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翌日からもみっちりと修行が続けられた。
朝、夜明けごろになって玄は公民館の、延々投げ飛ばされている二階の広間で目覚める。
一階に下りて朝食の支度をしてからランニング。山道を走って適度に体を温める。公民館に戻ると白米とみそ汁に漬物だけの質素な食事を取る。その後歯を磨き、仮眠する。
十時になると目覚めて、柔軟をする。それが終わる頃にやってくる誠に連日相手をしてもらう。もちろん、投げられる。玄は黙々と受けていく。それが二時間続けられてからまたランニングに出かける。それから帰ると柔軟をしてから食事し、休憩。
その後修行を再開。また延々と投げられるのだが、その他にも打撃を受けるようになっている。誠と対峙し、顔に、胸に、腹に、拳を繰り出される。
これは不意を突かれても動じない精神のタフさを身につけるためのものだ。誠は正面からではなく、合気道を活かした静かな足運びで死角に回り、そこから攻撃してくる。
この鍛錬で玄は目から得られる情報がいかに大事かを思い知る。見えなければどういう攻撃がどこへ来るのかわからない。そのときの痛みは見えているときよりも遥かに大きい。精神が打撃に構えていなければ受けの態勢を作れないのだ。
しかも誠は的確に急所を狙ってくるので、玄は悶絶することとなるのだが、だからこそいい。幾度も受ければ動じない。揺るがなくなる。
合気の和合が身に着けば手っ取り早いが、できない玄は玄なりにやるしかない。
ずっと玄は一人、この日課を繰り返す。梶はプロレスを引退したとはいえタレント業やその他の仕事で多忙を極めているのでなかなかこれなかった。黒崎も日ノ本プロレスのフロント業務があるので同様だ。
少々玄は心配だった。誠のことなど何一つ知らないので、あるときふっと、もうやらないと言われるのではないかと。しかし、それは杞憂だった。
初日は玄に対してぞんざいな態度を取っていたが一週間もしないうちに見られなくなった。疲れで呼吸が荒れていてもまっすぐ玄を見つめて、黙々と修行をしてくれた。やる気は漲っているようで、動きにも力が入っていた。
なぜだかは、玄にはわからなかった。
そうして連日、何十回も投げられるにつれて少しだけ、玄はわかってきた。相手の手を引き、バランスを崩したところで足を払う。柔道で言えば体落としのようなものだ。
ただ、その一連の動作があまりにも瞬間的なのだ。刹那の技と言ってもいい。
玄が覚えた柔道であれば、組み手から自分の力で相手の態勢を崩して投げる。己が仕掛けて展開を生むのだが、これは殴りかかってきた拳を捕まえながら引き、投げる。一瞬も止まらない。
玄は戦慄する。相手の機に合わせて投げる。言葉では容易いが、彼が知る武道家、柔道の有段者などでこんなことができるのは誰一人としていなかった。
横になった玄に、誠は尋ねてきた。
「泣き言一つ言わないんですね。何故ですか? ここまで痛めつけられているのに」
「言いません。痛いだけです。苦しくありません」
玄は身体を起したが、誠は鍛錬の続きをせずに、あることを教えてくれた。
「延々と繰り返しているこの技で私は倒されました」
淡々と誠は語るが、玄は納得できない。
「合気道に、殴るなんてありましたか? 当身とも違うでしょ?」
玄だって少しは知っている。あんな喧嘩のように殴るなんてのは聞いたことがない。
「これは私の恥ですが、雪の本性と対峙した時、あまりに怖くて攻撃したんです」
「……わからないでもないですが、合気道ってそんなんじゃあないですよね」
「私は、あまりに未熟だった。合気道のキモは、相手の力を利用することじゃない。相手の力と同一になることなんです。そしたらあとは、どうとでもなる」
「それなのに、殴ったんですか」
誠は肯定した。
「未熟。それだけです。さっきからやってたのも、私があなたを投げているんじゃないんです。あなたが投げられているんです。あなたは私、私はあなた。和合です。雪に対するあまりの恐怖に、こういうことを忘れてしまった。情けないが、それだけ孫は怖かった」
ふうとため息を誠はついた。よく肌を見ると、首筋が粟立っている。
「……あのとき私は本気で殺される。そう思い、逆に襲い掛かった」
「確かに、雪みたいなのはいません。それでも、あなた師匠で、実の祖父ですよね」
玄の口調に苛立ちが混ざる。失礼な態度だったがどうにもならなかった。誠は怒らずに静かにいた。
「ええ。私は、ろくでなしです。私も、私の子も、雪を天才として育てることになにも躊躇わなかった。人としてではなく、技術を極めていく天才として。結果、獣になった」
誠は目頭を押さえる。玄は、自分が追い打ちをかけたことに気づく。
「何か、手があったはずなんです。梶さんの言うことを聞いて、合気道以外のことにも触れさせたりとか。でも、強さだけを求めさせて、極めさせた。実戦で使うことのできる本物にするのに私は途方もない時間をかけて、そこからさらに先を目指していました。雪はその私を飛び越えていった。それは素晴らしいことですけど、私は心を見ていなかった」
手を震わせながら誠は、悔恨の念がある言葉を紡ぐ。玄に彼の後悔がひしひしと伝わってきた。
「……玄さん。お願いします」
座りなおした。誠は正座をして、額を畳に擦りつけてきた。
「もう、私たちでは、どうにもできません。初めは怪しみましたが、今は頼りにしています。あなたは心がまっすぐだ。何度受けても、すぐに上達できなくとも素直に修練する。かつての雪のような純粋さです。だから、改めてお願いします。雪を、止めてください」
誠の真摯な姿に、玄の胸は震えた。自然と拳を握りしめていて、力が湧いてきた。
「軽々しく言うことではないですが、任せてください。約束します。頑張りましょう」
それから少し休憩をもらって、玄はジャージに着替えてランニングに出かけた。考えたいこともあったのだ。外に出ると涼しい風が吹く。夏であるがここは山中であり、川も近いから空気がひんやりと冷えているのだ。
アスファルトの県道を走っていく。道は狭く、落ち葉や山肌からこぼれ落ちた石ころが多くある。ふと、走りながら玄は似ていると思った。
かなり移動してきたが、この猪木村の景色、耳に入ってくる川のせせらぎも、虫の鳴き声も、故郷の馬場市とほとんど変わらない。
場所は違えど玄の故郷と似通った地で雪は育った。よくよく考えれば、彼女と玄の経歴も似ている。プロレスと合気道だが、二人とも強さを求めていた。違いは玄には飛び抜けた才能はなく、雪にはそれがあった。玄には目標があり、雪にはなかった。
「なんというか、やっぱりこれ、親の責任だ」
走るのをやめてゆっくりとした歩きになる。雪にはなにもなかったのだ。強くなれと言われて実際に強くなって、で、それからどうなる。幼いころから持て囃されてきて、今になって突然強さだけじゃないと説得されたところで聞く耳をもつわけがない。
雪にしたらなにを悩んでいるのか、お望み通りに、理想以上に育っただけなのだと。十年以上そうやってきて、花開いただけなのだと。
同情はできない。この事態は明らかに親のせいだ。しかし、このまま生きているのに家族と仲違いをしたまま、孤独になるというのは玄にしたら……、
「……寂しいなあ。それは」
パンと、玄は頬を叩く。義理はなく、同情もできないが、寂しいのは嫌だった。彼女には華も梶も黒崎もいないのだ。
考える。合気道とはなんなのか。
闘いではない。本質が違う。演舞に近い。
映像で見ていたころはインチキだと思っていたが、本物。研鑽を積んだ誠の技を受けた。嫌でも実感せざるを得ない。ただ雪は、長年技を磨き続けた誠を飛び越えて極めたという。一つのことを極めるのに彼女の年齢、十年やそこらで可能なのかどうか。
玄はその自問に、不可能だと即答する。誠の例を出さなくても武道、格闘技は十年程度で極められない。十年の次に二十年、その次に三十年、果てがない。玄も極めるべくして鍛え続けてきたのだ。そのぐらいは理解している。そして誠は三十年、下手すれば五十年は修練を続けてきたかもしれない。
話を聞けば自滅みたいなものだが、そんな簡単じゃない。優劣が決まったのだ。雪が上、誠が下。雪が誠に勝てないと悟らせたのだ。
とてつもない才能だ。長年かけて合気道の先へと進んでいた誠をあっという間に追い越したのだ。しかし、勝つ。勝たねばならない。自分より空手や柔道で強いと闘ったことはあるが勝ってきた。雪は自分より合気道で強い。
「だけど、勝つ。俺にだって勝ってるところはある」
玄は自分の手を見た。砂を叩き、巻藁を叩き、人を叩き、皮膚が削れ、血だらけになった。次こそはそうならぬようにと細胞が蘇り、太く、硬くなった。も割れた。
玄は強さを求めて、極めようとした。それは闘い。空手、柔道、その他あらゆる格闘技でもない。純粋な闘いを極めようとした。玄は、他のなにで負けようとそれならば勝っている。そう信じて、実際に勝ってきた。
辛かった。痛かった。きつかったが止まらない。苦痛などなんの障害でもない。玄は前を見て、構えた。そこには誰もいなかった。いるとすれば風か、彼にしか見えないものだ。
「けい!」
宙にソバットを繰り出した。玄はそのあとも構えをとかず、じとっとした汗を流したまま睨んでいたが、しばらくすると頭を大きく振ってきた道を走りだした。
「勝つ、勝つ、勝つ、勝つ。大丈夫だ。見ていろ銀」
そして玄は、公民館で待っていた誠に頭を下げた。
「どうか、俺を鍛えてください」