35. 悲しき秘密
「何をやっているのだと、聞いている」
空に映えるようなブルーの鎧を鳴らし、着ている女騎士が静かに怒鳴った。
まだ幼い少年の背に跨る不良男の姿に、剣先の如き鋭利な視線が突き刺さる。その源には猛烈に燃え盛る正義感。
「なんだぁ? 珍しく帝国兵でも来たのかと思ったら、ロートルの勘違い野郎じゃねぇか。騎士ごっこでもやろうってんなら、家に帰ってやんな」
かつては英雄視されていたはずの騎士を前にしても、彼らが活躍した時代を知らぬ若輩達はへらへらと馬鹿にした態度を見せた。
「父上」
ギリギリと怒りに握られる拳。女騎士が「攻撃の許可を」と言いたげな目線を、傍らの老騎士に送る。表情にこそ出してはいないが、体から溢れ出る闘気ばかりは抑えようがないらしい。
「ほほほ。昔はこの鎧を見ただけで敵が逃げ出したものじゃったが……。時の流れとは速いものじゃのう」白銀の老騎士は何故か愉快そうに微笑むと、女騎士に目配せする。「ほどほどにな。剣を使うでないぞ」
「承知」
女騎士は軽く頷き、腰にかけた剣を外して捨てた。そして笑みを滲ませた視線を、少年に馬乗りになっているリーダー格の男に固定する。
一歩、二歩と力強い響きとともに接近。それは迷いのない鉄靴の行進のよう。
「な、なんだ。やんのか? それ以上近づいたら容赦はしないぜ」
彼女が近づくにつれて空気の壁が揺れ動くと、気圧された不良のひとりが思わず吠えた。
「容赦などしてくれるな。本気で来てもらわねば、殺してしまうだろう」
男どもにも負けぬ強気な言動。その自信のほどは彼女の堂々とした一挙一動を見れば一目瞭然。秘めたる揺らぎない根拠のもとに成り立っているように思えてならない。
女騎士が放つ眼光は矢のように鋭い。射抜かれた男達が、あまりの威圧感に一歩退いてしまうほどに。
「お、おい。まずいんじゃねぇか?」男のひとりが何かを察して身体を震わせると、気弱な声で仲間に訴えかける。「あの女、ヤバそうだぜ」
「何言ってんだ。相手はたかだか老いぼれと女だけだぞ! びびってねぇで、さっさと行け!」
少年の背から離れたリーダー格の男は声を荒げると、今度は仲間の背中を蹴って押し出した。
「な、なんだよ!」蹴られた男は前方と後方からの恐怖に挟まれて耐え切れなくなるや否や、自棄になって身を投げ出した。「くそっ!」
向かうは青の女騎士。男の右腕が弧を描いて飛ぶ。とはいえ、ふらついた迷いを乗せたその踏込に力がこもるはずもなく、当然その反動を持って繰り出される拳もめちゃくちゃなものだった。それでも、フードの少年から見れば強烈な一撃であったことに変わりはない。
女騎士の頬に食い込むはずの拳は、しかし空中でその勢いを瞬殺されたのだった。
「えっ……、え?」
思わぬ事態に目を瞬かせる男達。
まるで時が止まったかのようなその一瞬。打ち込まれた拳は、青く煌めく籠手をはめた大きな手のひらのなかに吸い込まれていた。
「なんとも貧相なパンチだな」
まるで巨人が小人の拳を受け止めたかのように、女騎士は微動だにしなかった。
彼女はふっと鼻で笑うと、次の瞬間には男の手首を掴み直し、その手に力をこめる。
「あ、あがっ!?」
男の顔に苦悶の筋が浮き上がる。女騎士の手を中心に男の体がぎりぎりとよじれはじめたのだ。
「ま、待ってくれ! 折れちまう!」悲鳴まじりに懇願する男。「離してくれ!」
「そうか。では、お望み通りに」
女騎士の腕が素早く波打った。
次の瞬間。男の体が宙を舞い、風車のようにぐるりと一回転したかと思うと背中から派手に落下した。
見事な小手返し。
「うっ……!」
肉が地面に叩きつけられる鈍い音が、男の口を通して吐き出される。背面を強打した男は苦しみに悶えて体をよじり、痛みに涙を浮かべるなんとも間抜けな醜態を晒すこととなった。
――こ、この人……。強い。
立つ力さえ失い、それまで地面に這いつくばって痛みに呻いていたフードの少年も、いつの間にか騎士団のその強さに見惚れてしまっていた。
「てめぇ。俺の仲間に何してくれてんだ、このババア!」
リーダー格の口から、そんな暴言が吐き出された時。
「ば、ババア……?」
突然、空気の流れが変わった。
夏の熱風に細い寒気が混じり始め、その場にいる者達の心臓をひやりと撫でていく。
行く末を見守っていた老騎士が、やってしまったなといった苦い表情で顔に手を当てていた。察するに、男の言葉に失言があったことは明らかだろう。しかもそれは彼女にとって最大の禁句だったのではないか。
男は知らず知らずのうちに、禁忌の領域へと足を踏み入れてしまったのだ。
だが時既に遅し。それまで涼しい顔でいたはずの女騎士の顔面がみるみるうちに真っ赤に燃え上がり、体から新たに放たれだしたのはこれまでの正統派な闘気とは違う、倍増された殺気。
彼女の雰囲気が一瞬で豹変した。
凶暴な筋の浮き出た顔にフードの少年でさえも恐怖を覚え、痛む体を引きずって路地の角まで後退すると足を抱えて事の結末を見守ることにした。
「おいおいおいおい……」
尻尾を踏まれた獣がそうするように、女騎士が低く唸る。
快楽街の陰気な雰囲気さえも散り散りに吹き飛ばされ、彼女の殺意が満ち満ちていくのを誰もが感じた。
「だぁれがババアだコラ、クソガキ! 貴様のような性根の腐った奴は根本すら残らぬようにぶち抜いて、二度と生き返ることのないように微塵に切り刻んで殺してやる!」
聞く者に悪寒を走らせるような、激憤の叫びだった。
それまでが落ち着いた雰囲気を漂わせる寡黙な騎士らしい彼女だったが、いまはまるで違う。全くの別人か、人格が入れ替わったかのような急変ぶりを見せた。
「あ……、ああ? ふ、ふかしてんじゃねぇぞ、ババア!」
それが二度目の失言だった。リーダー格の男は虚勢を張って叫び返したが、怯えて声も足も震えきっている。女騎士の凄まじい剣幕に強がっていた姿を引き剥がされ、丸裸も同然の状態だ。
「てめぇ、本気で死にたいようだなぁ……?」
再び獣の唸り。
「くっ!」
先に動いたのは、男の方だった。このままでは、まともな精神状態を保つことすら厳しいと判断したのだろう。
倒れこんでいる仲間を大股に飛び越え、その先の女騎士目指してただ一歩踏み込む。踏み込んだそこはほんの相手の目と鼻の先。一発叩きこんでやる。男の右腕がそう呟いて引っ込んだ。
その直後だった。男の体が金縛りにでもあったかのように動きを止めたのは。
その理由を、フードの少年は見てしまった。青い女騎士の表情が人間のものではない、悪魔的な何かに変貌していたのを。見てしまえば、誰もが恐怖を覚えて動きを止めてしまうような危険な形相。
「覚悟は出来たんだろうな? クソガキ!」
「ひっ!?」
男の肩が電流でも走ったかのように飛び上がると、その中途半端な筋肉のついた体は突然宙に浮いた。
驚くことに、それを支えていたのは左手一本だった。男の胸倉を掴んだ女騎士が、なんと片手で相手を持ち上げているのだ。奇術の類でもなければ、いったいどんな怪力なのか。
信じられないと畏怖にも似た視線が集中する中、女騎士は目の前の男をどう裁くかを決めたようだった。
「いいか、その穴の開いた目玉の内側にでも良く焼き付けておけ。本物のパンチがどんなものか」女騎士の口角が鋭く持ち上がる。「そして地獄で後悔するんだな!」
破壊的な力を右の拳にこめて強く握りしめ、腰に構える。
刹那。弾丸のようなストレートのパンチは、かするだけで肉が弾け飛び、直撃すれば顔面を貫くほどの威力を乗せて飛び出した。
風を切る轟音。唸る籠手の軋み。
「た、助け……!」
男の情けない鼻声が聞こえたところで、フードの少年は耐えきれなくなって目を背けた。非道なことをされたとはいえ、人が死ぬであろう瞬間を見たくはない。
それから耳を塞ぎ、しばらくの間無音の時を過ごしたあとのことだった。
「もう良い、メリッサ」
聞こえたのは、優しい温かみのある老騎士の声。
男の顔にめり込むはずであった女騎士――メリッサの拳は、いつのまにか白銀の老騎士の手によって制止させられていた。
止まりようのない暴威をこめた彼女の一撃を、穏やかそうなあの老人が止めた?
ふたりの強さは異常だ……。そう思ったのはフードの少年だけではなかったはずだ。
「ふん、命拾いしたな」
そういったメリッサが男を放り投げると、その体は糸の切れた人形よろしくふらふらと空中を飛び、地面にどさりとゴミのように落ちた。既に意識はなく白目を向いていて、情けないことに失禁までしている。本当の意味で、彼は悪夢と遭遇したに違いない……。
「おい、お前」メリッサが残ったひとりに問う。「お前はどうする」
「う、うう……」
戦意など残っているはずもなく、わなわなと震える最後の不良男はまともな言葉すら出せずにいた。
「やる気がないのなら、このゴミどもを連れてさっさと失せろ!」
メリッサの雄叫びが路地に幾重にも木霊すると、男は飛び上がって地面に突っ伏した仲間ふたりを引きずりながら一目散に逃げ出した。
「大丈夫か?」
かけられた声にフードの少年はびくりと肩を震わせ、おそるおそる視線を上げる。
映ったのは、差し出された大きな手。
「あっ……」
初めは自分を受け入れようと開かれたその手のひらに少しばかり困惑したが、次第に心がぐらりと揺れ始めると、胸の中にじわりと温かい何かが流れ込む。
その光景は少年が夢にまで見ていたものでもあり、初めて目にした善意でもあった。だからこんな時、どう受け取れば良いのかも分からない。欲していたものが急に現れた時、少年はおろおろと目を泳がせることしか出来なかった。
見上げた女騎士の表情は、いつのまにか最初見たときのそれに戻っていた。硬派だが、決して尽きることのない熱を秘めている。
この人達になら、安心して身を委ねてもいいのだろうか? いままでに感じたことのない人の温かさに触れ、少年の心に張り付いた氷がゆっくりと溶け始めていた。
ようやく自分の居場所が、安住の地が見つかるのでは……。
「どうした?」
二度目に声をかけられた時、少年ははっとした。
思い出してしまったのだ。フードの下に隠した自分だけの秘密を。この世に産まれてきた自分への最大の呪いを。
だから誰であろうと、絶対に見られてはいけない。
「……!」
少年は不本意ながらも差し出された手を払いのけると、残った体力を使って駆け出した。
「あっ。おい、ちょっと待て!」
呼び止める声に後ろ髪を引かれる思いを感じながらも、少年はその気持ちを唇とともに噛みしめた。血が出るほどに。
どんなに痛めつけられようと、少年が涙を流すことはなかった。肉体的な痛みや限界はとうに慣れてしまっているからだ。
だが、こんな自分にも手を差し伸べてくれる人がいるということへの希望、そして感謝。それに報いること、手を取ることができないことへの憤りと悲しみ。それらが一度に少年の体へ襲い掛かると、彼はまだ知らぬ自らの出生を恨み、流れ出す涙を止められずにはいられなかった。




