51. ブリンク・トゥルーエイム
気がつけば、ブリンクは見たことのない真っ白な空間にひとりぽつんと立っていた。辺り一面に広がる白は、その色を愛してやまないホワイトの執務室よりも更に白く、この部屋にはそれ以外に何もない。物がなければ境界線や影があるはずもなく、ただただ無限に続く白一色は、ある種の虚無感を運んできた。
ここは、どこだ。俺は何をしている。
眼を左右に振り、一歩前に出ようとした時、右手にあたたかい温もりが滲んだ。
「ん……」
握る力の加減が難しいくらいに小さくて脆い。だが、ずっと触れていたくなるほどに尊く、愛おしい。遠い昔に忘れた、懐かしい感触。
その右手にそっと視線を送ると、ブリンクは驚いた。
「どうしたの?」
手を握っていたのは、つぶらな瞳で見つめ返す幼児だった。ブリンクはこの子のことを誰よりも良く知っている。その容姿は最後に見たあの頃のまま、何も変わっていない。
「カイ……か?」
そう呟いて、次の言葉が継げなかった。
十五年前、まだ五歳だったこの子は、突然の魔物の襲撃を受けて死んでしまったはず。
これは、夢か?
「パパが帰ってきたよ!」
いまだ状況を理解できずに混乱するブリンクをよそに、カイは喜びに飛び跳ねながら誰かに手を振って合図した。
「あら? あなた、随分と早かったのね」
その声に、ブリンクの胸の鼓動は更に跳ね上がる。
まさか。
見れば何も無かったはずの目の前の空間に、いつの間にかひとりの女性が立っていた。
「エミリア……」
カイとともに亡くなってしまった妻だ。
艶やかな黒の長髪を後ろで結び、眼鏡をかけ、前にエプロンをかけた、家庭的な風貌の女性。ブリンクが愛したその姿も、カイと同じく昔のままだ。
ずっと会いたいと思っていたのに、いざこうしてふたりが目の前に現れてみると、情け無いことに言いたい言葉が何ひとつ出せなかった。
「珍しいわね。あなたが約束を投げ出して帰ってくるなんて」
眼鏡の奥で、エミリアの瞳がきらりと光る。その姿からは想像も出来ないが、生前教師をしていた彼女の洞察力はなかなかに鋭い。ある意味、読心術と言っても過言ではないほどだった。
「約束?」
「やだ何、寝ぼけてるの?」エミリアは口に手を当てて笑う。「起きて、起きて」
色々と考えることが多すぎて、その答えに辿り着くのには時間がかかった。
徐々に浮かび上がる記憶。レニとふたり、敵国の少女と交わした約束。突如侵略される帝都。帝国軍の策略。そして、ハルベルトの狂気に満ちた笑み。
これまでの道のりが一度にフラッシュバックして、そして目が覚めた。
そうか。俺はまた失敗してしまったのか。
「約束……。確かにそうだな。俺はまた約束を守れなかったらしい。これで二度目だ」
肩を落とすブリンクに、エミリアは「こら、甘えるな」と頬を膨らませて叱責した。
「当たり前じゃない。うまくいかない時だってある。神眼だの、死神だの周りからいくら言われたところで、結局あなたがひとりの人間であることに変わりはないんだから」
指を一本立てて、「それに」と続ける。
「ちゃんと知ってるわよ。あなたが逃げずに約束を守ろうとしてくれてたこと。街が魔物に襲われた時、あなたは何もかもを投げ捨てて、助けに来てくれた」
「だが結局、俺は間に合わなかったんだ」
そう、間に合わなかった。それは抗いようも、言い訳のしようもない事実だ。
あの<悪魔の行進>の日、ブリンクはふたりを救えなかった。
ようやく思い出す。ふたりに一番言いたかったことを。
「本当に、すまなかった……!」
これが夢でもなんでもいい。ただそう一言、ずっと謝りたかった。
世界に裏切られ、屈辱にまみれ、悲しみに怒り狂ったあの日から十五年。積もり積もったはけどころのない感情は、いくら時間が経とうとも、新たな人生を歩むことになろうとも、決して晴れることはなかった。
それがいまようやく、膨らんだ風船が割れるかのようにブリンクの中で爆発したのだ。
流れる一筋の涙は堪えようもなかった。
カイとエミリアは、いつもは見せるはずもない彼の姿をじっと見つめ、ゆっくりとした時間がしばし続いた。
ブリンクの感情が少し落ち着いたところで、エミリアはそっと声をかける。
「良いの。その気持ちがすごく嬉しい。私とカイをそこまで想ってくれていたその気持ちが。ありがとう」
優しさの込められたその言葉は、何よりも暖かい。
「当たり前だろう」
微笑んだエミリアは続けて言った。「それと、もうひとつ。あなたは私との約束を守ろうとしてくれたわ」
何か分かるかしら? とでも言いたげな意地悪な表情を傾けるエミリアを見ながら、ブリンクは考えた。
彼女との約束……。いくつか思い出した中で、それは約束とは少し違う形のものだったが、エミリアが真に望んでいた夢であり、ブリンクもその手助けをしたいと思っていたものがひとつある。
「……子が育つ環境……。世界の平和か」
思い起こすのはカームグラス平原で出会った、プロト国大将軍のルヴィッツのことだ。
「そう。世界の常識に逆らうようなことに、あなたは挑戦してくれた。その壁は高かったかもしれない。邪魔する者もいたでしょう。でも、決して越えられないものじゃないと思うの。あなたもそう思ったから、いまもまたそのために命を燃やしていたのでしょう?」
それは二人目の息子、レニの存在が大きかったからだ。
ミューネという敵国の少女を見つけた時、どうしたものかと深く迷ったブリンクとは対照的に、レニは変わらぬ優しさで彼女と接した。
世界から魔物の脅威を排し、その恐怖から人々を救い出す。そこにゴラドーンも、プロトも、ウルブロンも関係ないと彼は言った。ゆくゆくは世界で助け合うべきだと。
その思想は、いつの日かエミリアが語っていた戦争のない、子が大きく育つ環境の創造と良く似ている。
だから、その想いを守ってやりたいと思った。
「ああ、そうだな」
そうだ、まだやり残したことがある。父親として、やるべきことが。
「ほら。もうひとりの息子と、娘が待っているわよ」
ブリンクお気に入りの帽子を手渡しながら、くすりとエミリアが笑う。
「娘?」
「ふふっ。娘が出来たみたいだって、あなた内心喜んでたじゃない」
それがミューネのことだと気付いて、照れ隠しに冗談でも言おうかと思ったが、やめた。
「ああ……、お前に隠し事はできないな」
「そりゃあ、あなたの妻ですから」
帽子を深くかぶり直し、背筋をしっかりと伸ばすと、ブリンクはエミリアと真っ直ぐに向き合った。
「あと少しだけ、待っていてくれるか?」
返ってきたのは、慈愛に満ちた表情だった。
「いってらっしゃい。最後の約束こそ、後悔しないようにね」
力強く頷いて踵を返すと、後ろに寂しげな顔をしたカイがいた。
「パパ、また行っちゃうの?」
「ごめんな。今度はすぐ戻るから。その間、ママのことを頼む」
しゃがみこんで、その瞳をじっと見つめる。
「うん。パパがいない間は、僕がパパになるよ!」
そこに男らしい凛々しさを見つけたブリンクは安心する。
「あぁ」カイの頭をぐしゃぐしゃに撫で回し、「じゃあ、行ってきます」
そう言って立ち上がると、再び元の世界へと歩みだした。
約束を守るために。
「ぐううう……!」
現実のような夢の世界から戻ったブリンクは、目の前に突き立てられた一本の杭を両手で掴んだ。
「これ以上お前の好きにはさせんぞ、ハルベルト!」
掴んだ杭は、ハルベルトの戦斧の柄。それがいまブリンク本人の体を貫いているが、最早痛みなどとうに感じてはいなかった。致死量の深手を負ってもなお、はっきりとした意識を保ち続け、いままでに出したことのない力が両腕にかかるほどに覚醒している。
戦斧を引き抜こうとはせず、更に体の奥深くへとその刀身を突き刺すように前に出た。
「て、テメェ、この死に損ないが!」
ハルベルトは叫ぶが、戦斧が小刻みに震えているのが分かった。その動揺と、いびつな形をした刀身が体に深くめり込んだ状態が重なってしまっては、引き抜こうとしても簡単に抜けるものではない。
そうだ。愛する者を生かそうとする力と、守りたいと思う心に、もっと怯えろ。
「子供達は……俺が守る!」




