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日下部雪との対戦の翌日。怪我をしていたが、玄はいつもどおり学校に出ていた。鼻が折れていたので包帯を巻いている。教師の合田からはまたかと怒られた。
「今度はどんな相手だった! 大怪我してるが、そんな強敵だったか!」
「強敵も強敵。まさか魔女とやるとは思いませんでした」
雪の技術が魔法のようだったので、そう言った。
「ほお! いい経験だったな!」
「嘘を吐くなとか言って怒らないんですね」
「俺は! 夢へ邁進しているやつは! 大好きだ!」
いい人だが、やはり暑苦しいなあとは思った。
クラスメイトの反応は、一部が放課後に玄が雪とともにいたことを知っているので、いやに注目を浴びることになった。玄が喧嘩に巻き込んだんじゃないか、と。
これは雪がすぐに別れたから知らないと言い、怪我を見て驚き、心配する素振りまでしたので、注目は退いた。玄が喧嘩傷を負っていることなど四月の入学以来何度もあって級友たちも慣れっこだ。事情を知る坂田と田辺は、雪の芝居に顔を引きつらせていたが。
そして放課後、またしても帰宅する直前に雪がすり寄ってきた。
「今日はなしじゃ。再戦は一か月後のお楽しみになってもうた」
「なんで一か月後?」
「梶さんが見届け人になりたいって言ってきたからの。それと、その梶さんから伝言じゃ。迎えに行くから校門で待っとれやと。説明してくれるらしいぞ」
それだけ言って彼女は教室を出ていった。今日は昨日の女子グループに付き合って駅周辺の洋菓子屋を巡るらしい。
玄はそばにいた坂田と教室の窓に近づいて校門を眺めた。校門前の通りには黒いワゴン車が停められていて、そのそばに、この残暑厳しい時期に黒のスーツを着込んだ男がいた。
目を隠すサングラスが怪しさに拍車をかけていて、生徒から遠巻きに見られていた。
「君のコーチの黒崎さん。なにやってんの?」
「俺が知るわけないんだけど……」
「とりあえず早く行ってあげたらいいと思うよ。不審者として通報されたら大変だし」
「そうだな。じゃ、また明日」
玄は急いで校門に向かった。スーツの男は彼を見つけると、のため息を漏らして近寄ってきた。
「玄さん。お久しぶりです」
「どうも、黒崎さん。相変わらず怪しいですね。どっかのSPかヤクザですよ」
「こういう格好をしろと言われてまして。私はもう勘弁してもらいたいんですが」
黒崎は苦笑いを浮かべてをかいた。
「それでは、社長がお待ちです。お連れしますのでどうぞお乗りください」
玄はワゴン車の助手席に乗り込んだ。
梶は現在人気の日ノ本プロレスの創設者であるので、経営から退いたいまでもその団体のものからは敬意をこめて「社長」と呼ばれている。
車が走り出してから、玄が世間話を振った。
「最近、経営はどうですか?」
「順調、というわけにはいきませんね。総合に押されてプロレス自体の人気は下降気味です。背広組としては頭を悩ませどころですよ」
黒崎の言う「背広組」とは経営・運営を担当しているものたちのことだ。
リングの上で闘うレスラーたちは金を呼び込む商品であるが、社会的な信用からはほど遠い。なのでスーツを着込み、対企業の交渉事から所属選手たちの給料計算、訴訟の対処など、団体が潤滑に興業を行うためには彼らの存在が必要である。
基本的にレスリングの経験者ではないため選手たちとの間に摩擦が生じるときもあるが、彼らのおかげで試合に集中することができるのだ。
黒崎は自分をその「背広組」だというが、そのくせ背が高く、がっしりとした大きな体格をしている。スーツの中には筋肉がみっしり詰まっていることを玄はよく知っている。
「いつから背広組でしたっけ。黒崎さん」
「もう随分前ですよ。レスラーだったのは一瞬。あることが切っ掛けで、こっちに移って、あなたの世話とか社長の後始末とかしてるんです。ああ、しかし、客が少なくなっているんでこっちの才能もなかったかなあって思い始めてきてますけど」
黒崎はため息をついた。車は学校の裏に回り、玄が闘った山に入っていく。
プロレスは今、ファン以外に名前の通じるスター選手がおらず、人気は下降線を辿っている。さらに、総合――総合格闘技の台頭によって従来のファンも奪われつつあるのだ。
「ま、若いのがいないから仕方ないんですけどね。十年以上前から第一線が変わらないってのは、固定客だけしかターゲットにできないんですから」
「大変ですね」
「愚痴が多くてすいません。まあ、多分、いくつかはそのうち解消されるんですけど」
黒崎は運転をミスすることなく、慣れた様子で車を走らせる。休耕地が目立つ集落や、雪と闘った段々畑への農道も横目に通り過ぎた。
しばらく、鬱蒼とした木立の中を走っていくと、また別の寂れた集落が見えてくる。役所の建物がある。奥地にあるので独立していたのだろう。明りはない。黒崎は学校らしき建物のグラウンドに入っていった。力動高校よりも小さい。校舎も三階建てだ。
「ここに、いるんですか?」
「はい」
玄は車を降りた。黒崎に連れられて体育館の前に立ち、止まった。彼は目を大きく見開き、全身を震わせはじめた。
「どうしたのですか?」
「なんだか、変。ここ、昔に来た気がする」
玄は目頭を押さえ、まばたきを繰り返した。頭の奥でチリチリと火種がくすぶっている。彼が通っていた小学校も中学校も馬場市の市街地にある。こんな所へ来たのは初めてのはずだが。
なにか、自分にとって大事な何かがこの場にある。そんな感覚がしていた。
「入りましょう。まずはそれからです」
黒崎が扉を開ける。と、中に篭っていた熱を玄は感じた。空気ではなく、この場にたまった感情だった。色濃い悲しみ、怒り。薄っすらと汗をかきながら、玄は足を踏み入れる。
綺麗なものだった。まだ夕方なので教師くらい残っていてもよさそうなものであるが、校舎のどこにも明かりが点いていないので廃校かもしれないと玄は思った。
それなのに、どういうわけか中には埃一つない。木の床はピカピカに磨かれて、壁にあるバスケットのリングや照明、二階の手すりにもクモの巣が張っているようなこともない。隅々まで掃除をされている。
そして、あまりに場違いなプロレスのリングが中央にあった。四隅のポールも立っておりロープも張られている。そのリングの中央にエネルギーの塊、梶がいた。昨日と同じ格好で座り、瓶ビールをラッパ飲みしている。
「来たな。こっちに来い」
玄はロープをくぐってリングに上がり、梶の正面に座った。黒崎も続き、梶の背後に回ると、足をわずかに開き背筋を伸ばした姿勢で立った。
「ここに来て、新たに知りたいことが増えましたが、まあいいです」
彼が感じた違和感、否、既視感。その正体が気になったが、先に雪に関することだ。
「雪から聞きましたよ。昨日言ってた『説明』とやらをしてくれるんでしょ?」
「ああ。先に謝っておく。すまん」
口ではそう言っているものの悪びれた様子はない。
「どういうことです?」
「数年前から、よくお前のところに変なやつらが喧嘩を売りにきていただろう。実はな、雪も含めてあれは俺がけしかけていたんだ」
よくわからないという顔をして玄は首をかしげた。梶は続ける。
「意味は言葉通り。銀の息子を倒したら金をやるって、適当なやつを見繕って声を掛けていたんだ。当然だ。いまどき理由もなく喧嘩を売るやつなんて自分が王様みたいなもんと勘違いしたやつぐらい。力を試したいなんてのはいなかった! 男気がない!」
不満そうに梶は嘆いた。玄は、男気があるやつならそもそも見知らぬ人間に喧嘩を売ろうなんてことはしないだろうと思った。不良漫画じゃあるまいし。
「……ともかく、なんでそんなことをしたんですか。結構怪我もしたんですけど。今も」
玄は自分の顔を指差した。包帯が巻かれている。
「本当にすまなかったな。理由は、端的に言ったら、お前に成長してもらいたかったんだ」
ビールを飲み干し、空き瓶を後ろの黒崎に渡す。
「成長、ですか」
「そうだ。俺はな、やりたいことがある。その手始めとしてお前に経験を積んでもらわないといかん。そのために空手やボクシング、柔道、喧嘩自慢を向かわせた」
「そのやりたいことがなんなのかわかりませんが、とりあえず本人の了承はとってください。梶さんのそういう筋を通さないところ、母は嫌っていました」
「だから悪かった。すまんって。な、この通り」
手を合わせて今度は深く頭を下げた。玄はため息をついた。
「頭を上げてください。天下の梶翔にそんなことをさせていたらいろんな人に恨まれます」
「そう言ってくれたら安心だ」
梶は豪快に笑った。黒崎も微笑を浮かべている。
玄は、十年以上彼に世話になっているので性格をよく知っている。自由奔放、ルールに囚われない。思いつきで行動する。そして、それで成功してきた人物だ。
つまり、悪く言えば、クソガキの気質なのだ。
「梶さんが年の割りに子どもだってのはわかりきってますしね。大人らしいことを期待するのは諦めてますよ。どうせ、大したことじゃないですし」
やれやれと玄は苦笑した。黒崎もうんうんとく。
「それでえっと、雪もそうだったんですよね。それじゃあ」
「いや、あいつは、そうだな……利害の一致というべきか……あいつも俺の計画に入るんだが詳しく話すと長くなる。いいか?」
「かまいませんよ」
ひとつ息を呑み込んだあと、梶はおもむろに切り出した。
「なあ、玄。お前、あいつにぽんぽん投げられただろ」
「投げられるどころか、極められるわ踏みつけられるわで散々でしたよ」
包み隠さずボロボロにされましたと玄は答えたが、あっけらかんとしていた。実の所、悔しく思ってはいるのだが、素直に認めている。心は荒れていない。
とはいえ、今まで闘ったタイプにない技。思い返してみても魔法でも使われたと言われた方が納得できる。狐につままれた気分だ。
梶は玄の態度を見てにんまりと笑う。自分の事のように得意げだった。
「ウェイトも軽い。力も弱い。それであんなことができたのは、あの女、雪が合気道の使い手、それも度を超えた天才だからだ」
「合気道……」
これまでの玄の相手には確かにいなかった。合気道なんてものは。
「合気道って、あの、言っちゃなんですけど、インチキ……」
「インチキに見えるか。そりゃそうだ。演武を見ててもくるりって綺麗に相手が回ってるからな。でも、強いやつは尋常じゃなく強い。そう、プロレスの千葉銀のようにな」
玄の顔が緩む。小さな笑みが浮かんでいる。梶は続ける。
「四国の田舎、猪木村ってところに俺が付き合いを持っている合気道の先生がいる。子どもやお年寄り相手の健康体操みたいなもんだがな、雪はそこの娘なんだ。体験したからわかってるだろうが、才能は大いにある。だがな、ちょっとありすぎた。今年の春先、師範の祖父を、死闘の末に破ってしまったんだ」
おお、と、玄は素直に感嘆する。
「すごいな。それって免許皆伝ってやつですよね。でもそれがなにか悪いんですか?」
「悪い。悪い。ものすごく悪い!」
バンバンバンと、三度、大きな手でキャンバスをいた。振動で揺れる。
「雪は、勝利する快感を知ってしまった。師匠を、くそ強いと思ってたやつを打ち倒してしまったからだ。それもこの、十六って若さでだ」
「若いってことはいいんじゃないですか? これからも伸びるってことで」
「伸びない。このままじゃあ伸びない。玄、あいつが使ったのは合気道だけか? 合気道に、踏みつけなんてものがあると思うか?」
「いや、ないですよね」
「そう。ないんだよ。あいつは、雪は、甚振って苛め抜いて、その上で勝つことが楽しくなっている。しかも若くして師に勝ったから合気道なんて極めたところでこんなものって見切りをつけてしまった。鍛錬してない。せっかくの才能を磨いてない」
舌打ちをする。随分と頭を悩ませている様子が玄にも見て取れた。
「雪は祖父に勝ってからは街に出かけて適当なやつを見つけては喧嘩を吹っかけ、闘い、勝利に酔いしれた。もちろん、玄もわかってるだろうが、あいつは合気道だけでなく格闘そのもののセンスがずば抜けている。まともに勝負になるやつなんていやしない。けどな、集団でこられたら、銃や刃物を出されたらどうだ。骨折ならまだいいが、取り返しがつかなくなるかもしれん。それを知った俺は、まずいなと思ったが」
なにか思いついたということだなと、玄は察した。
「俺はあっちの家に連絡してお前をぶつけることにした。玄、あいつについてどう思った」
「どう、とは」
「さっきも言ったが、違うだろ。いままでのやつらとは」
「違いすぎますね。雪は、ハッキリ言うと狂人です。闘う前から、闘いながら、あんな凶悪に笑うやつは初めて見ました。それに容赦がない」
「そうだろう。あいつは普通とは違う人間。お前が闘ったこれまでのやつとは別種。力を誇示したがるんじゃない。勝利を食らいたがる獣だ。そして、お前と同種だ」
「同種、ですか」
「ああ。そして俺とも同種だ。勝利への欲が強い。強すぎる。日下部と相対したとき、ぶるものはなかったか。シンパシーを感じなかったか」
そう言われながら、気が付くと……玄は自分自身を抱きしめていた。
なぜだかわからなかったが、肩が震えていたのだ。力いっぱいに押さえつけようとするが、鎮まらない。身体の奥にある熱いものが騒いでいた。
初めて雪の笑みを目にしたとき、今と同じように彼は震えていた。恐怖ではなかった。そんなものもなかった。喜び。邂逅したことへの、歓喜。
「なにか、そう、言葉にできないもの、感じました」
「銀もだった。あいつも強いやつとの闘い、その末の勝利を欲した」
「でも」
玄が、梶の言葉を切った。
「俺には、負けてはいけないって思いもあるんです。だって、千葉銀の息子なんですから。わかってるんですよ! まともに、まともにあいつとやって勝てない!」
「そうか。あいつが、いるか」
梶の顔が厳しくなる。痛そうで、辛そうな表情だ。玄は、自分の父の事をさほど知っているわけじゃない。父、銀と、梶との関係も。
「玄、お前は銀とそっくりだ」
「知ってます。体格こんなんでも強かったから、俺は銀に憧れてるんです。息子とか関係なく、だけど、息子だから、負けたらダメだっていうのがあるんです」
「負けたら、あいつを汚すことになる。そういうことだな」
梶は顔を綻ばせて、玄の頭を大きな手でなでてきた。
「お前はあいつとは違う人間だが、そういったところで、プレッシャーは変わらないだろうな。だからいい。それでいい。俺にとっちゃあ最高だ」
最高と言いながらも梶は、どこか憂いを帯びた目をしていた。
「本当は、お前はお前でいいんだがな。なにをするにしても。闘いだってやらなくても」
「銀を知ってしまったからもう遅いです」
「わかった。で、どうだ。玄。日下部雪に、勝ちたいか」
「勝ちたいです。銀は負けない。銀なら、勝つ。俺も、俺も勝ちたいです」
「なら勝て。勝ってしまえ。銀の息子が負けるわけがあるか」
その言葉だけで、玄が震えた。力が湧いてきた。
梶が玄の顔を覗き込んでくる。
「今度は俺も邪魔しない。ただ、今のお前に勝ち目はあると思うか?」
「ないでしょう。今度は絞め技か、関節を破壊してくるでしょうね」
梶は、やや間を置いた。俯いて頭を掻く。
「だからって、負けるとも思わないがな。まあ、今回は別の手を教えてやる」
「別の手?」
「合気道を見限ったやつを、合気道で倒せ」
玄は首を横に振った。
「無理です。一朝一夕では身につきません。それに、あいつと俺では才能に雲泥の差があります。それを、合気道でだなんて」
「それはそうだ。お前を雑種の犬としたらあいつは獅子。だが、その獅子が狩りを忘れ、自堕落に過ごしている。喧嘩をして勝利を得ていると言っても相手は格下ばかり。技は衰えていく一方だ。それに、どうせ打撃をしてくる。そこを捉えたら終わりだ」
玄は雪の打撃を思い出す。確かに、彼女のそれはムエタイやボクシングなどの専門的なものとは違う。洗練されていない。雑だ。しかし、鋭い。
「怠けているそこを突く。勝つにはそれだけで十分だ。卑怯なうえに、合気道とも呼べんだろうがな」
「なんか、ずるいですね」
玄が頭を掻く。そんなことでいいのかと、考えている。
「いいんだよ。犬でも体を引き締め牙を研げば、喉笛に喰らいつける。それに、言っただろ。勝てるってな。狙いはそこじゃなく、目を覚まさせることなんだよ」
「自覚させるため。雪が、慢心していることを」
「そうだ。ぶっちゃけてしまえば俺の願いはそれ。お前が合気道をマスターすることなんて期待しちゃいない。雪を、元の道に戻すこと。そして、ま、お前の糧になってもらう」
「俺の糧?」
梶は頷き、玄の肩に手を置く。なにかを確かめるように筋肉を握ってくる。
「十六。高校生。いい年だ。玄、もう時期が来たってことだよ」
彼の言葉の真意は計りかねたが、玄の体が震えた。さっきとは違う。今度は純粋な喜びだ。梶はそれを感じ取りながら、嬉しそうに笑う。
「雪は獣。お前も獣。それが重なると、化け物になる。おもしろいことになるだろうな」
梶はバンと手を合わせた。玄が黒崎に目を向ける。彼は無言でその場に立っている。
「まあいいでしょう。で、誰が教えてくれるんですか」
「雪の祖父だ。了解は既にとってある」
「どうしてすでにとっているんですか」
梶は不思議そうに顔をしかめた。
「いや、どうせお前はやると思ってだな」
「……そりゃそうですが。で、いつからですか」
「来週から泊り込みで。テスト終わってからだから安心だ!」
「だから! なんで俺を無視して話を進めているんですか!」
さすがに玄は怒った。黒崎が慰めるように言う。
「社長はこういう人なんです。昔から」
「……成長していないってことですか。確か五〇ですよね。梶さん」
「まだ四十九だ」
かわんねーよ。玄は敬語も忘れて言ってやった。
○
数時間後、梶は廃校の体育館でまだ酒を飲んでいた。ビールから日本酒に切り替わっており、頬には赤みが差している。玄を家まで送り届けてきた黒崎が戻ってきたころにはすでに二本目の瓶が空になっていた。
「社長、身体に毒ですよ」
「まあいいだろ。飲ませろ。明日からは断酒なんだ」
「そうは言ってもですね……」
黒崎の忠告も意に介さず、梶は四本目を空にした。そこでいい加減、限度を越えてしまったのか、ばったりとリングに倒れてしまった。
「だから言ったのに。風邪をひきますよ」
「大丈夫だよ。ちゃんと意識はある。なあ、黒崎、玄を見てきたお前はどう思う。これまで鍛えに鍛えてやった本人からして、あいつに才能があると思うか」
「彼には身体の才能はありません」
黒崎は言い切った。フォローも何もしない。
「彼は突出していない。空手も柔道も、レスリングも、なにもかも平凡より上程度。一流ではない。総合格闘技でも一番にはなれない。身体だけを見れば」
「厳しいことを言う。だが、事実だろうな。あいつには才能がない……」
そこで梶は長いげっぷをした。黒崎はやれやれと項垂れながらも瓶を手元に集める。
「だがな、俺にはわかるぞ。あいつはそんなものを飛び越えて、最高だ。格闘、闘争は体の才能だけじゃあどうにもならない。心がいる。玄には心がある。銀の心がある」
「ですね。それは社長の贔屓目じゃあないですよ」
梶は低い声で小さく笑った。
「玄は背が低い。それはリーチも短く重さでも限界があるってことだ。技の才能だってない。けど、恐るべき強さへの欲求と執念がある。それはを炎も喰うだろうな」
「日比野ですか? 総合で大人気の」
「そう。あいつだ。あいつを喰らって、玄は銀に成る。ちと、それは欲目かもしれんがな」
梶は仰向けになって背筋を伸ばす。
「あの男もかなりの執念です。玄が逆に喰われるかもしれません」
「不安になるようなことを。でもま、確かに強い。あんな闘い方でスターだからな」
「彼を見てると私は昔の社長を思い出します」
黒崎が言う。なつかしんでいるのか、遠い目をしていた。
「昔の俺じゃなく、俺がいたころのプロレスじゃないか?」
梶は黒崎を見上げる。黒崎はま、そうですねとぼやいた。
「私の手腕がへぼなのか、社長が引退してから全然儲かりません。スターが欲しいです。若くて顔がよく、強いスターが。あのころは景気が良かったです。総合がうらやましい」
「でもな、その総合にも限界があるだろ?」
梶は寝転んだまま背筋を伸ばした。黒崎がも同意する
「今の総合はたった一人のスターに寄りかかっている状態ですね。いずれ、細くなっていくのが目に見えてます。だからこそ、狙い目です。最強のスターに、スターになりうるものをぶつける。とんでもないことになります」
梶は笑った。厭らしい笑みだ。黒崎はため息をついて座り、天井を見上げる。
「十三年前、社長に車運転できる奴って呼ばれて、ここに来て、あの試合を見て……よかったと思いますよ。やっぱり、自分には無理だと悟りましたが」
「ちともったいなかったかな、とも思うが、結果的には玄を育ててくれた。感謝する」
「あの試合と幼い玄君の目を見て、裏方に回り、彼を育てると決めてここまで来ました。社長命令でもありましたが楽しい時間でした。そう言えば、社長」
「なんだ?」
「覚えていましたよ。ここのこと」
梶は、わずかに驚いたような顔になり、涙ぐんだ。
「雪の件で忘れてしまったようですが。あえて説明しないでおいてもいいでしょう」
頷き、梶は酒臭い息を発し、跳ね起きた。その動作は俊敏。五十近くとは思えなかった。
「高木との話はよろしく頼むな。俺の夢、かなえてみせる」
「かしこまりました」