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森への訪問者


「野の花を摘んで、花瓶に活けてごらん」


 ある日のめずらしい言いつけは、いつもよりも楽しい仕事に思えた。

 リリィはすっかり馴染んだハディドの森に軽い足取りで分け入った。

 色変わりのラベンダーの群生を見つけた時には歓声を上げられないのが惜しまれた。花ぶりのいいものを集め、蔓草と若い実の枝も合わせた。

 家に戻り、白磁の花瓶に両手いっぱいの花を挿すと目にした魔女は手放しに褒め称えて目を細めた。


「いいわね…、花の泉のよう。私はラベンダーが好き。あなたはいい家の出だから、花言葉も知っているでしょう。いくつもあるけれど私は『幸福』と読むの。遠い昔、花束を貰った……。なつかしい」


 魔女はリリィの髪を撫でて古い歌をハミングした。

 そしてエヴァ・コッコは、服の裾を摘むと、枯れ木のような足首を見せダンスのステップを踏んでみせる。

 彼女の喜びようがくすぐったく、リリィは自室に戻ると同じように歌い出したい衝動に口を開きかけたが、約束を思い出し目を伏せた。


(いいのよ。汚い声で歌ってもみじめなだけ)


 ベッドで掛け物にくるまりながらリリィは寝返りを打った。

 過去にしがみついたまま、不幸を呪い、罪を重ねて生きてきた。

 キィキィと軋む音に目をやると、銀のナイフを載せた天秤がゆらゆらと揺れていた。


(殺されるくらいなら――、と思っていたけれど)


 おいしい食事が毎日あって、安らかに眠っていられる。魔女はよく笑い、時に叱る。役立たずのリリィを、疎みも嫌いもしない。


(この声が、なくても――)


 喉に触れて、封じられた声を思う。

 リリィは、かつてを取り戻したいと願ってここにきた。

 喝采を浴びた夜。贅沢な暮らし――。

 けれどそこに、こんなおだやかな気持ちを思い出せない。

 リリィは目を閉じる。少女の失敗や成功を毎日ほほえんで見守るエヴァ・コッコを慕わしく思う自分に、もう気付いていた。


『バーバ・ヤガは孤児が好き』


 旅芸人が唄い聴かせる恐ろしくも不思議な物語。

 かの有名な音楽家は実はバーバ・ヤガに養育された過去を持ち、今もひっそり魔女を崇拝しているだとか。また別の孤児は拐われてついぞ行方は知れず、噂じゃ魔女の手先になったらしいだとか。

 バーバ・ヤガの養い子となった人の幸不幸、話の結末はいつも語り手によりバラバラだ。

どうして彼女は孤児を家に招くのだろう。

 魔女はつつましく暮らしているが貧しくはなかった。毎日料理を作り、機織りをし、異国の本を読んで過ごしている。

 週に一度は訪問者もある。

 けれど、リリィが紹介されたことは一度もない。


「薬草摘みが済んだら、今日は森で好きに遊んでおいで。陽が大白樺の木のてっぺんにかかるまで、帰ってきてはいけないよ」


 たまたま遠目に見た客人のうしろ姿は、郵便配達夫の風体に思えたがどうだろう。魔女への恐怖が背を縮めるにつれ、好奇心ばかりが近頃は育っている。どんな客が来て、どんな話をしているのか。悪戯心がむくむくと湧いた。

 リリィは客の正体を確かめることにした。聡い魔女のこと、気づけばすぐに咎めに来るだろう。魔女が外に出た隙に部屋に戻り、じっと待っていると、客人が目論見通り訪れた。通されたのは隣の客間だ。リリィはドキドキしながら壁に耳をつける。


「今度の子はどうなの? エヴァ・コッコ」

「さあ、気になる?」

「そりゃあね、ボクが招待状を運んだんだから」


 男の声にリリィは目を見張った。


「また厄介な子だろう? よく飽きないね、苦労するだろうに。食べちゃえばどうだい」

「骨と皮ばかりでとても食べられそうにはないわ。厄介かもしれないわね、仕事も下手で、不器用で。あの子は……、でも――」


 リリィは、魔女の言葉に傷ついている自分に気づきうつむいた。


「とてもいい子。あの子は、きっともう一度羽ばたける」


 リリィはハッとして顔を上げた。


「信じているの」 


 しずかな魔女の声がリリィの頬を染める。部屋を出る。ほてった胸を冷ますように、外に出ると自然に駆け足になる。

 急がなくては。

 まだ今日の薬草摘みが終わっていない。

 足音を殺すことも忘れたリリィが、魔女の園でいつもより丁寧に仕事を始めたのを、ふたりが窓越しに見つめていた。


「見て、いい子でしょう」

「盗み聞きしていたけどね」


 魔女と訪問者は、笑み交わしてテーブルについた。



 その日から、リリィの仕事は目に見えて上達した。

 手際よく仕事をこなせば自由な時間がずいぶん余り、ひとり部屋で過ごすうち、両親と暮らしたころを思い出すことも増えた。

 リリィの父は、事業に成功し財を成した紳士だった。

 仕事に忙しい父と社交に明け暮れる母は、リリィを祖母任せにして育てた。両親に愛された記憶はあまりない。

 リリィに見向きもしなかった彼らは、やがて娘の歌の才に気づくと子猫を見せてまわるように人前に連れ出した。

 父のパーティで母のサロンで、リリィは瞬く間に歌姫ともてはやされるようになった。

 一流のピアニストや、外国のヴァイオリニスト。リリィの声はどんな楽器とも響き合う天上のハーモニーを生み出した。

 いつしか彼女は「カナリア・リリィ」と世に謳われた。

 才能に任せた荒削りの歌、と誰かは言った。

 しかし、両親は耳を貸さず、このままでは声が潰れると心ある音楽家や忠告しても、夜に日を継いでカナリアを歌わせた。リリィを心配する祖母さえも、療養のための遠くの別荘へ追いやった。

 唯一の味方を失ったリリィに残されたのは歌だけだ。

 なのに、その華やかな日々さえ、長くは続かなかった。

 祖母が亡くなると、家は日に日に傾き、リリィの歌声さえ父の破産とともにひび割れた。星の数ほどいた取り巻きは、潮が引くように消え失せた。


「お父さま、声がおかしいの。何か喉に引っかかっているみたいに」


 少女の声は、ある朝ざらつきを帯びたのを皮切りに、いつしか割れ鐘のような醜い声に成り果てた。

 医者にかかることもできなかった。家を追われ食べ物にも困る暮らし。冬に父が急逝すると襤褸一枚になった母はリリィを残し憤死した。かつて少女を愛した名士たちさえ、歌と親を失くしたカナリアを顧みはしなかった。

 いいや、手は伸ばされた。


「情けをやろう。夜のカナリアになってさえずれ」


 近づいた男の指を噛みちぎり、リリィは郊外の廃屋に逃げ込んだ。

 悲嘆が逆巻く嵐となって少女を千々に刻み、夜が明ける頃、彼女の瞳の色を絶望に変えた。

 盗んだパンを冷たい石床の上でかじって生き延びながら、それでもリリィは廃墟で歌い続けた。身を立てる術なき少女は、いつか声が戻ると信じ濁るばかりの声に泣いた。

 歌はリリィの幸せの象徴、そして不幸の象徴。

 恨みと悔しさが、身体中に音を張ったころ――。

 魔女の招待状は届いた。


 ハディドの森の前にリリィは立つ。

 黒い森が大きな影になり、両手を広げて少女に覆いかぶさる。

 口を塞ぐように握りこまれてリリィはもがく。

 声にならぬうめきを上げ、少女は悪夢から覚めた。

 びっしょりと汗をかいたリリィはかたわらの気配に震えた。そばにいたのはエヴァ・コッコだ。正体を知ると不思議なほど安堵した。


「うなされていたわ、いやな夢を見たの?」


 燭台のわずかな明かりに、少女の憂い顔が照らされた。


「リリィ、あなたはまだ歌いたい?」


 魔女は頷いた少女の喉に手を添える。リリィが身構えずに受け入れると、老婆は少女のほっそりした手を握った。


「約束の三ヶ月まであと一週間」


 リリィが悲しげに目を伏せると、汗で張り付いた彼女の前髪をそっと剥がし、髪を撫でて慈しむように言った。


「あなたはどちらに行くのかしらね」


 幸福か、不幸か。

 魔女が去ると、温めたミルクがちいさなテーブルに乗せてあった。いつだったか祖母もこうしてリリィを慰めてくれた気がする。

 手のひらにまだ、魔女のぬくもりも残っている。

 リリィはゆら、と揺れる天秤に目をやり、銀のナイフを見た。

 三ヶ月後の結果がなんであろうと、魔女に向けることはきっともうない。

 もしまた歌えることがあるのなら、魔女に歌おう。安らかに目を閉じリリィは眠る。

 リリィの思いを聞き届けると、天秤は静かに右にかたむいた――。


 そして、七日後の朝、魔女はリリィを呼んだ。

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