたちが幼いころはよく一緒に遊んだ。
『おにいさま』とわたしのあとをついて歩く女の子はとても可愛らしく、その彼女の作った花の冠をもらったときには嬉しさのあまり思わず結婚を誓ってしまった。
『ローズ、大きくなったら僕のお嫁さんになってくれる?』
『はい』
はにかみながらも承諾してくれたローズマリーは本当に愛らしくて、立派な侯爵になったら必ず迎えに行こうと心に誓った。
わたしが寄宿舎に入ると共に過ごす頻度は極端に減ってしまった。そして、7年前、いや、もう間もなく8年になるか、あの流行り病で彼女の母は儚くなり、我が家との交流は完全に途絶えたのだった。
それでも、幼い頃の誓いを果たすべく久方ぶりにアジュール子爵家を訪れてみると、ちょうどティーパーティーが開かれている最中だった。女の子の形に刈られた植木が花冠をかぶっている。それはいつかのローズマリーのようでわたしの心は浮足立った。
「いかがなさいましたか?」
声をかけられ振り返るとそこにいたのは紛れもなくローズマリーだった。彼女はあの頃の愛らしさに加え、凛とした美しさを持つ素晴らしい女性に成長していた。
残念ながら彼女はわたしを覚えていないようだった。他人行儀な会話だけで離れていってしまい寂しく思ったが、気を取り直して当主のアジュール子爵と面会した。
「お久しぶりです、アジュール子爵」
「侯爵様、わざわざご足労いただきましてありがとうございます」
そうして彼は目を細めて、ご立派になられましたね、と喜んでくれた。
しばらく世間話をした後、予め手紙に記した通り、ローズマリーを妻として迎えたい、と申し入れた。わたしは侯爵家の当主だ、こういってはなんだが、わたしの妻になりたい女性は大勢いる。アジュール子爵も喜んで縁を結んでくれると思ったのに、彼は思いのほか渋い顔をしている。
「パーティーをご覧になりましたか?」
急に関係ない話を振られ、いぶかしく思いながらも将来の義父の言葉に頷いた。
「えぇ、とても盛況で驚きました」
「世間ではあれをローズパーティーと呼ぶそうです。アジュール子爵令嬢、ローズマリーが手がけるガーデンパーティーは一見の価値ありだそうですよ」
アジュール子爵は苦々しく言い捨て、ため息をついた。
「あの大干ばつで我が家は傾きました、それを補うためにフィル伯爵の融資を受け、条件として彼の姉であるリーザを妻として迎えました」
それは知っている、本当はわたしが支援したかったのだが、そのころはまだ次期当主でしかなかったわたしには決定権がなかったのだ。
「情けないことですがフィル伯爵に借りがあるうちはリーザの言いなりです、このパーティーもリーザが強請ったものなんです」
そこでアジュール子爵は立ち上がり、わたしに頭を下げた。
「侯爵様にこのようなお願いをして申し訳ありませんが、どうかローズをわたしの代わりに守ってやってくださいませんか?わたしは父親でありながらあの子を苦しめることしかできないのです」
聞けばリーザ夫人は社交以外の女主人の仕事のほとんどをローズマリーひとりにやらせているという。このローズパーティーもリーザ夫人が命じて開催させているのであり、ローズマリーは業務とパーティーの準備で日々追われているというのだ。
言われてみれば先ほどのローズマリーには昔のような輝く笑顔がなかった。再会に有頂天になっていてそれに気づかなかった自分は愚か者だ。
ローズマリーが苦しんでいるのならすぐにでも助けたい、しかしわたしは近々、船旅に出なければならない。遠い外国をも訪問する長い旅路となる予定で、その前に婚約を結んでおきたくてこうしてアジュール家にやってきたのだ。
ここだけはリーザ夫人に感謝してもいいが、ローズマリーが多忙なおかげで彼女はいまのところ夜会に一切出ていない。しかしこうやってパーティーを開き続けていたらやがて彼女は見いだされ、男たちは我先にと彼女に求婚するだろう。ローズパーティーに固執しているリーザ夫人が彼女を手放すわけがないが、それでも条件が良ければ婚姻を命じてしまうかもしれない。
「わたしは長い船旅を予定しておりますのでローズマリー嬢のそばにはいられませんが、代わりに従妹のリリアーナを置いていきましょう」
「リリアーナ様ですか?」
「7年前の流行り病で両親を亡くしたので引き取った遠縁の娘です。新居に彼女は入れないつもりでしたが、あれも一応は侯爵家の人間、わたしが不在の間、ローズマリー嬢の盾くらいにはなりましょう」
アジュール子爵はわたしの言葉に安堵し、ローズマリーをわたしの妻として迎え入れることが正式に決定した。
彼女のために用意した新居はローズブルーム館、彼女の名前のついた屋敷で一目見てローズマリーのための家だと確信した。元の持ち主である老婦人に、間もなく迎える新妻へのプレゼントにしたいと頼み込み、どうにか譲ってもらった。
屋敷が手に入るとわたしはさっそく本館の家令と家政婦長の二人をそちらに移した。二人がローズブルーム館で働くということは、これからはこちらが本館になるということだ。
そしてリリアーナにはローズマリーのことを頼んだ、特にアジュール子爵家のリーザ夫人とは面会させないようにきつく言い置いて、慌ただしく旅に出た。
船の上からローズマリーに出した手紙の返事を受け取ったのは、最初の寄港地に滞在しているときだった。美しい文字で、わたしの申し出に感謝すると綴ってあった。
しかしそれ以降、彼女からの手紙は届かなくなった。毎月の収支報告書は来るのだが、そこにはわたしへのメッセージのひとつもなかった。最初はこちらからの手紙が届いていないのかと思ったが、リリアーナからの返事は届くことからすると、ローズマリーが意図的に返信をしていないのだと推測できる。
どうやらわたしは嫌われたようだ。
毎月送られてくる完璧な収支報告書は間違いなくローズマリーの筆跡で、彼女が真面目に侯爵夫人の仕事をこなしていることを表していた。婚約も式すらもなく結婚させられた上に夫は不在で、侯爵夫人という重責だけが彼女にのしかかっている。身勝手な男だと思われても仕方がない。
帰国してから挽回するしかないが、なにもしないよりはマシと思いせっせと手紙を送った。が、旅の間、彼女からの手紙は一通も届かなかった。
その年は急激に寒くなり駆け足で冬がやってきた。帰路を急いだおかげで、湾が凍る前になんとか港にたどり着くことができた。凍結したら船は使えない、遠く迂回して陸路で戻るか、春を待つしかなかったのだ。それでなくても長くローズマリーを待たせている。屋敷に置いてきた使用人は信頼のおけるものばかりで心配はしていないが、少しでも早く彼女と日々を過ごしたい。
降り積もる雪の中、逸る気持ちで馬を走らせ、やっとローズブルーム館に着いた。愛しい女性の名前を冠する白亜の屋敷は、雪の中でも際立って美しかった。その凛とした佇まいがローズマリーのようで、わたしは人知れず微笑んだ。
「おかえりなさいませ、旦那様」
使用人一同が並んで出迎えてくれる。でもその先頭にいるのはリリアーナでローズマリーではない。使用人を率いるのは女主人のはずだ、彼女はどうしたのだろう。
「おかえり、テオ」
「ただいま」
リリアーナのハグを受け取って周囲を見渡したがやはりローズマリーがいない。
「ローズマリーはどこにいるのかな?」
「おかえりなさいませ、旦那様」
そのタイミングで家令と家政婦長が恭しく頭を下げてきた。嫌な予感がする、彼らにはわたしの質問が聞こえていたはずだ。それなのになぜローズマリーのことをなにも言わず、ただ挨拶をするだけなのだろう。
今すぐ問いただしたかったが、大勢の使用人の前で話すことではないと思い、主だった使用人と共にサロンに移動した。リリアーナも同席したがったが部屋に戻らせた、楽しい話にはならない予感があったからだ。
給仕のメイドがお茶を用意して出ていくとすぐ、家令と家政婦長を問い詰めた。
「なぜ妻の出迎えがないんだ?」
すると二人は満面の笑みを浮かべている。
「奥様でしたら、先ほどお出迎えしたではありませんか」
「なにを言ってるんだ、リリアーナは従妹であって妻ではない」
わたしの断言に二人はにこやかに微笑み、
「このローズブルーム館の本当の女主人がどなたなのか、わたくしどもはよく心得ております」
その物言いに我慢ならなかったわたしは立ち上がり怒鳴った。
「おまえたちはまだそんなことを言っているのか、わたしが愛する女性はローズマリーただ一人だ!」
わたしの怒りに二人は驚愕し、絶句していた。
リリアーナが同じ屋敷に住むようになり彼女が年頃になると、使用人たちはなにを勘違いしたのか、わたしたちが恋仲だと思い始めた。リリアーナはわたしにとって妹以外のなにものでもなく、彼女もわたしを兄としか思っておらず、わたしたちの間に恋愛感情は皆無だった。
にもかかわらず使用人たちはことあるごとにわたしたちを『そういう雰囲気』にしようと画策していた。説明しても聞き入れない彼らが面倒になって好きにさせていたが、リリアーナの寝室を客間から主寝室に移してはどうかと提案されたときは、さすがに厳しく注意した。
「何度も言っているが、わたしとリリアーナの間には家族に対する愛情しかない。それにリリアーナはいずれ嫁ぐ身だ、彼女に悪評が立つようなことはやめるんだ」
使用人たちは納得していないようだったが、その後まもなくわたしの船旅が決まり、さらにはローズマリーを侯爵夫人として迎えることも決まったため、この話はそこで終わりとなった。
このときの勘違いがまだ尾を引いていたとは予想外だった。彼らがリリアーナを夫人として扱ったなら、ローズマリーの立場は危うくなる。
「わたしはおまえたちに、ローズマリーを侯爵夫人として迎えると話をしたはずだが、違ったかな?」
「いえ、確かに承りました」
家令はハンカチで汗をぬぐいながら答える。
「ローズマリーはこの屋敷の女主人だ、おまえたち使用人を統率する立場だ。それなのになぜ、その位置にリリアーナを立たせた?」
「それは」
指示をしたのであろう家政婦長が返答につまっている。
「まさか、リリアーナに主寝室をあてがったということはないだろうな?」
わたしの言葉を聞いて、ひとりのメイドがこそこそとサロンを出て行こうとした。
「どこへ行く?」
「あ、そ、その」
メイドの顔色は真っ青で今にも倒れそうだ。
「露呈しないうちにリリアーナの部屋を移そうなどと考えていないだろうな?」
図星だったようでメイドはその場で土下座をし、申し訳ございません、申し訳ございません、と、うわごとのように謝り続けた。メイドの頭上から詰問する。
「リリアーナの部屋はどこなんだ?」
「しゅ、主寝室の、右側のお部屋です」
やはり女主人の部屋をリリアーナに使わせていた。わたしは苛立つ心のままに荒々しく息をついた。
「それで、ローズマリーにはどの部屋を与えたんだ?」
わたしの問いに誰も答えようとしない。一様に、青い顔でうつむくばかりだ。
「おまえたちは主人の問いを無視するほどに礼儀がなっていないのか?」
その言葉に覚悟を決めたのか家令が答えた。
「ローズマリー様は、厨房の下、半地下のお部屋にご案内しました」
それを聞いたわたしは思わず家令を殴り飛ばしていた。痛みにあえぐ彼を無視して部屋を飛び出す。ホールには、船旅に同行させた侯爵家の私兵がまだ数人残っていた。
「屋敷の使用人を残らず地下牢に入れろ!」
彼らに指示を出し、半地下の部屋へ急いだ。あの部屋は食材を貯蔵するためのスペースで涼しくなるように設計されている。こんな雪の降る季節にあの部屋にいたら、涼しいどころか凍え死んでしまう。
「ローズマリー!ローズマリー!」
部屋にたどり着き、ドアの外から呼びかけても返事がない。恐る恐るドアを開けるとベッドに横たわるローズマリーが見えた。
「ローズ!」
慌てて駆け寄ると彼女の体はすでに冷たかった。
(Side:ローズマリー)
目を開けるとそこは知らない部屋だった。体には暖かい布団がかけられており、部屋も暖炉で温められている。あの世というにはあまりに現実味を帯びていて、わたしは自分が死ねなかったことを理解した。
体を起こしベッドにぼんやりと座っているといつものようにノックもなくドアが開かれた。朝になっても仕事を始めていないわたしを使用人の誰かが怒鳴りに来たのだろう。
「ローズ!」
驚いたことに部屋に入ってきたのはグラニット侯爵様だった。彼はわたしに駆け寄り、躊躇なく抱きしめてきた。わたしは書面上はグラニット侯爵夫人で彼の妻だが、ローズパーティーの客とホスト、わたしたちの間にはたったそれだけの歴史しかない。
「おやめください」
気安く触れられて嫌悪感が先立ってしまい、思った以上に固い声になってしまった。侯爵様に対して不作法だったと瞬時に悟ったが、彼はわたしの要望通りさっと体を離してくれた。
「すまない、君が目を覚ましてくれたことが嬉しくて」
その言葉でわたしを助けたのは彼だとわかった、わたしはあのまま死んでもかまわなかったのに。新たなお飾りの夫人を探すのは手間なのかもしれない。
そこでわたしは自分が夜着であることに気が付いた。さすがに恥ずかしくてベッドのシーツを手繰り寄せた。
「すぐに着替えて仕事をします」
「それはもうしなくていい」
わたしの言葉を侯爵様は即座に否定した。どうやら彼の帰国をもってわたしはお役御免になったらしい。リーザ様のいるアジュール家には帰りたくないし、そもそもこの雪の中、大した金もなくどこに行けばいいか。考えることは山ほどあったがひとまず挨拶を口にした。
「かしこまりました、短い間でしたがお世話になりました」
わたしの言葉に侯爵様は悲しそうな顔をし、そっとわたしの手をとった。
「そうじゃないんだ、今まで本当にすまなかった」
そういって彼はわたしに頭を下げた。なにがどうすまないのか、わたしにはまるで理解できなかった。
わたしは背中にクッションをたくさんいれ、それにもたれるようにして座っている。整えてくれたのは侯爵様自身だ。
「自分でやりますから」
「ダメだ、医師から安静にと言われている」
「でも」
「せめてこれくらいはやらせてほしい」
侯爵様は懇願するような声色で言う、高位の方にここまで言われては拒否をするほうが無礼になる。男性にかいがいしく世話を焼かれるのは居心地が悪かったが、受け入れるしかなかった。
わたしの世話を終えると彼は呼び鈴を鳴らし、やってきたメイドにわたしの食事を用意するように言いつけた。彼女はわたしの給仕をしていたメイドだった。時計を見ると今はお昼の3時、こんな時間に食事をオーダーしたら怒るに決まっている。
「食事は不要です」
わたしの言葉に侯爵様は怪訝な顔をした。
「少しでも食べないと。体がよくならないよ」
「ですが、こんな時間に支度をさせてはいけませんから」
するとメイドがはじかれたように声を上げた。
「いえ、今すぐお持ちいたします」
慌てて出ていこうとするメイドを侯爵様が呼び止めた。
「どういう意味だ?わたしにわかるように説明してくれないか?」
彼女は震えていて声を出せないありさまだった。仕方がないのでわたしが話をする。
「食事は決まった時間にのみ提供されます、食器が片付かないうちは、いつまでも厨房の仕事が終わりませんから。時間通りに食べるようにしていたのですが、立て込んでいるときはなかなか難しくて」
「そういうときはどうしていたの?」
侯爵様の静かな問いかけに首を傾げた。
「どうと申されましても。既に片付けられているのですから食べようもないかと」
そこで侯爵様はメイドに振り返った。
「つまり食事抜きというわけだね、なるほどこんな余罪も隠していたのか」
「違います!隠していたわけじゃ」
「わたしは洗いざらい話せとおまえたちに言ったはすだが?」
「ひっ」
わたしからは侯爵様の表情が見えないが、その声色とメイドの顔色から察するにかなりお怒りのようだ。
いったいなにを怒っているのだろう、パーティーが長引くと片付けが終わらず、結果として延長料金を取られる。外注で開催したローズパーティーで痛い目を見たので彼らの言い分はとてもよくわかる。
「今すぐローズマリーの食事を用意しろ」
「かしこまりました!」
侯爵様の言葉少ない命令にメイドは部屋から駆け出して行った。
その足音が聞こえなくなってから侯爵様はわたしに向き直り、再び謝罪した。
「ローズマリー、こんなことになって本当にすまなかった、まさか使用人がおかしな勘違いしているとは気が付かなかった」
「なにを勘違いしていたのでしょうか」
侯爵様は言いにくそうに、
「彼らはわたしとリリアーナが恋仲だと思っていたんだ」
侯爵様の言い分にわたしは呆れてしまった。わたしは、リリアーナ様が使っていた主寝室に呼び出されたこともあるから知っている。あの部屋には女性がひとりで使うにはあまりに大き過ぎるベッドが設えてあった。
「失礼ですが、リリアーナ様は主寝室をお使いになられていました。そのような関係でありながら恋仲ではないとおっしゃられましても、誰も信じないのではないでしょうか」
わたしの指摘に侯爵様は勢いよく顔上げる。
「わたしはこのローズブルーム館には旅に出る前の数日しか滞在してないし、リリアーナが来たのはわたしが旅立った後だ。誓って言うが、わたしたちは寝室を共にしていない。そもそも夫人でもないリリアーナが主寝室を使うこと自体がおかしいんだ」
「ですが、リリアーナ様は確かに主寝室をお使いに」
わたしの疑問に、侯爵様は苦々しい顔で答えた。
「リリアーナは流行り病で視力を失っているんだ。使用人が案内した部屋が主寝室であるかどうか、彼女には判断できない」
侯爵様の言葉に息を飲むほど驚いた、と同時に、いろいろな疑問が解消した。
彼女は目が見えないことを隠すためにベールをしていたということになる。『話し相手』もそうだ、リリアーナ様はわたしの席がないことすら気が付いていなかったのだ。それに先日のローズパーティー。リーザ様に蹴られてひどい身なりで姿を現したわたしに彼女はなにも言わなかった、目が見えないのだから気づけるはずもない。
リリアーナ様の目となるべき使用人たちは歪んだ視点で物事をとらえていた、正しい情報が伝わらないのは当然だ。
「目がお見えにならなかったのですね」
「リリアーナはそれを恥だと思っている、君にもアジュール子爵にも話していなかったのは彼女の意思を尊重したからだったが判断を誤った、本当にすまないことをした」
知っていたところで使用人たちの結束を破ることはできなかっただろう。それでもリリアーナ様から冷遇されていたわけではないとわかったことはよかったと思う。
そこで部屋のドアがノックされた。
「お食事をお持ちしました」
先ほどのメイドの声だ。
「どうする?」
侯爵様に聞かれて入室してもらうように言った。
「済みましたら食器は廊下に出しておきますね、申し訳ありませんが、食後は少し休ませていただこうかと思います」
「なにかあったら遠慮なく呼んでくれ」
メイドが食事を置いて出て行ったあと、侯爵様も部屋から出て行った。ひとりになった部屋で食事を済ませ、眠りについた。
その後、再び高熱が出てしまい、結局2週間近くベッドから出られなかった。その間に侯爵様はすべての使用人を入れ替え、リリアーナ様は自ら進んで住まいを移ってしまった。それを知ったのはベッドから離れられるようになってからだった。
熱に浮かされている間は看護婦がわたしの看病をしていたので、使用人の誰とも顔を合わせることはなかったのだ。ローズブルーム館に来て、初めてダイニングでの食事を済ませた後、新しい家令と家政婦長を紹介され、とても驚いた。
「誠心誠意、奥様に仕えさせて頂きます」
ふたりは騒動の顛末を知っているのだろう、神妙な顔つきで挨拶をしたが、わたしは、よろしく、とも、頼みます、とも言えなかった。二人が退室してすぐ、わたしは侯爵様に言った。
「侯爵様、お願いがございます」
「なにかな?」
「離縁していただけないでしょうか」
これはベッドで過ごしていた間に考えていたことだった。侯爵家での日々はわたしにとって楽しいものではなかった。それに侯爵様が戻ったのだから侯爵夫人という『役職』はもう必要ないと思う。
使用人たちの妨害があっても、領地を管理し、書類を決裁し、帳簿をまとめた。強制ではあったがローズパーティーを開催したのだから、社交の義務も果たしたと言える。退職を申し出ても恥ずかしくない程度には侯爵家に尽くしたと自負している。
わたしの要望に侯爵様はなにも答えなかった。
王都にある小さな商会、事務員のマリー。それが今のわたしだった。
侯爵様と離縁したわたしはその足で王都に出てきた。偶然見つけた求人の貼り紙を見てこの商会に雇ってもらったのだ。
そして、わたしは今日で成人年齢を迎える。この国では成人したら生き方を自分で選べる。
わたしは朝一番に貴族院に向かった、貴族籍から自分を抜くためだ。
思えばわたしは貴族に向いていなかった。動きにくいドレスも、腹の探り合いでしかない社交も、わたしには無駄としか思えなかった。それに誰かの上に立って指示をするなど、おこがましいとしか感じることができなかった。アジュール家の商会の手伝いをしていたときのように、自分が把握できる範疇程度が精一杯だ。
今は自分の稼ぎの中で生活をしている。まさしく自分が把握できる範囲、生きていくにはこれで十分こと足りる。
最初で最後の訪問になるであろう貴族院は煌びやか且つ厳かな建物で、貴族が好みそうな豪華な造りをしていた。
受付カウンターに座る役人に除籍したい旨を伝えると書類を渡された。
「記載台で記入をお願いします、終わったらこちらまでお持ちください」
必要事項を埋めた書類を渡して番号札を受け取った。後は処理を待つだけだ。そう思ったのに結果は書類不備だった。
「どこが間違ってるんでしょうか?」
役人は困ったような顔をして、
「それはお教えできない決まりなので」
と言った。
書類に書いたのは名前や住んでいる場所など自分に関することだけだ、それを間違うということは本人ではありません、と言っているようなもの。教えられないという役人の言葉には納得できる。
家長からの申請ならば本人でなくても除籍できるが、それ以外はいかなる理由があろうとも受理されない。ルールは理解できるが、いつまでたってもアジュール子爵令嬢のままでは困る。
そこでひとまず自分の情報を取り寄せることにした、これは郵送でしか対応できない。請求手続きをし、数日後、自宅に届いた書類を見て驚いた。わたしは未だにグラニット侯爵夫人のままだった。
貴族にとって婚姻は家同士のつながりとなる、離縁するならば侯爵様からお父様に話をするのが正式なルートだ。わたしの籍が未だにそのままということは、たぶんお父様には話が伝わっていないのだろう。思えばローズブルーム館を出てからお父様とは会っていない。リーザ様に勘づかれないよう接触を避けてくださってると思っていたが、そうではないのかもしれない。
となると話を止めているであろう本人に直接理由を聞くしかない。
わたしは侯爵様に面会を申し出る手紙をしたためた。
面会の許可はすぐに下りた、指定された日時に辻馬車でグラニット侯爵家に向かった。見えてきたローズブルーム館はかつてと同じように、白く美しく輝いていた。
門から少し離れたところで馬車を降り、徒歩で正門に向かった。門番に書類を渡しながら言った。
「侯爵様にお目通りの許可を頂いておりますローズマリーと申します」
門番は、侯爵家を訪うにはみすぼらしい服装のわたしに不審そうな視線を投げかけていたが、名前を名乗ると急に背筋がピンと伸びた。
「奥様、おかえりなさいませ!」
彼がそう叫ぶと、もう一人の門番は慌てて屋敷のほうへ駆けて行った、たぶん先触れを伝えに行ったのだろう。
自分は侯爵夫人ではないと言おうとして口をつぐんだ、彼らに下知するのは侯爵様でありわたしではない。
「通ってもよろしいでしょうか」
「もちろんでございます、ここは奥様のおうちでございますです」
門番の言葉遣いがおかしなことになっているがそれもそうだろう。普通の門番は侯爵夫人と直接話をすることなどない。
「もしよろしければお屋敷までご案内くださいませんか?」
そこはわたしの知っているローズブルーム館の庭ではなかった。高い木が植えられており、ここからは屋敷が見えず方角がわからない。
「それはもちろんでございますが、徒歩でしょうか?」
「はい、歩きでかまいません、よろしくお願いします」
わたしの返事に門番は驚いていたがそれでも案内をしてくれた。
高い木々が立ち並ぶ林のような庭を抜けると、一面のバラ園が広がっており、その背景に白亜の屋敷が佇んでいた。
「ずいぶん作り替えたのですね」
ローズブルーム館という名前の通り、この屋敷にはバラ園があったがこんなに広くはなかったはずだ。
「旦那様のご指示だそうです、お屋敷の中も改装しました」
わたしの使っていた半地下の部屋はまだあるのだろうか。あの夜の、凍てつくような寒さを思い出し、心が震えた。
大きく開け放たれた正面玄関では家令が待っていた。
「おかえりなさいませ、奥様」
これではっきりした、家令はわたしを侯爵夫人として扱っている。離縁が成立していないのは間違いなく侯爵様自身の意思なのだ。
家令の案内で通されたのはかつてリリアーナ様が使っていた女主人の部屋だったが、いくつかの部屋をつなげたようでとても広くなっており、さらにはちょっとしたサロンが隣接する形に改装されていた。
思えばホールの壁紙も廊下の絨毯も替えられていた。この部屋もそうだ、家具もカーテンも一新されている。それらはすべてアイボリーやベージュといった明るい色に統一されている。
わたしをサロンに案内した家令は侯爵様を呼んでくると言い、出ていった。給仕のメイドはソファ席にお茶を用意した、暗にそこに座るよう促されたのだが、粗末な衣類で汚してしまうような気がして、結局立ったまま待つことにした。
しばらくして人の気配に振り向くと、変わらぬ笑顔の侯爵様がいた。
「おかえり、ローズマリー」
「ご無沙汰しております、侯爵様」
わたしはわざとちぐはぐな挨拶をした。帰ってきたつもりはない、わたしの中ではもう侯爵様と離縁をしており、彼は他人だ。
給仕のメイドの退室を待ってわたしは侯爵様に切り出した。
「事前にお伝えした通り、わたしの籍についてお聞きしたくまいりました」
「そうだね、でもまずは座ってくれないか?」
「いえ、このままで結構です」
「そう言わずに」
侯爵様はわたしの手を取って無理やりソファに座らせてしまった。そして彼自身は何食わぬ顔でわたしの隣に座る。他人である男女の距離ではない、侯爵様はわざとやっているのだ。
「なぜ親密になさろうとするのですか?わたしたちは他人です」
「ローズマリーはおかしなことを言うね、君も見たはずだ、わたしたちは間違いなく夫婦だよ」
「書面の上では、です」
わたしの強い物言いに侯爵様は静かにうなずいた。
「そうだね、書面の上だけだ。別に不便はないはずだ、なのにどうして確認を?」
「不便ならあります」
わたしの反論に侯爵様は眉をひそめ、うっそりと微笑んだ。
「添い遂げたい誰かでもできたのかな?」
その言葉に驚いてしまう。
「まさか。わたしは貴族籍を放棄したいだけです」
今度は侯爵様が驚いた顔をする。
「ローズマリーは貴族を辞めたいの?」
「そうです、わたしは貴族に、向いていませんから」
貴族の中のお手本ともいうべき侯爵様にそれを言うのは恥ずかしい気がして、思わずうつむいてしまった。
侯爵様はしばらく黙っていたがやがて、
「それは気が付かなかったよ、ではわたしも貴族を辞めよう」
と言った。
それは例えるなら、今日の外出は止めよう、というくらい何でもないことのように聞こえて思わず、そうですか、と同意してしまい、慌てて反対した。
「侯爵様が貴族をお辞めになるなど、周りが許しません」
「でもローズマリーは辞めたいんでしょう?なら、わたしも辞める」
なぜそういう思考になるのかまったくわからない。まるで未知の生き物と遭遇したような感覚に戸惑っていると侯爵様はそっとわたしの手を握った。
「わたしはローズマリーと共にあると決めたんだ、君が平民になるというならわたしもなる。もし君が死にたいというならわたしも一緒に死ぬよ」
「そんなこと、言いません!」
侯爵様の物騒な言葉に思わず大きな声を出してしまった。
「ふふ、わかってる。ただ、わたしの気持ちをわかってもらいたくて」
そうして侯爵様はわたしの指先に口づけを落とした。
「わたしがそばにいなかったせいで君を傷つけてしまったから、もう決して離れないと決めたんだ。君の新しい生活は把握していた、なにかあればすぐにでも連れ戻すつもりだったけど、危険はなかったし、なによりローズマリーが楽しそうにしていたからそのままにしていた」
「なぜそこまでわたしを?わたしたちはローズパーティーの開催者とお客様という間柄でしかないはずです」
わたしの戸惑いに侯爵様はくすりと笑った。
「ローズマリーは覚えてない?わたしたちは結婚を誓い合った仲なんだよ」
「えぇ?!」
わたしは子爵令嬢で侯爵様の求婚をお受けできるような身分ではない。覚えのないところで恥知らずな行為をしていたことに思わず血の気が引いてしまうが、侯爵様はにっこり微笑んで言った。
「ローズ、大きくなったら僕のお嫁さんになってくれる?」
そう言われて思い出した。そういえば子供のころ、少し年上の男の子と過ごしていた。わたしは彼を『お兄様』と呼び、よく一緒に遊んでもらった。ある日、彼は大人がするようにわたしの手を取り、跪いて結婚を申し込んでくれたのだ。
「まさか『お兄様』が侯爵様だったのですか?」
「ローズマリーの母上とわたしの母は幼馴染でね、君はよくうちに遊びに来ていた」
「それは、初耳です」
お父様がわたしに話をしなかったのはわかるような気がした。アジュール家ではお母様の話題は避けていたし、リーザ様と結婚してからは明確にタブーとなった。
「ローズマリー」
侯爵様はソファから降り、あの日と同じようにわたしの手を取りひざまずいた。
「わたしの想いはなにひとつ変わっていない、どうかわたしと結婚してほしい」
侯爵様の真摯な瞳はわたしの知っている『お兄様』にはない強い熱を持っていた。それは凍り付いていたわたしの心をチリチリと焦がし、あっという間に溶かしてしまった。
「はい」
あの日と同じく、わたしは顔を赤らめながら侯爵様の求婚を受け入れた。
「嬉しいよ、ローズ!」
わたしの返事に侯爵様は子供の様にはしゃいで、わたしを高く持ち上げた。
「侯爵様!」
驚いたわたしが抗議の声を上げると彼はわたしを抱きしめ、顔を覗き込むようにして言った。
「違うよ、ローズ。わたしはテオだ、さぁ呼んで?」
「でも」
「いいから、呼ぶんだ」
強引な彼に引きずられ、小さく口にした。
「テオ?」
途端に彼は蕩けるような笑顔をみせた。
「あぁローズ、愛してる。わたしだけの美しい薔薇」
そうしてまるで本当にバラにするように優しく甘い口づけをくれた。
季節はめぐり、社交シーズンがやってきた。
今年の皮切りはグラニット侯爵家のローズパーティー。昨シーズン、一度だけ開催されたそれより、さらに多くの人たちが押しかけていた。それもそのはず、今回のローズパーティーはグラニット侯爵の結婚披露パーティーを兼ねているからだ。
グラニット侯爵とその妻、ローズマリーが入場すると祝福を込めた多くの拍手が送られた。
ローズブルーム館には今日もたくさんのバラが咲き乱れている。
お読みいただき、ありがとうございました!