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「と、そんなことがあった」
「痛かったのう」
一か月で伸びた玄の髪の毛を引っ張りながら雪がしみじみと語っていた。
呆れながらが坂田が言った。
「何をしてるの君たちは……」
「まったく。頭が痛い……」
田辺も言って、二人は揃って唖然とした。
猪木村の立ち合いから数日後、玄はひと月ぶりに登校していた。
担任の合田には前もって、修行に出ると事実をありのままに連絡していた。彼はそれでよしと納得してくれたのだ。友人の二人には理由を告げずに休んでいたため、補習を受けたあとの放課後、一か月ぶりの将棋に興じながらこのひと月の間にあった出来事を語っていたところだ。
「それで、玄が雪を倒して、それからどうなったの? 王手」
坂田が駒を動かした。玄が唸る。
「俺はその日のうちに家に帰って休んだよ。雪に何があってまだここにいるかは知らない」
玄は駒を逃がす。話を振られた雪は苦笑いを浮かべながら答えた。
「なにも。おじいちゃんとおばあちゃん、それと海外にいるお父さんとお母さんは、自分に必要なことを考えなさいと言うだけじゃった。まあ、才能あるがじゃき、修行をせえよってことじゃよ。ちゃんと、合気道の」
そこで、雪はすっと通った鼻筋をなでる。先日は畳に衝突して潰れて血が出ていた。
「そんで、ここに残ることにした。東京には合気道の総本山いうんもあるしの。それに、玄は見よっておもろいんじゃ。こいつの奇人っぷりはのう」
「失礼な女だね。人を変態呼ばわりだなんて」
「僕はわりかし納得した」
坂田は同意した。田辺も、うんうんとうなずいた。
「真実そのとおりだもんねえ。私と坂田もそう思ってたし」
「失礼な友人たちだね。まったく! まったくまったく!」
口だけで怒り、玄は将棋の駒を進める。今回は歩だけを敵陣に攻め込ませずに、じっくりと坂田の攻めを受け止めている。そして、充分駒を奪ったところで、攻める。
玄の将棋は粘っこく、しつこくなっている。それでいてポリシーは崩さない。歩を、まさに一歩ずつ進行させて、敵の陣地に喰らいつく。
そして、敵陣に侵入した瞬間、本来弱い駒である歩は銀を越えた『と金』に成る。それを成金という。
「御命頂戴!」
強く、声高に叫び、玄は坂田に王手をかけた。
「ついに、ついに来たか玄ちゃんよお!」
坂田は楽しそうに逃げていく。粘っこく、玄は追い、数手を経て、
「負けました」
坂田が頭を下げた。
雪は一人首をかしげ、拍手をしている田辺に尋ねた。
「なんじゃ? この下手な将棋がどうしたんじゃ?」
「歩を馬鹿みたいに使いまくる将棋で初勝利を挙げたんだもの。讃えなくては」
「はあ、新入りのあたしにゃ、いまいち実感がわかんもんじゃが、何連敗だったんじゃ?」
玄は両腕を組み、神妙な面持ちで答えた。
「中学から数えて四百二十九連敗だ」
すごいもんじゃなと、雪はどこか感動の篭った口ぶりでそう言った。
負けた坂田もどこか嬉そうに駒を片付けていく。そのさなかにふと尋ねてきた。
「でさあ、これも素朴な疑問なんだけど、雪ちゃんってどこに住んでるの? 家は四国でこっちに親がいるわけでもないんでしょ?」
「この前までは梶さんが用意してくれたアパートにいたが、今はこいつのとこじゃ」
雪は玄を指差した。坂田と田辺が目を丸くする。
「ま、こいつはおもろいから気に入ってもうたんじゃよ。いいのう。好きじゃよこういう男。ぬふ、ぬふふ、ぬふふふふふふ」
眼光を獰猛に輝かせる。ちっとも変わっていない。反省はしても、彼女の本質はそのままだ。狭く、よそとの交流もない猪木村では満足できないのも道理だった。
「普通じゃない者同士惹かれあうってことね」
田辺は納得していた。坂田もそういうもんかなあと言いながら、玄へまた別の質問を投げかけてくる。
「それ大丈夫なの? 同性とか親戚ならともかく、赤の他人で異性なわけじゃない。なんとか異性交遊でアウトにならないの?」
「俺もそう思った。ところがな、雪が合田に、互いに切磋琢磨するために同居するなんてこと言ったら感涙されて、許可をしてくれた。言いくるめる必要もなかった」
「あたしのほうが呆気にとられた。いいやつなのか、単なる馬鹿なのか。じゃのう」
雪はぬふぬふ笑っている。周囲には彼ら以外にいないので、誰にも気兼ねすることなく本性を丸出しにしている。
四人がその後も他愛もない時間を過ごしていると、突然玄の携帯が震えだした。
「電話だ」
黒崎からの番号だった。玄は三人に静かにしてもらって電話に出る。
「もしもし。どうしました?」
「玄さん、今夜は暇ですか?」
「暇ですけど、なんです? また梶さんがなにかしましたか?」
「え、あ、まあ、そうです。今夜七時からの『スポーツクラッシュ』で」
それはテレビのバラエティ番組だ。野球やサッカーを中心に毎回プロアマを問わず多数のスポーツ選手をゲストに呼んで、トークを繰り広げている。梶も格闘技系のゲストとして度々出演している。別になんら珍しいことではないが、黒崎は妙におどおどしていた。玄も不審に思う。
「あの、なんでテレビ? やな感じがするんですけど」
「……踏ん張りどころです」
そう言って電話が切れた。怪しいことこのうえない。
内容をそばで聞きこんでいた坂田が自分の携帯で今日のテレビプログラムを見る。
「確かにゲストの中に梶さんってあるね。んで、番組内で電撃発表って。なんだろ」
玄もかせてもらう。またなにか思いついて巻き込もうとしているのか。いや、修行から戻った直後というタイミング。それにテレビだ。前々から用意していたに違いない。
「考えても仕方ないわえ。テレビを見るまで楽しみに待ちよるんじゃな」
「……なんか、企みを知ってるって感じがするな。お前から」
「誤解じゃって。ほんまにの――ぬふっ」
笑いを漏らす姿。嘘を言っているのかどうか、玄には区別がつかなかった。
「でも、なんだろうね。玄、予想はついてる?」
田辺が玄に尋ねてくる。
「さあな。しかし、あの人のことだ。たぶんとんでもないことを言うに違いない。雪はどう思う?」
「そうじゃの。梶さんって、ずっと前に引退しとる割に結構体鍛えてるじゃろ。もしかしたら、現役復帰かもしれんな。プロレスラーってそれが結構多いからの」
雪の言葉に、どうなのだろうかと玄は思う。
梶は銀がいなくなって張り合いがなくなったからプロレスを辞めたと言ったのだ。理由は他にもあるかもしれないが、本音ではあるだろうと玄は思っている。闘いたい相手のいないリングに、梶がどうして戻ろうとするのだろうか。
玄と雪は坂田たち二人と別れて帰路に着いた。補習と将棋で遅くなってもう日が暮れてしまっている。坂道を登り、玄関を抜けて家に入ると、食欲をそそる香りが漂ってきた。
「おかえりなさーい」
居間に上がるとキッチンからエプロンを着けた華が顔を出してきた。
「七時より前には出来上がるけんど、どうする?」
「じゃあ、温かいうちにお願いします。雪もいいか?」
「ええよ。華さんの飯は美味いしの、出来たてを食べたい」
「あらあら、ありがとさん」
今日は刺身と御吸い物と、少量の揚げ物という献立だ。三人がテーブルに着くともう七時に近く、黒崎に言われたテレビ番組にチャンネルを合わせた。
古い洋楽に乗せて野球やサッカー、マラソンのアニメ映像が流れて、タイトルコール。玄が華に、黒崎にこの番組を観るよう言われたと伝えると、彼女は眉を顰めてしまった。
司会者とゲストが最近のスポーツニュースに笑いを交えて紹介していくものだ。最初の話題は近々シーズン終了のプロ野球について。既に引退した選手が、今期活躍した選手について話している。区切りがついたところで、引退つながりで別の人間に話が振られた。
梶だ。彼の体が大きく、しかも引きしまって張りがある。一人だけ存在感が段違いにある。話もハキハキとしていて、妙に楽しそうだった。
「大体、梶さんが楽しそうだと、嫌な予感しかしない」
「そうやよね……」
玄の言葉に華が同調する。昔からそうだ。突然やってきたかと思えば空手道場に連れ出して練習させる。柔道もレスリングも、ボクシングだってやらされた。そして、専属トレーナーに黒崎をつけられ、ハードトレーニングも課された。そういうとき、梶は今のように楽しそうだった。玄はともかく、華はひどく頭を痛めていた。
「なかなか大変だった」
「でも、このおっさんのおかげで、強くなったようなもんじゃろ?」
雪の言葉に渋々ながら玄は頷いた。
「でも、今回はテレビ。玄君だけのことやったら家に来たらええがやき、違うろう。なんか別のこと話すがやないの?」
華の言うことももっともである。確かに、玄一人のことならテレビに出る必要はない。そう思うのだが、梶の顔を見たらなにかやらかしそうな気配を玄は感じてしまうのだった。
番組も後半に入ろうかというところで、毎年に開かれる格闘技イベントの話題が始まり、梶のアップが映った。どうやら梶が呼ばれたのはこの件のためのようだ。しかし、すぐには本題に入らず、何処かのジムのようなところでトレーニングする男たちの映像が差し込まれる。その中の一人にカメラが寄っていく。ニカッと笑う梶だった。
「このおっさん自分大好きじゃなあ……」
雪が言う。玄もそれはわかりきっている。画面の右端にテロップで質問が出る。なにをしているんですかと。梶の答えは、大晦日の総合格闘技の大会で復帰するんでその準備だと答えた。司会者やゲスト、観客からの驚きの声が映像に被る。
画面右端に再び質問が出る。
『引退は約十年前。それから試合などしてこなかったのになぜ?』
「いや~、俺もまだまだいけるなと。それにも復帰したしな。ちょうどいいやってな。他にも二人、金の卵を引き連れて、やらせてもらう。総合に参戦だ」
そのコメントに合わせて映像が切り替わる。若き日の梶が闘っている映像だ。かつて空手家の高木と行った異種格闘技戦のVTRである。その高木が数年前に総合格闘技の舞台で復帰したことを玄は黒崎から聞いた覚えがある。
再び映像が切り替わる。再び現在、先ほどのジムだ。ヘッドガードに分厚いグローブで体格のいい黒人とスパーリングをしているのだが、明らかに梶が圧倒していた。
演出もあるのだろうが、ガードの上から殴り飛ばしていた。強い。最後には、高く跳びあがってのドロップキック。
画面から歓声が上がる。凄さの演出。
映像がスタジオに戻ると梶はトレーニングウェアに着替えていてデモンストレーションを始めた。パンチ力に握力、垂直飛び、背筋力などの身体能力を測定し、解説に招かれていた学者がその数値に驚愕した。別のゲスト数人にミットを構えさせて、そこをまとめて蹴り飛ばしたりもする。
次週予告では、続報を待てとあり、最後に二つのシルエットも出ていた。
梶が復帰するという宣言の辺りから三人は無言で箸を進めていた。おかげで食事は終わって、三人とも緑茶を飲んでゆっくりしている。華は表情を変えずに、じっとテレビを見ている。妙な沈黙があったが、雪がそれを破る。
「さーて、さて、玄よお。梶さんが言う二人とは誰のことじゃろうのう」
雪は獣のような笑みを浮かべている。玄は華を一瞥してから答えた。
「俺と、君、だろうね」
「じゃろうのう。ぬふ、ぬふふ」
がくがくとを垂らしながら全身を震わせる雪に、華がようやく口を開く。
「雪ちゃんじゃあないと思うけんどねえ。やって女の子やし」
「でも華さん。梶さんが思いついてるんですよ?」
玄が言う。重要なのはそこだ。梶は常識で動かない。華もそうながよねえと嘆き、頭を悩ませていたが、すぐさま、慌てるように手を振って玄を見る。
「違う違う。玄君、もし、そうやったら、出るつもりなん?」
玄は即答できなかったが、迷いがあるからではなかった。華の強い意志が籠もった瞳に射竦められたからだった。彼女は違う答えを望んでいる。
しかし、玄の意思も固い。少しして、しっかりと彼女の眼を見て答える。
「……出ます。絶対に」
華は小さく、そう、とだけ言った。
食事が終わり、そろそろ風呂に入ろうかという時間帯になって来客を告げるインターフォンが鳴った。居間でのんびり雪と柔軟をしていた玄が玄関に向かう。大方の予想はついていた。扉を開くと、案の定、黒崎と梶の二人がいた。
「テレビ、見ただろ? どうだ? なかなか俺はすごいだろ?」
「開口一番自慢ですか。ま、上がってくださいよ」
玄は二人を招き入れた。華がすぐにキッチンでお茶の準備をする。
五人でテーブルを囲む。華が茶を淹れてから、梶は話を切り出した。
「さっきテレビを観たなら知ってるだろうが、現役復帰する。で、玄、お前も一緒に出ろ」
「予想はしてましたけど梶さん……単刀直入すぎます」
前置きもほとんどなく言われたので玄も焦る。梶はかっかかっかと哄笑している。
「まあまあ、勿体ぶったところでなにも変わらんからな。第一、答えは決まってるだろ?」
まっすぐ梶は玄を見る。隣の黒崎は、華を一瞥していた。玄も彼女を見るが、目を合わさずに緑茶を啜った。
「で、どうだ? やるだろ?」
「……やりますよ」
身を乗り出してきた梶に玄は答えた。顔がでかいので仰け反ってしまう。
「よーしよしよし。華さんと話はついているのか?」
「つ、ついてるとは、とても……言えるものではないですけど。こういう話持ってくるだろうからどうするってことで、俺はするって言いました。でも前もって言ってくださいよ。事後承諾させるの何度目ですか」
少々憤慨気味の玄に上機嫌の梶は耳を貸さずに華に向き直る、
「その上でここに座ってるってことは、反対しないってことでいいんですな」
華は空になった湯のみを置いて、ハッキリと言った。
「――大! 反対! ながやけど!」
大きな声だった。その隣で一人蚊帳の外の雪は菓子をむしむし食べている。
満面の笑みから一転、梶は激しくうろたえた。
「そ、そんな。待って、ここで玄が出れなくなったら予定が……!」
「あなたの予定もなにも知ったこっちゃない! 私は、玄君を危険な目にあわせたくないが!」
「ちゃんと医者もつくし、試合終わった後の精密検査もする!」
梶は汗をだらだらと流している。対して、華の表情はあまり変わっていないが、目つきだけは鋭い。玄も射竦められた眼光だ。
「医者がつくのは当然! 問題はそこやない! 玄君、十六歳やで! 鍛えたいうても子どもやのに、なんでリングに上げて闘わせるなんて言えるが! 怪我したらどうするが! 玄君の将来、梶さんなんかよりもっと長いがで! それに、ルールはどうながよ!」
憤る華だったが、深呼吸をして、黒崎を一瞥し、梶に視線を戻す。
「夕方、黒崎さんが教えてくれたきね! ラウンドごとの休憩もなしで! 反則もほとんどないものやって! それ、普通のやつよりも危険ながやないの!」
「黒崎ぃ……スパイかよお前……」
華の剣幕に押されて涙目になった梶は黒崎を睨む。睨まれた当人は、ため息をつく。
「仕方ないことです。今回はいつものようにビジネス相手に儲け話を持ちかけるものでなく、こちらからの勝手なお願いです。誠意がいります。社長、ごまかしたらだめです」
黒崎は理路整然と語る。玄は、梶の言葉に従う黒崎の姿ばかり見ていたので、しっかりと正論を返す姿は意外だった。
「……わかったよ。華さん。とりあえず、話をさせてくれ。確かに、玄に出てもらおうと考えている試合は時間無制限の一本勝負。つまり休憩なし。ポイント制も排除。どちらかが参ったをするか、闘えなくなったらそこで決着ってルールになる」
「えらいシンプルじゃのう」
雪が横からつぶやいた。
「俺は前々からポイント制が嫌いだった。ありゃあスポーツの域を出ていない。ぬるい。もっと、もっと、魂をねじるんだ! それが、闘いってもんだ! と、俺は思っている」
汗をかいた梶に、そっと黒崎がハンカチを差し出した。
「こういうポリシーがあるんだ。華さん、わかってくれ」
「あなたのポリシーはわかったけんど、それとこれとは話が別。私は奥さまから、玄君を喧嘩とかから遠ざけるように言われちゅうがやもん」
梶が苦虫を噛んだような表情になる。華が母から託されたことは喧嘩をする度に何度も聞かされているので玄も知っていた。
「やけんど、奥さまに言われたからやない。私も、私も黙って見ていられるほど胆力はないがよ。何年よ。九年ぐらいで。たぶん。玄君がぎゃあぎゃあ泣いたりしよったがあも覚えちゅうがで。そんな子供のころから見よって、いくらものすごく練習してきたいうても、頑張ってって送り出せるわけないろう!」
テーブルを叩いた。梶も黙りこんでしまっている。
「私が言うがは勝手なことよ! 玄君のことも梶さんのことも考えんというがよ! わかっちゅうけんど、許せんことはあるがよ!」
華の叫びは家の外まで響いただろう。さしもの梶も沈痛な面持ちでいている。玄は目に涙をためている華をじっと見つめている。
と、髪の毛を引っ張られた。隣に座っていた雪。彼女に耳元でかれる。
「説得は、お前がせなあかんぞ」
「わかっちゅう」
方言が移っていた。玄は咳払いを一つして、腰を上げて、華の手を取った
「華さんちょっと、立ってください。二階で、二人で話しましょう」
華はこっくりと頷いた。
玄は華を連れて居間を離れて二階の部屋にいた。狭く、何もない部屋。街の夜景が一望できるそこは、昔、この家を建てた夫婦がほんの数年だけ生活をしていたところだ。玄の父、銀が亡くなり、そのしばらく後、母も亡くなった。それからはすべて取り払われてしまって、いまあるのは仏壇だけ。その前で、二人は正座をしている。
「玄君」
華は、ふっと視線を遺影に向けたまま語りかけてくる。
「ここ、毎日掃除しゆがやけど、埃とかごみとか、まったくないがよ。数えてもう何年になるよ。私がここに来てから」
「九年です」
玄は即答した。華は目をこする。
「そう。九年なんよ。これって長いんかな」
「長いと思いますよ」
「不満、あった? なんかあれこれが嫌やったがやけど、とか、そんなん」
「ありませんよ。……イカを食えって強制されるのは嫌でしたけど」
かすかに華は笑った。屈託のないもの。いつもの笑顔。
「それはちょっとなしにして。でも好き嫌いはいかんき。やけど、ほんに長いこと一緒に生活してきたんよね。玄君。私は、家族になれてましたか」
玄ははいと答えた。深々と頭を下げて、そのまま礼を述べた。
「本当にありがとうございます。散々迷惑をかけてきました」
「どうってことないですき。そんなん。すっごく楽しかったきね」
玄が顔を上げると、華はその名前のように笑った。ひまわりのようだった。
「玄君、お母様から私は頼まれちょったがよ。喧嘩をさせないでって。遺言としてはちょっとおかしいけんど、私は守ろうとしてきたつもりやったんよ」
「けど俺は、無視して何度も喧嘩をしましたね」
「うん。まあ、ほとんど梶さんがけしかけたんやってこと、こないだ聞いたけどね。ほんと、あの人は」
こめかみを押さえて華は嘆いた。うんざりしているのは玄もである。
「今さら言うても仕方ないがやけどね。で、玄君。説得したいがやろ? どう? どう説得するつもりなが?」
「そうですね。華さん。お願いします。俺を闘わせてください」
頭を下げる。玄は、余計なことを何も言わず、お願いをした。華は笑顔のまま頬を掻く。
「ほんと、不器用やね、玄君。言い訳やもっともらしい理由、並べ立てたりせえへんの?」
「できません。俺は馬鹿だし、そんなんしたくないですから。華さん、俺は、どうしても闘いたい。闘わなくちゃ、銀に成れないんです」
「銀、銀、銀。お父さんを大事に思うがはえいけんど、それ、玄君どこにおるん?」
頭を上げないでいる玄に、華が尋ねる。
「だって、おかしいやないの。銀さんばかりで、玄君、自分の事、なんにも言わん。もうなあ、縛られたまんまながで。いいろう。もう、銀さんに成ろうとせんで」
「そういうわけにはいきません!」
怒声ではなく悲痛な叫び。玄は頭を下げたまま。
「ずっと、いつからか覚えていませんが、俺はずっと銀を目指してきました。それは強制されたものじゃないんです。俺は、俺が銀に成りたいんです」
一息に言って、息を吸い込みながら顔を上げた。玄は華をな瞳で見つめて、続けた。
「梶さんが持ちかけてきた今回の話はチャンスなんです。ここで、ここで受けなかったら、闘わなかったら、それこそ逆にずっと銀に縛られたままになるんです。俺は銀に成らなくちゃ、ずっと玄にも誰にも成れません」
華が重く、長く、溜息を吐いた。自分の膝に手を置いて、ぐったりと俯いている。
「……なんか、君のためにって思って言ったがやけど、そうながか。確かに、そうやね。君はそのために頑張ったがやもんね」
華は顔を上げた。笑っていたが、どこか哀しげな笑みだった。
玄の胸がぐうっと圧迫される。
「実はお母様の遺言には続きがあるがよ。玄がどうしても喧嘩、闘うことを望んでいるなら、させてあげてって。お母様はわかっちょったんよ。こういうときがくることも」
三年前に、玄の母は亡くなった。気風のいい女性であった。
「やから、反対したがは本当に、私だけの。やけど、もう言わん。玄君、いいですか」
「はい」
「やるからには、負けちゃあいきません。勝ってください」
「はい。必ず、勝利します」
玄は返事をし、仏壇に向き直った。
線香に火を灯す。目を瞑り、華と一緒に手を合わせた。