第4話
「……!」
その聞き覚えのある優しげな声に、白亜の細い目があらん限りに見開かれる。
「死霊如きが俺様に刃向かうのか!」
顔をトマトのように真っ赤にした男は、鼻息も荒く地団駄を踏んだ。
「事実を言ったまでなんだけどね」
光の球の声は皮肉に充ち満ちた口ぶりで、五百歳児の男にそう言った。
「黙れ! 人の子を助ける吸血鬼なんかいない!」
「君の常識を、一般常識みたいに言わないでもらえるかな」
そう言った声が、呆れたようにため息を漏らすと、
「は? 人間が餌なのは常識だろ?」
男は、物を知らない人を見下すように言い返した。
「彼は相変わらずだね、白亜」
声の主は冷笑して、白亜にそう問いかける。彼女は戸惑いを隠せない様子でそう頷いた。
「お前っ! 主人に向かってその、それはなんだ!」
光を殴ろうとして、当然手がすり抜けた男は、怒りすぎて言語能力が低下している。
「僕はおたくを主人なんて、思ったことないけどね」
ザックリとぶった切った所で、光が僅かに揺らぎ、徐々に光が弱まり始めた。
「おっと、もう限界らしい」
じゃあね、白亜。と別れを告げるその声は、寂しげな色を帯びていた。
「待って!」
彼女は消え行く光を前に、金切り声に近い叫び声を上げる。
「白亜にはもう、僕が居なくても大丈夫なはずだよ?」
その慣れ親しんだ暖かな声は、涙を流す白亜を包み込んでくれているようだった。
「……ない。……やだ」
嗚咽を漏らしながらそう言って、何度も何度も首を振る彼女に、
「そんな事はないよ。君にはもう、大切にしてくれる人が居るじゃないか」
もう既に、微かになっていた光は、白亜に優しく言い聞かせる。その脳裏に、自分へと微笑み掛けてくる西浦の顔が思い浮かぶ。
「で、も……」
笑顔を自分に向けてくれるのも、大切にしてくれたのも、正体を知らなかったから。彼はきっとその内、自分を置いてどこかに行ってしまうだろう。
西浦と出会ったときから、彼女はずっとそんな事を考えていた。
「あの人……、は」
彼は正体を知っても、全く気にとめる様子は無かった。だけど、吸血するところを見ても同じ事を言ってくれる訳が無い。
「大丈夫さ。彼は何があっても、必ず君の傍に居てくれるよ」
その思いを見越したかのように、光はそれだけを言い残して、完全に消えてしまった。
すると、怒りに震えて言葉を発すことさえ出来なかった男が、
「思い上がるな人間もどきが! 貴様は俺様の食料なんだ! それ以外に貴様に価値は無い!」
顔をまた一段と赤くしてやかましく喚く。
「……違う。私は白亜。お前の食べ物なんかじゃ、無い」
白亜は初めて、男に向かって反抗的な態度をとった。
それが気に食わなかった男は、訳のわからない声をあげ、白亜の首筋に噛みついて吸血を始めた。その獣の様な有様を見る彼女の表情は、哀れな物を見るそれだった。
男に血を吸えるだけ吸われた白亜の肌に、蜘蛛の巣状のひび割れが走る。
「美味いなあ! これだけ美味い血を出すんだ、間違いなく貴様は食料だ!」
グッタリとしている白亜を指さして、男が馬鹿笑いをしていると、
「ああ、五月蠅い。キメラでもいるのかな?」
上空から飛来したセルシアが、容赦無く男の背中に槍を突き立てた。彼女は槍を力任せに振るって、刺さっていた男を壁に叩きつける。
「大丈夫? ってあんた死にそうじゃん!」
先程の様にセルシアは、血の球を作ろうとしたが、その背中に凄まじい殺気を感じた。
「後ろ」
白亜の警告と同時に彼女が振り返ると、目を血走らせた男が、片手剣を手に襲いかかってきた。
「あぶなっ!」
完全に目がイっているそれの斬撃を、セルシアは槍の柄で何とか弾いた。
「何かこいつ……っ」
奇声を上げて猛烈な連撃を加えてくる男に、彼女はみるみる押されていく。
「強くなってない!?」
男は前回とは違って、反撃の隙が全くと言って良い程ない。
その様子を、どこか別世界の出来事のように、白亜はぼんやりと見ていた。
「……あ」
ふと彼女は、ひび割れた自分の身体から、細かな灰が出始めたことに気がついた。だが、特に慌てるでも無く、どこまでも冷静にそれを見ていた。
「ヤバイ!」
男の相手で手一杯な彼女には、精気の補充をしてあげる余裕は無い。
「……?」
まもなく白亜の身体から、徐々に感覚がなくなってきた。灰の落ちる量が僅かずつ上昇していく。
「っ……」
彼女はまどろむような感じを覚え、徐々に視界がぼやけ始めた。
*
白亜がまだ人間だったころ、彼女はアルビノで生まれた、というだけで親から育児放棄同然の扱いを受けた。赤ん坊のころから十数年間、白亜は、一応は実の親の元で過ごしていたが、
「お前は要らない子なの。二度と姿を見せないで。……本当に気味悪いわ」
十二歳の誕生日を迎えた彼女は、その存在を一番疎んでいた母親の手によって、どこか分からない山奥に捨てられた。
そこは、鬱蒼と生い茂る木々のせいで月の光も遮られ、森の中は完全な暗闇に覆われていた。
なんとか人の居る所まで出ようと、山中を彷徨った白亜は、目の前の崖に気がつかずに滑落してしまう。
下の沢まで滑り落ちた彼女の腹部を、先の尖った枯れ木が容赦無く貫いた。
「ああああッ! ああああ――ッ!」
静かな山間に、甲高い悲鳴が響き渡る。太い血管を傷つけたようで、傷口から血がだくだくと流れ出す。苔だらけの地面が赤い色に染まっていく。
死ん、じゃう……?
白亜は薄れていく意識の中、ぼんやりとそんな事を思っていると、
「これは大変だ」
突然、羽ばたくような音がして、ランタンを手にした青年が目の前に現われた。彼は白いシャツに、黒いパンツというシンプルな格好をしている。その瞳は、薄っすらと赤色に光っていた。
「君は、生きていたいかい?」
青年は白亜の白磁器を思わせる美しい肌に触れる。どこまでも優しい目をした彼は、彼女にそう問いかける。
「う、ん……」
いつの間にか涙を流していた白亜は、ほとんど本能的に彼に助けを求めた。
「わかった。ちょっと失礼するよ」
彼は、ぼろ切れのような服の襟を引っ張って、彼女の細い首筋を露わにする。
「痛かったらごめんね」
そう言ってから、青年はその首筋にそっと噛みついた。
「……っ」
やけに心音が大きく聞えている彼女は、何かが身体に浸透していく感じを覚える。
それが収まると、何故か腹部の痛みが消えていた。
「これでもう、大丈夫だよ」
安心させるように穏やかに笑う青年は、どこからか出したナイフで枯れ枝を切った。
身体に刺さった木が引っこ抜かれると、
「――!?」
致命傷だったはずの傷が、瞬時にふさがった。
「悪いね。流石に人間のまま、という訳にはいかないんだ」
困った表情の彼は、後頭部をポリポリと掻く。
きょとんとしている白亜は、彼が何を謝っているのかよく分かっていない、といった感じで青年を見上げる。
「つまり君は、お母さんの所に戻れないんだ」
穏やかな表情の青年ではあるが、その事を説明する時、彼はどこか辛そうだった。
「いい」
だが、その予想に反して、彼女は特に嫌がる様子はなかった。
「お母さんが、君の帰りを待っているんじゃ?」
ありがちな、勢いだけの家出だと思っていた彼だが、
「要らない子。気味悪い? 帰ってくるな?」
自分を指さして、平然とそう言う白亜の言葉に、青年は耳を疑った。
「それを……、言われたのかい?」
彼がそう訊ねると、その目を真っ直ぐ見て、コクンと白亜が頷いた。
「何てことを……」
青年は憤りが隠せない様子で、ボソッとそうつぶやいた。
「……どうして?」
何に怒っているのか、その時の白亜には理解出来なかった。
「あ、君に怒っているんじゃないよ」
呆けたような顔で立ったままの彼女に、彼は優しげな笑みを向ける。
「君は、要らない子なんかじゃないし、気味悪くなんてないんだ」
神秘的に真っ白な少女を、青年はふんわりと腕で包み込み、静かに涙を流していた。
「……」
生まれて初めてそんな事をされた彼女は、ただただ不思議そうな顔で、彼の顔を見上げているだけだった。
「変なところ見せちゃったね」
涙を袖でぬぐい去ると、彼の表情は普段の柔らかなそれに戻っていた。
「ところで、君の名前はなんだい?」
成り立てでまだ飛べない白亜を抱きかかえ、青年は街中へ向けて飛んでいる。夜空には、まばらな雲とやけに大きな月が浮かぶ。
その質問に、白亜はかぶりを振り、無いのかい? と、訊くと首を縦に振った。
「じゃあ、僕が付けて良いかな?」
彼女が再度頷くのを確認してから、
「そうだな……。よし、君は、『白亜』だ」
青年は少し考えた後にそう名付けた。
「白亜……」
彼女は小さな声で、初めて自分に付いた名前を繰り返す。
「気に入ったかい?」
青年は白亜が肯定したのを見ると、
「良かった」
安心したように小さく笑った。
それから二人は、あちらこちら移動しつつも、穏やかな毎日を過ごしていた。
五年の時が過ぎたとき、そんな日々は突然に終わりを迎えた。
第5話につづく