52. 物語の始まり、物語の終わり
一国の王女として、この世の理不尽な側面はある程度見てきた気でいた。理想と現実とは程遠いものと、分かっていたつもりだ。この旅にも希望こそあれど、それは掴めば崩れてしまうほどに脆いものであろうことも覚悟の上だった。
しかしそれがいかに未熟であったのかを、ミューネはいまひどく思い知らされている。
視界に映るのは、目を背けたくなるような本物の現実。
決して低くはない国の垣根を越えて、救いの手を差し伸べてくれたひとりの勇敢な男が、敵の凶刃から子を守るためにその身を犠牲にしてしまったのだ。
槍斧に貫かれた彼の肉体は瞬く間に血に染まり、素人目に見ても溢れるそれが死に迫る勢いであることは容易に分かる。
全くの不条理。この世に世界の道理が通用しない悪人が存在することに、ようやく気付かされた。
「ブリンクさん、そんな……」
ミューネは痛感した。犯してしまった罪の本当の重さを。こうなってしまった原因の根本は自分にある。そう自らを責め、悔恨の海に溺れていく。
「な、なんで。どうして……」
傍らには、目を見開いたまま事実を受け入れきれずに嗚咽を漏らし続けるレニが、石の大剣に満身創痍の身を委ねていた。
もうこの状況からは逃れ得ない。未来への頼みの綱は断ち切られたのだと、ふたりは絶望の淵に転がり落ちるしかなかった。
だが、この男は違う。
「諦めるな! まだ手はある」
失意に沈むふたりに、瀕死のはずのブリンクがそうではないと力強く訴えかけたのだ。まるで切れた綱を落ちる瞬間に掴み直したかのように、絶対的な希望を含んだその言葉は、レニとミューネをどん底から一気に引きずりあげるほどの力を秘めていた。
「石だ。石を使え、ミューネ」
石……?
一瞬の思考を挟んだ後、ミューネははっとした。
まさか、転移石のことを言っているのか。
ゴラドーン大陸との間に大海を挟むプロト大陸からこちらへ飛ぶために、ミューネは不思議な石の力を借りて来た。その帰りの分がひとつ残っている。祖国へ戻るために確実に必要な一個だ。目に見える範囲を限定として、想い描いた場所へと瞬きひとつで連れて行ってくれるこの石ならば、確かにこの惨状を抜け出せる。
ミューネは鞄の中を探って目当ての物を掴むと、帝都の正門外に広がる、木々が鬱蒼と生い茂る大森林に目を向けた。
行ける……だけど。
視線を再び流血するブリンクに戻して、ミューネは彼の真意に涙を流さずにはいられなかった。
説明はしていたのだ。転移石は互いに触れ合ってさえいれば、複数人を同じ場所へと連れて行けること。だからレニとは一緒に安全な場所へ飛べるだろう。
しかしブリンクは……。敵であるハルベルトと密着してしまっていた。これでは敵も一緒に連れて行くことになってしまう。それに自らを盾にした理由を考えれば、彼がその手を離すことは恐らくないだろう。
つまりふたりで逃げろと、ブリンクはそう言っているのだ。
「いつまで寝てやがる、アーサー! そこのふたりをさっさと捕まえろ!」
こちらの異変に気付いたハルベルトが慌てるように怒鳴り散らした。ブリンクの迫力に圧されているせいか、その表情からはいままでの笑みが消え、焦りの色が滲んできているようにも見える。
当のアーサーは目の前で起きている死闘に呆然としていたようだったが、上官の怒気に当てられて飛び上がると、痛む顔面を抑えながら憤怒の形相でこちらへと向かってくる。
「や、やめろ。やめてくれ……頼むよ……」
ようやく事態を把握したのか、誰にともなく懇願するレニを見て、ミューネは余計に戸惑った。
「早く行け、ミューネ!」
ブリンクが血に溺れた声で叫ぶ。
見捨てる……?
そんなことできるはずがない。ここまでの道を共に歩んできてくれた恩人を、こんなところで捨て置けというのか。
だからと言って、転移石でこの場から脱するほかになんら方法が思いつかないこともミューネを苦しめ、彼女の中で葛藤が湧き起こる原因にもなった。
そんな内なるせめぎ合いは、アーサーに再び近づく時間を与えることとなってしまう。
「もう、逃がさんぞ!」
度重なる不運に顔を歪めたアーサーの怒りは半ば八つ当たりでしかないが、その迫る脅威にはミューネも一歩退かざるを得なかった。
一体、どうしたら……!
ブリンクを救いたい想いが足枷となり、ありもしない三人での脱出策を探してしまう。
助けたい、そう願う心を嘲笑うかのようにアーサーの手がすぐそこにまで迫った――その時だった。周囲を取り巻く雰囲気ががらりと変わったのは。
街の熱風を運んでいたはずの空気が一転、いつの間にかぞくりとするような凍える風を連れてきていたのだ。夏場にそぐわぬ冷気は辺りの熱を一瞬で奪ったかと思うと、徐々に肌を切り裂くような鋭さを増していく。
吐息が白く変化し、次第に凍りつくような寒気がこの場にいる全員を震わせた。降りしきる雨も、やがて霙へと姿を変える。
「なっ……。こ、この寒さは一体……」
アーサーは伸ばした手を反射的に引っ込めて冷える自らの体を抱くと、首を周囲にめぐらせてその原因を探った。
問いに答えたのは――重傷を負って倒れていた黒いローブの少年だった。
動けるはずもないほどに負傷していたその身体が不自然に脈打つと、少年の意思とは無関係にぶらりと立ち上がった。目は開いていない。まるで操り人形さながらで、見えない何者かにつまみあげられたかのようにも見える。
「な、なんだお前は」
その気味の悪さにアーサーも一歩退いた。
更に異変が起きたのはそれからだ。
動き続ける少年の肉体が更に痙攣を繰り返し、次第にその姿を変化させていった。
折れてしまいそうなほどに華奢だった身体が、見る見るうちに巨大化していく。背丈も、筋肉も、それまでの少年とは比べ物にならないくらいに逞しく膨らみ、大きくなりきったところで次に全身のあらゆる毛穴から灰色の体毛が生え始めた。
顔は槍のように先尖りになり、口から覗く犬歯は危険な鋭さを帯びると、剣のように伸びる。
頭頂部から顎にかけて獅子が持つような鬣が生え出たその顔立ちは凛呼としていて、静かな闘気を宿しているようにも感じられた。開かれた瞳孔はしっかりと前を向き、狂ったように街を破壊している人狼達とはまた違う雰囲気を纏っている。
「う、ウルブロン……」
誰かが悪夢にでもうなされるかのように呟く。
ゴラドーン人が、ウルブロンへと変身したのだ。言葉だけなら誰が信じようものか。他は皆、驚くあまりに閉口するより他なかった。
あり得るはずもないその瞬間を見てしまったミューネは呆気にとられ、周りの帝国兵からもどよめきが沸き起こった。
唯一、ハルベルトだけは薄汚い笑みが再び顔を歪め、これ好機とばかりにウルブロンが暴れてくれるであろうことを期待しているようだった。
「アーサー、早くやれ!」
しかし……。
その期待はものの数秒で裏切られることになる。
少年だったウルブロンが動きを見せたかと思うと、周りの警戒など知らぬ顔で静かに地面に手を当てた。
その動きがあまりにも洗練されていたせいなのか、突然のことに驚いていたからなのか、あるいはそのどちらもか。ミューネはそのなんともない一連の動作に、一瞬だけ心を奪われた。
次の瞬間。パキパキと冷々たる清音が聞こえたかと思うと、それは突然姿を現す。
大地から草花が生えるかの如く、ミューネとアーサーとの間の地面から飛び出してきたのは、煌びやかな輝きを放つ氷山。
地を突き破ったその氷は止まることを知らず、アイアンウォールの壁の背を優に超えたかと思うと、そのまま天を穿つかのように淀んだ雲の上へと消えていった。それから街の石畳を破壊しながら、左右に幅を広がらせていく。
氷の城壁。氷の塔。そう呼ぶに相応しい、透き通った堅固な自然の壁。
驚きに立ち尽くすミューネの視界に、氷の向こう側で何事かを怒鳴っているアーサーや帝国兵たちの影が映る。その声はこちら側にはまるで届いてこない。突如として出現したこの壁のおかげで、ミューネとレニは結果的にアーサーの魔の手から救われることとなる。
「私たちを、助けてくれた……?」
そう思わずにはいられない、ウルブロンの行動だった。
そのウルブロンが次にこちらへと振り向くと、ミューネはその大きな体をゆっくりと、怯えながら見上げた。こちらを見下ろす瞳からはある種の人としての温かさを感じることができたが、それ以上に体中から湧き出る残虐性は隠しきれるようなものではなかった。
だが、そのはっきりと意識を宿していた瞳からはすぐに灯が消え、今度は思い出したかのようにその場に再び倒れこんでしまう。
「フロ……、スト……」
そう一言吐き出して、それからは動く気配を見せなかった。
一体何が起こっているのか、もはや状況を理解できない頭の中に、ブリンクの声が届く。
「行け、ミューネ!」
そうだ。いまが転移石を使う絶好のチャンス。やるなら今しかない。
「で、でも……」
それなのに、やはりどうしても踏ん切りがつかなかった。
「やめろ、やめてくれ。ミューネも、ハルベルトも、ブリンクも……。皆、やめてくれ……頼むから」
レニも先ほどから祈るように「やめろ」と繰り返すばかりで、もはや戦意を喪失していた。そこには、先ほどまで頼りにしていた青年の姿は無い。脚の傷も、このままでは危ないだろう。
精神にも大きな傷を負ったレニを再度確認して、ミューネは思う。今度は自分がレニを助ける番なのではないか、と。一方的に問題を押し付けておいて、助けられてばかりではあまりに勝手すぎる。
揺れる心で転移石をようやく鞄から取り出したミューネの背中を最期に押したのは、やはりブリンクだった。
「……救わないといけないのは俺なんかじゃあない。お前の国だろう……?」こちらを振り返ったその顔には、優しさと愛に溢れる笑顔が浮かんでいた。「息子を、頼む」
「ブリンクさん……」その笑顔が、ミューネの決意を固める。「ごめんなさい」
王女は決断しなくてはならなかった。自らに重くのしかかる責任と、果たすべき義務のために。
胸の内からこみあげてくる感情を瞼でせき止め、ミューネはレニの体に転移石を握ったままの右手を。そして左手を、一瞬の躊躇のあとに倒れたままのウルブロンに添えた。
飛ぶのはほんの一瞬。大森林を思い浮かべ、ある想いを胸に宿す。
「待ってくれ! ブリンク……ブリンク!」
レニの悲痛な叫びとともに三人の体が転移石から放たれる眩い光に包まれると、その全てが虚空の穴へと消えていった。
三人が何処かへと転移したことを気配で悟ると、自分でも驚くほどの強烈な力は、すっと体の外へと漏れるように流れていってしまった。視界が急に暗くなり、もはや血だまりなのか水たまりなのかも分からない地面の上に、ブリンクは膝から崩れ落ちる。
――長いこと、耐えられたな。
素直な感想だった。異様な形の槍斧に体を貫かれてなお、レニとミューネが脱出するまでの時間を稼ぐことができたのだから、この命も最期には十分役に立ったのだと思える。
「アーサーの愚図め。あんなガキふたり捕まえておけねぇとはな」
悪態をつくハルベルトを見上げる気力すら、もうこの体には残されていない。
考えてみれば不思議なものだった。普段のブリンクでは到底出しえないほどの力が体に宿り、あの怪力自慢を抑え込んだ。これが俗にいう火事場の馬鹿力というものなのだろう。
だが、いくらあのいびつな形の槍斧に肉や骨が絡み合っていたからといって、ハルベルトの怪力ならば無理にでも引き抜くことは可能だったのではないか。または、槍斧から手を離してレニとミューネのふたりを優先することもできただろう。
だがそれも、触れ合ってみて、そうしなかった、そうできなかった理由がブリンクにはようやく分かった気がする。
「その斧……。随分と震えていたな」
自分の声とは思えない、消えていきそうなほどのかすれ声に対する返事はしばらく無かった。
「……こいつと俺の関係を理解したところで、今更遅ぇよ。もうどうすることもできねぇ」
ハルベルトの声はいつもと違って静かで、はっきりとしていた。落ちぶれた英雄を殺して感慨深いものでもあるのか。ふたりを取り逃したことに対する怒りか。それとも、愛武器の秘密を知られたからなのか……。
いずれにせよ、いまのブリンクにはもう関係のないことだった。
「できたさ……。息子と娘を守ってやれたんだ」
「抜かせ。今日テメェがやったことは、ただの時間稼ぎだ。あのふたりも直ぐに見つけ出して、同じところに送ってやるよ」ハルベルトは、にやりと口端を釣り上げる。「寂しくねぇようにな」
もはや耳も意識も遠くなり、ハルベルトのいつもの挑発的な態度も頭には一文字も入ってこない。
それでも、口だけならまだなんとか動く。この口で、言い残しておかなければならないことがあった。親が子に未来を託し、この命を捧げた先に希望があることをまずは自らが信じるために。
「あの子達は、世界を変えるぞ」
「あ?」 ハルベルトの表情からすっと狂気が抜けていき、代わりに怒気の色が内側からにじみ出てくる。「何だって?」
「この腐り切った世界をぶち壊して、三種族が手を取り合う争いの無い世界に変えるんだよ。いずれ、あいつらがな」
そんな完全なる理想の前に、ハルベルトは吹き出して大声でブリンクを嘲笑った。
「何を寝ぼけたことを。死ぬ前に、頭でもイカれたか」
言えばこの大男が笑うであろうことは分かっていた。だからブリンクは、暗く無音の世界であえて笑い返してやった。
「そうなれば、俺たちのような殺し屋はもう必要なくなる。新しい世界を前にして、ひとり残らず時代の波に淘汰されるだろう。その時、お前はどうする?」
「バカが……。そんな甘ったれた時代なんてのは絶対に来ねぇ。言っただろう。この世から殺しはなくならねぇ。一生な」
落ちていく意識のなかで、ブリンクは背後で槍斧が持ち上がる気配を感じた。どうやら、殺し好きのハルベルトが痺れを切らしたようだ。
いつの間にか梅雨らしい雨に戻っていた空を見上げるかのように、最後に残った力を使って、ブリンクは空を仰ぎ見る。
どこまでも、真っ暗に続く空だった。
季節外れの冷気も消え、煩わしく感じていたはずのじめついた風が、いまでは妙に心地良い。
長年、胸の内側で痞えていたしこりがすっと消え、十五年越しの約束もようやく果たすことができた。我が子がつくる未来を見れないのが唯一の心残りだが、それ以外にもう思い残すことは何もない。
首筋にひやりと尖った狂気を感じると、ブリンクは覚悟を決める。
「……先に行って待ってるぞ。ハルベルト」
「ふん。じゃあな」
すまない。エミリア、カイ。やっぱり、まだ少し帰れそうにない。
レニ、理想を越えるくらい高く飛べよ……。
お前ならできる。お前は俺の誇りだ。
十五年もの休戦の後、世界が再び戦火を交えることになったこの日、帝国の英雄ブリンク・トゥルーエイムはその生涯の幕を閉じることとなった。




