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ガラスのヘッドホン

作者: 永野 吟波

時々無性にガラスの美しさに惹かれることがある。

夕暮れ時の薄暮、とりわけ雲のかかった日のガラスのビルディングーそれはたいていガラス張りのショッピングモールであることが多いのだが、妙に哀愁の漂うものがある。そこにバスターミナルなんかやチープな居酒屋の暖かい光を放つ看板なんかがあると殊更によい。明石の駅はまさにそんなもので、真ん中を貫くように、ビルの吐き出したエスカレーターが隠し切れない田舎の都会さを醸し出して、私はつい今しがた、東京から帰ってきたかのような心持ちがするのだ。


その日私は持て余した時間を用いて明石に向かった。姫路に用事を残していて、明石に滞在する時間は十分もなかったが、その光景を一眼見るだけにそこへ向かった。私が見たかったのは交差点にある居酒屋街で、信号待ちの人を歩道から押し出すような図々しさに触れたかったのだ。そこにその老人はいた。私は彼が煩わしかった。私と同じようにビルを見つめ、そこに空虚な風情を見出すような姿勢にも腹が立ったし、大勢の人がいる中で私だけがガラスの美しさを分かっているというマイノリティ精神を台無しにしてくれたことにも怒りを覚えた。その人が私の右側にいるせいで右足が重くて、バランスを取ろうとし、後ろを向いてみたりもしたがどうにも歯が抜けそうな思いがする。私は精神安定剤を1錠噛み砕いて飲み込んだ。

電車はなかなか来なかった。老人がこちらをみてなにか一言、呟いたことにも気づかない振りをする他なかった。

電車はなかなか来なかった。


次の日も、そのまた次の日も、私は明石に向かった。それでもその老人はいた。まるで私が来るのを分かっているかのように。寒い中私を見て何かをつぶやき、私はそれを聞きに行ってそして、あえて無視するだけだったのだ。


ある日の事だった。やっぱり私はその日も明石にいて、老人の聞き取れない言葉を待っていた。その時だった。

聞こえてしまったのだ

彼の声が


「 」




一瞬の静寂のなかで彼の声が脳内で連鎖した



私は耐えきれなくなって、叫ぼうとしたが声が出なかった。丁度きた電車に飛び乗って私は逃げた。もう二度と明石へは行きたくなかった。

その夜私は薬を130錠のんで、9日間目を覚ますことはなかった。




隔離病棟に送られて胃洗浄を受け、一時帰宅か認められる頃にはもう春になっていた。私のなかで老人の存在は影を薄くしてきていた。入院のお陰で精神は随分と安定していたし、もう明石のガラスを見に行くことも無くなっていた。しかし、だ。その存在は不意に蘇った。乗り換えのために立ち寄った明石で、その老人はやはりそこにいた。込み上げてくる吐き気を抑え、乗り換えようとする自分と、もう1度ろう人を見ようとする自分がいて、後者に前者は負けたのだった。



老人は笑っていた。




私は叫んだ。





「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで」



私はその場で倒れ込んで、気づけば病院にいた。容態が落ち着いた頃、もう一度明石へ行ったけれどもう老人はいなかった。結局彼の言葉だけが呪いのように残っている




「生きろと言って欲しいんだね」











私は今も、生きている。

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