4. 夢
-Ⅰ-
村長の話によれば、ベルゼブの群れはいつも村の西から飛んできて、おなじく西の方角へと飛び去るのだという。
正確な巣の位置までは分からないが、またとないご馳走がふたりも歩いているのである。動物並みの頭脳しかない魔物のことだ、何の疑いも持たずに自ら姿を現してくれるに違いない。
後はハンターとしての勘というやつを頼りにするのが、いつものふたりの定石である。これが意外とあたるのだ。
ありがたいことに、村から馬車の箱を拝借できた。乗ってきた馬二頭に引かせて巣を探すこと約三十分。
レニが馬車の窓を開け放つと、湿気を帯びた生暖かい風が滑り込んできた。
ふたりはいま、ゴラドーン大陸南西の海岸沿いを走っている。
海岸の先に広がる孔雀石のような緑色の海が、見る者の視界を埋め尽くす。お世辞にも綺麗だとは言い難い色ではあるものの、太陽の光が反射すると海はエメラルドのように煌めく宝石の海へと変化した。
「これが海かぁ……」
ときおり吹く潮風もレニの冒険心をくすぐっていく。これがレニと海との感動的な初対面であった。
大海の反対側には、水彩画のようにぼんやりと描かれた大陸を遠望できる。その上に立つ小さな三角形は山なのか、それとも建物なのか。世界に興味のあるレニは心の弾みを抑えられずにいた。
向こう側にはどんな国が繁栄を続け、どんな人々が生活をしているのか。大陸を羨望の眼差しで見つめるレニからは、無垢な子供の輝きがはじけている。
「ブリンク」
レニは何か思いついたかのように、軽い身のこなしで窓から飛び出すと馬の手綱を取るカウボーイの隣に座った。
「なんだ」
ブリンクは馬車の進行方向を向いたまま、生返事をした。
「あの海の向こうがプロト大陸?」
「ああ、そうだ」
プロト大陸では、別の人種が王国を築き上げている。この<プロト王国>はジオに存在する三ヵ国のうちのひとつであり、ゴラドーンが敵対する国のひとつでもある。
「プロトの人達もさ、魔物に困ってるのかな」
「どうした、急に」
レニは俯いたまま、何事かを考えているのか、返事をしない。
ブリンクは握っていた手綱を緩めると、レニに顔を向けた。
「戦争でプロトの地を踏んだ時には、確かにいた。だがそこまで数が多かったわけじゃないし、人間に牙をむくこともなかった。なんせ人間同士で派手にドンパチやってたわけだから、本当の虫のように怯えて隠れてたんじゃないか」
魔物の動きが活発化したのは、休戦直後だ。人間が静かになると、魔物達は急に凶暴化した。戦争が終わったというのに、皮肉な話である。
「もしサウスウィンドのような町が、ゴラドーンだけじゃなくて海の向こうにもいくつかあるってことならさ、お互い手を取り合って魔物の駆除に乗り出せれば、人の不幸をたくさん減らせるんじゃないかな」
レニはもっともらしいことを言う。
そうできれば、確かにどれだけの人を救うことができるだろうか。ブリンクは考えてみたが、苦い表情を隠せないでいた。
「そうは言うがな……、正直なところ無理だろう。長い、長い戦争の歴史がある。お前が知っている以上に溝は深いんだ」
手綱を握る手に力を入れると、少しばかり声が震えた。
そんなブリンクの様子を見て、レニはかける言葉を失う。
「俺は戦争で誰かの父親や息子を何人も撃ってきた。やつらから見れば、俺達こそが本物の魔物だったに違いないさ。そんな相手といまさら仲良くできると思うか?」
ブリンクの言葉が鉛のようにずしりと重たくのしかかる。
「やっぱり理想だけじゃ、甘すぎるのかな」
そう言われて、「しまった」と思ったブリンクは慌ててフォローした。
「まぁ現実ばかり見てても、頭が痛くなるだけだからな。少しは理想や希望もないと、それこそ人間らしくない」
フォローが効いたのか、レニは優しい笑みをつくると、話を続けた。
「ねぇ。俺の夢、聞いてくれよ」
「夢?」
ブリンクは突拍子もない言葉に不意を突かれた。
レニの顔はいたって真剣だ。
「こんな時にか」
「こんな時だからだよ。さっきの村人達を見てたらさ、幸せが崩れるのは一瞬なんだな、って思っちゃってね」
依頼者の中でも、あれほどまでの痛苦を抱えた人間を見たことが無かった。それに感化されたのか、レニは人を失うということに関して少し敏感になっている。
ブリンクの返事は待たず、続けた。
「それは俺もブリンクも同じことだろ? だからそうなる前に、ブリンクにはもっと俺のこと知っててほしくてさ」
繊細な心の青年は、神妙な面持ちのまま手元を見つめた。
「そうならないように努力しろ」
百戦錬磨のブリンクでも、覚悟のいる話がある。
ハンターという職業は常に死と隣り合わせで、二人は同業者の死にいくつも遭遇してきた。知人が依頼を受けて勢いよく飛び出したかと思うと、物言わぬ死体となって帰ってくるのだ。
それは、このふたりにも言えることである。お互いどちらかがいなくなる可能性もあるのだと、心のどこかでは知っている。
「俺は、お前にハンターを辞めてほしいよ」
それもあってか、ブリンクはレニに普通の生活を送ってほしいと願ってやまない。
他の子供達と同じように学を身につけ、友達と遊び、いずれ愛するべき者に出会い結婚して、人並の家庭を築く。軍に入隊したり、ハンターになるのではなく、ごく一般的な生活を送ることが彼の思う最高の人生だった。
元軍人であり、現ハンターである彼だからこそ、大事な息子に望む未来でもある。
せっかく訪れた平和なのに、わざわざ危地に飛び込む必要などないではないか……。
「いいって。もう聞き飽きたよ」
やれやれとレニは肩をすくめてみせた。これもいつも通りの会話で、何度繰り返したことか覚えてもいない。
「だけどさ、俺はずっとブリンクのこと待ってたんだ。一週間も一か月も。待つ身にもなってみてよ。そんな毎日に疲れたから、俺はブリンクと一緒に仕事がしたいって言ったんだ」
まだレニが十歳にも満たぬ頃、仕事に出かけたブリンクをただひたすら待つことに、とてつもない苦痛を感じていた。
すぐに戻ると言われたところで、それが一週間や、一か月なんかになると、いよいよ死亡通知が送り届けられるのではないかと、レニは幼いなりにも最悪の事態も考えるようになっていた。
「……」
ブリンクは目線を合わせたまま、黙るしかなかった。
まったく、痛いところをついてくる。
もちろん仕事はレニが不自由ない暮らしをおくるためのことであったが、育児放棄だと言われればそれまでの話だ。
ブリンクのいない間、家のドアがノックされる度に、レニの小さな心臓は跳ね上がり、家中に響くかと思うほどに鼓動した。孤独を噛みしめながら、得体の知れぬ恐怖に囲まれて生活してきたのだ。
だからレニはブリンクの気持ちを分かっていながらも、あえてハンターになるのだとしつこく哀願した。そうすればもっと多くの時間を共有できるからだ。
なにより、ブリンクの姿を見て育ったレニは彼の生き方を尊敬し、憧れていた。彼のように世界を魔物の手から救いたいという気持ちが、日に日に強く成長していくのを自分でも感じていたのだ。
ブリンクが愛するものを守るべくして戦っているのと同じように、レニもまた愛する父を守りたいと思っていた。
「ほんとに、お前は頑固だからなぁ……。一体誰に似たんだか」
ブリンクが意地悪そうに悪態をついてみせると、
「ブリンクしかいないでしょ」
レニはすかさず反論した。
そうして互いの主張がぶつかり合う日々がしばし続いたのだが、最終的にはブリンクが根負けした形で終息を迎えた。一緒にいたいと願うレニの悲痛な気持ちを聞かされ、涙まで流されればブリンクも折れる他なかった。
何はともあれ、いついかなる時でも必ずブリンクと共に行動するという条件のもと、レニは晴れてリーグ・オブ・ハンターズの一員として迎え入れられたのである。
「それでさ、俺の夢ってのはさ……」
レニは少し照れくさそうに言って、顔を赤らめた。
「なんだ、もったいぶらずに言え」
そして、レニはブリンクに向き直ると、まっすぐな視線を向ける。
「俺、ブリンクと色んな国を旅してみたいんだ」
「はぁ?」
なんともスケールの大きな夢で、ブリンクは思わず情けない声を出してしまった。
もちろんレニは本気だ。
夢とは言いつつも、レニにとっては将来達成すべき目標として長い間心の内に秘めていたものだ。サウスウィンドでの出来事と、海を見たことで、ブリンクに話す決心がついた。
「国ってなんだ。外の大陸ってことか?」
「そう、この海の向こうだよ。プロト王国も、白銀の地も」
「何言ってんだ、レニ。停戦協定、覚えてるか?」
あまりにも真面目ぶったレニの顔に、ブリンクは苦笑するしかなかった。
ゴラドーン、プロト、それから人狼とも呼ばれているウルブロン族が住む<白銀の地>。ジオに存在する、この三種族の間では常に戦争が絶えなかった。それがいつから始まったのか、何が要因だったのかは歴史を紐解いても実はよく分かっていない。
お互いに何故争っているのかを忘れるくらい、惰性で続けてきた戦争に終止符が打たれたのが十五年前。どの国も終わりのない争いを続けることに疲弊し、最終的には停戦協定を結ぶという形で終戦と相成った。
もちろんそれで根本的な何かが解決したわけではなかったが、兵士や国民達は突然の休息に戸惑いながらも心の中では訪れた平和に感謝した。
そして、協定にはもちろん条件がある。
極めてシンプルなものだが、レニの夢には大きな壁となるものだ。
国同士、互いに接触を図るべからず。各々の土地に踏み入るべからず。他にもさまざまな詳細があるが、大きくはこの二つだ。
つまり不干渉という決まりがある以上、レニの夢は到底かなうものではなかった。
「当たり前だろ、覚えてるよ」
「なら、無理だってのも分かるだろ」
「無理でも、夢持つくらいならいいだろ! 俺も見てみたいんだ。ブリンクが言う、プロト王国の純白の宮殿とか、ウルブロン族が住む銀世界」
なかばムキになりながらも、レニは目を輝かせて夢を語った。
なんと言っても、他国のどこが素晴らしいのかをこんこんと教えてくれたのはブリンクだ。いまさら無理だなどとは言わせたくない。
「ま、いずれな。時代は変わるもんだ。夢は夢として、悪くはない」
そんな子供らしい態度に、ブリンクは呆れながらもレニの肩を抱きよせた。
「俺が生きている間だといいがな」
ブリンクはそういって口の端をつりあげて見せる。
レニは和やかな表情のまま、自分の手を見つめた。
夢を夢として終わらせるつもりはない。そのための努力は怠らないつもりだ。できる限りのことをやろう。
いずれ世界が本当の意味で平和になることを、レニは信じていた。
「レニ、俺の夢も聞くか?」
突然の問いかけに、レニも驚いた。
普段胸の内など絶対に語らないブリンクのことだ。レニに合わせて夢を語ろうとは、滅多にないことである。
それでもレニが瞳を大にして大きく頷くと、ブリンクの顔をほころばせた。
「いいか、俺の夢はだな……」
刹那、馬車が大きな揺れとともに動きを止める。
馬車を引いていたはずの馬が一頭いなくなっていた。片割れは相方の急な失踪を前にいなないている。それと同時に、二人の耳に不快な虫の羽音が潜り込んだ。
音のする上空を見上げると、太陽に照らされて黒光りする四匹の蝿が馬をさらっていくところだった。
……ベルゼブだ。
四、五百キロはある馬をたった二匹で持ち上げている。すさまじいまでの怪力だ。
蠅というよりも空飛ぶ熊を思わせるその巨体は、黒光りする刺々しい甲冑を着こんでいて、凶悪な眼差しの複眼には真っ赤で鈍い火が灯り、レニ達を見下している。
別の二匹が空中での高速移動や急激な方向転換など俊敏な動きを見せつけると、ご馳走を前にしたかのように前足をせわしなくこすり合わせ始めた。
よほど腹を空かせているのか、四匹の仲は悪いようにも見える。馬の取り合いが始まると、間に挟まれた馬はなすすべもなく空中で弄ばれた。終いには暴れる馬の脚を各々が引っ張り合う始末である。
馬が苦痛のこもった悲鳴をあげると、次の瞬間には引きちぎられて花火のように散ってしまった。
晴天の下で血の雨が降る。
血の雨に濡らされると、レニはうすら寒さを感じずにはいられなかった。
初めて見る魔物の恐ろしさ。いままでの依頼での魔物の影響といえば、商人の進路妨害や作物被害などが主であり、身の危険を感じるほどのものを相手にしたことはない。
だが、今回の狩りの対象であるベルゼブは、完全に人間を食糧として見ている。
馬だった肉が四等分されると、蝿達はそれぞれが食料を胸に抱きかかえて、意気揚々とさらに西の空へと飛んでいった。
「追うぞ」
わざわざ向こうから舞い込んできたチャンスを、ブリンクはみすみす逃したりはしない。
手綱を握りなおしたブリンクを合図に、レニは気持ちを入れ替えた。
「よし、やるぞ。これが俺の第一歩だ」
その言葉は誰に、というよりも、自分自身に言い聞かせるものだった。
タイミングも悪く、ブリンクの夢を聞けなかったのが悔やまれたが、この時ばかりは目の前の敵に集中しなければ夢が夢で終わってしまう。
馬の後を追うのはごめんだ。ブリンクとは仕事が終わってからゆっくり話せば良い。
残った馬に馬車を引かせ、ふたりは急いでベルゼブの後を追った。