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成金  作者: 三三珂
獣への道
8/17

3

 十月初めのその日の午後、玄が誠、その妻である咲と公民館二階の広間で正座をして待っていると、梶と黒崎に連れられて雪がやってきた。その姿は変わっていない。

「久しぶりじゃのう、玄」

 彼女は自分の祖父母にはあいさつもしなかった。

 じっと、玄の顔だけを見つめている。

 この世のものとは思えぬほどの美貌であるが、その両眼だけは悪鬼であった。炯々と鈍い輝きを放っている。

 玄は立ち上がり、構えた。両足を肩幅ほどに開き、脱力する。

「自然体か。猿真似じゃの」

 試合開始の声はない。雪が入り、玄が立った時点で始まっていた。

「修行しよったらしいがの、ぬふ、あたしに完敗したのとやってどうするんじゃ? あたしに勝てると? それに、ひと月やそこらで?」

「ならやればいい。雪さんや、あんた、負けるよ」

 玄のその呟きを聞き、雪はにいと笑った。

 獣の笑み、ではなかった。そこには震えが起こるほどの威圧感はなかった。

 かつて玄が見たものではなかった。

 ぬるい。

 彼女の拳には彼女の合気道はなく、ただ速いだけだった。


  ○


 玄は繰り返し投げられ続けていた。九月が過ぎようとしていたが未だに進歩を感じられていなかった。よって、今は一分一秒が惜しいところだが、誠も玄の相手ばかりしていられない。教える相手は彼だけではない。子どもたちがいる。その相手をするので日曜日の午前は訓練ができず、玄は自主トレだった。

 空いた時間、散歩をする。いつも走る主要の県道ではない農道も歩いてみる。傾斜の厳しい坂で、山頂へ向かって伸びている。山肌を削って造られていて、空はとした木々で隠れている。県道もそうだが、ここはよりひどい。道幅も狭い上にガードレールがない。車なら転落しても雑木林で止まるだろうが、人だと底までまっさかさまだ。

 ちょろちょろと細い流れの滝音を耳にしながらある程度登ると、さあっと視界が開ける。頭上にあった木々が無くなってよく晴れた空が見えた。遠くには太陽に照らされた黄緑色の山々がある。

 付近には収穫物を保管するための倉庫らしき小屋があり、その向こうに段々畑があった。たわわにゆずを実らせた木がに並んでいる。その実は鮮やかで瑞々しいが、まだ収穫時には早いためか小さく、色も青い。

 足を止めてその景色を眺めていると、不意に背後から声を掛けられた。

「珍しいがあ、かな。玄君」

 玄の背後の段々畑から、紫の作業着を着た老婆が見下ろしてきていた。近くにあるハシゴからゆっくり降りてくる。

「はじめまして、玄君。雪の祖母の、咲です。迷惑かけてえ、申し訳ありません」

「あ、初めまして……」

 会釈してあいさつを返す。咲は暖かな目をしている。長年共に暮らしてきているからか誠と顔が似ているような気がした。

「誠さんが、厳しくしているようで、すいません。どうも、楽しいみたいなんです」

「楽しい、ですか? そんなの聞いた覚えはないんですけど」

「あら。でも、誠さん。ああまで無心に、熱心にい、上達しようとするのは、雪以来だってえ、笑って教えてくれるんですがねえ。最近は、毎日ずっと」

 玄は聞いてて気恥ずかしくなった。泣き言も漏らさずに誠の修行を受けていただけなのだが、そこまで言うことだろうか。

「やってて楽しいって。ああ、すいません。失礼でしたねえ」

「いえ、かまいませんよ。あー、ところでおばあさんは、合気道は?」

 玄はこれ以上背中が痒くなる前に話題を変えた。

「誠さんと一緒になってからあ、始めたんです。最初は厳しかったですが、おかげでまだまだ元気です」

 咲は笑って拳を握った。年齢の割にきびきびと動いているので、実際に役立っていることはわかる。

「今日は、お仕事ですか?」

「ええ。畑の様子を見に来ました。それだけですが。どうです? 雪さんを、倒せそう、ですかあ?」

 期待を込めたような顔ではない。声の調子も悪い。

「やっぱり、いやでしょうね。あんな綺麗な孫娘を男の俺が痛めつけようとしているのは」

 咲は否定も肯定もしない。笑顔のまま、小さく震えていた。

 それっきり会話がないので、玄は引き返そうと咲に背中を向けた。その背中に彼女は言葉を投げかけてきた。

「玄君、わたしは合気道をあとから習いましたが、その先生は相手を受け入れなさいと言ってました。鏡になれ、素直になれ、自然になれ、それが和合とも」

「和合ですか……」

 玄が振り返ると、咲は深々と頭を下げていた。彼女は何も言わない。玄は、重いものを感じながらその場を去っていった。


 公民館に戻ると、既に玄関には子どもたちの靴がなくなっていた。入口の時計を見るともう昼が近い。今日の稽古も終えてみな帰ったようである。

 汗をかいたので拭おうと二階に上がると、袴姿の誠が立っていた。虚空を見つめている。

 広間の中央。半身にせず、風が吹けば揺らぎそうな、一本の木に似た自然体。

 正面に回る。誠と目が合う。

「……なにしてるんですか?」

「師匠の物真似を。子どもたちが、ネットで師匠の動画を見つけたらしくて、その真似をしていたんです。それで、私も久々に」

「師匠……どういう人だったんですか?」

 玄が聞くと、誠はちょっと変わった形で教えてくれた。

「なにをしても倒せなかった人です。私が十代のころにもう四〇歳を越えてましたから、とっくの昔に亡くなりました。玄さん、ちょっと、私を突き飛ばしてみてください」

「わかりました」

 老人だが達人。これまでのことで実感しているので躊躇しなかった。

 玄は誠の肩を突き飛ばそうと手を伸ばした。しかしその寸前で彼はふっと前へと進んだ。すると、伸びかけた中途なところで玄の腕が誠に衝突し、玄の方が後ろによろけてしまう。

「手押し相撲のようなもの。押し出す力は強くても、押し出そうとする途中は、弱い」

「……変な格闘技、やっぱり。インチキみたい」

「似たようなものですよ。小手先の技です。しかし、雪はこれを昇華した」

 誠は口元に手をやる。彼は、笑っていた。

「……すいません。いえ、ずっと思い返しているんです。春に雪に負けてから、なにをしているときも、子どもたちに教えているときも、食事中もどんなときでも、雪にやられた時の事を」

「悔しかったからってわけにも見えませんが」

「それもありますが、最近、思うのです。雪はどこまでいっていたのか。あの瞬間。私は予告もなく殴りかかりました。不意打ちです。それを綺麗に返した。私には行けなかった。和合の精神なんて子どもたちに教えておきながら、技がすべてだと思ってましたから」

 誠は和合と言った。先ほど咲から聴いた言葉だ。頭の片隅に残す。

「後悔してるんですか? そういう修練しかしてこなかったことに」

 誠はいいえと、首を振った。

「私に他の道はなかったんです。それが私の、私だけの合気道です。この道しかいけないならば、この道を進むだけです。教えの時は偏らせるわけにはいかないので言いませんがね。雪は私とは違う道を自分で見つけて、私の先を行きましたが」

 ため息をついた。今、誠は無防備だった。玄はそこに、殴りかかった。

 不意打ちだったが、玄は投げられた。しかし、感触があった。見下ろしている誠の鼻から血が流れていた。

「未熟ですね。私は、まだまだ。雪の域には到達していません。今のはかなり無礼な振る舞いでしたので仕返しさせてもらいます」

 鼻の頭を足で蹴られた。掠めるようなものだったが、血が流れた。

 起き上がった玄は部屋の隅にあったティッシュを取って戻り、座り込んだ誠の隣りに座り、並んで鼻を拭いた。そこで、誠がため息とともに語りだした。

「……やはり、勿体ないと思います。強さばかりを求めさせて、勝利を欲しがる獣になった。そうして、楽に勝とうとするばかりに打撃に傾倒して研鑽を怠るのは悲しいです」

 玄も自分が闘った時の事を話していた。そのとき彼は一言、よくないと発していた。

「雪は天才。どこまでもいける。だから、腐ってほしくない。師匠としてどうしても思ってしまいます」

「そういえばさっき、ランニングがてら段々畑の方に行ったんですけど、咲さん……誠さんの奥さんに会いました。あの人も合気道をしているんですね」

「ああ、そうなんですか。なにか言ってましたか?」

「師匠く、合気道は鏡になれ、自然になれ、素直になれ。そう教えられたと。そのときも聞きましたが、和合ってなんですか?」

 誠は鼻にティッシュをつめて頭をいた。

「そのまま、鏡になる。自然になる。素直になることです。咲は私の師匠に習いましたからね。鏡に、素直に、同一に……やってみますか。玄さん、構えをしないでください」

 よっこらせと立って、誠は先ほどのような自然体となった。肩幅ほどに足を開いて、全身の力を抜く。顔の力も入ってない。

「合気道は剣の理合。だから半身になる。そういうふうに教えてきましたね」

 理合とは技や形の動きが何故こうなっているのかという理由、意味合いのことだ。

「でも師匠はそんなものを必要としない域にいました。やりましょう。師匠の真似ごとを。飛びぬけて、まったく届かなかった達人の真似を。来なさい」

 玄は起き上がりざまに殴りかかった。感触があり、また宙を舞う。

 誠は鼻を押さえて見下ろしている。

「やはり、まだまだ。自然にいけません。今度はこっちから。玄さん、自然を」

 玄も力を抜き、自然体になる。殴られる。投げられない。引く寸前に踏ん張られてしまっている。

「まだ遅い」

 玄が殴る。宙を舞い、畳に背中から落とされる。しっかり受け身を取っているので痛みはない。深呼吸をしてから立ち上がって、また殴られ、投げられない。

「流れが悪い。もっと自然に、素直に」

「……自然に、素直に。難しい」

「でしょうね。繰り返しやって、自分の中で答えを探すしかない。禅のようなものですよ。もともとは。私は、技の研鑽に見つけています。あなたは、どうですか?」

 なんだか宗教じみてきたなあとつぶやきながら、玄は繰り返す。

 何度目かになると、玄の腹が鳴った。昼を過ぎている。誠も手を止めた。

「食事にしましょうか。咲が弁当を作ってきてくれたので、今日はここで食べます」

 玄は朝に自分で用意した弁当がある。一階に下りず、その場で二人は食事を始めた。そのさなか、誠が先ほどの話を蒸し返した。

「合気道は禅の流れも汲んでいますが、程度はどうあれ、格闘技全般にそういうものはあるはずです。延々と、一つのことを求めていく。それが仏法の悟りなのか、強さなのか、またなにか別のものなのか。もしかしたら一緒かもしれませんがね」

 もきゅもきゅとほうれん草のおひたしを咀嚼しながら玄はこれまでのことを思い返す。

 確かにそうなのだろうと玄は思った。

 玄の父、千葉銀。アメリカで育ち、アメリカのリングでプロレスラーとなったが、目立った活躍はできずにいた。梶に呼ばれて日本に戻ってこなければ名を上げることなどなく、どこかでひっそりと死んでいただろう。しかし、それはあることを我儘に突き詰めていったからだ。たった一つのことを求めていた。

「千葉銀も、そんなもんだったようです。強さだけを求めて、最強であることに固執して。梶さんって理解者がいなかったらどうなってたことか」

 しかし、嫌いではない。玄はその父の我儘さが好きだし、貫き通した意志の強さを誇りに思っている。譲る時は、まさに死ぬ時。銀はそれを体現した男だ。

「誠さん。ここまでやってなんですが、俺は銀と同じことしかできません。合気道をするなんて、とても無理です」

「それならそれでかまいません。あなたにはあなたの和合、というか、なにかがあるんでしょう。これまでのことが無意味というわけではないでしょう?」

 それはそうだ。玄は意味があったと思っている。やっていて、無為だとは感じていない。誠の足運びや体捌き、死角からの攻撃は参考になった。それに、漠然としたものではなく、ハッキリと雪を倒すという目標に向けてトレーニングしていることは気持ちがよかった。

 なにしろ、玄はこれまで銀を追うということしか頭になかったのだ。

 楽しいといえば、楽しかった。

 ただ、進展もほしい。一か月休んで修行してましたが負けましたでは笑えない。

 食後休憩の時間、自然体で立って目を閉じる。暗闇の中、誠のような自分だけの和合、なにかを探す。その答えは、見えない。

 考えすぎないうちにと、誠との鍛錬を再開するが、約束の日にも近いので一度だけ尋常の勝負をする。

 向かい合って玄が突っかけた。床を蹴り、殴りかかったが、誠は消えていた。

 と、不思議に思うまもなく自身の足が何かに引っかかる。転ばぬように足を出そうとしたが、その引っかかったものが盛り上がった。

 玄はとっさに前転をした。これまで投げ飛ばされてきた経験がそうさせた。

「綺麗な受身です」

 背後から声がし、玄が振り返ると誠が立っていた。先ほどの自然体。

「さっき引っかかったのは、誠さんの身体ですか」

「はい。次はこちらからいきましょうか」

 そう言って、玄の返事を待たずベタ足で歩き出し、腕を振るった。

 拳ではなく人差し指一本を喉仏に。ガードなんてできない。とっさに後方に逃げた。

「――恐ろしい。さすが、雪のおじいさん」

 冷や汗をかく。玄は身をめ、距離を取り、様子をう。

 誠は自然体のまま、風がそよぐように、動く。

「当身は七割、投げが三割。ですから、そうですね、殴ります。見逃すことがないように」

 すうっと流れるように死角へと回ってくる。そこから、攻撃。

 速いではなく早い。拳の速度は大したことはないが、動き出しが早い。ほんの数瞬であるが脅威で、防御が間に合わずに当てられる。距離を取ろうとしても蛇のようにまとわりついてきて、死角に入る。みっともなく逃げ回るが、足が付いてこない。

 これは技術だ。洗練された技術。対処、できない。すっと足を払われて尻餅をつく。そして、返す足が玄の顔面に飛んでくる。

 防ぐことも避けることもできない。なら、受けるしかない。鼻ではなく、額で。

 玄はじっと迫ってくるその脚を見た。が、寸前で止まる。

「――危ないですね。あなたもですが、私も。額で受けられたらこっちも痛いです」

 誠は足を戻した。玄も起きる。

「どうしましょうか。もうやらないといえば、そこでやめますが」

「……」

 玄は即答せずに、指先で額をなでる。彼は前を向いているが、誠に焦点はあっていない。

 玄の目は誠と彼との間にいる誰かに向けられている。

「どうしました?」

 怪訝な顔で誠が顔を覗き込んでくるが、いえ、と、玄は一言返した。

 胸をそらし、腰をり、大きく深呼吸をする。

「よし、なんか、あれです。俺の和合かなにかわかりませんが、なんとなく、できました。続きやりましょう。忘れたくないんです」

 誠はすぐさま肯定して、死角に入りこんで打撃をしてくる。

 目で追うことはできる。身体を向けることもできる。だが、防御も回避もできない。

 なら、受ける。受けていく。打撃を受けていく。急所だけを守って、誠の攻撃を受けていく。慌てない。心に動揺はない。その状態で、受けながら、畳を蹴る。

 接近。低く、低く、地をうように。

「――っ!」

 誠が呻きに似た声を上げる。流れるような動きで逃げていくが、追い、足払い。

 誠はそんなものふわりと跳んで避けた。そして、爪先をみぞおちへと打ってくる。

 玄は身体をねじり、急所を外した。あるのは痛みだけ。問題ない。

「……大丈夫ですか?」

「大丈夫どころか、実にイイです。痛いですけど」

 にかりと笑う。玄は、胸の中がすっきりしていた。

 起き上がってもう一度向かい合う。自然と、笑みがこぼれている。

「なんとなく、わかりました。和合でも鏡でもないですけど、俺にとってのなにか。合気道ではないと思いますが。すいません」

「いいんじゃないですか。これが正しいってもんはないでしょう」

 誠が動く。玄は守りを固める。

 結局その日は日暮れまでやっていた。誠も息切れをしていたが、玄もだ。

「玄さん、雪には和合の精神があったはずなんです。今は失ってしまっている」

「今は、そんなものないでしょうね。精神性なんか、見向きもしていない。ただの獣だ」

 率直な感想。二度も闘った。あれがこの一か月で変わるわけがない。

「聞きましたよ。何度も蹴ったと。踏みつけたと。技も使っていない。当身もしない。怠けてるんでしょうね」

「投げも、極めもありましたがね。あれは動きを止めて、楽しむために使ってましたな」

 玄は誠に蹴られ、殴られた箇所を押さえながら腰を上げる。急所を外しても痛い。

「……合気道、いや、武道をやるものとして、許されざる事です。人を殺す技術を身につけたのだから、自制をせねばいけません。それは先人たちへの敬意でもあります。教えてきたつもりだったんですが」

「根っこまではなかなか変えられんでしょう」

 続きを始める。投げは未だに成功していないが、玄の精神は鍛えられている。誠の動きがわかる。どういうことをしているのか、真似はできないが、理解はできる。

 もう少し。もう少し。もう少し。玄は、楽しくなっていた。

 和合は掴めない。合気道の技は綺麗にできない。そもそも、一か月でやろうとするのは不可能だ。

けれど、これは、糧になる。強さを一段階、押し上げる。玄は、一歩前に進んだ。

 身体つきは変わらない。筋力トレーニングの量が減ったのでやや脂肪が増えているだけだ。

 しかし、強い。確かに玄は強くなった。強いあるものを二つ手にしていた。


  ◯


 勝負は一瞬だった。

 雪が突っかけ、玄の鼻っ柱に拳を突き入れたその直後に決まっていた。それは皮肉にも、数か月前、雪が誠と勝負したときとまったく同じ光景であった。

 雪は、愚かだった。

 彼女は気付いていないが、この場で誠と戦った時よりも動きが衰えていた。原因は勝利を享受し、溺れてしまったからだ。

 雪は天才である。それは事実。しかし、天才が最強なのではない。

 雪は勝ってしまった。師にも、父にも、誰にも勝ってしまっていた。だから、誰にも負けないと思っていた。実際に街に出て闘って、勝った。勝ち続けた。

 そこに、慢心が生まれる。彼女は、技術の研鑽を怠った。

 今の雪は弱い。自然体を馬鹿にする。それはどんな攻撃にでも対処できる構えなのだ。

 合気道は剣の理を用いるもの。だから半身。しかし、剣もまたいらなくなる境地がある。

 相手と心を同化させてしまえば構えなどいらぬ。それが究極。

 ただ相手の心に沿ってしまえばそれですむ。

 雪はそこに至っていた。なのに、勝利を覚えて忘れてしまった。

 無心ではなくなり邪念が混ざってしまった。


 雪は合図と同時に拳を打った。速かった。それは彼女に生まれながらにして存在する格闘センスから繰り出される一流の突きだ。しかし今の玄にはそれでは足りなかった。

 雪は天才である。玄が犬とすれば彼女は獅子。生まれからして格が違う。しかし、獅子の強さは飢餓にあるから存在するのだ。

 獅子は獲物に喰らいつくと、死んでも離さない。牙を食い込ませ、爪で引き裂き、全身で押さえ込んで殺す。獅子にとって食事、勝利とは死んでも得るものなのだ。

 雪がこの野性の獅子のままならば、玄は負けていたかもしれない。しかし、彼女は死力を尽くすことを忘れている。雪の獣は、野生は死んでいる。

 玄は犬である。ただの犬である。だが、野性の犬よりも鍛えた猟犬だ。

 獅子に犬は敵わない。それが常識だが、誰が決めた。衰えた獅子に、磨き上げ、鍛え抜いた猟犬の牙が届かぬと誰が決めた。

 玄は拳を受け、引き寄せた。そしてバランスが崩れたところを足で引っ掛けた。合気道というより、柔道に近い技だった。才がないので誠や、過去に雪自身がやってのけたものより不細工な投げだ。

 だが、十分。玄は二つ、修行で身に着けたものを発揮した。

 不意を突かれても動じない精神の頑丈さ。そして、早さ。拳を受けて一瞬の間も作らず動く早さ。その絶好のタイミングに合わせる。逃さない。

 雪は――飛んだ。

 頭から床に叩きつけられ、失神した。


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