22. 将軍の決断
-Ⅰ-
戦場では地を踏みしめる力強い足音と、鉄が弾けあう金属音、そして怪物たちと男達の怒声と断末魔だけが絶えず流れ続けている。理性を伴った『言葉』というものは、そこにはなかった。
「うおお!」
そんな中を自らの雄叫びを闘志として身に纏いながら、ラルゴ将軍は無心で剣を振り続けていた。相手が何匹来ようとも、怯むことなく突っ込む。兄がそうであるように、自らが複数の敵を相手どることで味方の被害を減らすという自己犠牲の持ち主。その勇猛果敢さが戦神とも守護神とも言われる所以で、その存在だけで味方の兵を鼓舞するとまで言われている。
黒と赤の流血絶えぬ大地の上で、こちらに向かってくる蟻が三匹。鋭い眼光で射抜いてくる。大将を討ち取らんがための決死の突撃か。
ラルゴはその殺気を素早く感じとり、手にした長剣を敵に向けて構えた。
蟻との接戦になる寸前に体を一回転させ、重力の乗った剣先を頭の一匹めがけて力強く振り下ろす。
逃れ得ぬ一振り、そして烈風。
淀む大気を一閃し、勢いそのままに蟻の頭部を固い甲殻もろとも一刀のもとに両断してみせる。蟻は壊れた人形のように崩れ落ちると、地にへばりついて動かなくなった。
剣は蟻の身体を貫通。地面にめり込み、大地に亀裂を生んだ。
間を置かずして、二匹目の襲撃。死んだ味方を踏み台にして飛翔し、上空より襲い掛かる。妙に連係の取れた動きだ。
対して、こちらは突き刺さった剣を力任せに引き抜き、右斜め上に斬り上げた。
巻き上げられた茶色の泥土に混じり、蟻の黒血が地面にどぼどぼと注がれる。腹を切り開かれた蟻は自らの臓物を地に全てぶちまけると、ひとしきりもがいたのちに絶命する。
そして三匹目は背後から。
漂う気の流れが変わったことにいち早く気付いたラルゴは、右方向にその身体を逸らした。
隙を狙い、左足に喰らいつこうとする蟻の牙。
味方を二匹犠牲にしての完璧な攻撃だった……はずだが、その努力は報われず、牙は虚空を抱きしめる。
ラルゴは剣を逆手に持ち替え、すかさず一薙ぎした。流れるような、それでいて力強いその太刀筋は強靭な蟻の牙の根本を捉え、見事に切断してみせた。口から血を流す蟻を冷めきった眼で見下ろし、剣を持つ手により一層の力を加える。
緑色に光る剣はその輝きを増し、バグラガムを貶める邪悪な黒蟲の頭に落とされた。
まるで吸い込まれるかのように剣が敵の頭部を貫くと、柄を捻って蟻の息の根を完全に止めた。
ここで深呼吸をひとつ。一瞬の休息を得る。元より減った体力だ。温存しながらでなければ、この先戦っていけない。
ラルゴは、盾を自在に操れるクロウスほど器用ではない。だが基礎体力や精神力、極限にまで鍛えぬかれた肉体の根幹は彼の自慢でもあり、誰にも負けぬ自信があった。それが実戦では顕著に表れ、向かう敵を一匹残らず、例外なく粉砕してきている。
さらに言えば、ラルゴの剣もクロウスの籠手と同様、盾の力が伝わりやすい素材をもって造られており、ラルゴ自身の盾を送ることでいかなる物質をも切り裂く硬度の高い最強の刃と化す。力自慢の彼にはこの上なく相性の良い武器だ。
ひとつ欠点があるとするならば、それは不器用で盾の扱いが苦手なラルゴ本人にあり、盾をこの武器に集中させてしまうと、自らの身体を守る盾がなくなってしまうということだろう。だがそれがかえって背水の陣のようで、結果的には戦闘意識を高めるにいたっていたことは彼の戦いを見れば明らかではある。
「屈強なバグラガム軍よ!」
乱戦で視界の悪いなかで、濃い碧に煌めく剣をたかだかと振り上げる。まるで曇り空から顔を出した新たな太陽のようだ。
「この軟弱ものの虫けらどもに、俺達の強さを見せつけてやれ!」
「おお!」兵士達もあとに続き、武器を振り上げる。「将軍に続け!」
人ひとりのたったその一声で、バグラガム兵の士気が一気に急増した。積極的に歩を進め、敵と対峙し、確実に戦果をあげている。
士気が上がったのは何も彼らだけではない。味方が活気づく様子を見て、ラルゴもひとり勇気をもらっていた。
そんな一進一退する味方のなかに混じり、一際大きな体を持った黒蟲が暴れているのを発見した。
バグラガム兵には蟻一匹に対してふたりで当たるよう訓練している。この程度の相手ならばふたりで対処できるからだ。だが、この蟻は他とは違った。たった一匹で五人を相手どり、その状況からはなおも優勢であるように見える。
そしていましがた、兵士三人を片腕のほんの一振りで戦場の外へと吹き飛ばした。
強兵……!
好敵手に目を輝かせたラルゴは、巨体を持つ蟻のもとへとすぐさま駆け出した。
「道を開けろ! 俺がやる」
味方の歩兵を押しのけると、巨躯に見合わぬ速度で敵に近づき、力強い一歩で地面を蹴った。敵の懐へと飛び込む。
近づけば近づくほど分かる。こいつはでかい。
背丈には自信のあるラルゴでも見上げてしまうほどに敵は巨大だった。これほどまでに大きな蟻が存在するなんて、この日まで誰も知らなかっただろう。
それでも物怖じすることなく、自らの役目として不足ない相手を見つけたラルゴの口元は自然と緩んでいた。
懐に入り込んですぐ、バグラガムの将軍は神速とも言っていいほどの素早さで敵の顎に向けて突きを繰り出す。捉えたのは甲殻の薄い喉元。頭部もろとも貫く。
だが、敵の動きも速い。咄嗟のところで、相手の右腕に阻止されてしまった。敵の反射神経もよほどのものと見える。
盾を纏い鋭利な刃と化した剣先は軌道を修正できず、大盾のような敵の右腕に激突し、なんとかねじ込むように貫通させるまではできた。
しかし、ぬかった。攻撃を阻まれたせいで、一撃で仕留めるほどの致命傷を与えるにはいたらない。
それでも立ち止まらなかった。一手が失敗しても、二手目がある。突き進むことに勝機を見出すのだ。突き刺さった剣を両手で掴み、豪快に横に払う。
見事、蟻の右腕を切り落としどす黒い血を吹き上げさせる。
痛みに唸り、ぐらぐらと揺れ、後ずさる敵。
逃がしはしない。更に一歩前進する、その一瞬のことだった。
敵の向こうに、蟻に襲われている味方。しかもラルゴの部下のひとりだ。仰向けに倒れ、覆いかぶさる蟻の牙にかかっていままさに殺されようとしているところ。必死に抵抗はしているが、そう長くはもたないだろう。
そんな光景に一秒でも気を取られてしまってのことだった。
視界に一瞬の稲光、その後脇腹に激痛が走る。
「ぐぬっ……!」
ただ一匹の蟻に気付かなかった。決死の覚悟で攻撃をしかけ、突如現れた蟻の小兵は、ラルゴに体当たりするとその巨体を二メートルほど吹き飛ばした。
盾を介さぬ痛みに、無理もなく膝をついてしまう。
痛む脇腹を抑えて苦痛の顔をあげれば、大きな蟻のほうは右腕を失ったことによって自我を失い暴れ回っている。怒りに満ち溢れかえった蟻の大兵は、自分を助けたはずの小さな蟻を残った左腕で叩き潰すと、雄叫びとともに憎き相手、ラルゴに向けて再度突進をしかける。
重くのしかかる痛みを振り払い、ラルゴは手に力を込めた。だが……。
「くそっ、しまった……」
突き飛ばされた瞬間に、武器を手放してしまったのか。右前方に視線だけ預けると、ラルゴの剣は地面に転がり、緑色の光を失いつつある。
敵が間合いに入るまで、あと二歩。剣を拾いに行く余裕は……ない。
ラルゴは自らの身体に集中した。全身を盾で満たし、迎えうつ。
蟻の巨大な左腕が、ラルゴの体を粉々に粉砕するために襲い掛かる。
あたりに衝撃波を生むほどの衝突。まるで鋼と鋼がぶつかり合うような爆音が轟きわたる。
腕が、ちぎれてしまう……!
そんな巨大な岩が飛んできたかのような攻撃を、ラルゴはなんとか両手で受け止めた。力自慢のラルゴでさえ、一発受けるのがやっとの威力。意識だけはしっかりと繋ぎとめる。とても二発目は受け止められそうにない。
次はどうでるべきか。
そう考えあぐねている絶妙なタイミングで、助けの声がかかった。
「ラルゴ!」
混戦の中でも、互いが繋がっているかのような透き通る兄の声。
再度右に視線を向けるとクロウスが、拾ったラルゴの剣を放り投げるところだった。
薄暗い陽の光をその身に受けながら、剣は宙を舞い、主のもとへと飛来する。
それが手に収まるまでのごく短い時間、悩んだ。
さきほど窮地に陥っていた部下はまだ必死に生きようともがいている。ここからなら救ってやることもできるだろう。だが目の前で自分を殺そうとする強敵もいた。
どうしたらいい。こいつを殺してからでは間に合わないかもしれない。
ラルゴは決断しなければならなかった。
主の危機に飛んできた剣の柄を捕まえたラルゴは、あろうことかその手を即座に離した。
正確には、目前の強敵の背後に向けて槍のように投げ放ったのだ。
一瞬のうちにラルゴの盾を授かった剣は、その尖った身体を一匹の蟻に向けて突進する。
ラルゴは自らの命よりも、部下を助けることを優先した。
放った剣は盾の輝きを徐々に失いながらも、蟻の頭部を貫いてみせる。魂の抜けた蟻は、バグラガム兵士の上に糸が切れたかのように覆いかぶさった。
崩れる蟻を眺めて、安心する。これで不安のひとつは消せた。
問題は次だ。この怪物をどう始末する?
「力比べといこうか、デカブツよ」
出した答えは自らを信じることだった。
掴んだ敵の左腕を離さぬよう片手で握り直し、関節に手刀をお見舞いする。予想どおりだが、たかだか二、三発程度では揺らぎはしても折れはしない。それでも苦痛にもだえる大蟻を見れば、効果がないわけでもない。
危険を察知した蟻が腕を引っ込めようとするが、絶対に離さなかった。
繰り返し同じ個所を責め続けた結果、大木が倒れるときのようにみしみしと音を立てて、敵の左腕が逆方向へと曲がった。
へし折ってやった!
その瞬間――。身体をぼろぼろに壊され絶句した大蟻だったが、あろうことか最後の力を振り絞って無理矢理に左腕を引き剥がすと、その反動によってラルゴの巨体は弾かれ、よろめいてしまった。
胴体がガラ空きになる。
「しまっ……」
間髪いれず巨大な牙が襲い掛かり、ラルゴの盾にヒビをいれる……そう思われたとき。大蟻の口から赤く塗装された槍が二本。本来の牙と並ぶようにして飛び出してきた。
黒く、ねばついた鮮血が身に降り注ぐ。
紅い、槍……。突出した槍の先を見て、ラルゴは怪訝な顔をした。
真紅に塗装された長槍はユーロドス卿の騎兵団を象徴するものだ。
「遊撃隊……。ユーロドス卿か」
ラルゴは嘆息した。手柄を取られてしまったどころか、この広い戦場で嫌な奴に出くわすとは。
紅に染められた騎兵の集団が、眼前を怒涛の進撃で敵を蹴散らしながら通り過ぎていく。
ぐらりと前のめりになって崩れ落ちる大蟻。
背後にいたのはユーロドスと、腰ぎんちゃくのジェス。槍の一本はユーロドス卿本人のものだった。黒い返り血にまみれた顔から覗く瞳が、あざ笑うかのような視線を注いでくる。
「ラルゴ将軍。らしくないな」
「ユーロドス卿……。俺の戦いに、手出しは無用だ」
ラルゴは分かるように舌打ちをした。
「戦場に迷いは禁物。情に厚いことは良けれど、情に流されては将軍が命を落とすことになるぞ」
ユーロドスの口から、心のかけらも感じられない淡々とした言葉が発せられる。
こいつ、見ていたな。ラルゴは直観で分かった。見ていながら、おいしいところだけをかすめ取っていくとは、鳶のように卑怯な野郎だ。
「余計なお世話だ」ラルゴは眉根を寄せて、睨みつける。「そんなことよりも、戦場で貴公に背中を見せること自体、落ち着いておられぬ」
言って、投げかける殺気よりも更に強い敵意をラルゴは感じた。
ユーロドスの隣、ジェスからだ。
一瞥をくれてやると、へらへらと薄笑いを浮かべた少年のような顔があった。笑いながら殺気を漂わせるとは、気味の悪い人間だ。本人が自覚しているのかどうかも怪しい。
「そうは言うがな。将軍に倒れられては困る」ユーロドスは兜を脱ぎ、付着した蟻の甲殻を払った。「将軍は我らの要となる存在」
「なに?」
「この場でも、そしてこの後も……」
歯切れの悪い言葉を残すと、ユーロドスは兜をかぶりなおし、再び戦渦うずまく砂漠へと馬首をめぐらし、駆け出して行った。ジェスもつかず離れずついていく。
要だと? ラルゴは奥歯をかみしめた。本心なわけがない。自分の手駒にしたいだけだろうが。本当に嫌味な奴だ。
敵とも味方とも言えぬ友軍を見送り、視線を戻すと、すぐにさきほど助けたばかりの兵士のもとへと駆け寄った。
「おい、大丈夫か。スレードリー」
名前を呼び、彼を抱きかかえてすぐにラルゴの表情に悲壮感が貼りついた。
腹をえぐられ、既に致命傷を負っている。
これでは、助からない。
そう分かっていてもなお、ラルゴは大切な命を諦めきれなかった。
「しっかりしろ。無事に帰れば、お前の女房と子供が待っているのだろう」
そんな言葉しかかけられない。励ますつもりだった。
だが答える気力も体力も乏しくなったスレードリーは、息も絶え絶えにラルゴの胸元を掴んで懇願する。
「ラルゴ様……、どうか……ご慈悲を」
誰よりも部下を大事にしてきたラルゴにとって、その言葉は剣で貫かれるよりも深く心に突き刺さった。
この手で仲間の命を断つことなど、出来ようはずもないではないか!
「何を言う。生きよ。生きてまた一緒に戦おうではないか」
決することのできないラルゴに、スレードリーは飛びついた。
「将軍! どうか…どうか…!」
懇願するスレードリーを前に、瞬くことすらできない。
「あなたにお仕えできて……光栄で、ございました。このまま憎き蟲に貪られるくらいなら……あなたの手で、この人生を終えたい」
スレードリーは涙を浮かべながら、そう訴えた。
この間に二匹の蟻がラルゴに襲い掛かったが、怒りに任せた剣の一振りによって真っ二つに切断し、返り討ちにした。
戦の流れがまた変わり出した。味方の前進が滞っている。
このままでは戦況も次第に悪化していく。そのためにはラルゴが取らねばならぬ行動はただひとつ。
再び決断するほかなかった。
「国のために……良く戦ったと、妻と子に、お伝えください……ませ」
ラルゴは立ち上がり、目を瞑って覚悟を決めた部下を見下ろした。直視することなどできない。
すまぬ……、俺が弱いばかりに……。
ラルゴは心の中で大きな悲鳴をあげた。
剣先を地面に向け、腕を高く振りあげる。
そして、スレードリーの人生に幕を下ろした。
それからほんの数秒だけ、ラルゴは動けずにいた。無数に亀裂の入った心は、耐えることもできずに泣いている。これほど辛い日があっただろうか。
戦場に絶え間なく流れる男達の悲鳴。そのひとつひとつがラルゴの胸を槍のように貫いていった。
一体これはなんなんだ……?
俺達はなんのために命をかけて戦っているのか。何故部下達は、意味もなく苦戦を強いられ、傷つかねばならないのか。
本気で分からなくなった。
いま必死で守ろうとしている国は、果たしてそれだけの価値があるのだろうか。
国とは民によって立ち、民を守るためにある。そう教えてくれたのは国王だったではないか。
アルツ王さえしっかりしていれば、何の問題もなかった。プロトの諸侯らを統一し、黒蟲どもを万全の態勢で迎え撃つことなど容易だったはずだ。
いまやアルツ王は堕落し、イシュベルという汚れた娼婦のわがままのために、勇敢な兵士達は命を削って戦っている。
絶対に許すわけにはいかぬ。ラルゴは拳を握った。スレードリーの遺した剣を拾い上げると、両手に剣を構えて立ち上がる。
今日という日を境に国を、いや自分自身を変えよう。国民を、仲間たちを守ることができるのは将軍であるこの俺しかいない。
そのためにはこの戦、絶対に勝ち残ってやろう。
「おのれクソ蟲どもめ……! うおおお!」
両目に悲しみと怒りの赤くも青い炎を宿したラルゴは、双剣を強く握りしめ、再び黒と白が入り乱れる戦場へとその身を投じた。




