17. 王国の宝
-Ⅰ-
ユーロドスがバグラガムを訪れた日の夜、任務を終えたクロウスは宮殿内にある自室の椅子に、倒れこむようにして体を埋めた。どっと押し寄せてきた疲労感が、ため息に混じる。
クロウスは柄にもなく苛立っていた。やるべきことが多いというのに、この日のほぼ半日を王都民の不平不満を聴くためだけに費やしたからだ。
普段は王の仕事だが、いまはクロウスが代わりをやっている。
彼らの言うことも、分からなくはない。生きていくためには、食っていかなければならないし、仕事も続けなければならない。それがいまや立て続けの黒蟲襲来や望まれぬ新女王の誕生によって、外界からは遮断され、内側からはじわりじわりと腐敗が広がり始めている。
普段の生活すらままならない状況だ。日に日に身は削られ、先行きの暗い不安ばかりが募っていけば、人間誰しも暴言のひとつやふたつ、簡単に漏らしてしまう。
まだその程度ならば、真摯に受け止めることができただろう。だが、民の中には王族の存在自体を批判する者もいて、あろうことかミューネ姫の名さえ汚す輩もいた。そのことがいまでも頭の中を駆け回っていて、堪らなく腹立たしい。
彼女が民のためにどれだけ尽力したことか。
クロウスは肘掛を拳で叩いた。
ミューネの意向もあり、その事実は国民には知らされていなかったから、反論はしたくてもできなかった。
そんな混沌の片翼が見え隠れしているような時に、ユーロドスは時期を見計らったようにして現れた。
彼を称賛する声もいまでは少なくない。現王権が切り立った崖を転落しかけているいま、時代の流れが次第にユーロドスに傾きかけているのがはっきりと分かる。
表では良好な主従関係を装っていても、このままでは遅かれ早かれ国民の指示を得た彼にいずれ国を乗っ取られてしまうだろう。
「どいつもこいつも……!」
唇を噛みしめながら、誰にともなく毒づいた。
どいつもこいつも、アルツ国王への恩を仇で返すつもりか。
王は誰よりも優しく、聡明で、何事にも折れぬ強靭な心を持った強い男だった。人情にも厚く、身よりのないクロウスを引き取って育てたのもアルツ王だ。
プロト王国のことを誰よりも想い、領主達にも権威をチラつかせることなく、手厚く誠実に対応してきてみせた。
何よりも、国というものの仕組みをよく理解している。
「国は民によって成り立ち、国は民の為にある。民なくして国は存続できぬ。我ら王族や兵士は、国民達に生かされているのだと思え」
とは国王の言葉だった。彼を心から慕ってきたクロウスにとって、それは神の言葉と同等。
だからこそ、納得がいかない。あのアルツ王が国民を、バグラガムを見捨てるような真似をするだろうか。
いや、そんなはずはない。これもおそらくユーロドスとイシュベルの何かの策略だろう。クロウスはそう決めつけていた。
まさか国王があのイシュベルとの間に何か運命を感じたわけでもあるまい。
第一、国王が他の女を受け入れるはずがないのだ。ことあるごとに「ルネーテのことを忘れることなど絶対にできぬ」と寂しげな瞳で語っていたではないか。
それほどまでに前女王を想い続けていた一途の男が、なぜ急に人が変わったかのように女を迎え入れた? しかも娼婦を。
あの女狐が、果たしてどういう経緯や方法で国王の心を射止めたのか、不思議でならない。
それに、王が国の基盤をぐらつかせるほどの国財の浪費を許すとも思えない。ない、はずであったが、最後に国王が残した言葉は「国のことはイシュベルに一任する」だ。
さすがのクロウスも断固として反対したものだったが、アルツはまったく耳を貸さなかった。
一体いま国王の身には何が起こっている? 何故姿を見せない? 弱みでも握られているのか?
問題が大量に増殖する一方で、どの答えもまるで見つからない。ピースのないパズルを延々と眺めているかのようで、もどかしい時間ばかりが過ぎていく。
思い浮かぶのは、煌びやかな宝石たちに囲まれたあの女の忌々しい微笑。考えただけでも胃液がこみ上げてくる。
ふと、また違う疑問が転がり落ちてきた。
「……いままでイシュベルが手にした宝石や貴金属はどこへ行った?」
あるだけの国財をはたいて買った物だ。合わせれば相当な額になるだろう。それなりの量になるはずだ。クロウスの知る限り、骨とう品や絵画に関しては王宮内でいくつか目につくところに飾られている。だが、宝石や貴金属だけは見たことがない。
そんな新たな疑問が、クロウスの頭にひとつの案を運んできた。
――買い集めた物を即刻売却し、財政を立て直すべきです。
以前の自分の発言を思い返してみる。
宝の価値に頼ってみるのもひとつの方法か。何も女王に売却させる必要はない。自分が動けばいいのではないか。単純だがこれもひとつの作戦になりえる。
元々は国の金だ。女王だからといって私欲のために使っていいものでもない。取り戻してしかるべき場所へ戻すべきだろう。
「それはあまりにも大胆なお話ですな」
キューズの自室に向かい、この話をしてみると、彼は腕を後ろに組んで唸った。
「含んだ言い方は一切なしだ。正直に意見を述べて欲しい」
クロウスは言った。キューズは大将軍という立場を敬うようにしてはいるが、お目付役として、彼には彼なりの考えがある。
経験豊富な老武将の意見だ。その大概が有益なものになる。ふたりの意見が合わさることで最適な答えを導き出すことが出来るから、クロウスは喜んでキューズの反論を受け入れる。
「では、失礼ながら申し上げます」
キューズは咳払いしてみせた。
「おっしゃられるように、売却していけば国財は復活しましょう。ですがそれほど大きく動けば、いずれ見つかってしまうことは避けられません。当然イシュベルの怒りも買うでしょう。そうなれば、女王としての権限を持って国賊として罰せられるやもしれません」
キューズは遠慮なく返す。
「構わん。我が身ひとつで国が救えるのなら、安いものだろう?」
クロウスは表情ひとつ変えずに答えた。
それを聞いたキューズは体全体で落胆を表現してみせた。そして子供に言い聞かせるように、それでいて真剣な眼差しでクロウスに向き直る。
「クロウス、何を言うのですか。大将軍であるあなたなしで、バグラガムをどう支えていくのです」
「……買い被りすぎだ」
そう言い返したものの、語尾には少し不安が残る。果たして残った者に全てを託し、安心して逝くことができるだろうか。
「それに、問題もいくつかあります」
キューズは嘆息して、渋い顔を作った。
「問題?」
キューズは、実は私も同じことを考えてはおりましたが、と人差し指を立てた。
「まずは宝を買い取る相手です」
「そんなもの、売りつけてきた相手に返すだけだろう」
「そう単純なものでもございませんでしょう?」
キューズはかぶりを横に振る。
「国王からの要望ならまだしも、大将軍とはいえ一兵士であるあなた自身からの提案ではあまり効果がない。その立場からか、領主のなかでもユーロドスのような敵がたくさんいることにはお気づきでしょう。あなたが一番分かっておいでではありませんか」
クロウスは領主の面々を思い出してみたが、言われたとおりそのほとんどが友好的な表情をしていなかった。
「宝石を売った金で懐を潤わせた領主たちが、返金を拒まれるのは火を見るよりも明らかです」
キューズの言うことも最も。国のためだとはうわべだけで、領主のほとんどは自分の財布が気になるだけの下衆ばかりだ。バグラガムの現状は彼らにとって都合の良いものだろう。現に国王に忠誠を誓っておきながら、いざバグラガムが窮地に陥ってみると、誰も彼もが見て見ぬふりだ。
クロウスは何もない空間を黙って睨みつけた。
「第二に、仮に金が返ってきたとして、その金を元にイシュベルはまた無駄な出費を繰り返すはずです。返した宝石類も再度集めなおすでしょう。そうなればいたちごっこです」
キューズはかすかにため息をもらすと、
「やはり、まずイシュベルをどうにかしないことには、問題は解決しません。その次に王を目覚めさせる必要もあります」と断言して、唇を閉めた。
結局、ふりだしに戻るということか。
クロウスは腕を組んで瞑目すると、しばらく俯いてしまう。
いままで国を救う方法は何度となく考えてきたが、どれも決定力に欠けていた。イシュベルを消すことは簡単だ。だが、王の意図が読めぬいま、下手に動いて彼を傷つけることだけは避けたかった。
クロウスの中には並々ならぬ意志が炎のようにゆらめいている。それは王に対する揺るぎない恩義でもあったが、同時に足かせにもなっていた。
優柔不断な頭を掻き回すと、つくづく自分の不甲斐なさや無力感に失望してしまう。
だが迷っている時間はもうほとんど残されていない。イシュベルを引きずりおろす策は何かないか。
ユーロドスとのつながりを決定づける証拠は……? 彼女の弱みは? なんでも良い、動き出すための何かが欲しい。
何か、彼女が大切にしているもの……。
――そうだ。
クロウスは目を見開くと、興奮した様子でキューズを驚かせた。
「売却はしない。代わりに、イシュベルの宝を人質にするというのはどうだ」
「は?」キューズは顔をしかめてみせた。「人質…ですか?」
「あれだけの執着心だ。金貨一枚でも消えれば激怒するだろう?」
「ええ、おそらくは…」
「だからあえて隠すのだ、奴の財宝を」
まだ納得のいかぬ様子のキューズに、クロウスは力強く続ける。
「そして隠した場所を教える代わりに、女王の座を降りていただこう」
少しお待ちください、とキューズは手をあげてクロウスの勢いを制止した。
「それは恐喝するということですか。立派な犯罪ですよ。先ほども申し上げましたように、クロウスが国賊とみなされてしまっては元も子もありません。それに、せっかく登りつめた女王の座を、宝のためとはいえ素直に降りるとも思えません」
案の定、厳しい反論がクロウスの耳に入り込んできた。
負けじとクロウスは説明する。
「最悪イシュベルが王座を降りずとも良い。王との対談を実現できればそれだけで御の字だろう」
むしろそれが狙いでもある。
王の考えを知ることさえできれば、自分の気持ちも岩のように硬くなるはずだとクロウスは信じている。王の出方次第では、決別をする覚悟もまた決まるだろう。その時はラルゴの言うように「力」を持って解決を図るであろうことも頭にいれておかねばならない。
「そのためには、お前の助けも必要だ。イシュベルがどこに宝を隠しているのか、知っているのだろう?」
「それは、私にも共犯になれと? ある意味反乱ですよ」
しばらく口を結んでいだキューズだったが、渋い顔をしてみせるとどこか冗談めいて言った。
「聞こえが悪いな。いやか?」
「いえ」
「お前とて、国の財政を間近で見てきたのだから、いまがどれほど危険な状態かは痛いほど分かっているだろう」
「もちろんでございます。しかし、王の返答次第ではどうされるおつもりで?」
「その時は…」
クロウスは目を伏せると、「覚悟を決めねばならんな」と呟くように言った。
キューズは改めて嘆息してみせると、降参するかのように両手をあげた。
「大将軍殿が決めたことであれば。それに、何もせぬよりは精神的にも良いでしょうから」
それまで嫌がっていたキューズだったが、急に「面白そうだ」と言わんばかりに口の端を釣り上げた。
「それとクロウス、もうひとつ気になることが」
キューズは妙に神妙な顔を作ると、前のめりになってクロウスと向き合った。
「まだあるのか」
「人質とは人のこと。では宝なら、これは宝質になるのでは?」
最後になって茶目っ気を見せた老騎士を、大将軍は「なんだそれは」とにこりとも笑わずに一蹴した。
-Ⅱ-
深夜、夏の虫すら鳴かなくなった時刻にふたりは宝物庫へと向かった。王宮内は恐ろしいほどにしんと静まり返っていた。まるで王都全体が息を止めたかのようだ。
結局、国の宝は隠すでもなく宝物庫にぎっしりと詰め込まれているそうだ。それなりに大量であろうから、宝物庫以外に収まる場所もない。当然と言えば当然か。
この作戦が果たして功と成すかどうか、正直分からない。客観的に見れば馬鹿げた作戦だとも思う。それでもいままでに考えたものの中では、一番現実味があったし、これまでが硬派なクロウスにしては意外性があった。とはいえ、いい加減何か行動に出なければという焦りが背中を押したのもまた事実だ。
問題は宝を隠され、脅された時にイシュベルがどう反応するかだった。普段は理由もなく毅然としているが、宝が絡むと狂ったように人が変わる。どういう結果が生まれるのか、まるで想像がつかない。
手元も十分に見えるかどうかというほどの月明かりを頼りに、ふたりは薄暗い通路を忍び足で進んだ。
「キューズ、引き返すならいまのうちだぞ」
答えは分かってはいるが、クロウスは聞かずにいれなかった。キューズを巻き込んだことに若干の後ろめたさを感じていないわけではない。
「今更何をおっしゃいますか」
キューズは平然として温かい笑みを浮かべる。
聡明で経験豊富な老紳士を見やると、なんとも心強く感じた。この重荷も、彼の助けがあるからこそ背負うことができている。
「いまや国の財産のほとんどが宝石や金に変わりました。いわばそれらがバグラガムの全財産とも言えます。それほど大事なものですから、定期的に確認するのも私の役目でございます」
「そうか、すまんな」
クロウスは表情も変えずに答えたが、心の内では深く感謝した。
遥か古の時代より、プロト王国の輝かしい繁栄を映しだしてきた宝が宝物庫には数多く眠っている。それもいまやイシュベルという妖婦によって、誇らしき歴史はガラクタ同然に踏みにじられてしまっているのは、言うまでもない。口ばかりのあの女に歴史など到底理解できないだろう。自らの祖先が継ぐんできた誇りを無下にされているようで、気分が悪い。
目的地に到着すると、クロウスはまず周囲を警戒した。
宝物庫を守る見張りはいない。自らの兵士ですら信用していないというイシュベルの、宝に対する執着心には脱帽ものだ。だが、その徹底した独占欲が、クロウス達を容易に侵入させてしまう原因となったのは皮肉なことだった。
ここまでは驚くほどに順調。
「とにかく、一度中身を見て見ぬことにはなんとも言えんな」
国の財政にからっきし疎いクロウスが、宝物庫の中を見るのは初めてだ。
「それに、宝を全部運び出すというのも考えてみれば無理な話だったかもしれん」
蚊ほどの声でクロウスは笑った。どちらかというと自嘲に近い。
宝と言っても、どのくらいの量があるだろうか。
山のように折り重なった宝の数々を想像してみる。よくよく考えてみれば、一日で運べる量でもないだろう。早くても二、三日は平気でかかるはずだ。はっきり言ってそんな悠長な時間はない。
「別に全てを奪ってしまう必要はありません」
キューズは肩をすくめた。
「価値の高いものを数点いただくだけで良いのでは。それだけでもイシュベルにとっては我が子を奪われるも同然でしょう」
「だが宝の価値など、俺には分からんぞ」
産まれてこのかた武道一本だったクロウスにとって、宝石や金などはどれも同じに見える。
「ならば、私にお任せください」
キューズは得意げな顔を見せた。
クロウスは目を細めてみたが、自信に溢れる顔を見て何か言うのをやめた。
そしていま、ふたりの前に巨大な鉄製の扉が立ちふさがっている。
ただでさえ重く分厚い扉だというのに、そこにあるのは物理的な重みだけではなかった。いままでに宝を守り抜いてきたのだという重責の重みが物言わぬ迫力となってふたりを圧倒する。
よく見てみると、隅の三か所に厳重な施錠が施されていた。まだ新しいもののようだ。
イシュベルか。
おそらく用心の為に鍵を増設したのだろう。どの鍵もイシュベルが持っているに違いない。クロウスはたまらず舌打ちをするが、踵を返そうとしたところでキューズが微笑んだ。
「何事も用意あってこそですよ」
さすがと言うべきだろうか、こういうこともあろうかと、キューズが事前に鍵の複製を準備していたようだった。
「イシュベル自身に直接鍵を取り付けることなどできませんからな。こっそりと鍵屋に頼んでおいたのです」
口に手を当てて小声でそう言うと、キューズが老いたぎこちないウインクをしてみせる。
ひとつ、ふたつと錠が開く。そのたびに鍵の開く音が鈍く響き、クロウスを冷や冷やさせた。
後ろを振り返ると、暗闇に染められて異様な静寂に包まれたままの通路が伸びている。
いまにも闇の中から妖しげなオーラを纏ったイシュベルが現れるのではないか…。
クロウスは身ぶるいした。イシュベルなど恐れるに足らない存在だと、いままで見下してきたつもりだった。だが、ひとつだけ、気になっていたことがある。
気味が悪いあの妖艶な雰囲気。たまに彼女が人間ではないのではないかと思わせるその妖しさが、どうしても不気味だった。
しばらく通路から視線を外すことが出来なかった。後ろを見せれば、背後からあの女の手が伸びてくるように思えたからだ。
しかしそれも杞憂に終わる。
最後の鍵があっさりと開いた。
ふたりは互いを見合って小さく頷くと、両開きの扉をゆっくり、静かに押した。
小さいが金属と金属がこすれあう音が誰かの引き笑いのように静かに響く。扉はその重厚な見た目に反して、やけに軽かった。あまりの奇妙な軽さに、一抹の不安を感じずにはいられない。
隣のキューズも緊張した面持ちでいる。
人がひとり入れるほど扉が開くと、滑りこむようにしてふたりは中に入った。
勝利のカギがここにある。クロウスは作戦の成功を確信した。
だが……。
愕然とした。思わず何度も瞬きを繰り返す。
そこにはあるはずの物がなく、いないはずの者がいた。
「あら、おふたりとも。これはどういうことかしら?」
その女の蛇のような鋭い眼光に睨めつけられると、ふたりは思わず毛が逆立つような感覚を覚えた。
イシュベル……!
彼女はまるでふたりがここへ来るのを知っていたかのような薄気味悪い表情を浮かべている。
そして切り札ともなりえるはずだった宝の山が、そこにはなかった。
宝物庫の中には赤のローブを着た女以外、ほとんどなにもない。真っ白な壁に四面を囲まれた、いまや宝物庫とは呼べぬであろう部屋には、ふたつの皿を持った台座がひとつぽつりと残されているだけだ。
おかしい、どういうことだ。クロウスは振り返った。
キューズの顔にも、はっきりと戸惑いの色が表れている。彼はユーロドスが献上した宝石類がここに運び込まれていくのを確認していたと言っていた。
「何故だ……」
目を見開いたキューズは呪文を唱えるかのように、ぼそりと呟いた。
宝をどうした、とクロウスが睨みつけると、イシュベルは不敵な笑みを返す。クロウスの無言の質問には答えず、「やはり、転移石を盗んだのはあなたたちだったのね」と笑いながら言った。
転移石?
それはクロウスでも知る宝のひとつだった。その価値が最高かどうかはともかくとして、歴史に名を残すほどの有名な宝石だ。プロト国にいまやふたつしかない。おそらく、あの空の台座に乗っていたのだろう。
「いえ、陛下。我らは何も……」
キューズは弁明しようとしたが、イシュベルの呆れたような態度に遮られてしまう。
「ああ、キューズ。何も言わなくとも、あなたが定期的に宝物庫に出入りをしていたのは分かっています。夜な夜な宝石を運び出していたのでしょう?」
「滅相もない。盗みなど一切働いておりません。これは、国の財政状況を確かめるためで」
「国王は何とおっしゃいましたか? 国のことは私に一任されるとおっしゃられたはずです。国財の管理も例外ではありません。そのくらい、あなたなら分かっていることでしょう」
イシュベルが物も言わせぬかのように割って入ると、見下すような眼差しがふたりに向けられる。
「イシュベル陛下。どうかまずはお話を。我らは確かに許可なく参りましたが、転移石どころかどの宝にも決して触れてはおりませぬ。来た時には陛下もご覧の通り、もう何もなかったのです」
クロウスはなおも引き下がらなかったが、彼女に話を聞く気など微塵もないようだ。
「結構です。こんな真夜中に、合鍵まで作って宝物庫でやることと言えばひとつしかないでしょう? 見苦しい言い訳はおよしなさい。話ならたっぷりとお聞きしますわ」
妖艶な女の両目がきらりと光る。
「牢屋でね」
互いに目を合わせるふたりに構うことなく、イシュベルは宝物庫の扉を開け放つと、「衛兵!」と勝ち誇ったかのような歓喜の声を上げて兵士を呼んだ。数秒遅れて兵士達の走る音が宮殿内に幾重にも反響し始める。
いま、新たな危機が増え、クロウスの案がまたひとつ潰えた……。
クロウスの肩にそっと、絶望の片鱗が手を乗せる。




