26. 父と子
来たる梅雨を前にして、必死にぎらつく太陽。降り注がれる光の束は、地を、物を、人をも焼き焦がしてしまうかのような勢いがあった。こんな日は人も、動物すらも滅多に出歩かない。
いつも通りの異常な熱気が漂う中にあって、ブリンク・トゥルーエイムを撫でていくそよ風は、体に染みわたるような冷涼で気持ちの良いものだった。
その源は自らと太陽との間。天を仰ぐほどの巨木が、すべてを包み込むように青々とした枝葉を茂らせていた。
生命の保護者とも言える長寿の樹だ。
木の幹の周辺を行き来するごま粒のような蟻達の行列。大木を住処としているリスや小鳥などの小動物。過酷な大地からでも懸命に芽を出し、花を咲かせている植物。大きな天然の日傘は、この地で生きる全ての生命のオアシスを作り出していた。
この場所を選んだのは、どの都市からも遠く離れ、遥か彼方に港町の影と水平線に輝く碧を見下ろすことのできる高台で、ここには街の喧騒も、魔物の奇声も、人々の苦しむ声も届かないからだ。
風に揺らぐ草花の音、小鳥の囀り、虫たちの合唱。全てが平穏な時の流れを生み、まるで現実から逃避したかのような、幻想的な世界がここには広がっている。
事実、今日までの一週間は本当の意味で地獄の中を過ごしてきたとも言え、任務を終えて疲れ果てた体は自然とこの場所を欲してしまっていた。
その名の通りになってしまったブラッドハーバー(血の港)の惨劇は、間違いなく戦後最大の災厄であった。事が収まった後も街の復旧活動のために一週間も滞在を延期したが、『第二の悪魔の行進』が残した爪痕は予想以上に深く、作業の終わりは一向に見えずにいた。ついに皆の疲労がピークに達するかに思えたその寸前、ようやく後発隊が到着。変わり果てた街の様子に唖然とする彼らにバトンタッチすることとあいなった。
建造物の修復だけならまだ良い。地面や壁に飛び散った血痕の清掃に、バラバラになってしまった遺体の回収、その身元の特定、果ては火葬するにいたるまでの一連の作業は、活動に加わった帝国兵やハンター達にとって精神的な重荷となっただろう。
それでも文句のひとつ垂れず、もくもくと復旧に勤しむ彼らの背中には、街を守ることのできなかった自らの不甲斐なさ、後悔が滲み出て見えた。
もしもハンターと帝国軍がいがみ合うことなく、事前に作戦の細かな打ち合わせができていたら?
戦場で互いが背中を任せることができていたら?
思い返せばきりがなく、いくら悔やんでも悔やみきれない。
それゆえか否か、そこに帝国兵だ、ハンターだ、などという無駄な概念は存在しなくなり、皆が同じ人間として協力し合っていたように思える。崩れゆく街を必死で支え、建て直すために尽力していた彼らの姿がいまでも忘れられない。
素直に素晴らしいことだと思う。本来、人間とはそうあるべきものなのだろう。
強大な敵というのは、時として決裂していた同族の人間達を団結させることもあるのだ。不幸中の幸い……と言っていいのかどうかは分からないが。
自分自身、過去のしがらみに囚われていたことを反省しなくてはいけない。これを機に少しは互いが歩み寄ってくれれば、と切に願う。
ふと、レニが言っていた夢を思い出す。ゴラドーン人同士だけではなく、プロト人もウルブロンも手を取り合い協力し合えば、世界は一体どんな風に変わるのだろうか。
それは何百年、何千年もの時間をかける課題になるかもしれないし、不可能かもしれない。だがレニ自身がそのためのきっかけを産むことになってくれるとしたら、それはどれだけ喜ばしいことだろうか。
ジオというこの星は、もっと良くなるべきだし、もっと良くなれるはず。
「よくそう言ってたよな、エミリア」
ブリンクは目の前の墓石を眺めて小さく呟いた。
無神論者のくせにそれらしい墓を手作りしてみて、出来上がったのがこのみすぼらしい墓石ふたつ。下手な字でエミリア、カイと手彫りされている。我ながら、センスがない。
エミリアは生前言っていた。ジオは子供が安心して成長できる環境ではない。毎日を戦争の影に怯え、親を亡くして生きる意味を見出すことの出来なくなった子がたくさんいる。誰もが笑顔で生活できる日常を心から欲しているはずなのに。そうすれば、子供はもっと大きく、健やかに、優しく成長できるはずだ、と。
その言葉は、多くの敵を殺めてきたブリンクの心にぐさりと深く突き刺さった。我が家族を養うために、他の家族を不幸に貶める……。それがいかに卑劣なことであるか、この時ブリンクはようやく気付いたのだった。
帝国軍に従事する自分を嫌悪するようになり始めたのは、息子のカイが産まれてはじめて見せた笑顔を見たときからだった。
「ブリンク」
背後でレニが囁きかける。
どうやら物思いにふけって、長居しすぎたようだ。
「ああ、すまん。そろそろ行くか」
カイの墓石にかぶせておいたテンガロンハットを拾い上げると、ブリンクはゆっくりと立ち上がる。
レニを連れてここを訪れたのは初めてだった。思えば、少し酷だったかもしれない。多くは語らなかったが、大小の墓がふたつある時点でここに来た理由など、簡単に察することはできただろう。「本当の家族は他にいたのだ」と現実を突きつけてしまっているかのようで、自分の配慮のなさにつくづくうんざりした。
さっさとこの場を立ち去って、家に帰ろう。そう思って動く体を、レニが制止した。
「ううん、良いんだ。ただちょっと聞きたいことがあってさ」
その瞳には、予期していた哀しみや憐みの色はない。
「聞きたいこと?」無意識に腕組みをして構えてしまう。「なんだ」
「カイって……、息子さん、だよね」墓石の名前を読みあげ、わずかにぎこちなさを混じらせて喋るレニ。「どんな子だったのかなって、気になって」
「何故そんなことを聞く?」
「いや、なんとなく、ね」
純粋な好奇心を隠すように顔を背けたレニに、首を傾げた。
カイのことか……。さて、どう答えてやれば良いのだろう。こんなところに連れてきておきながら、一番答えづらい質問だった。
小さな墓石にあの子の顔を思い浮かべて、思うことを口から滑らせてみる。
「……あの子は五歳で亡くなった」
そんな話の入り方しかできなかった自分に目を瞑りつつ、続ける。
「よく笑う子だったよ」思い出して、静かにひと笑い。「俺が家に帰ったら、いつも笑顔で出迎えてくれた。高いところが何故か好きでな。肩車をしてやると、暴れるくらいに喜んでいた」
「よく笑う……」
「そう。昔のお前が、やってくれていたようにな」なんとかフォローする言葉を見つけ、レニの肩を叩く。「どうした、お前らしくもない」
さわやかなそよ風に揺れる草花の音色。それだけが聞こえる間がしばらくあって、それからレニが口を開いた。
「もしカイが生きていたのなら、仲良くできていたのかな、と思って」
その返答に、思わず胸を打たれる。言葉そのままの意味ではないはずだからだ。
ブリンクがハンターになったのは、カイとエミリアが亡くなったのをきっかけにしたから。そしてレニと出会う。その過程がいまのふたりを作りあげていた。
つまり、カイがいまも生きているとなると、ブリンクがハンターになることも、レニと出会うことも無かったことになる。レニとカイが出会い、言葉を交わす機会などほとんどゼロに等しいだろう。
この場合、それでもなおブリンクはレニと運命的に出会い、引き取っていたのだろうか、そう問いかけられたように聞こえなくもなかった。
果たして、どうだろうか……。
ここはため息をひとつ長く吐いて誤魔化す。
「どうかな。あいつもお前も似たように頑固なところがあるからな」
「そっか……」
口をぎゅっと結んだレニは、その曖昧な答えを無理矢理にでも飲み込んだようだった。
こういう時に、気の利いた言葉のひとつも思い浮かばない自分を呪いたくなる。
「でも、ブリンクの子供なんだから、きっと良い子に成長していただろうね」
そう言って小さな墓石の前にしゃがみ込むレニの姿を見て、ふいにブリンクの視線は釘づけになった。
大きく逞しく育った青年の後ろ姿に、成長したらそうなっていたであろうカイの姿が見えたからだ。
これは幻か。地獄を見続けておかしくなった頭が創り上げた幻想なのか。
カイ……。締め付けられる胸の奥で、思わずその名を叫んだ。
五歳になるまでの間、一緒に遊び、一緒に食べ、一緒に眠りについたあの頃の微笑ましい光景と、あの子の無邪気な笑顔が瞬時に頭の中を駆け巡っていった。
目をぎゅっと瞑り、こぼれ出ようとする涙を食い止める。もう、あの子の愛らしい顔を見ることは決してできない。あの子を強く抱きしめることもできない。揺れる体にそう言い聞かせた。
立ち上がる幻影を振り払い、レニの顔を直視する。
「レニ……」
「ん?」
振り向くもうひとりの我が子の顔が、ブリンクの悲しみを振り払ってくれた。
一度は父親を辞めた身だが、再び父としての日常を過ごしていけること、本当に感謝している。血の繋がりなど言うまでもなく、お前は俺の大事な息子だと大声で言ってやりたいが、あいにくそういう性格でもない。
きっといままで俺の気持ちなど微塵も伝わっていなかっただろうな。だからこそ、この子が将来良い父親になることができるように、いまこの時に伝えておきたいことを伝えておこう。
「お前を見てきて、ようやく気付いたことがある」
照れくささを押し隠しつつ、言った。首を傾げるレニを無視して続ける。
「確かに親というのは、子供を育てることができる」再びテンガロンハットを脱ぎ、大地に埋まる大石の上に腰かける。「学ぶことも手伝ってやれるし、物事の善悪だって教えてやれる」
レニはただ視線を少し落としてそれを聞いていた。
「だけどな。親が子の未来を決めるなんてのは、おこがましいことだと分かった。その子がどういう大人に成長するかは、俺達親には決められない。俺が家の伝統を拒絶して軍に入ったように。俺の反対を押し切ってハンターになったお前のように」
「自分の未来は、自分で決める……? なんからしくもなく、青くさいね」
冗談めかして言うレニに、真剣な眼差しをもって応えた。
「その通り。だからお前は、より良い環境をつくる為に世界をひとつにしたいという夢を抱いたんだろう? 俺が示した道じゃなく、お前が自分の足で進もうとした道だ。なんせ俺はハンターを辞めろと言っていた人間だからな」
強く頷くレニ。
「はじめ聞いた時は、三ヵ国をひとつにする、なんてまたバカな事を言っていると思った。だけど本当にバカだったのは、いまのいままでそれに気付かなかった俺達大人だ。お前は決して間違っちゃいない」
先日の悪夢がちらと脳裏によみがえる。手足を失くして絶命した我が子を抱きかかえ、必死に起こそうとする母親。親を求めて泣き叫ぶ子供達。
もう二度も起こったことだ。三度目は絶対に起こしてはいけない。自分にも言えることだが、人々は一度目の悪魔の行進を教訓として変わるべきだったのだ。
そして、他国との戦争が始まっても似たようなことが起こる。停戦協定など、所詮まやかしだ。戦好きな軍の上層部がたったひとつ令を下せば、いつでも戦を始めることができる。
いがみ合うことを止め、真の敵にまず気付くことが第一歩だろうと思う。そうでなければ、結局は互いを滅ぼし合うだけだ。
「悪魔の行進を二度も経験したら、さすがに何が大切なことかが良く分かった」
「ブリンク……。反対しないの?」
目を瞑るようにゆっくりと頷いて返してやった。
「ま、いきなり他国に赴くことはいくらなんでも無謀すぎるからな。まずは身近に帝国軍とハンターからってとこか。幸いなことに、ブラッドハーバーの一件もあるからな。話し合いの場を設けて、協力しあえるような環境を作れるようホワイトさんに交渉してみよう」
二十にもなっていまだ無垢な瞳に輝きが灯るのを感じて、ブリンクは我が子の両肩に手を置いた。
「レニ」
久しぶりに掴んだ肩は意外にも大きくて、広い。昔は握れば外れてしまいそうなくらいか細かったのに。肩の位置も俺と同じくらいになったかな。しゃがんで、目線を合わせる必要もなくなった。顔の表情も明るく、優しく、そして男らしくなった。
しみじみと、言葉に出来ないさまざまな感情が押し寄せてくる。
よくぞここまで成長してくれた。俺は……。
「俺は、お前を誇りに思う」
言うと、レニは呆気にとられたような表情を浮かべていた。感情が先だって思わず口から出た言葉に、自分自身戸惑いを感じてはいる。
しかし、率直な気持ちであることに変わりはない。
照れ隠しに慣れない笑顔を作ってみせて、我が子の頭に帽子を乗せてやった。
帽子に手をやったレニは少しの間を置いて、にやついた口調で呟く。
「やっぱかっこ悪いな、この帽子」
言い合う気などさらさらなく、ブリンクはふっと鼻で笑うだけで返した。
そしてすぐさま、自己嫌悪の渦にのみこまれた。帝国軍とハンターが手を組む。仲良くしろとは言わないが、お互いに意見を出し合えるような仲になればそれだけでも良いと思った。
しかしながら、ブリンクは自ら犯した過ちを忘れてはいない。
ブラッドハーバーでの一件。最善の策であったとしても、軍関係者以外の者が軍隊を指揮してしまったこと。そしてなにより、激情に身を任せて指揮官であるアーサーの脚を撃ってしまったこと。前者はともかくとして、後者は言い逃れのできない失態である。あの時クラウンが止めていなければ、事態は更に悪化していただろう。
おそらく、帝都に戻れば法のもとに裁かれることになる。それ相応の罰は覚悟しなければならない。
まあ、罰ならいくらでも受けよう。だが、それを原因として帝国とハンター達との間に更なる溝が生まれ、レニの夢が遠くなってしまうことがなによりも悔やまれた。
時間が戻れば……と思っても後の祭りだ。俺も子供のままだな……。
心の中で自らを叱咤するとともに、ブリンクはふたつの墓石に向かって密かに祈った。
――俺にもしものことがあれば、代わりにこの子を見守ってやってほしい。
そうして瞑目してこの場を去ろうとしたその時。
「ブリンク、誰か倒れてる!」
レニが突如叫んだ。
こんなところに人……? という疑念を抱きながら、ブリンクは後ろを振り返った。
咲き乱れる花畑の絨毯に埋まるように、横たわる人影がひとつ。
いつの間に? いまのいままで人の気配などなかった。ましてや人の来るような場所でもない。まるでこの場に突然産まれおちてきたかのようだ。
そんな不安をよそに、人一倍正義感の強いレニは既に走り出していた。
危険な香りが鼻をつく中、急いで追いかける。
一足先に辿りついたレニがしゃがみこみ、白いフード付きのコートに身を包んだ人間を抱きかかえた。
レニと比べると、まだ小さい……。子供? 容姿から見て女の子か。
フードを取り、顔を確認したレニだったが、その表情が瞬時に凍りついたのを見逃さなかった。
嫌な予感がする。
「どうした」
二度、白い少女とこちらの顔とを交互に見たレニ。見てしまったものを言うべきか否か、迷いに口ごもっている。
「ブリンク、この子……」
ようやく言葉になったのを横目に、ブリンクは少女の顔を覗き込んだ。
自らの体温が急速に低下していったのはわずか一瞬だった。滅多にかかない冷や汗が滝のように溢れ出す。
何故だ?
その二文字が脳内を埋め尽くしていく。
「おいおい、ウソだろう?」
信じがたいことだった。いや、あってはならないことだった。
フードの中に隠れていた少女の顔。その額にはゴラドーン人にはあるなずのない、透き通るような宝玉が埋まっていたのだ。
少女はプロト人だった。




