18. 狼煙は上がる
-Ⅰ-
この日はおかしなほどに静かな夜であった。夜に盛んなはずの虫の声もなければ、家畜の寝息も流れてこない。部屋を涼めるために用意された流水のせせらぎですらも何かにかき消されてしまったかのようで、王宮内はうすら寒い静寂を保っている。
こんな日の翌日には、決まって雨が降る。砂漠地帯が比較的多く、降雨量も少ないプロト大陸にとってはどんな雨でも天の恵みだ。
そんな、まるで聴覚を失ったかのような無音の世界に、ユーロドスはひとり身を潜めていた。
クロウスとキューズが宝物庫へ向かうのと時を同じくして、ユーロドスは与えられた王宮の一室にひとりひきこもり、分厚い本の山々に囲まれていた。古い書庫から引きずり出してきた本は、どれも埃かぶっていたり、色褪せたりと、ひどく年季の入ったものが多い。
長いこと誰の手にも触れられず、忘れ去られていたと言ったほうが正しいだろうか。それらは部屋の高さの半分ほどにまで積み上げられ、座るユーロドスを四方から見下ろす壁となっている。
おかげで来客にすら気づかぬほどであった。
「こんな夜中に、何を熱心にお調べですか」
本の隙間からひょいと顔を出したひとりの青年が、晴れやかな表情で近づいてくる。年は二十五にもなるが、童顔のせいか実年齢よりも随分若く見えた。
「ジェス……」ため息とともに、「ノックくらいしたらどうだ」
ユーロドスはジェスという若者に一瞥をくれると、冷たくそう言い放った。
ジェスはわざと驚いてみせると、大げさに肩をすくめてみせる。
「しましたよ、二度ほど」ぐるりと部屋に散らかる本の山を見渡す。「死んでいるのかと思い、心配いたしました」
笑顔で物騒なことを言う。
この男、どんな時にも笑顔を忘れない。それがかえって皮肉っぽかったり、邪気を孕んでいたりするようにも見えて不気味ではあった。
「敵陣の中にいて、隙を見せるとはご主人様らしくない」
ユーロドスを囲む机を、ジェスはゆっくりとまわりこんでくる。
本の影からその姿が現れると、彼の得物が部屋の灯りを受けてきらりと輝いた。
細見の片手剣。それに、腰に巻いた皮のベルトにいくつもの短剣をぶらさげている。
「もし私が敵であれば……」
そう言われ、ユーロドスは目を細めた。
「殺すかね?」
ユーロドスの一言で部屋の空気が一気に張り詰めたものになる。それでもジェスの笑顔が崩れないのを見て、続けた。
「殺して、我が領土を手中に収めるか?」
わずかの間……。ジェスの瞳に微かな剣気が走った。その気、近づけばたちどころに切り刻まれてしまうかのような迫力がある。だが、
「それも良いですね。卿は敵の魔の手に墜ちたということにでもしておきましょう」
拍子抜けするような満面の笑みで、そう返される。
「舐めるなよ、ジェス。斬れるものなら、斬ってみよ」辛辣な言葉を一言。「お前ごときにこの国を治めることなど到底できぬぞ」
と、その気に圧されたか、ジェスの剣気はどこか鞘に収まったかのように見えた。
「ええ、十二分に分かっておりますとも。父の代から剣一筋にございます故」腰に差した剣をぽんぽんと叩く。「いままでも、これからも。私は主の剣であることに変わりありません」
それに、と言ってジェスは近くの椅子を引いた。
「卿と居れば、毎日が面白くて仕方ない」
晴れ空のような顔で言う。
面白いのは、お前だよ。ユーロドスは心の中でほくそ笑んだ。
剣の腕は確かなのに、出世には欲がない。おかげで主に対しても、ひとかけらの遠慮もなかった。
「相変わらずおかしな男だな、お前は」ひと息つくかのように鼻を鳴らし、「頼もしい限りだよ」
冗談めいて言った。
そして、ユーロドスの視線は再び開きかけた本に戻る。
「童話だ。童話を読んでいた」
ユーロドスは本に向き合いながら、ジェスのさきほどの問いに遅れて答えた。
「童話?」
ジェスは意地の悪い笑みを浮かべる。
「はて、ついに一線を退き、童話作家としてご隠居なさいますか」
と、ユーロドスが見ている本を隣から覗き見る。こういう仕草や話し方は、長年一緒に生活をしてきたせいか、主人に良く似ていた。
「ばかもの。そうではない」
ユーロドスは小さく笑いながら、年下の従者を小突いた。
「災禍竜に、魔艶女……、これはまた懐かしいものばかりで」
「ああ、子供の頃に読んで以来だ」
ユーロドスは椅子の背もたれに大きくよりかかると、背伸びをして霞む目をこすった。
残念ながら、もう昔ほど若くない。本の虫になるほどの無茶はできそうにないようだ。それでもなお、ある種の強烈な好奇心がユーロドスを現実世界に引きとどめている。
「で、お探し物は何ですか?」
「うむ。お前には話をしていなかったが、殿下のことだ」
そこまでを口にして、ユーロドスは従者を、宝石を見定めるかのようにして見据えてみた。
さて、ジェスならば、あの話にどう答えるか。
彼を試してみたい一心があった。
「……というわけだ。イシュベルが実は魔艶女であり、何かを企んでいる。……らしい」
ユーロドスはミューネ姫との会話をかいつまんで、成り行きを正直に話した。
「……」
ジェスは腕組みをすると、しばらく黙った。
ユーロドスはジェスの眼を突き刺すほどに見つめる。
若き従者よ、どう答える。
「それは面白い」
ジェスの瞳が怪しく光るのがわかった。
期待通りの返事だ。ユーロドスは心の中で拳を握りしめた。
普通の者ならば「そんなはずはない」とばっさり切り捨てるところだろう。だがユーロドスはどんなことにでも「もしも」を考える用心深いタイプの男だ。そして、それは懐刀であるジェスにもしっかりと受け継がれているようだった。
それでこそ、だ。
「だろう」
ユーロドスは満足げに椅子にもたれかかる。
「はじめは継母を妬む、子の妄言かとも思ったさ。だが殿下の様子を見るに、どうやらそうではない」
目を細めて、部屋のなんでもないところを見やる。
仮にミューネの言葉が真実だとすると、プロト王国はかつてない最悪の事態に直面していることになる。いや、既に渦中か。一歩でも前に進むのが遅ければ、渦に巻き込まれて取り返しのつかないことになるのは間違いない。
ともなれば、災禍竜や魔艶女について唯一描かれているこの童話の山は、知恵という金塊のつまった山脈だ。
「殿下のあの眼差し、あれは嘘をついていない」
ため息をひとつ。「だがな……」と言って黙り込んだ。
「何か気がかりでも?」
主人の顔に雲がかかるのを見て、ジェスは問いかけた。
「殿下は黒蟲のような災禍竜だったと言っていた」ユーロドスは手に持っていた本を、ため息とともに机上の本の山に放り捨てる。「だがどの伝承にも、そのような特徴のものは描かれていない」
これでは万が一の時に対処しようにも、その方法が全く分からない。それが少しばかり不安ではあった。
「伝説も所詮は言い伝えでしょうに」
ジェスは山の中の一冊を取り上げて、読む気もなくぱらぱらとページをめくってみせた。
「真実とは、世代が替わり子へと受け継がれていくうちに霞んでいくものでしょう? もしかすると真実は別のところにあるのかもしれませんね」
ものの見方はひとつではない。そう教えたのは他でもない、ユーロドスだ。
「そうだ」ジェスを指差す。「だから、殿下には逆の可能性を考えてみるよう、提案した」
「逆の?」
「もし殿下の見た怪物が、黒蟲に似た災禍竜ではなく、災禍竜に似た黒蟲だとしたら?」
それが事実かどうかなどは関係ない。ミューネに「イシュベルが黒蟲である」という可能性を刷り込むことが大事だったのだ。
ユーロドスの悪意に満ちた表情に、ジェスは何かぴんときたようだった。
「ほう」察しの良い従者は芝居がかった感心を見せる。「それで?」
「紹介してやったさ。黒蟲を良く知る集団をな」
ユーロドスが薄気味の悪いくぐもった笑いをあげると、つられてジェスも笑った。
「どうりで。私が殿下の動向を見張るようおっしゃられたのにも、納得がいきます」
ようやくジェスがこの部屋に入ってきた理由が語られるのを前に、ユーロドスは興味の眼差しを向ける。
「それで、どうだった、殿下は」
前のめりになるユーロドスに、薄笑いを浮かべた従者が彼を喜ばせる一言を持ち出した。
「バグラガムを出る決心をつけられました」
「なに、本当か」
ユーロドスは思わず椅子を蹴って飛び上がる。
ようやくだ!
普段、冷静沈着に努めているユーロドスだが、この時ばかりは湧き上がる興奮を抑えることができなかった。
「ええ、間違いありません」
これは、朗報だ。
「宝物庫から転移石をふたつ持ち出されたことも確認済みです」
転移石と聞いて、報告が確かなことを確信する。
「よく見ていろよ、ジェス。いまに始まるぞ」
やっと夢への一歩が踏み出された。長年抱きこんできたこの野望が、成就する日が近づいてくる。
ユーロドスは立ち上がり、外を眺めた。
窓を隔てたその先には、一寸先すら見えぬ常闇が広がっている。その闇は何故か胸のうちに隠れていた不安を呼び覚まし、瞬時に膨らませた。
まだひとつ、障害になり得る不確定要素が残っている。それはこの暗闇よりも黒いものであった。
歓を尽くした矢先、まるで計画を邪魔するかのような不穏な空気に、ユーロドスは一抹の不安を抱え込む。
-Ⅱ-
「まったく、手のかかる兄だ」
言いながら、ラルゴは口の端を小さく釣り上げた。
文武の師キューズがそうであるように、クロウスも嫌になるほど真面目な男だ。そんなふたりに対してどこかもどかしさを感じていたのは言うまでもない。
それが大胆にも宝物庫に夜な夜な侵入するとは。意外にも思い切ったことをやるものだ。
そのことが、ラルゴにとっては素直に喜ばしかった。
「まだ腐りきってはいないようだな」
この日、クロウスとキューズが牢に入ったとの報告を受けたラルゴは、すぐさま王宮へと足を向けた。
王都が最悪の事態を迎えているというこの時に、ふたりを失ってしまうのはかなりの痛手だ。それに、自信がないわけではないが、ひとり取り残されては正直心許ない。
いまにも泣き出しそうな雨雲が広がるなか、王宮前の長い階段を駆け足で上る。
高台からバグラガムの街を見下ろすように建てられた王宮までは、六十段ほどを上らなければならない。普段は、避暑地として王宮を利用している国民の往来で、賑やかな場所なのだが、いまではその様子もほとんど見られない。居たとしても、せいぜい力なく項垂れて死んでいるのかどうかわからない人間が座っているだけだ。
半分ほど上りきったところで、ふと一陣の風がきな臭さを運んできた。
反射的に上った階段を振り返る。
何か不穏な空気がラルゴの背中を押し、頬をかすめていったのだ。
見下ろす城下町には、薄暗い陽の光が差し込んでいる。その光景が何故だかラルゴの胸を締め付けた。
考えるよりも先に、体が動く。上ったばかりの階段を、転げ落ちるような勢いで下った。
何かが起こる? いや、既に起こっているのか?
はじめはただの勘だと思った。しかし階段を下り終え、城壁側から必死の形相で何かから逃げるように走ってくる人々を見たとき、心の奥底から這い出てくるような不安がラルゴの全身を駆け巡った。
「何ごとだ……?」
混乱している人間達を捕まえて事情を聴くよりも、この目で確かめたほうが早いか。
ラルゴは地面を蹴った。
いよいよ降り始めた小雨が街を覆う守護壁を叩く。遠くで響く雷鳴が胸の鼓動をより一層激しくした。城壁に近づくにつれ、国民達の騒々しさも徐々に混沌めいていく。
途中で馬を駆り、バグラガムの正門に辿りつくと、ラルゴは跳ぶようにして馬から降り、そのまま風のような速さで城壁へと上る。
「上ったり下りたりと忙しいことだ」
そうひとりごちて気を紛らわせた。
城壁に上ると、呆然と立ち尽くす兵士達がいた。バグラガムの外を見たまま微動だにしない。
石像のような彼らを掻き分け、先頭に出る。
そして自身も一体の石像となる。
嫌な予感は的中した。
城壁から眺めるプロト大陸。そこには頑丈な緑色の守護壁が張られ、その先に申し訳程度の草原が広がり、更にその奥に広大な砂漠が地を埋め尽くしている。
はずだった。
いま目の前に広がるのは煌びやかに光る砂の原でも風になびく草原でもない。
代わりにあったものは、地面を覆い尽くすほどの真っ黒な濁流!
ラルゴの全身を怖気が襲う。
濁流はゆっくりとした動きで、着実な足取りを持ってバグラガムに迫っている。右を見ても左を見ても、あるのはバグラガムを飲み込まんとする強烈な悪意の固まりだ。黒と黒の隙間から、幾多もの赤い閃光が迸る。
「ぐ、黒蟲だ! 黒蟲が大群で攻めてきたぞ!」
張り詰めた緊張の膜を、我に返った兵士達の悲鳴めいた叫びが引き裂いた。
「敵襲! 敵襲!」
「なんて数だ……」
あたりが騒然としはじめるなか、数秒とはいえ、剛腕の将軍ラルゴですら敵の数に圧倒されて身動きが取れないでいた。
「前回の十倍はいるではないか!」
ラルゴの目測をはるかに超え、黒蟲の数はこの時点で三万という大群であった。それも遠くから続々と別部隊が合流してくる。
バグラガムに滞在する兵はおよそ五万。それも食糧不足によってほとんどが全力を出し切れる状態ではない。ユーロドスの五千騎を合わせたとしても、黒蟲三万を相手にするにはかなりの不安が残る。
「こんな短期間で二度も攻めてくるとはな。黒蟲ごときに裏を取られたか」
ラルゴが歯ぎしりひとつ。城壁の塀を拳で叩く。
いつもは二週間から一か月は間をおいて来るはずなのに、今回に限っては前回から二日しか経っていないのだ。しかもこれほどの数、いままでに見たこともない。
「くそ、油断した……!」
内側のことに気を取られすぎていたというのか。
もちろん、黒蟲の脅威を軽んじていたわけではない。ただ、これほどまでとは思っていなかった。
いまさらひとり唸っていても仕方がない。ラルゴは慌てふてめく近くの兵士を捕まえて命令を下した。
「王宮に倍の人間をまわして、守護壁を厚くしろ!」
続けて別の兵士を捕まえると、
「非番の兵士達を含め、全員を集めろ。ユーロドス卿も叩き起こしてこい!」
そう怒鳴るようにして伝えた。
ラルゴを慕う兵士は多い。未曾有の事態にも的確さを失わなかった彼の指示は、瞬時に人を動かし、兵から兵へと情報を伝染させていった。
黒蟲達が守護壁のすぐ外側にまで近づくと、奴らの鬨の声が守護壁を叩きはじめる。
ラルゴは急激な吐き気を催した。目の前に広がる漆黒の群れ、それはもはや国家規模の軍隊である。誰もが無傷でことを終えることなど、出来やしないだろう。
こんな光景、幼少期に体験した戦争以来だ。
こうして気味の悪い小雨が降り続くなか、バグラガムはついに黒蟲達による宣戦布告を受けたのだった。
バグラガムの存続を危ぶめんとする戦争が、はじまろうとしている。




