24. 無情なる天秤
ラルゴはただただ血の止まらぬ殺戮を繰り広げていた。
それ以外に俺にできることなどない。
親が二度と戻らなくなる家庭の辛さは、自分が身に染みて良く分かっている。一匹殺し、いくらかの家族が救えるのなら、この身に受ける傷のひとつやふたつ、なんということはない。
自らを犠牲にして戦う姿勢は、深手こそ負わぬものの、黒蟲の爪による切り傷や、牙による刺し傷を無数に残していった。
仲間の存在が原動力であるが故に、失った時の反動も大きい。心に降り積もる仲間の死という現実は心を狂わせていった。
我に返ることができたのは、育ての親でもあるキューズのどこか懐かしさを感じさせる声が耳元で聞こえたからだ。
「ラルゴよ、もうすぐ守護壁が復旧する。軍を少しずつ後退させ、退却の準備を整えさせるが良かろう」
「そうか。まだ殺したりぬが…」湧き出る殺気を押し殺し、冷静さを保つ。「これ以上死人を増やすわけにはいかないな」
背後でキューズが敵を切り裂く姿を感じながら、ラルゴは肩ごしに返事をする。
そして近くの兵士を捕まえて後退の意思を伝えると、角笛を吹かせた。
「倒れた兵士達も、可能な限り連れて戻れ!」
自身もスレードリーの遺体を片手で引きずりながら、叫んだ。
捨て置けば、蟻の餌だ。部下を死なせ、そのうえ遺体すら見捨てたとなれば、彼らの家族に合わせる顔などあるものか。
「大砂波も迫って来ておる。どちらにせよ、これ以上は危険であろう」
「大砂波か……。なんともタイミングの良いことで」飛びかかかる蟻を切り伏せて一言。「兄上と殿下は大丈夫だろうか」
雨足はいつの間にか大人しくなっていたが、代わりに飛来してくる砂埃が肌を裂いていく感触をじわじわと感じてはいた。前兆だ。大砂波が来れば、この砂埃だけでも体を貫かれてしまうだろう。
依然として周りには黒蟲の大群が蠢いている。後退の命令を出すまでもなく、バグラガム軍はじりじりと正門近くにまで押されていた。キューズとポラスの援軍があってなお、黒蟲との戦力差は埋まりそうもない。
いったいこのクソ蟲どもは、いつまで湧き続けるんだ……。
ラルゴは無限のように躍り出てくる黒蟲を両断しつつ、この蟻達の源泉はいったいどこなのかと、戦線の更に奥、黒蟲達の湧き出てくる方角へと視線を転じた。
そして、見てしまった。
何故いままで気付かなかったのか。
「お、おい、キューズ。あれはなんだ」
ラルゴは顎をしゃくり、キューズに『それ』を見るよう促した。
黒蟲達の背後に、まるで突然山が生えたかのように、そいつは佇んでいた。遠くに居て、その詳細な容姿をはっきりとは確認できないが、どことなく人間をひとまわり大きくしたようなシルエットを持っている。
いや、あれは……猿だ。
ありえないことだとは思いながらも、ラルゴはそう感じた。とてつもなく巨大で、自分の三倍、いや四倍はあるのではなかろうか。遥か遠くにいるはずの敵だというのに、醸し出している気迫の勢いは肌で感じられるほどに圧迫感を感じる。力自慢のラルゴでさえ身震いしてしまうほどに、その存在は強大に見えて強烈だった。
あんな猿がいるものか。そうひとりごちながらも、しかし『それ』は実際に視界のなかに確かに存在している。猫背で手を地面につき、溢れんばかりの筋肉を蓄えた『それ』は、蟻達の後方でじっとこちらを見つめていた。
そしてなにより、その瞳から放たれる光線のような紅い眼差しは、あいつも黒蟲の一種であることを物語っている。その赤みのなかにはある種のぎらついた炎が揺らめいているように見えた。不思議なことに、それは人類を根絶やしにするなどといった憎悪からくるものではなく、何か自分よりも強い猛者に射抜かれているかのような……なにか明確な意思を持った使命感を持った視線をラルゴは感じていた。
「な、なんだ、あのでかい化け物は」
そう震えた声で答えたポラス。
「まさか、ここに来て敵の真打登場……?」
いまにも逃げ出してしまいそうな科白とは裏腹に、ジェスの顔には微笑が浮かぶ。
こいつは一体何がそんなにおかしいんだ。
このままあの化け物がバグラガムに寄り付けば、おそらく守護壁などひとたまりもないだろうに。
あいつは絶対にやばい。生き物としての本能がそう言っている。自らの脳が警告を放ち、頭の内側からがんがんと警鐘を鳴らす音が聞こえ始めた。
いまは後方で大人しくしているようだが、この先どう行動に出てくる……? いや、動かれたら最後か。やつにとって犬猫同様の我らなど、容易に蹴散らされてしまうだろう。あのデカさ、さっき倒したでかぶつなんて比じゃない。
ラルゴは迫りくる蟻の軍団を捌きながらも、その巨大生物からは絶対に目をそらさなかった。
この状況を打破するには、やはり来たる大砂波に祈りを託すという運任せしか選択肢はないのか。いま幸いなのは、遠方に迫りくる大砂波の壁がはっきりと見えはじめたことくらいであった。
だがそんなラルゴの微かな期待すら、黒蟲達は無惨にも踏み潰してしまう。
「あれを見ろ!」
「なんだ、あれは!?」
周りの兵士達も敵の大将に気付いたらしく、戦闘中にも関わらず指をさして仲間によびかけていく。バグラガム軍が絶望を感じ始めるその瞬間だった。
わずかに上空へあげた視線の先に、異変。
大型の猿よりもその手前、黒い塊が空を飛んでいた。
空を飛ぶ塊は、速度を落とすことなくまっすぐにこちらへと飛来してくる。
敵の砲弾か? 蟻が牙を飛ばせるのであれば、砲弾を飛ばすような黒蟲がいても何ら驚きはしない。無論、それだけでも絶望的なことに変わりはないが、空を飛んでくるその塊は砲弾以上に危険なものであることが、ラルゴの真上をかすめていったところで分かった。
「……蟻だ」
なかば諦めの表情を浮かべ、そう呟くことしかできなかった。
ちくしょう、奴ら空を飛ぶこともできたのか……?
バグラガム軍と黒蟲の軍が入り乱れる戦場の、淀みきった空を突きぬけていったのは、まぎれもなく敵の蟻だった。砲弾さながらの勢いで上空を飛行し、バグラガムの城壁を越え、いま王都のなかへと沈んでいった。
「あ、蟻が空を飛んでいるぞ!」
驚愕の事実に、兵士達の表情もみるみるうちに青ざめていく。
いや、あの動き……自ら飛んできたのではないな。
あの化け物の仕業だ。
ラルゴは今一度、遠くの大将を見やっていた。遠くで蟻を握り、振りかぶって投げる姿が遠目に見える。
やつは砲台だ。
既に二匹目が上空を切り裂きながら向かってきているし、いままさに三匹目も投げられようとしている。ものの数秒で五匹は王都に侵入できる計算になる。
「いかん、王都の中は手薄だ」いつもは落ち着いているはずのユーロドスが、若干の狼狽を表情ににじませ、馬首を王都へとめぐらせた。「将軍。早期撤退の指示を」
守りの薄くなったこの機会を狙い、ましてや各門が閉じられることも予測されていたというのか。
「正門を開けさせろ!」
キューズが叫ぶ。
王都から、警鐘が聞こえ始めた。それに混じって別の音もラルゴには聞こえていた。
守護壁が復旧した合図だ。
すぐに反応したのはユーロドスだった。
「ラルゴ将軍。このままでは、王都の被害が大きくなる。守護壁を展開せねば」
「何?」ラルゴはユーロドスに向き直り、恐ろしい剣幕で睨みつける。「貴様、殿下と兄上を見捨てろというのか!」
「そうではない」ユーロドスは冷静とも冷徹ともとれる声音で言った。「大将軍がついているのだからこそ、なんとかなると信じるべきなのではないのか。それよりも、いまは一刻も早く蟻の飛来を食い止めることが先決だと私は思う」
「いずれ大砂波も来る。守護壁なしにまともに受けたのでは、王都はひとたまりもありませんよ」
返り血にまみれながら、ジェスは更に雲行きの悪くなった空を見上げる。
「だが、兄上はすぐ戻ると言っていた!」
必死に抵抗を試みるラルゴだったが、固くなる表情には明らかな揺れを隠せずにいた。
いまなにを優先すべきか、頭の中では答えが出ているはずなのに、それを認めきれない。
兄上を見捨てる……? 俺が? できるわけがない。
「気持ちは分かる。だが将軍の立場として、君の兄上と姫、王都の民、そして兵士達……」ユーロドスは周りを良く見渡すよう手振りで促す。「いま何を守るべきなのか、分かっているはずだ」
ラルゴが大切にしてきた同胞たちは、いままさに文字通りの死闘を繰り広げていた。無数に群がる蟻を駆逐していく懸命な努力の裏に、味方の死体は積みあがるばかり。圧倒的な数の暴力の前に、屈強なバグラガム兵達でさえこれ以上なすすべがあろうはずもなかった。
そんな地獄絵図のような光景を、ラルゴは焦りと怒りと哀しみの混じった目で見届けることしかできない。
決断が一秒遅れるたびに、味方が倒れる。ラルゴの両手に、彼らの命がずしりと乗せられた。
分かってはいる。分かってはいるのだ……、もはや、決断しなければならぬ。だが……。
キューズ、俺は一体どうしたら良いのだ。
この想いを眼に込めて、老練の騎士に投げやった。
心から湧き出る悲痛の叫びを必死に抑え込みながら問いかけると、キューズは苦渋に満ちた顔をゆっくりと、縦に一度振った。
その表情の先に刺すような紅い視線を感じ、ラルゴは得も言われぬいままでに味わったことのない恐怖感を覚え、ただただその瞳に射抜かれながらも仲間たちに命令を下すことしかできなかった。




