42. 崩壊の序章
-Ⅰ-
ブレイズの脳が危険を察知したのと、マグナの中で彼が「逃げろ!」と声を発したのはほぼ同時だった。
見慣れない騎士風の男が手を差し伸べた時、ブレイズの心は一瞬にして総毛立った。誰だなどと頭で考えるよりももっと速く、人間本来の本能や直感がそうさせたのだろう。気づいた時には思い切り叫んでいた。
同じような身の危険をマグナも感じたのだと思う。一瞬のためらいこそあったが、ブレイズの声に驚いて立ち上がるとすぐに男から離れ、走り出した。
幸いにも追ってくる様子はない。しかし、それはそれでまた不気味だ。
『どこへでも良い、とにかく奴から離れろ!』
「う、うん」
鈍い光を放つ鎧を着ていたあの男。戦場に凛と立つ騎士団員の姿をしていながら、彼らが持つべき潔白さがまるで無かった。感じたのは今までに味わったことの無い黒く淀んだ闇だけ。
あの不良達の薄汚れた悪意などはまだ生易しい。あの男の持つ雰囲気は、人の生気を吸い尽くしてしまうかのような形容しがたい狂気に満ち溢れていた。
決して奴に捕まってはいけない。ブレイズの頭はそれだけをはっきりと警告している。
「あの人、さっき助けてくれた人たちに、似てるけど……! でも、全然違う!」
マグナが走りながら、息も絶え絶えに言う。
「それにあの目、ぐちゃぐちゃだった……!」
必死にくいしばる歯がガタガタと揺れていた。マグナにとって男との遭遇が未知の恐怖だったのも無理はない。
確かにブレイズも奴の気味の悪い目を見た。敵対する者のどんな厳しい目も様々に受け止めてきたつもりだが、あんなものは初めてだ。
あの目は、人間の持つ目ではない。
男の瞳孔は異様なほどに見開いていて、その黒の中には得体の知れない『何か』がうようよと蠢いていた。まるで深淵の海を泳ぐ魚を瞳の中に飼っているかのように。
長い時を生きてきて一度も信じたことなどなかったが、この世に妖魔の類が存在しているのだとすればきっとそれは奴のことを言うのだろう。人の姿をしていながらも、そうではない。動物でもなければ、ましてやゴラドーン人の言う魔物でもない。
背筋の凍る思いを抱きながらも、できるだけ人目の多い場所へ出ようとした。
その時だった。
角を曲がれば大通りに出られるまさにその場所から、あの男が再び現れたのだ。
「どこへ行くんだい? 二十七番」
口元には余裕の笑み。そして、見る者を恐怖の渦に引き込むかのようなあの狂った眼光。
この男、いつどうやって回り込んだんだ!
『マグナ、別の道だ!』
男の不可解な出現に驚愕はしたが、いまはそんなことを考えるよりもとにかくマグナを走らせた。
目の前の道がダメなら別のルートを選択するくらい、マグナには造作もないこと。路上で生活を続けてきた彼は街の構造を熟知している。蜘蛛の巣のように複雑に入り組んだ中心地の道でさえ、我が家の廊下を歩くように駆け抜けられるはず。
なのに、何故だ……!
ブレイズは、目に飛び込んでくる光景を信じられなかった。
「困ったなぁ。追いかけっこはあんまり得意じゃないんだけど……」
到底先回りなどできるはずのない正面の角から、男の苦笑混じりの呻きが漏れ出てきたのだ。
『マグナ!』
「う、うん!」
突き進む体にブレーキをかけさせる。
ぐるりと滑るように方向転換したマグナは、それからあらゆるルートを選んで表の道に出ようと試みたが、男から逃れることは容易ではなかった。
いかなる道にも男の姿があったのだ。その度に覗く男の微笑顔にはおぞましい何かを感じさせられる。
「はぁ……はぁ……。だ、ダメ! もう、これ以上は、走れないよ……!」
永遠に続くようなイタチごっこに、さすがのマグナも体力に限界が来てしまった。
『まだ諦めるな!』
ブレイズはマグナの内側で必死に彼を鼓舞した。自らの肉体があれば、戦う選択肢もあっただろう。だがそうではない以上、マグナが生きるためにはとにかく走り続けてもらわなければならない。
……こんなところで彼が朽ちれば、復讐など儚い夢となって散ってしまう。
そんなブレイズの気持ちを知らぬとはいえ、しかしながらマグナの体はついていけなかった。なんともないはずのちょっとした道の起伏に足を取られ、転倒してしまったのだ。
そこにあの男がゆっくりと歩み寄ってくる。
「うん。バッチリ時間通りだね。お利口さんだ」
男は懐から懐中時計を出して針を眺めると、軽快に指を鳴らした。
「君の中のお友達は元気かい?」
しゃがみこんでマグナの顔を覗き込むと、男が言う。
この男、何故それを……!
ブレイズとマグナが体の中で目を見合わせた。
「な、なんでそんなこと……」
マグナの口がつい漏らしてしまう。
男がまたにやりと笑った。
『マグナ、こいつとは口を聞くな! 貴様、この子から離れろ!』
聞こえるはずのない叫びでブレイズは必死に抵抗を試みた。そうすることしか、彼には出来なかった。
「そうかそうか。うんうん。順調なようだね」
そんな気も知らず、ひとり勝手に何かに納得したような男は先ほどと同じようにして手を差し伸べてきた。
マグナはもちろん、その手を取ることなく自力で立ち上がる。既に逃げる気力も体力も失せた彼は肩で息をし、目を薄ら開けるのがやっとだった。
「さあ、お仕事の時間だ」
そんなマグナを見て、男はにこりと不気味に微笑む。
膝に手を当ててゆっくりと立ち上がった男は、腰につけていた茶色の包みをマグナに向けて放り投げた。
「え……」
咄嗟のことに包みを両手で受け取ってしまったマグナは、一瞬動けなかった。
「こ、これって?」
包みに落としていた視線を上げた時には、もう男は後ろを向いて大通りへと歩みを進めていた。男のマントがたなびくと、直後に風を感じる。
あっさりとしたものだった。あれだけ執拗に追いかけ回されたというのに、用はこの包みひとつ?
残された包みをぼんやりと眺めるマグナは恐怖から解放され、少なからず安堵を感じているようで、次には男の真意と包みの中身に興味を示したようだった。
ブレイズも、マグナと自らの関係を知るであろう男の素性は気にならないではない。
「ブ、ブレイズ。とりあえず、大丈夫なのかな?」
『……どうやらそうみたいだが』
「これ、なんだろう?」
マグナに言われ、関心が騎士風の男から包みに移った時、ブレイズは血の気がさっと引いた。
捕まってはいけない、というブレイズの直感は当たっていたのだ。包みの内側からじわりじわりと、しかし確実に膨れていくエネルギー。
マグナの目を通して一目見て分かった。そこに何が包まれているのかを。
『すぐにそいつを捨てろ!』
何故なら、彼は戦場でそれを幾度となく見てきたからだ。
『中身は爆――』
眩く光りだした包みがブレイズの声を途切れさせると、燃え上がる炎が二人の視界を真っ赤に塗り潰した。
-Ⅱ-
ブリンクら一行がホワイトとの話を終えてリーグ・オブ・ハンターズの本部を出た時、既に空は暗く泣き始めていた。
「雨か。すぐにひどくなりそうだな」
いかな結末であったとしても、ホワイトとの激戦を切り抜けることのできたブリンクにとっては、憂鬱な梅雨の始まりもまた祝福の雨だ。
世間がどんよりしていても、彼の心はすっきり晴れ晴れとしている。
「どの道、夜も近いし今日の出発は無理かぁ」
ミューネを自国に送り届けるという終局を前にした足踏みに、僅かな苛立ちを隠せないレニだったが、当のミューネはふたりの励ましを受けたせいかそこまで気落ちはしていない様子だった。
彼女の不安が少しでも拭えたのなら、これまでの苦労も無駄にはならない。きっと彼女の国にいる優秀な戦士の存在とやらも、心を落ちつける要因になっているのだろうか。
「最後まで、お世話になります」
深めに被りなおしたフードの中から、少女の優しい笑顔が覗いた。律儀にお辞儀をしたが、そこに以前感じていたような警戒心や焦り、悲しみはない。
「王女様にうちの汚れたベッドは合わないかも知れないが、個室も用意できるから安心して使ってくれ」
自然と冗談が口を衝いて出たほどだ。少し遅れた青年期の始まりを迎えたレニを小突くと、ミューネが口に手を当てて笑う。
互いのわだかまりもいつの間にか、完璧ではないにしろほとんど解消されていた。
「よし、じゃあ早く帰って明日に備えよう!」
若さ故か気持ちの切り替えに素直なレニが、ポツポツと滴る雨などもう忘れて笑みを浮かべた。
調子の良いやつだ。
ブリンクは呆れながらも、実は我が子に感謝していた。ミューネとの禁断の出会いにどうしたものかと随分神経をすり減らしたが、いまもどうにか人として前を向けている。
レニがいなければ、間違いなく人間としての道を踏み外していたことだろう。
これからも父親らしく生きられるのだ。感謝せねば、バチが当たる。
それから三人はアイアンウォールの大通りを避けながら、隠れるようにして家路についた。
「ブリンク、ありがとう」
道の途中、それは唐突な息子の言葉だった。
「ん?」
「俺ひとりじゃどうにもできなかった」
レニは流れていく地面に視線を落としている。
「なんだ、いまさら。いつものことだろう」
こうして感謝されるのも、元はと言えばレニ本人のおかげだというのに。レニはそんなことを気にするでもない。
「そうじゃないんだ。なんて言えばいいんだろう」レニはかぶりを振る。「ブリンクがブリンクで良かった、って話」
「なんだ、それ」
ブリンクは立ち止まり、きょとんとした。
そこでどう伝えるべきか唸るレニだったが、「はは、何でもない!」と、ついには笑って真実を濁してしまった。
ひとりスキップするように前に進んでいったレニの背中を見つめて、ブリンクは心の中で小さく呟く。
俺もお前が息子で良かったよ。
ブリンクは喉まで上がってきていたその言葉を、ゆっくりと静かに飲み込んだ。
刹那、垂れ落ちる小雨が途切れ、時間が止まったように思えた。
這い寄るようにして三人を包みこむ、生温いじめついた空気。
感じる、こちらに向けられた悪意に満ちた眼差し。
民家を支える石のアーチの下、ひとりの大男が彼らを待ち構えていた。
「よう、英雄殿」
体を震えさせる低音の声が人の疎らな小道に響き、三人の歩みを地に縛り付ける。
「ハルベルト……」
ブリンクは息を飲んだ。
目の前に立ちはだかる相手は、いままさに一番会うべきではない男だった。
こんな時に……。
「ゴラドーン帝国の大将様が、何の用だ」
できるだけ平然を装いながら言ったものの、ひしひしと伝わる危機感をどこかで感じられずにはいられなかった。
戦狂いのこの男から殺意を向けられることなど、いまに始まったことではない。だがこの日のハルベルトの様子はいつもと何かが違っていた。
帝都の中で、こいつは何故戦闘用の胸当てを身につけているのか。
そして、ハルベルトが握っている人間の歯を模した悪趣味な戦斧。武器に目などあるはずもないが、ブリンクは何か嫌な視線を感じていた。それはまるで、獲物に狙いを定めるかのような……。
「ひとつ、お前に聞きたいことがあってな」ハルベルトは戦斧を両手に持ち直し、不敵な笑みを浮かべる。「ずっと聞きたかったことだ」
「……」
ブリンクの両手が、自然と短銃<カストル>と<ポルックス>を収めた腰のホルスターに重なる。横目にレニとミューネの不安げな顔が映った。
「俺ではなく、何故お前が英雄なんだ」
静かに唸った大男の声は、荒く吹いた風に乗ってブリンクの耳を貫いていく。
ハルベルトの顔からは下衆な笑みが消え、代わりに長らく忘れかけていた戦場で見せる戦神の険しい形相が張り付いていた。




