31. 異国の美女
当時のブリンクはまだ若かったが、その狙撃の腕を見込まれるとすぐに小隊のリーダーに任命されることとなった。しばらくして重要な任務を請け負うことが多くなった頃、ある仕事を任されることとなる。
プロト王国、聖都バグラガムの偵察。つまり斥候の任であった。
帝国軍の従順な兵士であったブリンクは当然のようにその任を受けたのだが、これがとんでもない間違いだった。初めて辿るバグラガムへの道のりは険しく過酷なもので、敵に見つからぬよう遠回りのルートを選んだのが余計に仇となってしまう。
そして何よりも、行く手を阻む大きな障害。それがゴラドーン大陸には無い『砂漠』であった。初めて目にする砂漠の知識などがあるはずもなく、対処するべき方法も分からずにただただ方角を頼りに進んでいくしかない。
プロトの港町からバグラガムへは馬も通れる舗装された道があるとは聞かされていたが、まさか敵国の港に船を寄せ、更には敵国の道を堂々と歩けるわけもなかった。
おまけに黄金色の大海原のように広がる平面の砂漠は隠れる場所も少なく、とても偵察に向いている地形だとは言いづらい。
眼前に永遠と伸びる砂地が進む足を鈍らせ、遮るもののない直射日光が容赦なく降り注いで身を焼く。ある程度の距離を歩くと、既に後方の帰路もどこなのか分からなくなっていた。
「ブリンクさん。俺、もうダメです……」
ついに、そう言って部下のひとりが倒れた。
「おい、しっかりしろ!」
すぐに駆け寄ったブリンクは部下の体を抱きかかえる。出る汗はもう無く、顔は青ざめ、体は小刻みに震えている。脱水だ。
自身も体の異変を感じながらも、部下の意識がなくならないよう必死に声をかけた。
しかし努力の甲斐もむなしく、それからすぐに別の兵士が倒れてしまった。それを皮きりに、他の者達の意識も次々と砂の中に倒れこんでいく。
無謀だった……。
今更ながらどうしようもない後悔を抱きつつ、ブリンクもその場にうつ伏せで倒れこんだ。無情な砂漠の砂が舞い上がり、背中に覆いかぶさってくる。
俺はここで砂に埋もれて朽ちていくのだろうか……。
だんだんと遠くなる朦朧とした意識のなかで、ブリンクが最後に聴いたのはこちらへ近づいてくる知らぬ男達の声と駱駝の蹄音だった。
目が覚めると、牢屋の中に繋がれていた。
痛む頭と寒気に震える体が、生を実感させてくれる。どうやら、死んではいないようだ。
まだ回復が十分でない体に鞭打って起き上がると、目を開けていられないほどの眩暈に襲われる。しばらくはその場で立ち尽くしたが、落ち着いてから目を開けてみると、周りには床に体を横たえている部下達の姿があった。
皆、過酷な砂漠の洗礼を受けて呻いているが、それは彼らがまだ生きているという証明。ひとりも欠けなかった奇跡に、ブリンクは思わず安堵の息を漏らした。
とはいえ、おそらくここは敵の手中。先は不安しか残っていない。
その時……。
複数の足音が部屋に届く。
敵が来た。
徐々にこちらへと近づいてくる度に、ブリンクの鼓動は次第に速度を上げていく。
そしてその足音の中に、妙に細くて軽いしなやかな音が混じっていることにブリンクは気づいた。
檻の向こう、暗い姿を現したのは兵士でも執行人でもない。
ひとりの若いプロト人女性だった。
肩まで伸びた金の髪は光を受けると眩しいほどに煌めき、着ている服は異国の者にも分かるくらい豪華なもの。その容姿は、一瞬とはいえ敵国のブリンクの目を奪ってしまうほどに美しかった。
とてもうす暗くてじめついた牢獄に現れるような人物ではない。
「お目覚めでしょうか」
艶やかな唇から発せられた言葉は子守唄の音色のように心地よく、ブリンクの耳を撫でていく。
はっとしたブリンクは真顔を作り、彼女に問う。
「俺達をどうするつもりだ」
威嚇のつもりだったが、彼女は驚くことも対抗することもしなかった。ただ、微笑み返されるだけ。敵を目の前に何故か朗らかな表情の彼女に、ブリンクはただ茫然とした。
「どうもいたしません。ただ、これからあなた達にはお帰りいただくだけです」
「……?」
聞き間違いか、と耳を疑ったブリンクは同時に首を傾げていた。
そんなうちに、微笑みかける女性の後ろから強面で屈強そうな兵士が現れる。
プロト王国の兵士が運んできたのは、透明のまぎれもない水だった。檻の外、ブリンクの目の前に突きだされる。こちらの人数分用意されたグラスは、手を伸ばせばすぐに取れそうだ。
忘れていた渇きが急に舞い戻り、ブリンクの喉を鳴らす。なりふりなど構っていられず、水を手に取りたかったが……。
「毒か?」
無論のこと、警戒する。
またも、女は笑った。
「毒入りとて、貴重な水であることに変わりはありません。あなたたちを殺すのなら、もっと手のかからない方法を選びます」そう言って女は考えるそぶりを見せる。「そう、骨になるまであの砂漠の中に放置しておいても良かったかしら」
女の冗談に少しぞっとしたが、一理ある。
どうせ死ぬのならば、一緒だ。干からびて死ぬのは勘弁したい。いまはとにかく喉が渇いたし、もし毒でもなければ水分を求める部下達にも飲ませてやれる。
「……も、もらおう」
ブリンクは半ば自棄になって目の前のグラスを掴むと、おそるおそる口をつけた。毒入りでないことを願う……。一口すすると、水は喉を潤した後に体のなかへすっと染み込んでいった。
ごくり。
――うまい。
ただの水であるはずなのに、いつも飲むそれとはまったく異なるかのように感じられた。まるで至高の一品のように美味で、飢える体を満足させてくれる。体が更なる水分を求めて鳴ると、もはやこれが毒入りなのかなどはもうどうにでも良くなり、ブリンクは衝動を抑えきれずに残りの水を全て口の奥へと流し込んでしまった。
グラスの中身を飲み干して視線を戻すと、やはり彼女は微笑んでいた。
――毒は盛られてない……ようだ。
しばらくして体に異変がないことを確かめると、ブリンクは残りのグラスを掴んで部下ひとりひとりに飲ませてやった。
「何故、俺達を助けてくれる?」
ブリンクは疑問を口にする。
「別に」女は首を傾げる。「私達は人を殺したくて戦争を続けているのではありませんから」
「……え?」
「それにあなたたちにあのまま死なれてしまえば、ゴラドーン帝国は必ず報復を考えることでしょう?」
いや、どうだろうか……。
ブリンクは帝国のやり方を考えてみて、疑問を浮かべる。今回の任務にしても、所詮俺たちは単なる駒に過ぎなかったのではないだろうか。俺達の生死をもって、王国侵略が安全かどうかを確認したかっただけかもしれない。
苦い顔をしてしまっていたのか、女はまたふふっと笑顔を見せた。
「守りたいものがある……」そう言って彼女はお腹のあたりを優しくさすった。「だから奪われないように、私達は戦っているだけなのです」
良く見れば、彼女のお腹は臨月を間近に控えているかのように大きく膨れていた。
赤ん坊……か?
「守りたいもの……」
まっさきに浮かんだのは、故郷で待つ妻エミリアと息子カイのことだ。いまごろふたりは何をしているのだろうか? 大人しく帰りを待っていてくれているのだろうか?
残してきた家族に想いを馳せると同時に、それまでただ倒すべき敵という認識しかなかったプロト人にも同じような人生があり、家族があり、そこに愛という感情があることに気付かされた。
何故そんな当たり前のことにいままで気づかなかったのだろうか?
「あなたにもあるのでしょう?」
「……」
「帰って顔を見せてあげなさい」
慈悲そのもののような彼女の笑顔に、ブリンクは素直になれなかった。
「俺はいままでたくさんの人間をこの手で殺めてきた。それを許せるというのか?」
いや……そうではない。彼女を前に嘘もつけず、なかば懺悔をするつもりだったのかもしれない。
そう告白された彼女は急に怖いほどの真顔になり、ブリンクに穴を開けるかのようにじっと見つめる。その透き通った蒼の瞳から放たれる力強い眼差しは、ブリンクの体を硬直させた。
「もちろん、決して許されるものでもありません」彼女の瞳の奥で、炎が揺れている。「ですが、どこかでこの争いの連鎖を止めないと戦争は永遠に続いていきます」
「それをいまここで断ち切る……と?」
「これはあくまでその第一歩です」再び、朗らかな笑顔。「ゆっくり休んで、帰りなさい。そして伝えてほしいのです。我々は無益な争いを続ける気はないと」
自分が産まれる前から続いていた戦争だ。それが当たり前だと思っていたのに、それを望まぬ声があるということ、初めて知った。
思えば何故に戦争を続けているのか、自分は知らない。いままでは言われるがままに、人を撃ってきただけ。
領土を広げるため? 国を降伏させて力を誇示するため? 豊富な資源を奪い合うため?
考えてみても、戦う理由は出なかった。
「……約束はできない。だがこの日のことは決して忘れない。救われたおかげで、また息子の顔を見ることができる」
家族のことを想うと、急に感極まり始めた。死を覚悟していた者にとって、また家族に会えること、これ以上の喜びはない。
異国で受けた思いもよらぬ慰めはブリンクの心を温かく優しく溶かし、身体を震わせたのだった。
「感謝する……!」
ブリンクは溢れる涙を堪えきれず、地べたに膝をつけると、額を地面にこすり付けるかのようにして頭を下げた。彼女の微笑みが消え、彼女の足音が聞こえなくなるまで。
それからも十分な食事が与えられ、ブリンクは部下達と五体満足で祖国ゴラドーンへと戻ることができたのだった。
あの日からしばらく経って、休戦となった。だからもう十七、八年になる。
こんな時にあの日のことを思いだすとはなぁ。
いまでもしっかりとあのプロト人女性の姿を思い浮かべることができる。忘れられるはずもない。ブリンクは頭のなかの彼女に憮然とした態度で語りかけた。
あの時の恩を返せと、そう言いたいのか……?
蒼い瞳を輝かせた彼女は、やはり微笑んだ。




