第1話
「おつかれしたー」
駅周辺の一等地にある、レストランの重い鉄製ドアの裏口を開け、一人の若い男が出て行こうとする。営業時間はとうに終わり、片付けと掃除も終了して、後は従業員達が帰るだけになっている。
「西浦にしうらくーん、どっか飲み行こうぜー」
その背中に他の従業員の男が、その若い男――、西浦を呼び止める。従業員の後ろには他に何人かの同僚がいた。
「わり、ちょっと今日も無理だ」
彼は顔の前で手刀を作り、頭を何度も下げて詫びる。
「おおそうか」
「悪いけどまた今度な」
もう一度詫びた西浦はドアを閉めると、足早にビルの谷間の細い道を進んでいく。
居酒屋にやって来た従業員達は、好き勝手に彼の帰宅理由を想像していた。
「拾ってきた猫が気になるのかねえ?」
「とか言って女の子待たせてるんじゃね?」
その場にいた全員が、その予想に納得した。
「もてるからねえ、西浦君」
その頃、近所のスーパーに来ていた西浦は、大きなくしゃみを二回もしていた。
誰か噂してるのかな?
会計を済ませた彼が持っている袋には、割引された鶏肉が入っていた。それは『同居人』の大好物だ。
音楽プレーヤーに繋いだイヤホンを耳に挿し、西浦は歩きながら大物シンガーのラジオを聴く。
ラッシュアワーは遠く過ぎ去って、オレンジ色の街灯が照らす幹線道路には、自動車の往来がほとんどない。
さて、何を作ってあげようかな?
料理が出来ない『同居人』は、いつも帰りが遅い彼を待ち、腹をすかせて彼の自宅マンションにて待っている。
イヤホンから流れてくる、愛する人へのバラードに合わせて、西浦は鼻歌を歌いながら帰路につく。
「わお、いい男じゃん」
背にコウモリのような羽が生えた十代後半ぐらい少女が、満月が浮かぶ遥か高い上空から、西浦を舌なめずりしつつ見下ろしていた。
駅に近い好立地の高層マンションに、西浦の自宅はある。大理石のエントランスから、エレベーターに乗り上階へと向かう。
「ただいま、っと」
ドアを開けると室内の明かりはついておらず、巡回するルンバの駆動音が微かに聞えるだけだった。
「電気ぐらいつけたら良いのに……」
鍵を閉めた西浦は、スニーカーを脱いでから壁のスイッチを押した。
もう寝てるのかな?
廊下の突き当たりにある、磨りガラス付きのドアを開けると、
「ただいま、白亜はくあ」
部屋の隅で体育座りする『同居人』――、白亜と呼ばれた小さな少女は西浦を見た。
「……」
コクン、と頷いた彼女は、男物のパーカーを着ていてそのフードを被っていた。細い瞼の奥から真っ赤な瞳が覗き、漂白したように白い髪と肌がそれを際立たせる。
折れそうに見える細い脚を、腿の辺りまで黒いスパッツが覆う。
「肉買ってきたんだけど、何作ろうか?」
レジ袋からパックを取り出して白亜に見せる。
「この前の……」
尻すぼみな白亜の声は、鈴の音のように高く澄み切っていた。
「ハーブ焼き?」
彼女は無言で首を縦に振り、言いたいことを言ってくれた西浦に同意する。
「オッケー」
大量の調味料が並ぶキッチンに立ち、手を念入りに洗ってから、まな板をスタンドから引っ張り出す。
「……あ、切れてる」
山の中からオリーブオイルの瓶を取り出すと、中身が空になっていることに気がついた。
「大丈夫! ストックは……、ないな」
凡ミスをかました西浦を、白亜はジト目で凝視している。
「買っとけば良かった」
肉のパックを冷蔵庫のチルドに入れ、西浦はさっきまで背負っていたバッグから、サイフを取り出してポケットに入れる。
「悪い、すぐ帰ってくるからな」
ご飯はもうちょい待ってくれ、と、そのままで横になった白亜に言う。彼女の膝にルンバがアタックして方向転換した。
「……一緒、行く」
ゆるゆると立ち上がった白亜は、ぶつ切りな口調でそう言って、西浦の隣にやってくる。
「わざわざついて来なくてもいいぞ?」
かぶりを振った彼女は無言で、ひょろりと背が高く、整った顔立ちの彼を真っ直ぐ見上げる。
「わかったよ。一緒に行こう」
愛想はないがとても美しい彼女に見据えられると、西浦は反論する気が無くなってしまう。
二人がエントランスから外に出ると、初夏とはいえ少し肌寒さを感じる気温だった。
「寒くないかい?」
白亜に合わせて歩を緩める西浦は、そう言って自分の着ている上着を脱ぐ。
「平気」
少し伏し目がちな彼女は、か細い声でそう言ってそれを固辞した。
ゆっくりと手を繋いで歩く二人は、マンションのゴミ捨て場の辺りまでやって来た。
――そういえば、初めて会ったのはここだったっけ。
神秘的な少女・白亜は、突然に西浦の前へと現われた。
それはどこか、不意に現われた流れ星にも似た、偶然の出会いだった。
*
数ヶ月前のある日、いつもと同じように仕事をし、その後の飲み会を終えた西浦は、睡魔と闘いながら帰路についていた。
家帰ったらさっさと寝よう……。
彼が大あくびをしつつ歩いていると、冷たいLEDの街灯が照らすゴミ捨て場に、見慣れないなにかを見つけた。初めは人形かとも思ったが、それにしては大きすぎる。
少々気になったので、一応確認するために近寄ってみると、
って、女の子じゃないか!
そこにいたのは、体育座りをしている少女だった。
彼女は捨てられていたジャケットを着て、寒さをしのごうとしている。だが、下はスパッツしか穿いておらず、ほぼむき出しの脚ではしのげようもないのは明白だった。
「やあ、お嬢さん。家出かい?」
彼がわざわざ話しかけたのは、それを不憫に思ったのもあるが、とても目を惹く可愛らしい少女だったこともある。
「……?」
ゆっくりと見上げた彼女の目は、生きているのか死んでいるのか分からない、虚ろげな目をしていた。
「こんな所にいたら危ないよ?」
西浦は小さな子どもにするように、しゃがんでその子に目線を合わせた。
「……」
鮮血のように赤い瞳は、ぼんやりと西浦を見つめている。
見れば見るほど日本人離れした、彼女の西洋美術のような美しさに、西浦は魅了されていくようだった。
「ほら、悪い大人がくるかもしれないし」
コクン、と彼女が相づちをうつと同時に、その腹の虫が空腹を訴えてきた。
「……お腹、減ったのかい?」
ニコリと笑った西浦がそう言うと、彼女本人も二、三度頷いた。
「なら、そこの公園で待っててくれ」
ゴミ捨て場の向いにある小さな公園を指さすと、彼女はまた一度頷いた。
なるべく急いで部屋に戻った西浦は、塩おにぎりを一つを作った。それから、ラップで包んだ味噌を冷蔵庫から出し、保温容器に入れて湯で溶かす。これには粉末出汁が混ぜてあり、容器の中で即席の味噌汁が出来上る。
それを手に公園に行くと、少女はベンチに座っていた。
「またせたね」
小走りにやって来た西浦はその隣にすわって、ラップで包まれたおにぎりと味噌汁を手渡す。
「……」
彼女は相変わらず無言で、手にするおにぎりをじっくりと眺めている。
「悪いね。それしか出来なかったんだ」
苦笑いする西浦に、少女はかぶりを振ってからラップを解く。
「……!」
彼女はそれを一口食べると、細い目を見開いて固まった。
「しょっぱかったかな?」
否定のジェスチャーをした少女は、一心不乱におにぎりを食べ始める。
「喉につまるよ」
満足そうに眺めていた西浦は、彼女に保温容器の蓋を開けて渡す。彼女は頷いて、ちょうど良い温度の味噌汁をすする。
それらを食べ終えた彼女は、その目から大粒の涙を溢し、膝の上の真っ白い手の甲を濡らす。
困惑したように目元を拭うが、後から後から涙がこぼれ落ちて止まらない。
「そんなに美味しかったのかい?」
西浦はポケットからハンカチを取り出し、ニコリと笑ってそれを少女に手渡した。それを受け取った彼女は、否定とも肯定ともとれない反応をする。
なにか辛いことでもあったのかな?
ならそれを思い出させまいと、西浦はあえて詮索をしなかった。
「ところで今夜、泊まるところはあるのかい?」
彼は彼女が泣き止むのを待ってから、少し改まってそう訊ねた。
首を横に振った彼女の、目元と鼻が真っ赤になっている。
「そうか」
ポケットのサイフから、五千円札を取り出して彼女に渡す。
「それで家に帰るなり、泊まるなりしてくれ」
じゃ、と手を挙げて、西浦はマンションの入り口まで帰る。
アレで、良かったんだよな?
彼が何となく来た道を振り返ると、
「おわっ」
相変わらずぼんやりとした瞳をして、先程の少女が後ろに立っていた。その手には五千円札が握りしめられている。
「あー。いや、そういうアレじゃなくてだな……」
なにやらアウトなお金だと勘違いしている、と思った西浦は、いかがわしいつもりが無い事を説明する。
「……?」
不思議そうな顔をするばかりの少女は無言で、スッ、とお札を差し出した。
「いや、返さなくていいから」
そのまま微動だにしない彼女をしばし説得をすると、やっとそれをよれたパーカーのポケットに仕舞った。
「今度こそじゃあね」
カードキーでエントランスのドアを開けた西浦は、エレベーターのボタンを押して、籠の到着を待つ。
「不思議な子だったなあ……」
ちょうど到着したエレベーターに、乗り込んだ彼がそう独りごちる。
「……」
「うわっ」
十階のボタンを西浦が押した所で、先程の少女が後から乗り込んできた。
「えっと……、俺、仮にも男だよ?」
西浦は自分の顔を指して言うと、無言で相づちを打つ。
「世の中にはね、悪い男の人がいてね」
「……」
「こういう狭い所は余計に危ないんだ」
「……」
西浦が一言いう度に、彼女はコクコクと頷く。何だかんだやっている内に、目的階についてドアが開いた。
「今度から気をつけるんだぞー」
彼は降りる際に一階と閉じるのボタンを順に押した。
……懐かれちゃったみたいだな。
あまり悪い気はしていない彼は、肩掛けディバッグの中に手を入れて部屋の鍵を探す。
やっと見つけ出したところで、籠の到着を知らせる電子音がした。
「おぅっ!?」
何気なくそちらを見ると、さっきの少女が降りてきて、お互い沈黙したまま見つめ合う。
その後、西浦は何事も無かったかのように、ドアの鍵を開けて帰宅した。
「……」
鍵を閉めた彼がのぞき窓から外を見ると、突っ立って窓を凝視する少女の姿が見えた。その表情からは、感情を感じ取る事ができない。
……まあ、その内帰るか。
と、思った西浦は、シャワーを浴びてから洗濯機を回し、水回りをそれなりに時間を掛けて掃除した。
「まだ居るかな?」
もう一度外を確認すると、少女がコンクリート製の柵に背を預け、体育座りをしていた。
「えっと、俺の部屋に泊まりたいのかい?」
根負けした西浦は、ドアを開けて彼女にそう訊ねる。すると少女は遠慮がちに頷いて、部屋の中にトコトコと入ってきた。
「本当にいかがわしい事はしないからね!」
居間へと入って窓際の壁の前に座った彼女は、必死に予防線を張る彼を、首を傾げて不思議そうにみている。
「その、つもり、なら……」
少女が口を開くと、途切れ途切れだが、美しいソプラノボイスが発せられた。
「もう襲ってると?」
二度頷いた彼女は、自分の胸に手を当てて、
「……襲う?」
「いやいやいや! それしたら犯罪!」
とんでもない事を割と真剣に言い、西浦を大いに動揺させる。
「女子高生でもアレなのに、中学生は余計まずいよ!」
一応、相づちをうった彼女だが、何がまずいのかはいまいちよく分かっていない。
こんな具合で純白の少女・白亜は、彼の部屋に住み着く事となった。
*
「うーん、置いてないか……」
近所のコンビニを回ること三店目、一向にオリーブオイルは見つからない。
「……これ」
西浦が困り顔で後頭部をポリポリ掻いていると、白亜がトマトジュースを持ってやって来た。
「欲しいのかい?」
「ん」
それだけを購入して、二人はコンビニを後にする。
「すぐって言ったのに連れ回して悪いな」
「……気にする、だめ」
西浦が苦笑して謝罪をすると、隣を歩いている白亜はかぶりを振った。
時間的にはもうすっかり深夜に入り、全く車が通らなくなった。信号機の赤点滅の光がが、真っ暗なビルの壁面に反射する。
「はあい、そこのお兄さん」
24時間営業のスーパーに向かって歩いていると、後ろから艶っぽい声が聞えた。
「何かご用かなおじょ――」
西浦は、爽やかな笑みを浮かべて振り返った。
「おおっ?」
するとそこには、声通りの美女がいたが、
「……!」
彼女のその背中には、悪魔の様な黒い翼が生えていた。
第2話に続く