50. 守りたいもの
地べたに伏したレニは、既に意識が朦朧としていた。全身の打撲、肋骨の損傷、特に脚の出血ともくれば、どうにか目を開けていられるのも不思議なくらいだ。
そのうえ、もはや破壊される街の崩壊音も、執拗なアーサーの醜い暴言も、自らの体から漏れる呼吸さえもレニの耳には何もかもが遠く感じてしまっている。
それでも言うことを聞かない体を動かそうと視線だけを上げてみると、目の前で何かが崩れ落ちた。
「ミューネ……」
顔を手で覆い隠し、虚脱感に沈むミューネにレニは力のこもらない声で呼びかける。
彼女の素性が暴かれたことで、何もかもが終わったと感じた。世界を再び戦乱の世へと誘うであろうこの罪の重さは計り知れない。
助けるはずだったミューネの祖国も、今後魔物とゴラドーン帝国との間に挟まれてしまえば、いよいよ無事ではすまないだろう。
平和の終わりを告げる鐘を、自らが鳴らしたのだ。それは世界の平安を望み、故に敵国の王女ミューネにも迷いなく手を差し伸べたレニにとって、このうえない皮肉でしかなかった。
レニは痛みに耐えながらもゆっくりと手を動かし、顔と体を持ちあげて前を向く。
遠くでブリンクとハルベルトが対峙している。
なおも銃を構える父親の背中を見て、不思議に思った。
ブリンクはまだ諦めていない。何故なのだろうか。周りを帝国兵に囲まれ、目の前には強大な敵。守るべき者には手が届かない。そんな絶体絶命の状況だというのに。
「レニ、ごめんなさい」
傍のミューネが、小さく呟いた。
「え?」
混沌とする意識の中、そのか細い声は複雑な思考をかき消す一滴の雫だった。
「私のせいで、こんなことに……」
「なん……で……」
違う。違うんだ。ミューネはただ、誰かに助けて欲しかっただけだ。だから、謝ることなんてないのに。間違っているのは、このどうしようもない世界だ。
だが、その想いは声にならない。
「お願い……、誰か助けて……!」
聞くに耐えない、少女の切な願いだった。
綺麗な顔を涙で汚し、悲痛な心の叫びで訴えかける彼女を見て、レニは思いだした。
手を差し伸べたのは、こんな結末を見るためなんかじゃない。自分が何をやるべきなのか、その使命をいま一度呼び覚ます。
ミューネを、彼女とかわした約束を、彼女の笑顔を……守らなければならないのではないか。そう誓ったのではないか。
――そうだろう? レニ!
自らを鼓舞すると、不思議と体の痛みが薄れはじめ、立ち上がる気力が舞い戻ってくる。
絶望的な状況でも、まだ全てが終わったわけではない。ブリンクにも何か考えがあるんだ。だからまだ戦っている。最後の最後まで、諦めてはいけないのだ。
「ミューネは俺とブリンクが守る。そう約束しただろ? だから、泣かないで」レニは大剣を杖代わりに、身を起こしながら言った。「君も、こんなとこで終われないだろ?」
「レニ……」
ボロボロの身になりながらも他者を想うレニの言葉は、ミューネの心には良く響く。はっと持ち上げた彼女の瞳には、微かながらの希望が灯った。抱え込んだ不安は、一筋の涙とともに頬を滑り落ちていく。
「はいっ!」
決意した彼女の表情は、曇り空を晴らすくらい凛々しい。この顔を、レニは見たかった。そのためならば、どんな痛みにも耐えることができるだろう。
そして、立ち上がったふたりが頷き合った丁度その時……。
再び爆発が起きる。
近い。衝撃がふたりの身体を揺さぶりながら通り過ぎていく。
「ぐぇ!」
再びミューネに近づこうとしていたアーサーの顔面に、爆発した建物の一部が激突する。
瓦礫はいくつものかけらとなって通り雨のように降り注いだが、奇跡的にどれもふたりには当たらなかった。
ただひとつをのぞいて。
――あれは、なんだ?
どうにかふたつの足で立ったレニのもとに、何かが飛んでくる。何か、黒い塊だ。ひとつ手前で失速すると、どさりと瓦礫らしからぬ音を立てて目の前に落ちた。
「こ、子供?」
ふたりが同時に発した言葉だった。
塊の正体は、ひどく怪我をした小さな少年だった。運悪く爆心地付近にでもいたのだろうか。焼け焦げた黒いコートの下はほとんど裸で、火傷も切り傷も痣もその数は尋常ではない。レニ以上の重症で、見ているだけでも痛々しい。
「なんてひどいことを……」
伸ばしたミューネの手が少年の体に触れた時、ふたりは気づいた。
「レニ、この子!」
フードの下に隠れていた少年の頭部には、狼のような獣の持つ耳が付いていたのだ。その耳は街で破壊の限りを尽くしているウルブロンの持つそれに非常に酷似している。
「まだ、生きてる」
ミューネが胸の鼓動を聞いて言った。
少年は一体何者なのか。この事件に関わる者なのか。様々な疑問が浮かび上がり、意識がそちらに向きかけた、その時のことだ。
「レニ!」
ハルベルトと向かい合っていたはずのブリンクの叫び声がこちらを向いた。
「え? ブリンク?」
そして近づいてくる殺気にようやく気付く。
「死ね、小僧! 恨むなら、テメェの親を恨めよ!」
何故だか、いつのまにかハルベルトがこちらに向かって猛進してきていた。武器の切先を鈍く光らせながら。
不意を突かれたのだ。ブリンクが抑えているだろうと過信していた。
どうにか奮い立ったところで、負った怪我と残った体力、どう考えても奴の勢いを迎え撃つほどの余裕はない。
ハルベルトは自慢の戦斧をにやついた表情でしっかりと構えると、先端の槍部をレニに向けた。いまから行う殺戮を前に、狂気に歪んだ顔を見せる。
刺し貫くつもりだ。
「レニ、危ない!」
尖った脅威が眼前に迫ったところで、ミューネが叫んだ。それを合図に、視界が薄い緑で埋め尽くされる。
見れば彼女を中心に、半球体状に緑色の膜が降りているではないか。
「これは……」
その中は優しい温かさで満ちていて、まるで抱擁されているかのような感覚に思わず感嘆の息を漏らす。
振り返ると、苦しい表情で手のひらを突き出したミューネがいた。
これがプロト人の持つ能力、盾。見るのは初めてだったが、レニはその特徴から以前ブリンクに教わったことを思いだした。
「女の盾ひとつで何ができる。邪魔だ、どけ!」
ハルベルトのその自信に満ちた言葉に反して、ミューネの盾との衝突は意外な結果を迎える。阻むものなどないような強烈な突きを、薄い膜のような盾がなんと弾き返したのである。
「何ぃ?」
それどころかかすり傷ひとつ残せなかったのだから、予想以上の硬さだったのだろう。これにはさすがのハルベルトも面くらった様子を見せた。
「レニは、私が守る!」
更に力強く、ミューネは両手を突き出した。
「舐めんじゃねぇ!」
それが余計にハルベルトに火をつけたのか、二度目の突きを繰り出そうと戦斧を構えなおした。武器は異様な雰囲気を拡散し、そこにレニは陽炎のような空間の歪みを見つける。
それがなんなのかは分からなかったが、見た瞬間に背筋が凍るような不気味さを感じた。とてもこの世のものとは思えない何かだったのだ。同じものを見たのか、ミューネの両手も勢いを削がれる。
二度目の突きは、一度目のそれとは全くの別物だった。
先ほど同じ攻撃を弾き返したはずの盾が、その強度が嘘だったかのようにいとも簡単に貫かれてしまったのである。貫通した穴から一本のヒビがはいるとそれは蜘蛛の巣のように広がり、盾はガラスが割れるのと同じように崩れ落ちていってしまった。
「あぁ……!」
一度は退けたのに、何故二度目は防ぎきれなかったのか。信じられないといった表情をミューネは浮かべた。
盾に阻まれてもなおその豪腕で繰り出された突きは衰えを見せず、目標であるレニに向かって真っ直ぐ飛ぶ。
ようやく自らのやるべきことが見つかったというのに。レニは次第に大きくなっていく敵の凶刃を眼前
に感じながら、悔しさを表情に滲ませた。万策尽き、対抗する手段はもはや何も思いつかない。最後に残された道は、ただただ目を瞑って、気持ちだけではどうにもならないこの現実を遮断するだけだった。
炎に照らされた暗い闇の中で、ハルベルトの戦斧は確実に身を貫いていく。胸を裂いて背に突き出るまでに時間はそうかからず、長年鼓動し続けてきた命をあざ笑うかのようにものの一瞬でその目的を果たした。
痛みはない。死とはそういうものなのだろうか。
「よう、無事か? 相棒」
誰かにそう呼びかけられて、レニは恐る恐る目を開いた。
「……?」
開けた世界には、いつの間にか雨が降っていた。梅雨時のまとわりつくような湿った雨。糸を引くように垂れ落ちるそれに、一本の紅い線が混じっている。
紅い線はするりするりと、布がほどけていくように地面へと落ち、水たまりを作っていた。
これは、なんだろう。下を向いていた意識をゆっくりと上げた。自らの体を探ってみても、貫かれたような跡はない。
ハルベルトは一体何を貫いたのか。
人だ。人が目の前に立っている。ハルベルトとの間に立ち、レニを守るかのように両手を左右にひろげている。
「そ、そんな……何で……」
レニは悟った。自らの命は、大事な人のそれを犠牲にして守られたのだと。
雨に濡れた自慢の皮の帽子は黒く変色し、見ていて恥ずかしかったはずのカウボーイの服装はいまや真っ赤に染まり、異様に太い角がそこから生えるように突き出している。
レニの視界に映ったのは、見るも無残な父親ブリンクの後ろ姿だった。




