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ジオ戦記(旧)  作者: ルノア
第1章
19/52

19. 開戦の合図

-Ⅰ-


 目を凝らしてみても、その視界には真っ黒な人影ひとつ映すのがやっとなほどの暗闇が広がっている。厳重な鉄柵の向こう側にはかすかな松明の光が数本差し込むばかりで、手元もろくに見えなかった。

 一寸先は闇、か。

 クロウスは諦めて(まぶた)を閉じた。目を閉じていようが、開けていようが、見える世界は変わらない。

 大将軍という肩書を持ちながら、このような醜態を晒すとは、とことん情けないなと思う。いままで国のために身を捧げてきた人生が、一瞬にして無へと変わり果てた。

「あまりにもまぬけだったかな」

 クロウスは薄暗い牢のなかで座したまま、自嘲した。

 目の前の人影が口を開く。

「いや、面目ございません。私の脳も少しばかり老いが来ているようで」

 自らの現状を映し出すような陰気な場所に居ても、キューズの冗談にはいつもの温かみがあった。

「はは、年は取りたくないものだな」

 あぐらをかいた膝を叩いて答える。

 この一瞬がどこか懐かしい。こうして笑ったのはいつぶりだろうか。激務に追われ、どこかに置き忘れてきてしまった感情を久しぶりに取り戻したかのような気分だ。牢に放り込まれたことで、自身に覆いかぶさる責任の重さから一時的にでも解放されたことが唯一の救いだった。

「どうして、イシュベルという女。甘く見ておりました」

 真顔になったであろうキューズが言った。

「そうだな。それに」クロウスは深いため息を吐き出す。「我らも少し熱くなりすぎた」

 無言の空間を寂しい風が通り抜けていった。

 むせ返るような外の熱気とは対称的に、牢の中は案外涼しい。少し湿気が高いことと、衛生状態が悪いことにさえ目を瞑れば、快適に暮らせる温度ではある。

 だらりとたらした手の甲が、ごつごつとした石造りの床に触れる。ひんやりと冷たい。冷涼な感触が血管に乗って全身を駆け巡り、脳に到達する。

「少し、頭を冷やせということか……」

 俯いてみて思考の休息を試みるが、それは記憶に残る様々な障害によってことごとく阻害されてしまった。

 国のこと。王のこと。バグラガムを執拗に狙う黒蟲に、将来国にあだなすであろうユーロドスの悪意。そして女王イシュベル。

 特に、地上に残してきた人たちのことは気がかりだった。大将軍として、バグラガムには守らなければならない幸せな家庭がたくさんある。

「民衆や兵の一部は我らのことを悪く思うだろうな」

 クロウスの行動が国や民を思ってのことであったにせよ、イシュベルは今回の件に関して、自らに都合の良い話を用意しているに違いない。一番の邪魔者であるクロウスの立場を危ぶめるためだ。努力は惜しまないだろう。

 そんな問いに、キューズは落ち着いた笑いをもって「いやいや」と答えた。

「逆によくやったと称賛されるべきです。民とて、相当な鬱憤が溜まっているはずでしょうから」

「それは、なかなか動こうとしなかった我らに対してもそうであろう」

「なに、心配せずともまだラルゴがおります」

「それはそれで心配なのだ」クロウスは腕を組んで、嘆息した。「鬼の居ぬ間にこそ、反旗を翻しやすい。あいつは少しばかり短気なところがある」

 キューズが頭を横に振った。

「ラルゴも馬鹿ではございません。いまは時期ではないということも、ユーロドス卿という真に警戒するべき相手のことも、よく理解しているはずでございます」

「だがな、キューズ……」

「いいえ」言いかけて、キューズに制される。「そういうものなのです。長年、お二方を見てきた私には分かります。少しは自分の弟を理解する努力をせねばなりませんぞ」

 結果的に叱られるような形になってしまい、クロウスは口を結んで黙った。育ての親とも言えるキューズは、ふたりのことを彼ら自身よりも良く理解しているのだろうから、言い返す言葉など見つかるはずもない。

 それよりも、とキューズは大将軍に向かって人差し指を力強く突きつける。

「殿下が嘆いておられましたぞ」

「姫が?」

「クロウスが話を聞いてくれないと不満をこぼされておいででした」

「話…」

 クロウスははっとした。

 忘れていたわけではない。そういえば、ここ一年ミューネ姫とまともに会話したことなどほとんどなかった。いや、全くだ。

 確かにこれまでに何度か声をかけられたことがあった。しかし任務に忙殺され、そのまま後回しにしてしまっていた。時間がないと断る度に、ミューネは寂しそうな表情を浮かべ「気にしないで」と言って背中を見せた。その虚ろな背中が気にはなっていたものの、責務という泥沼に沈んでいたクロウスには構えるほどの余裕がなかったのだ。

「殿下はあなたを本当の兄のように慕っておられる。終わりの見えぬ仕事など放り出して、一時間でも良い、たまには耳を傾けてもそう罰は当たりますまい」

 らしからぬことを言いながら、キューズが意地の悪い笑い声をあげる。

「そんな暇などなかったさ…」腕を組んで一瞬。「と言えば、姫には失礼かな」

 彼女は彼女なりに頑張っていたのだから。

 暗闇のなかで大将軍が視線をよこすと、茶目っ気のある老騎士が大きく頷いて答えたのが分かった。

 自分が一番理解してやっていたつもりだった。だが、彼女が必要としている時に傍にいてやれなかったとは、自惚(うぬぼ)れもいいところだ。

 ミューネがクロウスを兄と親しむように、クロウスも彼女を「姫」と呼び妹のように可愛がってきた。母を亡くし、父をも失おうとしているいま、頼れる存在はクロウスしかいなかったはずだ。

 彼女が話したいこと。もしかしたら大事なことだったのかもしれない。ここを出られたら、一番にミューネ姫のもとをたずねよう。

 そう思った矢先のことであった。

大将軍(シャラーン)殿!」

 大声とともに、階段を転がり落ちてくるような足音が牢獄内に反響する。

 慌ただしい足取りで、やせ細った兵士が松明を持って柵の前に現れた。

「ご、ご報告申し上げます!」

 姿勢を正して敬礼した兵士の声は、わずかな動揺でうわずっていた。瞬きを忘れ、血色の悪い兵士の表情から、只事ではないことが分かる。

「どうした」

 クロウスは目を細めた。

「現在、ここ王都バグラガムに黒蟲の大群が向かってきております」

「なに」キューズと目を合わせる。「またか」

 襲撃の間隔が短いことは確かに驚きだ。周期が違う。

 だが兵士の顔に張り付いたこの焦燥感、尋常ではない。黒蟲など、いままでに何度も対処できていたはずで、恐れるに足らぬはず。

 いまにも泣き出しそうなしわくちゃ顔の兵士は、震える唇から一言一言をなんとか捻り出そうとしていた。

 なんとか呼吸を落ち着かせてやると、兵士は目をぎゅっと瞑り……、

「敵の黒蟲(グアンズ)の数、約四万です!」

 ようやっと悲鳴めいた叫び声を出した。

 松明が揺れ、牢獄に一瞬の沈黙の間が流れる。

 後頭部をひと殴りされたかのような強烈な報告。クロウスとキューズは、何かに突き上げられたかのように跳びあがった。

「よ、四万だと!?」

 間違いはないのかとクロウスは牢の柵ごしに兵士の肩を揺さぶったが、兵士は頑なに首を横に振った。

「穏やかではございませんな」

 普段何事にも動じないキューズが、顎に手をやって唸った。頭の中では既に未来の作戦を練り始めているに違いないが、対抗手段はそう簡単には見つからないだろう。

「数でいえば我が兵がわずかに多いが……」

「皆が全力を持って戦えるわけではありません」

 キューズに向け、小さく頷いた。

 ほとんどの者が目の前にいる兵士のような状態だ。食糧が不十分であるために、体調不良を訴えている者も多い。彼らでどこまで戦えるのかは、正直不安でしかなかった。体力の消耗は、(バルル)の効力に大きく影響してしまう。

「正面からぶつかり合えば、バグラガムが墜ちることもありえるやもしれませんな」

 そんなことをさせてたまるものか。

「どうにか、牢から出られぬか」クロウスはキューズを見つめる。「ラルゴひとりじゃ荷が重すぎるだろう」

 キューズが返事をするまでには一瞬の間があった。

「陛下がご指示を出されぬ限りはなんとも……」

「ご安心を」そう言うと、柵の向こうの兵士がすかさず懐から牢の鍵の束を取り出した。「イシュベル陛下へは既にユーロドス卿がお話を。特別に一時的な釈放許可を頂いております」

 牢の鍵が開錠され、一時の休息地と現実とを隔てていた扉が勢いよく開いた。

 ついさきほど牢に放り込まれたばかりというのに、ものの数時間で解放されるとは、忙しいことこのうえない。休息を得ようとしたのもつかの間、そのような時間すら与えられなかった。

 そして、ここでもまたユーロドスだ。その名前が出ただけで、いまのクロウスは平常心を失いそうになる。

 怒りが満ちる様子を察知したのか、キューズがなだめてきた。

「ユーロドス卿もまた、バグラガムに閉じ込められたうちのひとり。卿とて、生き残るためにいま必死になっておりましょうぞ。ここは一時休戦ということで、ひとまずは危機を乗り越えることだけを考えましょう」

「言われなくても分かっているさ」

 だが、バグラガムは絶対に渡さない。クロウスは両手の拳をぎゅっと握りしめる。

「行くぞ」

 ふたりは不安に押しつぶされそうな表情の兵士を先頭に、薄暗く光る牢の出口へと駆け上った。




-Ⅱ-


 王宮を出ると、数時間ぶりの陽の光に一瞬視界を奪われた。明らかに守護壁が薄くなっているのが分かる。見上げた空には途切れ途切れの雨雲が足早に通り過ぎていき、断続的な少雨を降らせているようだった。

「状況は」

 歩く間すらも惜しいクロウスは早足で正門をめざし、その過程で現在の状況を整理することにした。

「はっ。黒蟲(グアンズ)の群れは既に守護壁に到達しているものかと思われます」

 さきほどの兵士がクロウスに追いつこうと必死に歩きながら、説明を始める。

「ラルゴ将軍の指示にて、王宮内の守護玉には倍の人間を回しております」

「足りるか」

 そう問われて、兵士の顔がみるみるうちに曇り出した。

「い、いえ、おそらくあの数相手では一時間と持たないのではないでしょうか……。何せ守護玉を制御する兵もだいぶ憔悴しきっております」

 クロウスは顔を(しか)めた。やはり、厳しいか。

 守護壁を造り出すためのエネルギーも元は兵士達の(バルル)からなるものである。巨大な守護玉を用いてその力を増幅し、バグラガムを守っているのだ。度重なる黒蟲の襲来は、徐々にではあったがその壁をすり減らしていった。

 つまり、いまバグラガムを囲んでいる守護壁は、はっきり言って脆い。いつ破られてもおかしくないだろう。

 屈強揃いで知られたバグラガムの兵士達が、たかだか高飛車女ひとりのわがままのために、こうも生気を削り落とされてしまうとは誰にも想像できなかったであろう。そこへ、とどめとも言える黒蟲達の急襲。こんな偶然があるものだろうか。

 天を仰ぎたくなるのを抑えつつ、クロウスは目の前にある課題について頭を働かせた。

「東門と、西門はどうだ」

「それが、黒蟲は正門にだけ集中しています。東と西の門には一匹の蟲もおりません」

「正門にだけ?」クロウスは首を傾げた。「いままでは見境なく八方から攻めてきていただろう。何故今回だけ」

 自らに問いかけるようにつぶやく。

「攻撃を正門に集中させ、守護壁を突破しようとしている……、となると不気味な話ですな。それだけの知恵が奴らにはあるというのでしょうか」

 純白の鎧を装着しながらキューズが言った。鎧を必要としないプロト人のなかで唯一、彼だけは違った。

「キューズ。東と西を任せて良いか。奴らの動きが少し気がかりだ」

「はっ。承知いたしました。では」

 キューズの洞察力は鋭い。この短いやり取りで、クロウスが意図するところを即座に捉え、すぐに行動に出る。みなまで言わずとも、理解してくれる熟練した老戦士の存在はとても心強かった。

 王宮の階段を下り終えたところで、馬に跨ったキューズをクロウスが制止する。

「念のために門はいつでも開けられるようにしておいてくれ」

 一瞬の間を置いた後、キューズは深く敬礼するとすぐに混乱する街中に溶け込んでいった。

 これで東門と西門は安心して任せられる。ここからは自らに課せられた問題をひとつずつ潰していかなくてはならない。

「ユーロドス卿はどうしている」

 黒蟲達の対策がもちろん最優先事項であるが、そればかりに気を取られていてはいけない。

「女王陛下に謁見した後、正門前で兵を展開させております」

「本人もか?」

「はい」

 戦闘に参加する? 後方で指示を飛ばすだけかと思ったが、少し意外だ。それだけこの状況に危機感を抱いているということだろうか。

「そうか」クロウスは短く返事をし、立ち止まる。「大至急、集められるだけの油を集めておいてくれ」

「はっ」

 使命を託すには申し訳なくなるほどの痩せきった背中が駆け出していくのを目で追い、目線をそのまま上に向けた。雨雲が無限大に広がり始めている。鱗状の雲が空を覆いつくし、地に暗澹(あんたん)たる影を伸ばす。まるでこの先の惨事を予言しているかのように。




-Ⅲ-


 正門付近では兵士達が互いに掛け合い、規律良く自分の持ち場を駆け回っていた。ある者は武器を各兵に渡してまわり、ある者は小型の守護石を配る。兵が剣と盾を備え、集い、隊を作り出す。わずか短時間で繰り広げられる完璧とも言えるこの戦闘準備は、日常的に行っている演習の成果であるともいえた。

 思っていたほどの混乱はない。それが救いだった。黒蟲四万という大群を前に、不安こそあれども、彼らの根幹には自分達が日頃の鍛錬を積んだ屈強な戦士であるという揺るぎない自信があるのだろう。

 クロウスも例外ではない。食糧不足による体力的な問題は確かにあるだろう。それでも自らの武力に大きな変化は感じられなかった。

 いや、もしかしたら感じないようにしているだけかもしれない……。

「厳しくなるぞ、これは」

 傍らに立ったラルゴが苦渋に満ちたため息を長く吐きだした。そこには王族の問題をもっと早くに終わらせておくべきだったという後悔と、そうできなかったことへの憤りが感じられる。

 正門から見下ろす城外。守護壁との間に、いまたくさんの兵士達が黒い液体をまき散らしている。

「たとえ勝てたとしても、無傷ではすむまい。少しでも死傷者を減らすためには、我らが盾にならねばならん」

 それは半ばクロウス自身にも言い聞かせるようだった。

「こんな大事な時に、一体何をしていたんだ、兄上よ」

 宝物庫に忍び込んだことを言っているのだろう。辛辣な言葉とは裏腹に、ラルゴの口元は悪戯坊主のように釣りあがっていた。

「ああ、すまぬな。たまには良いじゃないか」

 笑って返す。

「たまには、な。しばらくは控えてくれよ」

 ラルゴに背中を叩かれ、クロウスは安堵した。こんな状況でも、兄弟の絆は固く結ばれたままだ。考え方は確かに違う。だが、お互いを理解していないわけではない。ふたりが力を合わせれば、どんな困難もきっと乗り越えられる。そう、信じてやまなかった。

「あの女は何か言っていたか?」

「イシュベル? 兄上のことをか?」ラルゴは正面を向いたまま、視線だけをよこした。「まだ正式には何も。そんな時間もなかったからな」

「そうか」

 少し不安ではあった。あの女、口は上手い。頭も悪くはない。今回の一件で、イシュベルという女狐のことを見くびっていたことを嫌でも痛感していた。

「なぁ、兄上……」

 ラルゴが言いかけた、その時――。

 キーっという硝子(ガラス)を爪でひっかくような音がバグラガムに響き渡った。

 音が鳴ると、いままで威勢の良かった兵士達のどよめきが瞬時に消える。

 静寂を取り戻した世界に、耳鳴りのようなか細いがどこか不安感を煽る不協和音だけが続いた。

「守護壁に……」

 外に出ていた全員の目線が、正門の先に釘付けになった。

 ――ヒビがはいった……!

 数本の線が、緑色の守護壁を這い上がるように登っていく。それは紛れもなく黒蟲の侵入を予見する証拠であり、みるみるうちに蜘蛛の巣のように広がっていった。

「全員、退避!」

 クロウスは城壁から身を乗り出し、大声を張り上げた。

 城外に出ていた兵士達が液体を放り投げ、こちらへ戻ってくる。目の前ではいまにも飛び出してきそうな蟲の群れがざわめいていた。

 死にもの狂いで走ってきた彼らの帰還を待って、門が閉じられる。

「キューズに伝達を。始めるぞ」

 あらかじめ計画していた内容を、伝達兵に託す。

 正門の前にはラルゴ率いるバグラガム軍隊が不安な面持ちで開戦の合図を待っている。その中にひときわ目を引く紅蓮の騎馬隊が混じっていた。

 そこに、奴がいる。

「ユーロドス……」

 クロウスが目を向けた時、鳶さながらに獲物を狙い定めるかのようなふてぶてしい視線が重なった。

 ユーロドスもしばらく前からこちらの様子を窺っていたのだろうか。互いにけん制しあうような視線を送り合ったが、無益なにらみ合いは二秒も続かなかった。

 それどころではないからだ。

 そして、それは目線を黒づくめの敵へ移したと同時のことだった。

 鏡が割れるような音が響き、何かが崩れ落ち始める。

 ぱらぱらとそれは聞きようによっては心地の良い鈴の音のようなものだったかもしれない。

 人はしばし目の前の虚空を眺めていた。

 緑がかった天空の景色が、次第に明るくなっていく。

 守護壁が――破られた。

 実体のない緑色の破片が人々の手のひらの中に降り注ぐと、代わりにあらゆる負の感情がじわりじわりと地の底から這いあがってきた。

 不安、恐怖、絶望……。

 長い歴史のなかで、バグラガムの守護壁が突破されることは稀であった。外界の脅威との世界を隔てていた壁がなくなったいま、民をこれ以上不安にさせるような出来事はないに違いない。兵士達のいままでに見たことのないような怯えた表情を見て、クロウスはそう思った。

 守護壁の崩壊から遅れて、上空に溜まっていた大量の雨粒が零れ落ち、兵士達の体を濡らす。

 開戦の合図だ。


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