前編
前・後編構成の短編です、各々1万文字程度となります。
「ローズマリー様、リリアーナ様がお呼びです」
今日も苦痛な時間の始まりだ。昨日は2時間立ちっぱなしだった、まだ足が痛い。でもわたしに拒否権はない。
「ただいま参ります」
痛む足を無理やりヒールの高い靴に押し込んで女主人の部屋へ向かった。
「お待ちしてましたわ、ローズマリー様」
わたしを呼び出したのはこの屋敷、ローズブルーム館の実質的な女主人、リリアーナ・トランド様。
彼女は7年前の流行り病でご両親を亡くされている、身寄りのなくなったリリアーナ様を遠縁のグラニット侯爵家が引き取った。
リリアーナ様はいつもベールをかぶっている。リリアーナ様も流行り病にかかったが、彼女は一命をとりとめた。しかし重い後遺症を患い、それを隠すためのベールだと聞いている。
「昨日のお話の続きをしようと思って」
連日こうやって彼女に呼び出され話に付き合わされる。わたしの同席は許されていない、わたしはリリアーナ様の気が済むまで『立ったまま』話し相手を務めるのだ。
今日はいつ解放してくれるのか、昨日は午前中に呼び出されたから昼食というきっかけがあったけど、今は夕食というにはまだ早すぎる時間。足も痛いし、なによりわたしには仕事がある。夜、ランプをつけて仕事を片付けていると、油がもったいないと家政婦長に嫌な顔をされるのだ。
「テオからの手紙に書いてあったんだけど」
そこまで言って彼女ははっとしたように言葉を切った。いつもよどみなく会話をする彼女が珍しく言いにくそうにしている。
「なにかございましたか?」
仕方がないのでこちらから水を向けてやると彼女はおずおずと切り出した。
「立ち入ったことを聞くようだけれど、どうしてテオに手紙を書かないのかしら?」
リリアーナ様の言うテオというのはグラニット侯爵であるテオドール様のことである。
収支報告書なら毎月きちんと提出している、ローズブルーム館の使用人がわたしに嫌がらせするにしても、さすがにそれを主人に届けないという愚行には及ばないはずだ、あれがなければ自分たちの給金が支払われないのだから。
「失礼ながら、おっしゃられている意味がわかりかねます」
わたしの反論にリリアーナ様は少し大きな声を出した。
「ご夫婦のことですもの、わたしが口を出していいことでないのはわかってるわ、でもテオはあなたからの手紙が届かないのはどうしてかって気にしてるわ」
手紙?なぜわたしが個人的にグラニット侯爵様に手紙を書かなければならないのだろう。口を開きかけたわたしを遮ったのは家政婦長だった。
「もうお時間でございますよ」
彼女はにこやかな笑顔をしている。
「リリアーナ様、今日は遠くまでお散歩をされたのですから、お疲れでございましょう?」
「そうでもないわ」
駄々っ子のような受け答えをするリリアーナ様に家政婦長との距離が垣間見える。
リリアーナ様は家政婦長に連れられて部屋を出て行く。
「ローズマリー様、またね」
頭を下げてリリアーナ様を見送るわたしの上から彼女の声が降ってきた。そのリリアーナ様に付き従いメイドたちも部屋を出ていく。大勢の使用人を引き連れて歩く様は紛れもなく女主人そのものだった。
全員が退室し、部屋がしっかり静まりかえってからわたしは頭を上げ、人知れずため息をついた。
リリアーナ様のお相手は予想よりずっと早く済んだが、それでも処理すべき書類は山積みで、結局、月明りで仕事をすることになった。
すべて片付いたころには夜半を過ぎていて、わたしは薄暗い廊下を慎重に進み、与えられた半地下の部屋へ戻った。
食事が置いてあるはずのテーブルの上はしっかり片付けられていた。わたしの食事の時間が安定しないので片付かないとメイドに苦情を言われているのだ。
「これからはお召し上がりにならないのなら、片付けさせていただきますので」
今では20時までに食べ終わらないと片付けられてしまうようになった。食べている途中でも時間になるとさっとトレーごと持って行ってしまう。
今夜は部屋に戻るのが遅すぎた。ひょっとしたら運んでくることすらしていないかもしれない、リリアーナ様に捕まると仕事が立て込むのが常で、給仕係もそれを心得ている。
空腹を我慢して寝台に横たわる。今からなら4時間ほど眠れるだろうか、この部屋は厨房の下に位置するため、その物音で起こされてしまうのだ。
これがグラニット侯爵夫人であるわたしの生活であった。
アジュール子爵家の長女、ローズマリー、それがわたしだった。
お母様は7年前の流行り病で亡くなっている。アジュール家は大きな商売をしていて女主人の仕事は多かった。それを考えるとお父様は後妻を迎えるべきだったと思う。でもお父様にはそういう選択肢はなかった、お母様を深く愛していたから。
当時、わたしは11歳になったばかりだったが、お父様の意思を尊重し、亡き母に代わって女主人の仕事を引き受けることにした。幸い、我が家の使用人たちは頼もしく、わたしとお父様をしっかりサポートしてくれアジュール家はなんとか回っていた。
しかしその5年後、領地が大干ばつに襲われてしまった。それまでの貯えをすべて吐き出し、数々の美術品を売り払っても領民を飢えさせないだけの財が確保できなかった。
眠れない夜、話し合えばいい案が浮かぶかと思い、お父様の部屋へと向かった。その部屋から声が聞こえてくる。そっと扉を開けて中を覗くとお父様は壁に飾られたお母様の肖像画に向かって、
「エリザベート、教えてくれ。わたしはどうしたらいいんだ」
と、苦悩の表情を浮かべている。
そのとき肩をたたかれた。驚いて声を上げそうになるが慌てて手で口をふさぐ。恐る恐る振り向くとそれは家令だった。彼は人差し指を唇に当て黙っているように合図をし、わたしをその場から離れさせた。
「覗き見なんて淑女らしくありませんよ」
「お父様は何を悩んでいらっしゃるの?」
家令の注意を無視して聞いた。彼は大きくため息をついてそれから教えてくれた。
「旦那様にご縁談が来ております、お相手はフィル伯爵様の姉、リーザ・ジョーンズ様です」
お母様が亡くなったとき、いの一番に釣書を送ってきた家だったからよく覚えている。あの時は後妻に収まってもうま味があったかもしれないが、今のアジュール家にメリットはない。いったいなんだというのか。
「先様はリーザ様と婚姻するのなら、無償で融資するとおっしゃっておられます」
「そんな都合のいい話があるわけないわ」
「あちらのお嬢様には離婚歴がございます」
わたしはその言葉に納得した。一度離縁している女性に再縁となると、後妻か愛人くらいしかない。フィル伯爵は出戻りの姉が片付くなら、没落寸前の我が家でもかまわないのだろう。
このとき家令はそれ以上なにも言わなかったが、この話には驚きの事実が隠されていた。
リーザ様は若いころからずっとお父様に夢中で結婚をせまっていたらしい、でもお父様はお母様と恋に落ち、結婚してしまった。それでリーザ様は泣く泣く他の方と結婚したそうだ。ところが、お母様が亡くなったと知ったリーザ様は、相手に多額の慰謝料を支払って離婚し、お父様の後妻に収まろうとした。結局、お父様は再婚をしない道を選んだから、リーザ様の思惑は外れた。
しかしこの大干ばつが再び彼女にチャンスを与えたのだ。
「わたくしはなにがあってもルイスのそばにいたかったの。愛人だってかまわないって言ったのに、ルイスはわたくしの手をとってはくださらなかった」
リーザ様は対面した継子のわたしに歌うように言った。
「時間はかかったけど、やっとルイスのそばにいられる。わたくし、とても幸せよ?」
そこで言葉を切り、わたしのほうを見たリーザ様。
「だから、邪魔をしないでね」
わたしはお母様によく似ている、リーザ様はわたしを通してお母様を見ているのかもしれない。
アジュール家の新たな女主人となったリーザ様は全く仕事をやらなかった。
「商売のことなんてわからないわ」
というのが彼女の言い分だったが、お父様もわたしも多額の融資をしてもらった手前、強くは言えなかった。
結局、帳簿などの事務仕事はわたしがこなし、リーザ様には社交の場をお願いすることになった。
華やかな場がお好きなリーザ様だけあって、その社交術はなかなかのものだった。彼女の人脈でいくつもの新たな商談がまとまり、アジュール家は以前のように勢いを取り戻しつつあった。
過去の反省を活かしてアジュール家では毎月かなりの額を貯蓄に回していたのだが、偶然、帳簿を見たリーザ様はそのお金でパーティーをしたいと言い出した。
「これはもしものときのためであって、社交費ではありません」
「それなら手作りすればいいわ」
リーザ様は明るく言った。
「わたくしがこの家に初めてきた日、とても素敵な飾りつけでお迎えしてくれたわね?あれはローズマリーがやったと聞いたわ」
「そうですが」
リーザ様は大げさに言う。
「ローズマリーにはそういう才能があるのよ、だからそれを活かしたパーティーにしましょう」
だとしてもパーティーを開くには人手がいる。大干ばつ以来、我が家は使用人を減らし、わたしも家事を手伝いしているくらいだ。
それを理由に断ろうとしたのにリーザ様はしつこかった。
「足りない使用人はわたくしがジョーンズ家から引き抜いてくるわ」
「でもお給金が支払えません」
「わたくしが勝手に連れてくるのだから、彼らの分はわたくしの個人的な資産から支払いましょう」
そうしてその言葉通り、リーザ様はジョーンズ家から多くの使用人を入れてしまった。
こうなるともうパーティーをしない理由がなくなってしまい、こじんまりとしたガーデンパーティーを開いてリーザ様の気が済むことを祈った。
幸いにもジョーンズ家からの使用人は、リーザ様のためならば、と積極的に手伝ってくれ、開催したガーデンパーティーは大評判となった。
リーザ様が夜会に出ると、誰もが招待してほしいと懇願するらしい。それに気をよくしたリーザ様は以降、定期的にパーティーを開くよう、わたしに命令し、それにはお父様が猛反対した。
「我が家にそれほどの余裕はない」
「ずいぶんなお金を貯めこんでいらっしゃるでしょう?なんなら、融資したお金を返して頂いてもいいのよ?」
それを言われるとお父様もわたしも何も言えず、従うしかなかった。
「ローズ、すまない。ふがいない父を許してくれ」
「いいえ、お父様。みなさまが喜んでくださるのですから、やりがいもありますわ」
お父様に心配をかけさせたくなかったわたしは笑顔で応じた。
日々の業務とパーティーの準備に追われ、多忙を極めていたわたしが屋敷の変化に気が付いたときには、アジュール家の使用人は全員ジョーンズ家の息がかかった者に代えられていた。
こうなるともうアジュール家はリーザ様の意のままだ。
彼女は突然、来週パーティーを開けと言う。今までなら家令や他の者たちがわたしと一緒になって諫めてくれた。でも反対するのがわたしひとりではどうにもならない。
なんとかアイディアを捻出し、パーティーを開く。終わるとまた次をやれと言われ、それに反対する者はいない。お父様は何度もリーザ様と話し合っていたが彼女は変わらなかった、それにわたしはたかがパーティーでお父様とリーザ様の仲が壊れてしまうことを危惧していた。確かにリーザ様は我がままで浪費家だ、でも彼女のお父様への愛は本物だし、パーティーもアジュール家の商売を広げるためと思えば悪いことばかりでもない。
そんな風に何度もパーティーを開いていたら、アジュール家のティーパーティーはやがて、わたしの名をとって、ローズパーティーと呼ばれるようになっていた。
その日もローズパーティーを取り仕切っていた。
飾り付けや雰囲気を楽しむお客様が多い中、その男性は熱心に植木を見ており、何か粗相があったかと不安になった。というのも、その男性がグラニット侯爵様だったからだ。
子爵家のパーティーに侯爵家の、それもご当主様本人がお見えになるなど異例のことで、受付担当の使用人が裏方にいるわたしのところに慌てて報告にきたほどだ。
わたしも驚いたが、侯爵様だけにあからさまにおもねるのもどうかと思い、使用人たちには、他のお客様と同様、失礼のない態度で接するよう命じた。しかしなにかあってからでは遅い。いつもは裏方に徹しているわたしだったが、その日は会場に顔を出すことにした。
このパーティーがローズパーティーと呼ばれていても、アジュール子爵令嬢ローズマリーの顔を知る人はほとんどいない。
16で社交界デビューはしたがそれはあの大干ばつの年であり、どの貴族も夜会を楽しむ余裕はなかった。翌年にはまた多くの夜会が開かれたが、そのころのわたしは家業とローズパーティーに追われていて、他家の夜会を楽しむ余裕はなかった。今まで夜会に参加してこなかったわたしの顔を知る貴族など皆無というわけだ。
誰に声をかけられるわけでもなく、わたしは会場の片隅から全体に目を配っていた。それで植木を熱心に見ている侯爵様にも気が付けたのだ。
さりげなく彼に近づき、にこやかな微笑みで話しかけた。
「お客様、なにかございましたでしょうか」
侯爵様は怒っているそぶりもなく、楽し気に応じた。
「この植木、とても面白いですね、庭師が刈っているんでしょうか」
彼が指差すそれは女の子の形に刈られた植木で頭に花冠をあしらってある。ローズパーティーでは定番の飾り付けだ。
「お恥ずかしながらそれはわたくしが切りました」
「あなたが?」
侯爵様はひどく驚いたようだ。それはそうだ、ドレスを着ているわたしはまぎれもなく貴族令嬢で令嬢が剪定ハサミを握るなど前代未聞である。
でも侯爵様に嘘偽りをお伝えするほうがよっぽど恐ろしかったわたしは本当のことを話した。
「もちろん庭師もやりますが、彼らだけでは時間が足りないものですから」
「へぇ、それは素敵な才能ですね」
侯爵様はそう言って微笑んでいる。
「ローズマリー様、失礼いたします。リーザ様がお呼びでございます」
「わかりました、すぐにまいります」
そこで使用人に声を掛けられ、わたしはその場を離れて裏方に入った。それからあとはいつもの通り、パーティーが終わるまで裏方にいた。
そのひと月後、お父様から突然、グラニット侯爵様に嫁げと言われた。
「今すぐですか?」
「リーザがおまえの婚姻を知ったら反対をするに決まっている、おまえがいなくなったらローズパーティーは開けないからね」
「それはそうですが」
「リーザが里帰りしている間に出なさい、侯爵様はきっとおまえを守ってくださる」
そうして逃げるように実家から離れ、侯爵様がお住まいになる屋敷にやってきた。
「ようこそ、ローズブルーム館へ」
厳めしい顔をした家令に出迎えられて入った屋敷。そのサロンで待っていたのは侯爵様の従妹であるリリアーナ様だった。
「お出迎えできなくてすみません」
「いいえ、お気になさらず」
リリアーナ様は、わたしの母の命を奪った7年前の流行り病に侵されながらも生き残った。しかし大きな後遺症を抱えており、体に不自由があるらしい。そのため、玄関ホールまで出てこられなかったのだ。
「わたしはテオの従妹でリリアーナと申します。テオが帰ってくるまでの間、わたしがあなたをお守りしますからご安心ください」
リリアーナ様は後遺症を隠すためのベールをしており、彼女の表情は見えない。しかし、見るからに儚げな雰囲気のこの少女に、侯爵様はなにを言い置いていったのだろう。
グラニット侯爵様は仕事の為、外国への船旅に出たばかりだった。通常ならその帰りを待ってからの婚姻となるのだろうが、リーザ様に反対される前にわたしを嫁がせたかった父が急いだのだ。それに経緯もよくわからない、グラニット侯爵様と話をしたのはあのパーティーでの会話だけで、あとはすでに船上の人となった彼から手紙を一通もらっただけだった。その手紙にも、従妹のリリアーナ様を話し相手にでもして、自分の帰りを待っていてほしい、ということしか書いてなかった。
サロンでリリアーナ様と少し世間話をした後、屋敷内を案内してもらうことになった。
「リリアーナ様はお部屋に戻りましょう」
彼女付きのメイドがリリアーナ様を促した。
「そうね、でも途中までローズマリー様とご一緒させていただきたいわ」
彼女がそういうとメイドは賛成し、大勢でぞろぞろと屋敷内を歩くことになった。
位置的に主寝室であろう部屋の前にきたところで、リリアーナ様は言った。
「じゃぁわたしはここで。また明日お会いしましょう」
彼女が部屋に入ろうとして、慌ててメイドが止めた。
「リリアーナ様、ここはもうローズマリー様のお部屋ですよ」
「そうだったわね、うっかりしていたわ」
「お可哀そうなリリアーナ様、慣れ親しんだお部屋を明け渡さなければならないとは!」
そう言ってメイドは泣き出し、家令や家政婦長もハンカチを取り出して目を拭っている。
主寝室の左右には夫婦それぞれの部屋がしつらえてあり、3つの部屋は中扉でつながっているのが普通だ。営みの頻度という極めてプライベートな内容を使用人に知られないための配慮である。
先ほど、左の部屋はグラニット侯爵様の部屋だと案内されたから、真ん中の寝室に彼女が入るということはふたりはそういう関係だということだ。
それで納得がいった。この屋敷の使用人は家令をはじめ、どこかよそよそしいのだ、なかにはあからさまに睨みつけてくる使用人もいる。
つまり彼らの中ではグラニット侯爵様と結婚するのはリリアーナ様だったのだ。
「わたしはどの部屋でも大丈夫ですから、どうぞリリアーナ様がお使いください」
「でも」
「そうなさいませ!」
わたしの言葉にさっきまで泣いていたメイドは嬉々として言い放ち、リリアーナ様の反論を打ち消した。
「どうぞこちらへ」
リリアーナ様の決断も待たずにわたしは別のメイドに部屋を案内された。
そこは陽当たりの悪い半地下の狭い部屋で、予め実家から送り込まれた荷物は箱のまま床に放置されていた。これにはさすがのわたしも閉口した。
「なぜ荷解きがされていないのでしょうか」
険のある言い方をしたわたしにメイドは平然と言い放った。
「今朝までリリアーナ様があちらの部屋をお使いになれておりましたので」
リリアーナ様の起床後に片付けに取り掛かったとしても間に合う量ではない、つまり彼らは最初から主寝室を明け渡すつもりはなかったのだ。
そうなるとますますこの婚姻が何のためなのかわからない、しかしその疑問はすぐに解消された。
部屋をノックされこちらの返事も待たずに入ってきた家政婦長は、
「さっそくですがお仕事に取り掛かっていただきます」
と言い、案内された部屋には書類が山積みとなっていた。
「夕食は18時にお持ちします」
それだけ言い残して家政婦長はドアを荒々しく閉めて出て行った。
ひとり残されたわたしは大きくため息をつき、それからおもむろにいくつかの書類を手に取った。支払期限が切れている物もあり、長く手付かずのまま放置されていたことがうかがえる。状況は理解できないが書類の処理の仕方はわかる、アジュール家で事務仕事を取り計らっていたのは他ならぬわたしだったのだから。
とりあえず目に付いた書類から片付けていくうちに、自分の立ち位置がわかってきた。
おそらく侯爵様が旅に出られたであろう日付以降、仕事が止まっている。ということは、これらの処理は今まで侯爵様がしていたのだろう。そして彼がいなくなった後、残されたリリアーナ様は処理ができず、書類は放置されていた。
つまり実務のできない女主人に代わってそれをこなす役目としてわたしがここに呼ばれたのだ。普通の令嬢なら憤りを感じるのかもしれない、でもわたしは実家でも実務のできない女主人のサポート役だった。今までと何も変わらない日常がここでも繰り返されるだけだ、ローズパーティーがないだけマシかもしれない。
「リリアーナ様がお呼びです」
その日もメイドから告げられ、わたしはやりかけの書類をしまい、立ち上がった。
「わかりました、すぐに参ります」
そしてリリアーナ様のサロンで彼女の話を立ったまま聞く。わたしが使用人であればそれは正しい光景だろう。
王都の流行りやどうでもいい世間話を延々と聞かされ、もはや足は限界だ。ようやくお開きになり解放されたと喜ぶわたしの背中にリリアーナ様は言った。
「今度、わたしの友達をお茶会に招待したいのですが、お力添えいただけませんか?」
思わず勢いよく振り返ってしまった。ローズパーティーをやれと言うのか、だとしてもあれはわたしひとりできるものではない。
「いろいろと準備が必要ですので」
断りのセリフを口にしたわたしをリリアーナ様付けのメイドが遮った。
「子爵家でできたことですもの、侯爵家でできないことではございませんわよねぇ?」
このメイドはいつもグラニット家が侯爵位であることを自慢してくる。書類上とはいえ、子爵位のわたしが侯爵夫人になったことが気に入らないのだろう。
「楽しみですね、リリアーナ様」
そう言って勝手に話を打ち切り、リリアーナ様を部屋から追い出してしまった。
いつもなら彼女と一緒に退室する家政婦長が珍しく居残り、わたしに向かってきっぱりと言った。
「ローズパーティーの手配をお願いします」
彼女の冷たい物言いに、わたしは反論した。
「残念ながら難しいかと思います、パーティーの準備はわたしひとりではできませんから」
この屋敷にわたしの手伝いをしてくれる使用人などひとりもいない。たとえ料理だけは料理人が引き受けてくれたとしても、飾り付け、その材料の手配、植木の準備。わたしひとりでローズパーティーを開催するなど到底不可能だ。
にもかかわらず、家政婦長は顔色一つ変えずに言い切った。
「リリアーナ様は楽しみにしておられます」
わたしに拒否権はないのだと、再認識させられた瞬間だった。
夜会には招待状を持つものしか入場できないが、ティーパーティーは噂を聞きつけた程度でも気軽に参加できる。
リリアーナ様はローズパーティーの開催をほんの数人のご友人に伝えた。しかしそれを聞いたご友人方はあちこちに触れ回り、その人がまた別の人に話し、結局、百人を超える大規模なパーティーとなってしまった。
グラニット侯爵家はアジュール子爵家と違って財力がある。手伝ってくれる使用人がいないのだから、庭師からメイド、もちろん料理人まで、すべてを外注でまかなうことにした。その出費は相当なものになったが、収支報告書を見た侯爵様に問題ありと判断していただき、これ一回きりで終わりにさせる算段を付けた結果だ。浪費には心が痛むが今回だけは許してほしい。
アジュール家で開催していたのと同じように裏方に徹していると、わたしに面会希望のご婦人が来ている、と呼ばれた。意を決して客間に入ると、いきなり頬を叩かれ、その反動で床にたたきつけられた。
「っ!」
痛みと驚きでうずくまるわたしの頭上から怒号が降ってくる。
「急にいなくなったかと思えば侯爵家でローズパーティーなんて、わたしの面目は丸つぶれよ!」
わたしに面会に来たのは予想通り義母のリーザ様で、やはり予想通り、彼女は怒り狂っていた。
「申し訳ございません」
わたしの謝罪にもリーザ様の怒りは収まらない。喚き散らし蹴りつけてくる彼女にいいようにされていると、ノックもなしに客間の扉が開かれた。
入ってきたのは家政婦長だった。
「その、これは」
慌てて言い訳を始めるリーザ様を家政婦長はちらりと見ただけで、
「ローズマリー様、リリアーナ様がお呼びでございます」
そう言ってさっさと出て行ってしまった。
仕えている家の夫人が暴行を受けているのに止めようともしなかった使用人。リーザ様はそれで勘づいてしまったようだ。
「リリアーナ様って確かグラニット侯爵様の従妹だったわよね?」
意地悪い顔をしてわたしを見下げるリーザ様の目は生き生きとしている。
「あんた、お飾りの妻なのね」
リーザ様は楽し気な笑い声をあげて部屋から出て行った。
わたしは痛む体を引きずって、リリアーナ様のもとへと急いだ。髪は乱れ、顔を腫らしているわたしと対面してもリリアーナ様はいつもと変わらない調子で言った。
「ローズマリー様、とても盛況よ、ありがとう、これもあなたのおかげね」
「とんでもございません、すべてはグラニット侯爵家のご威光かと」
わたしの返事を聞いたリリアーナ様は戸惑いを含めた声をあげた。
「ローズマリー様、どうかなさったの?声が震えてるわ」
「リリアーナ様、ご挨拶したいと皆さまがお待ちでございますよ」
メイドはわざとわたしたちの会話を遮り、リリアーナ様は慌てて会場へと戻っていった。
わたしは使用人用の手洗い場で簡単に身なりを整えた。血をぬぐい、スカーフで顔を覆って腫れを隠す、そうして再び裏方に立った。
それから間もなくして寒い日が続き、ローズパーティーは一回だけで済んだ。それにほっとして気が緩んだのか、風邪を引いてしまった。いつものように執務をしていたがだんだん息をするのも苦しくなってくる。なんとかマスト案件だけをこなし、半地下の部屋に戻ると窓の外が一面の雪景色であることに気が付いた。
雪が降るほど寒い中、暖炉もないこの部屋で一晩過ごしたら死ぬかもしれない。それに愕然としたと同時に、それでもいい、と思えた。
この屋敷のわたしは侯爵様とリリアーナ様の仲を引き裂く邪魔者でしかない、きっと誰もがわたしの死を歓迎するだろう。侯爵夫人という職務を放棄することになるが、わたしの死はグラニット侯爵家の瑕疵であり、アジュール子爵家に迷惑がかかることもない。
唯一の心残りはお父様だけれど、リーザ様がお父様を心から愛しているのは本当だ。彼女はお父様を支えてくださり、お父様もいつか立ち直ることだろう。
そこまで考えを巡らせたわたしは明日が来ないことを祈って眠りについた。
後編は、明日の同時刻(19時)を予定しております。