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ジオ戦記(旧)  作者: ルノア
第1章
5/52

5. ベルゼブとの死闘

 -Ⅰ-


 ベルゼブを追って三十分。巣を見つけた。サウスウィンドからここまで一時間ほどしか離れていない。

 純白の砂浜が広がる海岸に、一際大きくそびえたった岩場がある。槍のように突き出た無数の岩が侵入者を威嚇する一方で、中央には深淵へとつながる入り口が大口を開けて、餌を待っていた。

「見つけた。気ぃ引き締めていくぞ」

 ブリンクが仕事道具の入った牛革のケースを馬車から引きずり出すと、御者台から飛び降りてレニに合図した。

 レニも馬車から石の剣を引きずり出す。

 馬車は少し離れた場所に隠すように置いた。帰りの足が無くなってしまえば、日没までに村に戻ることができなくなる。魔物の黒い体が溶け込む夕闇のなか、無傷で村に戻るのは不可能だ。子供達を失ってしまえば、元も子もない。

 既に正午を過ぎ、時間が迫っていた。

 馬であった肉塊を抱えた蝿達は、まるでふたりを誘導するかのようにして巣へと潜り込んでいった。魔物の中でも類なき飛翔能力を持つベルゼブが、わざわざ馬の速度に合わせて飛ぶというのは、どう考えてもおかしな話だ。

「陳腐なトラップだな」

 岩陰に隠れて、ブリンクが呟いた。

「トラップ?」

 レニが聞くと、

「考えてもみろ。奴らが俺たちを見つけた時、何故馬だけを襲った? 数では向こうが上だし、どちらかというと人間のほうが好物だろう」

 巣の入り口に目線を合わせたまま、ブリンクがいった。そして続ける。

「魔物も馬鹿じゃないってことだ。奴らなりに本能で分かる部分があるのさ。たかだか四匹程度じゃ、俺たちには敵わないってな」

「だから、巣に連れ込んで仲間と一緒にやってしまおうってこと?」

「おそらくな。だが……」

 ブリンクは口の端をつりあげた。

「見当違いにも程がある。あの程度の魔物じゃ、いくら束になったところで俺たちに勝てはしない」

 自信に満ちた堂々たる覇気を放ちながら、ブリンクは不敵な笑みを浮かべた。

 頼もしい相棒に勇気づけられ、レニは村の様子を思い返す。家族の嘆きを聞き、いまだ捕らわれたままの子供達を思うと、いてもたってもいられない。

「さっさとやってしまおう、ブリンク」

 すぐにでも行動に出ようと立ち上がりかけたレニの腕を、ブリンクが慌ててつかんだ。

「まあそう急ぐな。奴らは確かに敵じゃないが、それでも冷静さを欠けば怪我するぞ」

「でも早くしないと子供達が…」

 焦りがないと言えば嘘になる。昔の体験があって、レニにはとても他人事とは思えないのだ。

「急がば回れ、というだろ。熱くなるのは良いことだが、焦れば本来のお前を出すことができない。まずは落ち着いて、相手の状況を良く見るんだ」

 落ち着けと言われてすぐに落ち着けるはずもないが、レニはブリンクの言葉に従うほかなかった。

「分かったよ……」

 ブリンクの言うことがいつも正しいと知っているからだ。

 間も無くして、洞窟の奥から耳をつんざくほどの爆音が飛び出してくる。

 ベルゼブの羽音が幾重にも重なった音だ。そのすさまじさはまさに戦を前にした兵士達の鬨の声。巣へと戻っていった四匹が、大量の闇を引き連れて戻ってきた。

「何匹出てきた?」

 ケースを開きながら、ブリンクがたずねる。

「十か二十、かな。ううん、数えきれない」

「大体でいい。二十も出てきたか」

「分からない。それ以上かも」

 ベルゼブの動きを目で追うのは難しい。ましてやこれだけの数が好き勝手に縦横無尽に蠢いていれば、数えるのも馬鹿らしくなる。

 だがこの数で奇襲され、囲まれたとなると、さすがにレニでも不利な状況に陥ってしまうだろう。ブリンクの言うとおり、事前に敵を知れば対処もしやすい。

 突如として空中に生まれた黒い渦に、レニは少なからず怖気付いた。

「不安か?」

 聞かれると、小さく頷くしかない。

「心配するな。速く見えるかもしれないが、普段通りのお前なら見極められる。数も丁度良い。俺が言うんだ、間違いない。お前と俺がサウスウィンドの最後の希望なんだから、やるしかなかろう」

 ブリンクは優しく笑い、レニの肩に手を置いた。

「行け。しっかり援護してやる」

 ブリンクの瞳が力強くレニをひと押しすると、自然といつもの調子が戻る。

 レニの瞳に火が灯った。敵がどうであろうと、やらねばならない。村の平和を取り戻すのがハンターとしての使命なのだから。

 岩陰を飛び出し、剣を構える。

 空に開いた真っ黒な穴に向かって横に一閃。大きく空を切り裂くと、石の大剣から突風が発生した。ブリンクの帽子を飛ばしそうになるくらいに強力な風だ。

 ベルゼブ達も風にあおられ、動きを止めた。意に反して凶暴そうなハンターの姿に、首を傾げるものもいる。

 これが本当に獲物か、と。

「ようし! かかってこい、化け物ども!」

 いつもの魔物狩りだ。ブリンクの言う通りに落ち着いて対処すれば何の問題もない。そう自分自身に言い聞かせた。

 だが多勢に無勢だ。一瞬戸惑いはあったものの、ベルゼブ達は威勢の良い、うまそうな餌に狂ったように喜んだ。

 我慢に耐えきれなかった一匹の蝿がレニめがけて突進する。

 空中からの急降下。速度も相まって、一本の矢のような鋭さだ。

 速い……。

 速いが、ハンターが反応できない速度ではなかった。レニは斜め後ろに軽く体をそらす。突進を避けると、蝿が地面に激突した。

 レニがすかさず間抜けな蝿めがけて石の大剣を振り下ろす。軽い動きから放たれる重たい一撃がベルゼブの脳天を捉えた。

 不愉快な音とともに頭部が爆散。どす黒い血とともに内臓が辺り一面にまき散らされる。

 ベルゼブは一瞬仰け反ったあと、ぴくりとも動かなくなった。

 戦場に静寂が訪れる。

 一体何が起きているのか。ベルゼブ達が理解するには少し時間がかかった。それほどまでに、レニの強さは意外だったのだ。

 レニの剣は敵を斬るというよりも、むしろその特性から、叩きつける、潰す、殴るといった打撃的な攻撃を得意としていた。剣というよりはどちらかというと巨大な戦槌だ。

「さあ、次だ!」

 レニの瞳に炎が灯り、煌めいた。

 人々を闇の底に突き落とすような悪を、決して許してはいけない。非道の限りを尽くしてきた魔物に、文字通り正義の鉄槌を下すのだ。

 蝿達は互いを見合うと、今度は複数で襲ってきた。正面からレニと対峙するもの。隙を狙い横や後ろから攻めるもの。できる限りの頭脳を働かせ、連携のとれた攻撃を繰り出してきたつもりだろう。

 しかしどれもレニには通用しなかった。

 正面からの突進をかわし、右横からの鉤爪を紙一枚ほどで避ける。

 後ろから忍び寄ったベルゼブがレニの喉元に手を伸ばしたが、逆に掴まれてしまい、正面に引きずりだされる。

 そして、剣の鈍い輝き。

 象牙色に光る大剣の切っ先が魔物の殻をいとも容易く砕き、そのまま肉や骨を粉砕して地に突き立った。

 また一匹が方向を戻し、レニめがけて突っ込んでくる。

 今度は迎えうつ。

 剣を肩に乗せ、片手で大きく振りかぶると、魔物に直撃させて吹き飛ばした。

 ベルゼブの体が原型をとどめぬほどに歪む。即死だ。

 その後も多くの魔物が叩き潰され、殴り殺され、無理矢理体を引きちぎられた。石の剣が一瞬でも触れれば、それは死を意味する。蝿達がつぶれたトマトのように地面にその身を浸透させると、砂浜は黒一色に染められていった。

 次第に蝿達の間にも焦燥感が漂い始めたのか、複眼がぎょろぎょろと泳ぎまわっている。

 レニはもはや鬼のような存在だ。

 三匹でもダメならと、残ったうちの五体が一斉に攻撃をしかける。勝つには相応の数で攻めるしかないと踏んだのだろう。

 かろうじてそれらを避けたレニ。

 そこへ、新たな一匹が隙を見て爪を光らせる。

 これは――かわせない。

 剣を盾に向かえうつしか……。いや、判断する余裕すら与えられなかった。

 敵の爪がレニの腕を切り落とさんとした瞬間。平手を打ったような乾いた音が、清々しいほどに響き渡った。

 レニに向かって直進していたはずのベルゼブが、急に真横へと吹き飛ばされる。地面に放り出された体は、数回転がってそのまま動かなくなった。

 岩陰から、硝煙が立ち上っている。そこには銃口をこちらに向けているブリンクがいた。

 援護射撃だ。

 ブリンクがケースから取り出した武器は三丁の銃だった。いま構えている長銃のほかに、リボルバーと呼ばれる拳銃二丁を腰のホルダーに下げている。

 ただでさえ絶望的なこのタイミングに、新たな援軍によってベルゼブ達は窮地に追いやられた。どうしていいのかうろたえている間にも、ブリンクの弾が一匹、二匹と敵を的確に討ち取っていく。

 ブリンクは敵の素早い動きに惑わされることなく、甲殻の隙間や目玉、ありとあらゆる柔軟な部位や体内につながる穴を見つけては、その非常に小さな標的に鉛玉を撃ち込んでいった。

 黒光りする鎧の中身は意外にも繊細で軟弱なのである。撃ち込まれた弾丸が魔物の臓物を破壊すると、体の内側で硬い殻に跳ね返されて体内を破壊してまわるのだった。

 これが<ゴラドーン帝国の死神>とまで呼ばれたブリンクの実力である。

 それからものの五分の間で黒い死体の山が出来上がった。陽光を遮るほどいた蝿の数も激減し、暗雲もどこか遠い空だ。

 残った数匹が洞窟へ逃げ込もうとしたが、それも叶わない。後ろを見せたが最後、落雷のような一撃と、死の鉛玉がベルゼブ達の命を奪う。無論、情けなどない。

 ベルゼブ達は身を持って知ることとなった。ハンターという天敵の存在を。だが知ったが最後、既にその命は地上にはない。

「そろそろ中に入ろう。子供達が心配だ」

 愛銃に弾を込めながらブリンクは洞窟の入り口へと向かう。レニも頷くのと同時に駆け出していた。




 -Ⅱ-


 洞窟の入り口に飛び込むと、むっとする海の湿気がふたりを歓迎した。内部は外観で見るそれよりもさらに広く感じる。天井ははるか空を見上げるかのように高く、いたるところに大きな白い卵が貼りついていて、不気味に蠢いている。

 壁や天井には青い鉱石が夜空に浮かぶ星のように光り輝いていて、ふたりの行くべき道を照らしだしていた。天井の隙間から差し込む太陽の光も幾分か手助けしてくれている。

 ふたりは一時の時間も無駄にしないよう全速力で駆けぬけた。たいした分かれ道も無いのが幸いで、最下層へと続く道をただひたすら潜るように降りていく。

 邪魔する者は叩き斬られ、撃ち抜かれて、壁や地面の染みと化した。

 奥へと進むたびに、あたりの空気が変わっていくのが分かる。

 レニの体からは、蒸し暑さだけが原因ではない、何故か冷えるような汗が大量に吹き出していた。それは心に積もりゆく不安と同じように、拭っても拭っても拭いきれない。

 いやな予感がする。

「聞こえるか?」

 急に立ち止まったブリンクが、人差し指を口に当てながら聞いた。

 耳をすませば、微かに聞こえてくる……、子供達のすすり泣く声だ。

「まだ生きてる! 早く助けよう!」

「待て、レニ!」

 勢いよく飛び出したレニの腕を、ブリンクは捕まえきれなかった。

 レニの心に一筋の光が見えた。暗い洞窟の中で輝く唯一の希望だ。彼らが生きていて無事ならば、村長や村人達の願いを叶え、村を元通りにすることができる。

 だが、気になる音がもうひとつ。レニには分からなかったようだが、ブリンクには聞こえていた。

 ふたりは最後の部屋に飛び込んだ。最奥の広間は天の光も届かぬ半球状の部屋で、鉱石の明かりを借りても、隅々の深い闇までは照らしだせずにいる。

 六人の子供達は、その中心で身を寄せ合って座りこんでいた。皆十歳前後であろうか。

 一週間も得体の知れない化け物と一緒に居たせいで、その顔は恐怖に引きつったままで、流れた涙の後が幾重にも重なって見える。やせ細り、小刻みに震える体はとても見ていられるものでは無かった。

「みんな、無事か! 助けに来たぞ!」

 一秒でも早く子供達を安心させたいレニは、いてもたってもいられなくなって中央に駆け寄った。

 しかしどこか焦点の合わない子供達の瞳は、救世主の姿をうつすことのないまま宙を彷徨っている。

「正気か!」

 レニを制止することができなかったブリンクが滑り込むように近寄ると、静かな声で怒鳴った。

「……え?」

「敵がどこに潜んでいるのか分からんだろ。周りをよく見てみろ」

 言われた通り、レニは自分のまわりを見回す。そして、吐き気を催した。

 子供たちの足元には無数の肉片と骨が転がっていて、腐敗臭を漂わせている。それも動物だけではない、中には人間の頭がい骨のようなものも混ざっていた。

「食堂だ」

 固まってしまったレニに、ブリンクが声を潜めて言った。

 その先を言う必要はない。子供達は、毎日のように生き物が貪られていく生き地獄を見せられてきたのだ。そんなものが一週間も続けば、正常でいられるはずがない。

 子供達はいま精神を病んでいる。

 それまで正義漢然としていたレニの心が乱れはじめたのは、このときからだった。

 何故だか息苦しさを感じて、ぎゅっと胸のあたりを掴んだ。呼吸が荒くなっている。

 奥に広がる闇。その闇を前に縮こまる子供。

 レニには覚えがあった。

 魔物の巣にひとり取り残された十五年前のあの日と同じだ。ブリンクが助けに来てくれるまでに抱いた得も言われぬ恐怖…。いまになってその時の記憶がレニの心をかき乱しはじめた。

「気をつけろ。敵の親玉がいてもおかしくない」

 長銃を構えたまま、ブリンクは警戒した。レニの異変には気付いていない。

 握りしめたレニの拳が手汗を帯び、わなわなと震え出したその時。ふと、不快な息使いがレニの耳をつついた。光の届かない漆黒に染められた空間の中からだ。

 真っ黒な壁に、赤く鋭い光がふたつ浮かび上がる。それはレニのいつの日かの記憶と重なった。

 漆黒の翼をまとった巨大な黒い影に、恐怖を無数の矢のようにまき散らす鋭い眼光。奥底に眠っていた断片的な記憶が、ぼんやりと蘇る。それらがなんだったのかまでは、やはり思い出せない。それでも、その時に感じたであろう様々な感情が、レニの身体の奥底から湧き出てきた。

「どうした、大丈夫か」

 相棒の異変にようやく気付いたブリンクは、突然のことに目を丸くした。見ればレニは瞬きすら忘れて、部屋のどこかを見つめている。こんなことは初めてだ。

 そんなふたりに構うことなく、敵は姿を現した。

 次第に露わになるその姿は、今までのベルゼブ達とは比べ物にならないほどの巨体だった。三、四倍は大きい。幾百、幾千もの生命を食欲のままに貪りつくしたその体ははち切れんばかりに膨れ上がり、伸びきった皮膚の下では内臓や血管の類が呼吸をする度に見え隠れしている。

 魔物の母、マザーだ。

 マザーの役目は栄養を豊富に取り入れ、無数の卵を産み、種の存続と繁栄を維持させることだ。そういう意味では荒々しく噴き出る鼻息も、自分の子供達を殺されたがゆえの恨みがこもっているのかもしれない。

 怒りに震えつつも、マザーは王座にふてぶてしく鎮座したまま微動だにしない。おそらく、できないのだろう。太りすぎた体が重荷となり、動くことは容易でないはずだ。

 マザーが現れると、レニの動揺は顕著に出るようになった。

 体は震えていても、剣を握る力は強い。レニがなかば発狂したようにマザーに向かって突撃をかけたのは、敵が姿を現してすぐだった。

「早まるな、レニ! 戻ってこい!」

 レニはブリンクの制止を振り払い、奇声をあげながらがむしゃらに突っ込んだ。

 このとき、レニの意識は五歳のころのあの日へと戻っていた。もはや回りの声など聞こえるはずもない。

 マザーまであと数歩のところで彼を止めたのは別の者だった。

 異臭を乗せ、絡み付くようだった空気が突如突風のようにレニの体をかすめていった。

 何かが来る。

 マザーの背後から、二匹のベルゼブが青と黒の空間を切り裂きながら飛び出してきた。レニの両脇を通り過ぎると、赤い複眼の残像を残していく。まるで稲妻のような速さだ。

 遅れて、レニは両腕に痛みを感じた。見ると腕に二本の赤い線が入り、血が滴り落ちている。幸いなことに、この痛みが彼を現実へと引き戻した。

 二匹のベルゼブはいままでのものとは比べものにならないほど敏捷で、動きに一切の無駄がなかった。

「馬鹿野郎!」

 レニの背後から、ブリンクは罵声を浴びせた。

「すぐ下がれ、レニ! 近衛兵(マザーガード)だ!」

近衛兵(マザーガード)……?」

 マザーの両側に浮かぶ二匹のベルゼブを、レニは睨みつけた。見た目は他のものと違いはない。だがその二匹が帯びる気迫は、只者ではないことを自ら物語っていた。

 マザーはベルゼブ達にとって兵力を増産する、誰も変わることのできない(かなめ)的存在である。ともなれば、周りにはそれを守護する騎士、つまり近衛兵が必要だ。そして強くなければならない。彼らはベルゼブの中でも選び抜かれた最強の個体なのだ。

 雰囲気で分かる、たしかに強敵なのだろう。ゆえにレニは下がれと言われても下がることができなかった。必ず来る追い打ちが怖い。

 レニは振り返って相棒を見た。

 手には二丁の拳銃。レニの傷が浅かったのはブリンクの素早い援護のおかげだ。的確に放たれた銃弾を避けたが為に、ベルゼブはレニを仕留められなかった。

 もしブリンクが居なかったら、失うものは腕の一本どころではない。心臓を一突きされていたに違いない。そう思うと身の毛がよだつ思いだった。

 レニの気持ちは少し後ずさりしたが、それでもハンターとしての心意気は取り戻しつつある。

 マザーは見たところただの木偶の坊だ。ともすれば、近衛兵を倒すことができれば、ほぼほぼ任務は完了だろう。

 やるしかない。

 心を決めたレニはブリンクの指示とは逆に、前進した。気迫を乗せた剣を、近衛兵の一匹に向かって振り下ろす。

 縦に一閃。凄まじい速度の乗った、完璧な斬撃だ。だが…。

 剣先は魔物に触れることなく、勢いあまって地面にむなしく突き刺さった。

「な、なんで…?」

 レニはありえないとばかりに目を白黒させる。

 石の剣以上に、敵の動きも軽やかだ。いくら剣を振り回したところで(かす)るような気配すらない。

 近衛兵はレニを見下すかのように天上近くを飛び回っている。未熟なハンターはやがて目で追うのも難しい複雑な動きに、ただただ翻弄され始めた。

 遠くで銃声が鳴る。

 ブリンクが子供達を守りながら、もう一匹のベルゼブと戦闘を始めたのだ。

 時間の経過とともに次第に焦りが募る。焦りが恐れへと変化していくのをレニは感じていた。いままでに味わったことのない恐怖が、足を地面に縫い付ける。

 どうすれば良い……。心のどこかに眠るトラウマが起こした負の連鎖を、レニは払拭しきれずにいた。

 あれこれ考えているうちに、ベルゼブが風と一体になって体当たりを試みた。

 目にも止まらぬような速度で、いまのレニが避けられるはずもない。加速分の重量を乗せた黒い甲殻がレニの顔面を強打する。

「……くっ!」

 レニの体が宙を舞って仰向けのまま地面に叩きつけられた。一瞬意識が飛びそうだったがなんとかとどまる。

 激突する瞬間に上体を逸らして衝撃を軽くはできたが、それでも直撃は直撃だ。顔が真っ二つに割れたのではないかと思うほどの激痛がレニの身体を駆け巡る。このとき、レニはたまらず剣を落としてしまった。

 大剣は鈍い音とともに柔らかい地面に突き立つ。

 早く立ち上がらなければ、やられてしまう。痛む顔を覆いながら、レニは力なく立ち上がった。

 しかし、敵のほうが早い。ベルゼブがレニの身体に覆いかぶさる。

「こいつ!」

 レニはベルゼブの勢いを両手で制止する。

 ベルゼブの興奮の吐息と、レニの荒くなった呼吸が重なった。鼻を突き刺すような異臭に耐え、両手を刺激する甲殻の棘の痛みにも耐えた。耐えねばベルゼブの牙に頭をもがれてしまう。

 討ち取ったぞと言わんばかりにニヤついた赤い眼差しが、レニをくぎ付けにした。

 レニの激しい抵抗にあいながらも、ベルゼブはレニの首を食いちぎろうと必死に牙を鳴らす。

 次第にレニの腕の力も抜けていく。いくら力んでみたところで、魔物と人間の力の差など明らかなものだった。石の大剣を振り回す能力はあるが、馬を素手で引き裂くほどの怪力はもちろん無い。

 ギジジジジ…。

 覆いかぶさった虫の節々の軋みが、レニの耳に潜り込み、脳へと畏怖の念を伝達する。レニはいま、己の運命をがちがちに縛り付けられたかのようだった。

 このままでは、喰われてしまう。

 この極限の状態で思い出したのは、自らの夢だった。自分でも驚くほどに冷静さを取り戻す。

 ブリンクに夢を話したのは、それを現実にする為の第一歩だったはずだ。そのためには生きねば。

 こんなじめついた巣の中で、こんな虫の餌食になって一生を終えるなど、死んでも死にきれない。

 レニは閉じかけた目を大きく見開いた。弱々しかった腕に最後の力を託すと、手を伸ばして蝿の顔を強く掴む。

「この蝿野郎! お前なんかに殺されてたまるか!」

 レニはベルゼブの身体を少しだけ引き剥がすことに成功した。

 それでも、これが精一杯だ。抵抗もむなしく、その一瞬をついてベルゼブが鎌のような腕をもたげた。

 鋭いベルゼブの腕はレニの額めがけて振り下ろされ、若く雄々しい顔を貫く。

 ……はずだった。

 死を覚悟したレニは、目の前でベルゼブの巨体が大きく揺れ、目からほとばしっていた赤い命の灯火が消える瞬間を見た。手にかかる圧力がふわりと抜けて落ちていく。

 レニは残った力で黒い魔物を横に転がした。

 ベルゼブの胴体には銃で撃ち貫かれた焦げ跡。

 全身を縛っていた緊張が解かれても、レニはすぐには動けなかった。いやな汗がどっと溢れ出る。死を間近にしたことと、力だけでは及ばない相手が居た事実は、自信家であったレニにかなりのショックをもたらした。

 それに突如として湧き出た過去のかけら……。自分の身に何が起こっているのか、レニには理解できなかった。

 しばらくして力なく起き上がると、目の前には険しい表情のブリンクが立っていた。

 子供達の近くにはもう一匹の近衛兵が死を迎えていて、二度と動かぬ屍と成り果てている。

 ブリンクが珍しく呼吸を荒くしていた。敵にてこずったわけではない。近衛兵がレニに覆いかぶさっていたのを見た時、大事な息子を失うのではないかという思いが一瞬でもよぎってしまったからだ。

 無言のブリンクはしばらくレニを見つめた後、六人の子供達へと視線を移した。

 レニも後を追う。皆、無事だ。

 それから、ブリンクは無言のまま高い空目がけて長銃を二回撃ち放った。

 二発の弾丸が、闇を切り裂く。

 迷いの無いまっすぐな銃弾は、マザーの憎たらしい顔面にめりこんだ。

 黒い鮮血が大量に飛び散る。

 マザーが強烈な痛みに叫びをあげるより早く、弾は脳を貫いた。何度も大きく体を痙攣させたあと、マザーの巨体は岩壁の一部を削りながら倒れこんだ。

 これで二度と動くことはない。今後、サウスウィンドの尊い生命が飲み込まれることも無くなるだろう。

「帰るぞ」

 ブリンクは子供達を先導すると、軽くレニに声をかけるだけで広間を出て行ってしまった。その言葉は氷の如き冷たさを含んでいる。

 レニも剣を地面から引き抜くと、後を追った。その足取りは重い。

 そして、何故か剣もいつもより重たく感じた。

 死を免れた安堵感は一切なく、ただ彼はブリンクの背中に追いつくのが怖かった。


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